アナキズムFAQ

I.4.4 アナーキーではいかなる経済的意志決定基準を使うことができるのだろうか?

 まず第一に記さねばならないが、アナキストは、この質問に対して型にはまった答えを持っていない。大部分のアナキストは共産主義者であり、金銭の終焉を目にしたいと思っている。だが、だからといって、共産主義を他者に押し付けようなどとは思っていない。それどころか、共産主義が真にリバータリアンになるのは、それが下から上へと組織されたときだけである。アナキストはクロポトキンの次の主張に同意する。自分達の見解では特定の解決策がベストだと考えていたとしても、『様々な集団で、いかなる分配形態を生産者が受け入れるべきなのかを前もって決定することは、共産主義の解決策であれ、労働券であれ、平等給与であれ、いかなる方法を使おうとも』できないというのが真実なのだ [Kropotkin's Revolutionary Pamphlets, p. 166]。自由実験こそがアナキズムの鍵なのである。
 ある種のアナキストは自分が暮らしたいと思っている社会システムについて特定の好みを持っており、そのシステムについての賛成論を展開するわけだが、そうしたアナキストも、革命中に何が取り入れられるのかを決めるのは客観的情況と社会的ニーズであるということに気がついている(例えば、クロポトキンは共産主義アナキストであり、革命はできるだけ早く共産主義に向けて進まねばならないと考えていたが、即座に共産主義が導入される見込みは薄いことに気がついていた−−詳しくは
セクションI.2.2を参照)。
 だが、経済的意志決定基準の問題は重要である(「リバータリアン社会主義は不可能だ」という主張の要点でもある)ため、ここで幾つかのあり得るやり方を概略することにする。様々な形態のアナキズムにおいて、それぞれでどのような解決策が存在しうるのかを以下で示そう。
 相互主義と集産主義システムでは、この解答は簡単である。価格は存在することになるわけだから、それが意志決定の手段として使われることになる。相互主義は集産主義よりももっと市場志向型であり、集産主義は需要の変化に対応するために(つまり、投資の決定をし、需要に見合った供給を保証するために)集産集団の諸連合に基づくことになる。相互主義では、協同組合と相互銀行のネットワークを中心とした市場型分配システムを使うことになり、その基本運営は非資本主義市場システムにおけるものと同じなのだから、これ以上論議する必要はない。集産主義と共産主義についてはもっと詳しく論じる必要がある。しかし、いかなるシステムを採用しようと、それは労働者自主管理に基づき、従って、直接影響を受ける人々が生産物・生産時期・生産方法に関わる様々な決定を行うことになるわけだ。このようにして、労働者は自分の労働の産物を管理し続ける。様々なアナキズム思想の間で異なっているのは、こうした様々な決定の社会文脈と労働者が自身の意志決定を行う際の基準である。
 集産主義は、労働者協同組織の自律性を最大にまで促すが、これを相互主義の(特に、個人主義形態の相互主義の)支持者が主張しているような市場経済と同じだと見なしてはならない。集産化された工場と仕事場が生産した商品は、消費者から搾り取ることのできる最高値に準じて交換されるのではなく、実際の生産コストに準じて交換される。こうした公正な価格はそれぞれの地域社会にある「交換銀行」によって決定される(明らかにプルードンから拝借したアイディアである)。こうした「銀行」は様々な生産者連邦と地域の消費者団体や市民団体を代表することとなり、「公正な」価格(十中八九、この価格には公害のような「隠れた」コストも含まれることになろう)について協議しようと努めることになる。この合意には、様々な関係者集会による承認が必要となるであろう。
 ギョームは次のように述べていた。『商品の価値は、様々な地域協同組合連合(つまり、シンジケートの連邦)と様々なコミューンとの契約上の合意によって予め確立される。コミューンは交換銀行に対して統計を提供する。交換銀行は、生産者に、生産物の価格に相当する流通性証票を送る。この証票はコミューン連合に含まれる地域全体で受け入れられることとなろう。』[Bakunin on Anarchism, p. 366] こうした証票は、例えば、労働時間と結び付くかもしれない。そして、投資決定の指針として使われた場合には、共産主義アナキズム社会で使われる可能性のあるような費用便益分析(以下を参照)を補完するものとなるであろう。
 この枠組みはプルードン主義『人民銀行』に非常に良く似ている。だが、交換銀行は、『公共統計委員会』と共に、供給が需要を確実に満たすように『計画立案』を行う機能をも持つことに注意して欲しい。これは、経済を『指揮する』のではなく、『個々の交換銀行がこうした生産物の需要があることを予め確認し、(何ものをも危険にさらさないようにするために)生産者に支払証書を即座に発行する』ための単なる経理に過ぎない [前掲書, p. 367]。それでも尚、どの注文品を生産するのかを決定するのは労働者シンジケートであり、個々のコミューンは自由にその納入業者を選ぶことになるのである。
 後で(セクションI.4.8)もっと深く論じるが、労働者は消費パターンに関する情報を記録し、その記録を使って自分達の生産物と投資決定を通知する。さらに、こうした意志決定に消費者団体・協同組合・コミューンが参加するよう生産シンジケートが働きかけることは想像に難くない。これによって、生産された商品が消費者のニーズを反映することが確実になる。それ以上に、諸条件が許せば、コミューンの「銀行」が持つ交換機能は(ほぼ確実に)「消費者のニーズに合致した」商品流通によって次第に置き換えられて行くであろう。言い換えれば、集産主義アナキズムを支持している人々の大部分は、集産主義アナキズムを、無政府共産主義が発展できるようになる前の一時的方策だと見なしているのである。
 共産主義アナキズムは集産主義に似ていると見えるかも知れない。つまり、集産集団・コミューン・流通センター(「公共ストア」)からなる連邦システムである。しかし、無政府共産主義システムでは価格は使用されない。では、どのようにして経済的意志決定は行われるのだろうか?あり得る可能性の一つは以下のようなものである。

 一般的な選択、例えば、いかなる形態のエネルギーを使用するのか・特定の製品を製造する際にどの原料を用いるのか・新しい工場を建設すべきかどうかといった一般的な性質を持つ選択に関する決定に関しては、「費用便益分析」というテクニックを使うことができる。社会主義では、様々な関連配慮事項に相対的重要性を割り当てるために、得点を使うことができよう。こうした配慮事項に割り当てられる得点は、何らかの客観的基準ではなく、意図的な社会的決定に基づくことになるという意味で、主観的なものとなろう。だが、資本主義の下で、何らかの「費用」や「便益」に対して金銭的価値を割り当てねばならない時にも同じことが言える。社会主義の目的の一つが、正に、生産時間や金銭に対する資本主義の強迫観念から人間を救い出すことだ、という意味では、費用便益分析は、他の様々な要因を考慮する手段として、資本主義下で使用されるよりも社会主義下で使用される方がより適切だと言うことができる。このように相対的重要性を割り当てるために得点システムを使ったからといって、何らかの普遍的評価・計算ユニットを再び創り出すことになりはしないだろう。単に、現実場面で意志決定を促すために一つのテクニックを用いる程度のこととなるだろう。[Adam Buick and John Crump, State Capitalism: The Wages System Under New Management, pp. 138-139]

 この得点システムは、特定商品の使用が効率的なのかそうではないのかを生産者と消費者が決定できるようにする手段となろう。価格とは異なり、この費用便益分析システムは、生産と消費が社会的環境的コスト・意識・優先順位を確実に反映できるようにしてくれる。それ以上に、この分析は意志決定の指針となるのであって、人間による意志決定と評価に置き換わるわけではないのだ。ルイス=マンフォードは次のように論じている。

 橋やトンネルを何処に建設するのかに関する決定をする際、値段の安さや機械の適切さといった問題よりも重要な人間的問題が一つある。つまり、現実の建築現場でどれだけの生命が失われることになりかねないのか、数人の労働者の労働日全てを監督者付きで地下トンネルを行き来することに費やすように強いることが妥当なのか、である。我々の思考が無意識に鉱山によって条件付けられなくなる(our thought ceases to be automatically conditioned by the mine)とすぐに、こうした問題は重要なものとなる。同様に、シルクかレーヨンかという社会的選択は、生産コストの違いや繊維それ自体の品質の差で決められはしない。蚕の面倒を見ることとレーヨン製造を支援することとのどちらが楽しく仕事を行うことができるのかといった論点が意志決定に統合されねばならない問題として常に存在し続ける。生産が労働者に対してどのように貢献するのか、これが、労働者が生産に対してどのように貢献するのかと同じぐらい重要なのだ。上手く運営している社会では、自動車の組立過程を変更し、スピードと安さを犠牲にして、労働者にとってもっと興味深い日常業務を創り出そうとするだろう。同様に、乾式製法セメント製造工場にダスト=リムーバーを設置するかもしれないし、生産物を毒性の弱い代用品に取り替えるかもしれない。こうした代替案のどれもが実行できない場合、この社会では、その生産物に対する需要を可能な限り最低レベルまで大幅に削減することになろう。[The Future of Technics and Civilisation, pp. 160-1]

 明らかに、今日では、人的問題だけでなく、生態系諸問題も含めることになるだろう。だが、マンフォードの主張は正しい。いかなる意志決定プロセスも、仕事の質を無視し、人的環境・自然環境に対するその影響を無視しているのであれば、それは錯乱している。だが、これこそが資本主義が運営されるやり方であり、人間性を剥奪し、生態系に対して有害な実践を導入している資本家と経営者に対して市場は報酬を与えているのだ。事実、資本主義は全くの反労働者・反環境であるが故に、経済学者と資本主義支持者は、社会的懸念のために「効率性」を減少させるなど、実際には経済にとって有害だと論じているのだ。これは、常識と人間的感情とは全く逆である(結局、経済は人間の欲求を満たすべきであって、経済のために欲求を犠牲にしてはならないのではないか?)。この主張によれば、資源(人的資源と物的資源)がもっと「効率的な」生産活動から流用され、その結果、最終的には自分達の経済的福祉が減じられることになる以上、損害を受けるのは消費である、という。この主張が無視しているのは、消費は他の経済活動から孤立してはいない、ということである。自分達が何を消費したいと思っているのかは、一つには、自分がどのような人間であるかによって決められ、そして、自分がどのような種類の仕事を行っているのか・自分がどのような種類の対人関係を持っているのか・自分の仕事や人生に満足しているのかどうか等に影響される。自分の仕事が疎外され、質の低いものであれば、自分の消費決定もそのようなものになってしまう。仕事がヒエラルキー統制を前提とし、現実に奴隷のようなものであれば、消費決定が完全に理性的なものになるとは期待できない−−事実、ショッピングに満足を見出そうという試みになりなねない。生産が創り出した問題を消費が解決できないという自滅的活動になりかねない。荒っぽい消費主義は資本主義の「効率性」の結果かもしれないのに、社会意識の強い生産に対して反対するなど、論点回避なのだ。
 もちろん、絶対的希少性だけでなく、資本主義下での価格は相対的希少性をも反映している(長期的に見て、市場価格は、市場における独占の程度に基づく利幅が加算された生産価格と結び付くが、短期的には、価格は需要と供給の変化の結果として変動する)。こうした短期的変化を共産主義社会がどのように考慮できるのか、そして、経済活動を通じてこうした変化をどのように伝達するのかは、セクションI.4.5(「需要と供給」についてはどうなのか?)で論じる。言うまでもないが、こうした費用便益分析に基づいた生産決定と投資決定は、現行の生産状況を考慮に入れることになり、その結果、特定商品の相対的希少性を考慮することになるだろう。
 共産主義アナキズム社会は、お互いに情報を伝達し合うシンジケートのネットワークを基盤とする。やり取りされるデータは、資本主義のように仕事場間で伝達される「価格」ではなく、実際の物理的データである。このデータは商品の使用価値(例えば、ある商品を生産するために使われた労働時間とエネルギー・詳しい汚染状況・相対的希少性など)をまとめたものである。この情報を使って費用便益分析が行われ、相互に合意された共通の価値観に基づいて、ある情況でどの商品を使うことがベストなのかを決定することになる。特定の仕事場でのデータが、全体としての産業に対して比較され(シンジケートの連邦がこうした情報を収集し、伝達する−−セクションI.3.5を参照)、どの仕事場が必要商品を効率的に生産できるのかが明らかにされる(このシステムは、さらに、労働条件や労働時間などの点で産業平均と同じになるための、もしくは産業平均を改善するための、投資を必要としている仕事場はどこかを示してくれるという利点も持っている)。さらに、例えば、代案がない場合には希少物資(生産するために多くの労働力・エネルギー・時間を必要とする物資か、需要が現在のところ供給能力を凌いでいる物資)を使用しないという協定のような一般的経験則の合意にも達することができるようになるだろう。
 同様に、商品を注文する際、参画しているシンジケート・コミューン・個人は、当該シンジケートにその商品を必要とする理由を伝えなければならないだろう。そのことで、当該シンジケートは、その商品を生産したいのかどうかを決め、受け取った注文の優先順位を決めることができるようになる。このようにして、社会的配慮を指針として資源が利用されるようになり、「不合理な」要求は無視されることとなる(例えば、ある個人が、造船シンジケートに自分の私用のための船を造って「欲しい」場合、造船労働者はその船を造ることを「欲せ」ず、その代わりに、貨物輸送船を造ることを「欲する」かもしれない)。しかし、ほとんどの個人的消費の場合には、現在と同様に、コミューンの小売店が消費物をまとめて注文するため、そのような情報は必要にはならないだろう。経済は、協働する個々人と仕事場の大規模ネットワークになり、いかなる社会の中にも存在する散逸した知識が良い効果をもたらすことができるようになるのである(市場価格が行っているように社会的・環境的コストを隠すことがなく、協働がビジネスサイクルとその結果としての社会的諸問題とを減少させるため、資本主義の下でよりもより良い効果をもたらすであろう)。
 つまり、社会的アナキズム社会での生産ユニットは、協働組織内部で自律しているために、社会的に有用な生産物は何か、について意識し、コミューンと結び付いているが故に、当該生産物を生産する際に必要となる資源の社会的(人的・環境的)コストをも意識するのである。この生産ユニットは、社会全体の優先順位を反映するこの知識を、仕事場と地域社会に関わる詳しい情況の地元知識と組み合わせて、自分達の生産能力をどのようにすればベストに使用できるのかを決定できる。このようにして、シンジケートは社会内部での知識の分立を効果的に使用でき、価格メカニズムが押し付けている知識伝達の制限を克服できるのである。
 それ以上に、生産ユニットは、連邦(もしくはギルド)内部で提携することで、ユニット間での効果的なコミュニケーションが確実に存在できるようにする。このことが大規模な投資決定を行う際の平等者間での協議調整プロセス(つまり、水平型の繋がりと協定)をもたらす。そして、供給と需要を引き合わせ、様々な生産ユニットの計画を調整できるようにするのである。この協働プロセスによって、生産ユニットは重複した活動を減じることができ、その結果、過剰投資に関わる無駄を減じることができるようになる(価格メカニズムは、仕事場が生産計画を効率的に調整できるだけの充分な情報を提供していないが、そのために生じる不合理な景気動向も減じられることになる−−セクションC.7.2を参照)。
 言うまでもなく、この問題は、セクションI.1.2で論じた「社会主義計算」問題に関連している。私たちの考えをハッキリさせるために、ここで例を一つとってみよう。
 二つの生産プロセスを考えてみよう。Aという方法には、七〇トンの鋼鉄と六〇トンのコンクリートが必要である。Bという方法では、六〇トンの鋼鉄と七〇トンのコンクリートが必要である。どちらの方法が望ましいのだろうか?一方は、他方よりも資源を少なく使うことになり、別な用途にその資源を使用できるようになるという点で、経済的なものと見なされよう。だが、このことを明らかにするためには、相対量を比較しなければならない。
 資本主義の支持者は、これらは異質なものの数量なのだから、必要な情報を提供できるのは価格だけだ、と主張する。鉄鋼もコンクリートも一定の価格を持つ(鉄鋼は一トンあたり一〇ドル、コンクリートは一トンあたり五ドルだと仮定しよう)。この方法では、Aよりも価格が低いのだから、明らかにBが選ばれる(Aは一〇〇〇ドル、Bは九五〇ドル)。しかし、だからといって、廃棄物と資源の使用を最小限にするという点で、より経済的な生産方法なのかどうかを現実に伝えてはくれない。ただ、金銭という点でコストが少ないということを述べているに過ぎない。
 これは何故だろうか?セクションI.1.2で論じたように、これは単に、価格が完全に社会的・経済的・環境的コストを反映しないからである。価格は、例えば市場力に影響される。そして、外部性・環境コスト・健康上のコストを生み出す。これらが価格に反映されることはない。事実、企業は、外部性と非人間的労働条件という形でコストを上乗せすることで、価格を低く抑えることができるようになる。従って、企業は実際には市場において見返りを得ることになるのだ。市場力に関して言えば、このことは、直接的には価格の変動という点で、間接的には労働者の賃金と労働条件という点で、価格に莫大な影響を与える。新規参入に対する自然な障壁(セクションC.4を参照)のために、大企業の持つ市場力によって価格は人為的に高く維持される。例えば、鋼鉄は、実際には一トンあたり五ドルの生産コストだったとしても、市場力のおかげで企業は一トンあたり十ドルにすることができるのである。
 また、労働者の交渉力が賃金コストを決定するため、健康・人格・労働者が経験する疎外という点での現実的コストを反映してはいない。労働者は、労働条件を改善したり新しい仕事を探したりすることを妨害する失業や食の不安定さがあるが故に、単に生存のために不健康な条件下で仕事をしているかもしれない。また、ヒエラルキーと疎外という社会的・個人的コストが価格に組み込まれているわけでもない。全く逆である。資本主義の擁護者は、ある経済は人間の欲求(もちろん、金銭によって示されている欲求だ)を満たしていると主張しているのだが、その経済が仕事場の個々人を完全に無視し、生活の中で起床している時間の大部分を過ごす場所を完全に無視しているなど、皮肉にしか思えない。
 つまり、個々の生産方法が持つ相対的コストは価格でしか評価されないが、相対的コストは、資源の使用を実際に最小限に抑えるという意味で、ある方法が経済的かどうかを実際に示してはいないし、示すことなどできないのである。もちろん、価格はこうしたコストの幾つかを確かに反映しているが、市場力・ヒエラルキー・外部性の効果が徐々に染み通ることで、次第に正確なものではなくなっていく。「経済的」という言葉を、「資源の利用・生態系への影響・人間の苦痛という点で最小限のコストを持つ」という分別ある意味ではなく、単に「価格という点で最小限のコストを持つ」という意味で受け取るならば、価格メカニズムは経済的使用の最大の指標などではないということを受け入れなければならない。
 代案はないのだろうか?明らかに、厳密で詳細な部分については自由社会のメンバーが実践することになろう。ここでは、上記したことに基づいて幾つかアイディアを挙げることとしよう。
 生産方法を評価する際には、できるだけ多くの社会的コストと環境的コストを考慮に入れ、こうしたコストが評価されねばならない。もちろん、どのコストを考慮するのかを決めるのはそこに参加する人々であり、比較検討した場合のそれぞれのコストの重要性(つまり、どれに重きを置くか)も同様である。それ以上に、生産に関わる人々の時間がどれほど無駄になる可能性があるのかを示すために仕事の望ましさが要因として考慮される可能性が高い(アナキスト社会において生産活動の望ましさをどのように示すことができるのかに関する議論はセクションI.4.13を参照)。この背後にある論理は単純である。人々が生産したいと思っている資産は、人々が生産したくないと思っている資産よりも、個人の時間という貴重な資源をよりよく活用すると思われる、というだけのことなのだ。
 例えば、鋼鉄は、素晴らしい労働条件の下で、一トン生産するために三人の人々の時間を取り、排気ガスを二百立方メートル排出し、二千キロジュールのエネルギーを使う。一方、コンクリートは、粉塵による危険な労働条件で、一トン生産するために四人の労働者の時間を使い、三百立方メートルの排気ガスを排出し、千キロジュールのエネルギーを使用する。どちらがよりよい方法だろうか。個々の要因が同じ重みを持つと仮定すれば、生態系への影響が少なく、安全な労働条件を提供しているため、明らかに方法Aの方が良い−−エネルギーコストの高さは、他のもっと重要な要因によって相殺されているのである。
 いかなる要因を考慮すべきか、そして、意志決定プロセスにおいてどのようにその要因を比較検討するのか、これらが継続的に評価され、真のコストと社会的懸念を確実に反映すべく再検討されることになる。さらに、単純に会計を行うだけのツール(スプレッドシートやコンピュータプログラムのような)を作ることで、入力情報として決定された諸要因を入力し、利用できる選択肢に関する費用便益分析を出力することができるようになるだろう。
 従って、共産主義は値段が存在しないため様々な生産方法を比較できない、という主張は不正確なのだ。事実、資本主義市場−−実際には、交渉力と市場力との、外的影響(externalities)と賃労働との違いに特徴付けられている−−を眺めてみると、値段が費用を正確に反映しているという主張など間違っている、ということがすぐに分かるのである。
 このテーマについて、最後に一点。社会的アナキストは自分の生活に影響する意志決定に参加するよう全ての人々に働きかけることが重要だと考えている。従って、所定のインプットとアウトプットが持つ相対的得点値を決定するのは、コミューン連邦の役割となるだろう。このように、地域社会にいる全ての個々人が、自分の社会がどのように発展するのかを決定し、そのことで、確実に、経済活動が、社会のニーズに対して責任を持ち、生産活動に影響される人々の欲望を考慮するようになる。このようにして「孤立のパラドックス(Isolation Paradox)」(セクションB.6を参照)に関連する諸問題を克服し、そのことで、消費と生産が、社会の成員としての個々人のニーズ・個々人が生活する環境と調和できるようになるのである。

I.4.5 「需要と供給」についてはどうなのか?

 アナキストは現実を無視しない。特定の商品が多く生産され、それを多く消費したり、使用したりしたいと望まれる時期があるものだ。また、アナキストは十人十色ということを否定してもいない。だが、これは「需要と供給」が通常意味していることではない。一般的な経済論議の中でよく見られるのだが、この決まり文句には、ある種の根拠のない性質が与えられている。この性質は、その理論が持つ不健全な示唆を無視しているだけでなく、そこに横たわる現実をも無視している。従って、アナキズム社会における「需要と供給」を論じる前に「需要と供給の法則」全般について幾つか指摘をしても無駄ではあるまい。
 まず第一に、E=P=トンプソンが論じているように、『需要と供給』は『高値は、飢饉に悩まされている地域に生活必需品をもたらすための、飢饉に対する(痛みを伴う)救済策だった、という考え』を助長している。『しかし、生活必需品を引き出すのは高値ではなく、高値を支払うのに充分な金銭が財布の中にあるということだ。飢饉が失業と空財布を生み出す、これが飢饉の時代に特徴的な現象である。暴騰した価格で生活必需品を買うと、非必需品を買うことができなくなる(これが失業を招く)。故に、飢饉に見舞われた地域では、暴騰した値段を支払うことができる人の数は減少する。そして、飢饉に陥っておらず、雇用が持続し、消費者が支払うだけの金を持っている近隣地域に食物は輸出されるかも知れない。このように、高値は実際には最も飢餓に苦しむ地域から生活必需品を回収することになりかねないのだ。』[Customs in Common, pp. 283-4]
 従って、「需要と供給の法則」は、不平等に基づく社会における「最も効率的な」分配手段ではない可能性がある。このシステムが基盤としている財布による「配分」にこのことがハッキリと示されている。経済学の本によれば、価格は希少資源を「配分」する手段だとされているが、現実には、数多くの誤謬を創り出している。アダム=スミスは『全ての人が多かれ少なかれそうだが、特に下級階層の人々は倹約とやりくり上手に』させられる、として、高値は消費を妨げると主張していた [Thompson, 前掲書, p. 284で引用]。しかし、トンプソンが述べているように『この隠喩がどれほど説得力を持とうとも、価格の割り当ては現実の諸関係を省略する。これは、イデオロギー的誤魔化し(sleight-of-mind)を意味する。価格による配分は、困窮している人々に平等に資源を配分しない。値段を払うことのできる人々に必需品を取っておき、支払いできない人々を排除する。飢饉の最中に値段をつり上げることは、彼等(貧困者)を市場の外へと完全に「配分」することになりかねないのである。』[前掲書, p. 285]
 市場は、それが置かれている政治的・社会的・法的関係のネットワークから孤立することも、そこから取り去られることもできない。つまり、「需要と供給」が述べているのは、金を持っている人々は持っていない人々よりも多くを求めることができ、多くを供給される、というだけのことなのだ。これが社会に対する「最も効率的な」結果なのかどうかなど確定できはしない(もちろん、金持ちは、金持ちであるが故に、労働者階級よりももっと価値があると仮定すれば別だ)。これは、経済活動をねじ曲げる「有効需要」を伴って、生産に対してハッキリと影響を与えている。チョムスキーが述べているように『多くの金を持っている人は、見れば分かるように、多くを消費するものだ。従って、消費は、貧困者に対する生活必需品ではなく、金持ちにとっての贅沢へとねじ曲げられる。』ジョージ=バレットはこうした「ねじ曲げられた」生産形態が持つ弊害を痛感していた。

 今日、この争奪は、最大利潤を求めた競争である。空腹の子供たちに食事を与えることよりも、我が淑女の束の間の気まぐれを満足させることでさらに多くの利潤を創り出すことができるのなら、競争のおかげで我々は後者の供給をもの凄く速く行うようになる。その一方で、後者には、冷淡な慈善や貧困法が供給されたり、何も供給されないままだったりし、廃棄されたと感じるようになる。これこそ競争が機能した結果なのである。[Objections to Anarchism]

 「需要と供給」に関する限り、アナキストは、必要物資を創り、必要としている人々に分配する必要性を痛感している。しかし、資本主義の下ではこのことは達成できない。結局、資本主義下での需要と供給とは、「効率的」だとされる資源配分を最も金を持っている者が決定することなのである。なぜなら、金融黒字が資源配分を決定する唯一の重要事項である以上、富者は貧者に高値で売りつけ、最大の収益を確保できるようにするからだ。富を持っていない者は、最大の利益などなくとも構わないのである。
 しかし、疑問は残る。アナキズム社会において、この貴重な労働と原料が他の所ではより良く使われるかもしれないということをどのようにして知るのだろうか?どの道具が最も適切なのかを労働者はどのようにして判断するのだろうか?全ての原料が技術的規定を満たしている場合、様々な原料の中でどれを使うのかをどのように決定するのだろうか?ある商品は他の商品よりもどれほど重要なのだろうか?掃除機の袋に比べてセロファンはどれほど重要なのだろうか?
 市場の支持者たちは、自分のシステムが答えだと主張する。だが、既に示したように、市場システムは資本主義の下で非合理的・人間性剥奪的なやり方で確かに答えを出している。問題となるのは、アナキズムがこれらの疑問に応えることができるのか、である。そう、アナキズムは答えることができる。答え方は、どのようなアナキズムの流れなのかによって異なってくる。相互主義経済においては、自営と協同組合型労働に基づき、富の差異は莫大に軽減される。そのことで、資本主義内に存在する市場の非合理的側面を最小限にできると思われる。需要と供給のメカニズムは、現行システムよりももっと公正な結果を生み出すだろう、というわけである。
 だが、集産主義アナキスト・アナルコサンジカリスト・共産主義アナキストは、市場を拒絶する。この拒絶は中央集権化を示す、と考える人もいる。市場社会主義者デヴィッド=シュワイカートは次のように述べている。『利益に対する考慮が資源利用と生産技術に影響しないのならば、中央の命令がそれを行わねばならない。利益が生産組織の目標でないのなら、物的生産量(使用価値)が目標にならねばならない。』[Against Capitalism, p. 86]
 だが、シュワイカートは間違っている。水平の結び付きは市場型である必要はなく、個々人と諸集団との協働はヒエラルキー型のものである必要はない。シュワイカートの意見に示されているのは、他者と関係を持つ際には二つのやり方しかない、ということである−−つまり、賄賂によるか権威によるかである。言い換えれば、売春(純粋に金銭による)によるのか、ヒエラルキー(国家や軍隊や資本主義の仕事場)によるのかだ。だが、人々は、別なやり方でお互いに関係を持っている。友情・愛情・連帯・相互扶助などである。つまり、命令や金銭授受なしに他者を手助けしたり、他者と関係を持ったりすることができるのである−−いつもこのように行っているものである。協働することが自分自身と他者に利益をもたらすからという理由で、協働することができる。これが本物の共産主義のやり方、つまり、相互扶助と自由合意なのだ。
 シュワイカートはあらゆる社会に存在する莫大な数の主要な関係性を無視している。例えば、愛情や魅力は二人の自律的個人の間での水平的結び付きであり、利益に対する配慮はこの関係には入っていない。シュワーカートの主張は、利益や中央からの命令がなくとも人間の欲求と経済行為者間の自由合意という点で資源利用と生産技術を計画することができる、ということを認識できていないため誤っている。これがアナキストの主張である。だからと言って、このシステムが意味するところは、人々皆がお互いに愛し合わねばならない(不可能な願望だ)ということではない。むしろ、平等者として自主的に協働することで、自分が確実に自由な個々人であり続け、資源と労働共有の利点(例えば、就業日や就労働時間の削減・安全で衛生的な労働条件での自主管理型作業・社会全体による生産物の自由選択)を確実に得ることができるということを私たちは認識している、という意味なのである。資本主義社会の偏狭で貧困な「自己中心主義」を凌ぐ、自己利益なのだ。ジョン=オニールの言葉を引用しよう。

 何が個人の利益として見なされるのかを定義するのは、諸制度それ自体である。市場が特にエゴイズムを促しているのは、個人が「自分本位」になるように市場が働きかけている−−行動の大部分を「自分本位」のやり方ではないように個人に期待するなど非現実的だろう−−からというよりも、むしろ、特別に偏狭なやり方で、最もハッキリしているのは特定の有形財を所有するという点で、個人の利益を定義しているからなのだ。その結果、市場メカニズムが生の特定領域に入り込み、この偏狭な有形財の範囲外にある財を追求することは利他主義行為だと制度的に定義されているのである。[The Market, p. 158]

 自由合意と水平的結び付きは、市場取引に限定されるものではない−−こうした関係は様々な理由で発達する。アナキストはこのことを認識しているのだ。ジョージ=バレットは次のように論じている。

 労働者の大規模な叛乱が行われたとここで想像してみよう。その直接行動によって、労働者はその情況の主人となった。街路でひもじい思いをしている人がすぐさま必要なパンのリストを作り、ストライキ参加者が所有しているパン屋にリストを持っていく、ということを理解するのは難しいだろうか?このリストに従って必要な量のパンが焼かれると考えるのは難しいだろうか?このときには既に、パン屋は、必要としている人々にパンを届けるためにどのような荷車や配達用のバンが必要なのかを分かっていることだろう。そして、パン屋がドライバーにこうしたことを知らせると、ドライバーは輸送手段を提供するために最大限尽力てくれるだろう。もし、(パン屋が)パンを作るための作業台をもっと(必要)だったなら、大工が作業台(など)を提供してくれるだろう。このように無限に繋がっていく−−欲求が全ての背後にある原動力であるため、部分部分の充分にバランスの取れた相互依存が保証される。同様に、人生を十全に享受するという自分の願望だけに突き動かされて、自由な個々人がパン・機械・生活必需品全てを生産するために自分の同胞と連携する。そのことで、それぞれの機関が自由で自己充足的になり、協働し、他者との合意に至る。そうすることで、個々の機関の可能性が拡大するからである。搾取したり命令したりするいかなる中央集権型国家も存在せず、個々の部分が全体に依存しているがために、全ての構造が下支えされる。これは、民衆の欲望に対応する社会となるだろう。民衆の至高の大志に答えるのと同じぐらい迅速に民衆の日々の必要物を供給するだろう。人間性の一時的発現としてその形態は変化するであろう。[The Anarchist Revolution, pp. 17-19]

 生産上の決定を行うためには、他者の欲求を知らねばならず、その欲求を満たすために入手可能な選択肢を評価するための情報を必要とする。つまり、これは、生産者と消費者との間での情報分配という問題なのである。市場はこの情報を隠蔽(もしくは積極的に阻止)したり、資源の不平等のために歪めたりする(つまり、欲求は市場で重視されず、「有効需要」が重視されることになり、このことが富者の利益になるように市場を歪めるのである)。この情報ネットワークについては、前セクションで一部論議した。そこでは、使用価値に基づいて異なる原料・技術・資源を比較する方法について論じた。しかし、生産と消費における変動動向を示すためには、この方法を補完するものが示されねばならない。
 非相互主義アナキズムのシステムは、必要だと認めれば、シンジケートの諸連邦がそのキャパシティを調整しようとする、ということを前提とする。従って、変化が必要だという情報を提供するために、需要の変化に伴って価格を変動させなくても良い。これは次の理由による。『需要の変化は、まず最初に、既存価格での販売量の(もしくは金銭のないシステムにおいては消費量の)変化として現れ、その結果、在庫や注文の変化に表れる。こうした変化こそ、完全に、需要と現在の生産量とのアンバランスが発達しているということの優れた指標・兆候である。生産物に対する需要の変動が永続的なものだと証明されているのならば、生産ユニットは在庫が減少して注文簿が長くなっていたり、在庫が増加して注文が減少したりしていることが分かるだろう。従って、需要の変化に対応する価格変動は、キャパシティ調整に関する情報提供の目的には必要ない。』[Pat Devine, Democracy and Economic Planning, p. 242]
 特定商品の希少性の相対的変化を示すためには「希少性インデックス」を計算する必要があるだろう。これが、商品の潜在的使用者に、その需要が供給を凌いでいるかどうかの情報を提供することになり、そのことで、使用者は、他者の意志決定を踏まえて自分の決定を効果的に調整することができるようになる。このインデックスは、例えば、実際の生産量に対する商品注文の関係を示すパーセンテージになるかもしれない。例えば、供給よりも多くの需要がある商品は、101%以上のインデックス値を持つことになろう。この値は、その商品の代替品を探し始めたり、その使用を節約したりするよう潜在的使用者に伝える。こうした希少性値は、個々の集団のためにだけでなく、(可能ならば)地方レベルや「全国」レベルなどでの産業全体の一般的値としても存在することになろう。
 このようにして特定の商品が高い需要があると見なされると、それを本当に必要としている消費者だけがその注文を行うことになる(結果、資源が確実に有効利用される)。言うまでもなく、在庫基準などの基本的経理テクニックを使って、特定の既存商品を適当な程度まで一時的に蓄えておくであろう。このことで、一商品に対する総需要に予期せぬ変動があった場合に、それを和らげる在庫分として生産され、使用される商品の多少の余分供給をもたらすことができるようになるのである。
 こうした一時在庫システムは、個々の仕事場レベルとコミューンレベルで検討される。シンジケートが独自の在庫品目、「売れ残っている」原材料と製品の在庫を持つことは明らかである。これを使って需要過剰を調整できるようになる。コミューンの小売店や病院などは、供給に予期せぬ混乱が生じたときに備えて生活必需品の蓄えを持つことになろう。これは、資本主義にあってもよく見られる実践である。しかし、自由社会では、(多分)需要と供給の変化が破壊的効果を持たないように保証すべく拡大適用されるであろう。
 コミューンとコミューン連邦は、同時に、需要と供給の予測不可能な変動に対処するために商品の一時在庫を創り出すかも知れない。この種の在庫品目は、米国のような資本主義国でも使用されており、激しい突然の価格変動やインフレを生み出す農産物やその他の戦略的原材料が市況を変化させないように防いでいる。ポスト−ケインジアン経済学者のポール=デヴィッドソンは、このことが生み出す商品価格の安定性について論じている。これは、1945年から1972年までの『前例のない世界経済の目覚ましい成長の本質的側面であった。』ニクソン米大統領は、こうした一時在庫区域プログラムを廃止し、その結果『激しい商品価格変動』がもたらされ、重大な経済的影響を与えたのだった。[Controversies in Post-Keynesian Economics, p. 114 and p. 115]
 再度言うが、アナキズム社会では、この種の一時在庫システムを利用し、需要と供給の短期的変動を取り除く見込みが高い。資本主義において真であるが、意志決定がなされる時に市場価格が余りにも高かったり余りにも低かったりする。シンジケートは市場価格に影響されて誤った方向に導かれないため、商品供給の短期的変動を減少させることにより、誤った投資決定がなされ難くなる。事実、市場価格が均衡レベルにない場合には、価格は合理的計算を行うための適切な知識を提供しない(できない)のである。不均衡な価格によって伝えられた誤報は、法外な価格に対して資本家は利潤を最大にしようと反応し、特定産業分野に投資が過剰となるために、多大なマクロ経済学的歪みを引き起こしかねないのである。こうした悪しき投資は、経済全体に広がり、混乱と不況を生み出すことになりかねない。
 一時在庫システムは、セクションI.4.4で述べた費用便益分析と組み合わせることで、「経済」内部の変動に関する情報を迅速にシステム全体に広げ、変動の発端(直接影響を受ける人々の意志決定に原因がある)について大多数の人々が何も知らずとも、全ての意志決定者に影響を与えることができるようになろう。レーニン主義中央集権計画経済における「全てを知っている」中央機関に命令されずとも、関連情報は関与する全ての人々に連絡される。セクションI.1.2で論じたように、アナキストはずっと以前から次のことを自覚していたのだ。すなわち、いかなる中央集権型機関であれ経済を通じて伝播する全情報を所有するなどできるわけがなく、そうした機関が全情報を所有しようとすれば、結果として官僚制が生じ、社会が入手できる情報量を事実上減じ、そのことで欠乏状態と非効率性を引き起こすであろう。
 このシステムがどのように機能するのかについて発想を得るために、銅産業における変動を例に取ってみよう。銅源が突然尽きてしまうといったようなことが生じ、銅の需要が増大したとしよう。何が起こるのだろうか?
 第一に、最初の変化は、個々のシンジケートが銅に対する突然の需要変化を考慮して保持していた銅の在庫の減少である。これは、供給や需要の突然で一時的な変動を「和らげる」手助けをする。次に、自然に、銅を生産しているシンジケートに対する銅の需要が増大する。このことは、こうした企業の「希少性インデックス」を即座に増加させ、そのことで、シンジケートが生産する銅とその産業全体の「希少性インデックス」を増加させる。例えば、このインデックスは95%(現状の需要に対して少しばかり生産が過剰になっている)から115%(銅に対する需要が現在の生産レベルよりも増加している)へと上がるかも知れない。
 「希少性インデックス」のこうした変化は(注文に応じることのできる銅生産シンジケートを見つけることの難しさと相まって)、他のシンジケートの意志決定アルゴリズムの一部となる。このことがシンジケートの計画を変更させる(例えば、シンジケートが使用するもっと効率の良い資源として銅の代替物が使われるかも知れない)。
 これが、消費財を生産するときにどの生産方法を使用するのかをシンジケートが決定する際に、手助けをする。前セクションで概略した費用便益分析を使って、シンジケートは競合する複数の生産テクニックに含まれるコストを決定する(つまり、資源を最小限に消費し、そのことで他の用途に使用するために大部分を残すことを確実にする)。生産者は自分が使用する財に含まれる絶対的コストについて既に知っており、従って、コスト間の相対的変化が決定的要因になるのである。
 このようにして、銅製品の需要は落ち込み、すぐに、銅が必要だが現実的な代替物がない、という要求だけが検討されるようになる。そして、現在の供給に対して需要が落ち込む(他のシンジケートからの依頼で示され、また、一時在庫水準を保持するために)。従って、銅が(相対的に)欠乏状態にあるという一般的メッセージが「経済」を通じて行き渡るようになり、シンジケートの計画はこの情報によって変化するのである。中央の計画者がこうした決定をするわけでも、こうした決定を促すために金銭が必要なわけでもないのだ。自治提携組織間の生産物の自由交換に基づく分権型非市場システムがあるだけなのだ。
 もっと広い情況を見てみると、銅の需要・供給におけるこうした変動に対する対処方法はどのようなものがあるのか、という疑問が生じる。銅シンジケート連合と産業間シンジケート連合は定期的な会議を持ち、銅の情況における変動の問題が提示される。銅シンジケートとその連合は、こうした変動に対する対処方法を考えざるを得ない。考慮の一部として、この変動が短期的なものとなるのか長期的なものとなるのかを見極めることになる。短期的変動(例えば、銅山での事故が引き起こしたような)については、新しい投資を計画しなくても良いだろう。しかし、長期的変動(例えば、別のシンジケートが生産した新しい商品が引き起こした新しい需要のためだったり、銅山の枯渇のためだったりするような)には、投資の調整が必要となるだろう(例えば、銅をもっと効率よく生産したり、効率性を増加させたりするための新しい機械に投資することで、変動に対する計画をシンジケートが作るだろうと予想できる)。こうした計画の中で予期された修正が、予想される長期的変動とほぼ一致するのであれば、連合は行動を起こす必要はない。しかし、それが異なっているのであれば、新しい銅山に対する投資や産業間での大規模な新しい投資が必要となろう。連合はそうした投資を計画するであろう。
 言うまでもなく、未来を推測することはできても、正確に予測することなどできない。予期された修正が現実のものとならず、特定産業に対する過剰投資が生じる可能性もある。だが、資本主義とは異なり、生産は継続するため、経済危機が生じることはない(資本主義における過剰投資は、社会的需要とは無関係に、利益の欠如のために仕事場を閉鎖してしまう)。何が生じるかと言えば、シンジケートが生産を合理化し、比較的高率の悪い工場を閉鎖し、もっと効率の良い工場に生産を集中する、といった程度のことである。資本主義での広範囲な経済危機は過去のものとなるであろう。
 個々のシンジケートはそれ自体で注文を受け、供給し、生産物を発送する。同様に、コミューンの流通センターは自身が決定した必要物資をシンジケートに発注する。このようにして、消費者は自分のニーズに合ったシンジケートに切り替えることができ、そのことで、生産ユニットは、生産に必要な資源の社会的コストだけでなく、何を生産することが社会的に有用なのかに気付くのである。このように、企業構造のヒエラルキーではなく、提携組織の平等性によって確立された調整を使って、水平的関係のネットワークが社会全体に広がるのである。このシステムは、需要と供給における変動に確実に協働して対応できるようにする。そして、失業と不況の周期を引き起こす手助けをしている市場に関連する意思伝達問題(セクションC,7.2を参照)を減じるのである。
 アナキストは「分離パラドックス」(セクションB.6を参照)を意識しているが、だからといって、コミューンが人々のために人々が何を消費するべきかを決定すべきだとは考えていない。そんなのは刑務所であろう。逆に、全てのアナキストは、自分自身のニーズを決定するのは個々人であり、公園やインフラの改善といったような社会的要件は個々人が参加する集団が決定する、ということに賛同している。ただ、社会的アナキストの考えでは、こうした意志決定がなされる枠組みを論じることが有益である。例えば、コミューンは生態系に優しい製品を生産すること・廃棄物を減らすこと・社会的交流を通じて充実した意志決定を行うことに同意するだろう。個々人はなおも、集団が生産するものに基づいて、どのような製品を自分が望むのかを決定するが、こうした製品は社会的に合意された基本方針に基づくことになろう。このようにして、細分化された消費に関わる廃棄物や公害といった「外部性」を減じることができるようになる。例えば、仕事に行くために車を運転することは個々人にとっては合理的であるが、集団的にはこのことは莫大な非合理性(例えば、交通渋滞・公害・疾病・不快な社会的インフラ)を生み出す。正気の社会ならば、車の使用に関連する諸問題を議論し、公害・ストレス・疾病などを減じるための十全に統合された公共交通機関ネットワークを作ることに合意するであろう。
 アナキストは個々人の嗜好と願望を認めるものの、それらが持つ社会的インパクトをも意識し、そのことで、他者の考えをインプットしながら個々人が自分の私的意志決定を豊かにできるような社会的環境を創造しようとするのである。
 関連した主題について言えば、異なる集団が、僅かに異なる商品を生産し、そのことで、人々の選択肢を確保することは疑う余地がない。全く同じ仕事をしている異なる企業(時として同じ企業)が生産する複数の商品に示されるような現在の無駄が、アナキズム社会でも継続するというのは疑わしい。しかし、生産は消費者の選択を確保し、消費者が好む特徴を生産者が把握できるようにするために、「一つのテーマのヴァリエーション」になるであろう。事前に机に向かって、ある商品が持つ特徴のリストを作ることなど不可能だ−−これは、完全な知識とテクノロジーとが全く一貫しているということを前提としている。これらの前提は現実生活では限定的な使い道しかない。従って、協同組合は様々な特徴を持つ商品を生産し、その違いが示す需要に応じて生産を変化させることになる(例えば、A工場が新しいCDプレーヤーを生産し、消費パターンがこの商品が人気があると示している場合、他の工場もこのプレーヤーに切り替えるのである)。これは、研究開発実験と住民からの評価を踏まえた上でのものである。このようにして、消費者の選択は維持される。そして、(幾つかの場合では)消費者が生産者としてのシンジケートの決定に影響を与えることができるようなるために消費者の選択は促され、シンジケートやコミューンの対話を通じて消費者の選択は促される。
 アナキストは「需要と供給」を無視してはいない。逆に、アナキストは、この自明の理の資本主義バージョンが持つ限界を認識し、資本主義は、資源の効率的利用に関する必然的な基盤を持たない有効需要に基づいている、と指摘する。市場の代わりに、社会的アナキストは、生産者間の水平的繋がりに基づいたシステムを支持する。これが、預金残高ではなく実際の社会的ニーズを反映した需要と供給における相対的変動に関する情報を社会全体に効果的に伝達するのである。需要と供給の変動に対する対応については、セクションI.4.8(「投資決定についてはどうなのか?」)で論じる。また、セクションI.4.13(「汚れる仕事や不快な仕事は誰が行うのか?」)では、課業の割り振りについて論じる。

I.4.6 無政府共産主義では本当に需要が供給を凌ぐことになりはしないのだろうか?

 共産主義では人々が必要以上に取るために資源を無駄にすることになる、これがよくある反対論である。クロポトキンは次のように述べていた。『自由共産主義は、万人が自由に使えるように作物を刈り取ったり、製品を製造したりし、自分の家で望むだ消費する自由については個々人に委ねる。』[The Place of Anarchism in the Evolution of Socialist Thought, p. 7]
 しかし、個人が贅沢な家や自家用ヨットを「必要」だと言ったらどうするのか、と論じる人もいる。単純に言えば、そのような必要に対して労働者が生産を行う「必要」はない。トム=ブラウンは次のように述べている。『そうしたものは社会的労働の産物である。サンジカリズム下では、貪欲で身勝手な人物が、造船所一杯の労働者を騙して、自分の貪欲な自我に全面的に賛成させ、船を造らせるなど出来はしない。蒸気機関の豪勢なクルーザーは存在するだろうが、それは皆が共通に楽しむものとなろう。』[Syndicalism, p. 51]
 従って、無政府共産主義者は、産物への自由なアクセスは現実の個人が行う実際の仕事に基づく、という事実が見えていないわけではないのだ。「社会」が何かを提供するのではなく、共に働く個々人が提供するのである。これは共産主義の古典的言明−−「各人からは能力に応じて、各人へはその欲求に応じて」−−に表明されている。つまり、消費者の欲求生産者の欲求共に考慮されるのである。シンジケートや個々人が特定の注文品を生産したいと思わない場合、この注文品は「理性を欠いた」要求として分類されうる−−この文脈では「理性を欠いた」とは、その注文品を生産することに誰も自由合意しない、という意味である。もちろん、自分が本当に何かを欲しくて、自分が生産したいと思っているものを手に入れるためにサービスを交換することに合意する人々もいるかも知れないが、こうした行為が共産主義社会を弱体化させることなど全くない。
 共産主義アナキストは、生産は消費同様に自由に基づかねばならない、ということを認めている。しかし、自由なアクセスは、人々が資本主義以上に多くを取るため、浪費を導くことになる、と論じられてきた。この反論は、一見してそう見えるほど大層なものではない。自由なアクセスが乱用を導かないということを示した例は、現在の社会内部でも数多くある。公立図書館・水・舗装道路の三つの例を挙げてみよう。公立図書館では、人々は自由に座って一日中本を読むことができる。しかし、実際にそのようにしている人は少ない。また、人は一度に最大限の冊数をいつも借りるわけでもない。必要に応じて図書館を利用しているのであり、この施設を最大限活用する必要も感じていないのである。無料であるのに、図書館を一度も利用したことのない人もいる。上水道については、水が無量で提供されていたり、固定料金で提供されていたりするものなのに、一日中蛇口を明けっぱなしにしている人がいないことは明らかである。舗装道路についても同様だ。何処を歩こうとも無料だからといって、何処でも歩く人はいない。こうした場合に、個々人は必要に応じて、必要なときに資源を使っているのである。
 他の資源が無料で手に入れることができるようになった場合でも同じ結果を期待できる。つまり、この主張は、公共輸送機関が固定料金になった場合に、人々は目的地を越えた停留所に行くと主張する程度の分別しか示していないのだ!「お買い得」だからと必要以上に先に移動するなど阿呆だけだろう。しかし、多くの人々にとって、世界はこうした阿呆のために作られているらしい。多分、こうした批評家どもに街路で政治的リーフレットを渡させてみれば分かるだろう。リーフレットが無料だからといって、群衆ができるだけ多くのリーフレットを要求して、手渡している人に群がる事などまずない。むしろ、リーフレットが伝えようとしていることに関心ある人々がそれを手にするのであって、そうではない人々は無視するのである。自由なアクセスが、自動的に人々に必要以上を取らせるというのならば、自由共産主義の批判者どもは自分が手渡しているものに対する需要がないことに困惑するであろう!
 問題の一部は、資本主義経済が、無限の欲望を持つ虚構の人物、ホモ=エコノミカスをでっち上げていることにある。この人物は、あらゆるものを常により多く欲しがり、その結果、資源が無限でない限り欲望を充足できない。言うまでもなく、こうした人物が存在したことはない。現実には、欲望は無限ではない−−人は多様な好みを持っており、入手可能な全てを欲しがることはなく、欲求を満足させるもの以上の利益を求めることなどないのである。
 また、共産主義アナキストは、自由社会での民衆の行動を、資本主義下で民衆の購買習慣で判断することはできない、と主張する。結局、広告は、民衆の欲求を満たすために存在しているのではなく、自分自身について不安にさせることによって欲求を創り出すために存在しているのである。単純に言ってしまえば、広告は、既存の欲求を増幅することもなければ、人が前々から欲していた商品やサーヴィスを売りもしないのだ。もし、このようにしているのだとすれば、広告は、製品を求める見せかけの人格を創り出し、広告主自身が創り出した問題に対する解決策を提供する操作的宣伝のレベルにまで身を落とす必要はないだろう。
 露骨かもしれないが、広告は不安感の創造に基づいているのである。恐怖を食い物にし、理性的思考を覆い隠しているのである。疎外された社会では、人々はヒエラルキー統制の対象となり、コントロールと影響力の欠如、そして不安感が自然なことになる。広告が操作しているのはこうした恐怖なのだ−−真の自由を持ち得なくとも、少なくとも何か新しい物を買うことができるわけだ。広告は、自分が持っている物(そして自分自身)について人々を不幸にする重要な手段なのである。広告は受取手の精神にいかなる影響も及ぼさないとか、市場は単に大衆に反応しているだけであり、大衆の思考を形成しようとはしていない、などという主張は認識が甘い。広告は、当然のことについて不安感を創り出し、そのことで非合理的な購買衝動を発生させる。そんなものは、リバータリアン共産主義社会では存在しないであろう。
 しかし、ここで消費主義についてもっと重大な点をここで指摘しておこう。資本主義はヒエラルキーに基づいているのであって、自由には基づいていない。このことが個性を弱め、自己同一性と連帯感を失わせる。これら二つの感覚は深い人間的欲求であり、消費主義は人々が自己と他者からの疎外感を克服する手段となっていることが多いものである(宗教・イデオロギー・ドラッグも逃避の手段である)。従って、資本主義内での消費は抽象的な「人間の本性」ではなく、資本主義の価値観を反映するのだ。ボブ=ブラックは次のように論じている。

 自分が何を欲しているのか、自分が何を欲することができるのか、これは社会的組織形態に関連している。人々がファストフードを「欲する」のは、仕事に早く戻らねばならなかったり、スーパーマーケットの加工食品はどのみちファストフードより美味しいわけでもなかったり、核家族(帰るべき家族さえをも持つ、数少ないマイノリティにとって)は小さすぎ、ストレスが多すぎて、料理を作ったり食事したりする上で多くの楽しみを維持することができなかったりする、などの理由からである。自分が入手可能なものよりも多くを欲しがることを諦めているのは、自分が欲しいものを手に入れることができない人だけである。私たちは、友達にも恋人にもなれないから、もっとキャンディをくれと泣き叫ぶのだ。[Smokestack Lightning]

 大部分のアナキストは、消費主義はヒエラルキー社会の産物である、と考えている。この社会の中で、人々は自己から疎外され、自分自身を本当に幸福にできる手段(つまり、有意義な対人関係・自由・仕事・経験)から疎外されている。消費主義は、資本主義が自由を否定することで私たちの内部に創り出した精神的空白を埋める手段なのである。
 つまり、資本主義は、自分自身を、自分が誰かではなく、自分が何を持っているかで定義する個人を生産しているのである。このことが、消費のための消費を導く。人がより多くの商品を消費することで自分を幸福にしようとするからである。しかし、エーリッヒ=フロムが指摘しているように、商品の消費は有効ではあり得ず、単にさらなる不安感を(そしてさらなる消費を)導くだけなのである。

 私とは私が持っている物だとすれば、持っている物がなくなった場合に、私は誰なのだろうか?敗北し、意気消沈し、哀れな、誤った生活方法の証明以外の何者でもない。自分の持っている物を失うことができるが故に、自分が持っている物を失うはずだ、と常にどうしても心配してしまうのだ。[To Have Or To Be, p. 111]

 こうした不安感は簡単に消費主義を「自然な」生活様式であるように思わせ、そのために共産主義は不可能だと思わせる。しかし、荒々しい消費主義は、人間存在の「自然法」などではなく、疎外された社会内部で有意義な自由が欠如していることの産物なのだ。非ヒエラルキー型の社会関係と社会組織を通じて個性を促し、個性を保護した社会では、個々人は自己に関する強い感覚を持ち、無分別な消費をしなくなるだろう。フロムは次のように述べている。『もし私が、私という存在であり、私が持っている物でないならば、誰も私の安心感と同一性の感覚を剥奪したり脅かしたり出来はしない。』[前掲書, p. 112] こうした自己中心的な個人は、自己の内部の安心感と幸福感を構築するために絶え間なく消費を続ける必要はない(こうした感覚が現実に消費という手段で創り出されることはあり得ない)。
 言い換えれば、アナキズム社会が育成する十全に発達した個性は、資本主義社会における平均人よりも消費する必要をなくす、ということである。だからといって、アナキズム社会では生活が最低限のものになり、贅沢品は持てなくなるという意味ではない。全く逆である。個性の十全な発現に基づく社会は、豊富な富・多様な物品・多様な経験を持つもの以外の何物にもなり得ないであろう。ここで私たちが論じているのは、無政府共産主義社会は、需要が供給を一貫して常に凌駕する荒々しい消費主義を恐れる必要がない、ということである。これは、まさに、自由は、十全に発達した個々人からなる疎外されていない社会を生み出すからである。
 もちろん、このことは完全にユートピア的に聞こえるだろう。そうかも知れない。しかし、オスカー=ワイルドが述べているように、ユートピアの描かれていない世界地図など持つに値しないのだ。一つのことはハッキリしている。上述した発展が出現せず、共産主義の試みが浪費を増加させ、需要が供給を凌いでしまうために失敗したとすれば、自由社会は必要な意志決定をし、供給を制限する何らかの手段を導入するであろう(例えば、労働券・平等な賃金など)。十全な共産主義をすぐさま導入できるかどうかは、アナキストの間でも議論の余地があるが、大部分のアナキストは最終的には共産主義の目標に向けて社会が発展するのを見たいと思っているのである。

I.4.7 生産者が消費者を無視しないようにするためにはどうすればよいのだろうか?

 市場がなければ、生産者は消費者を無視するだろう、ということがたびたび主張されている。失業と貧困の脅威(そして恐怖)とより多くの利益の確約がないため、生産者は粗悪な商品を生産するというわけだ。この主張をしている人々は、ソ連の実例を指摘する。ソ連は粗悪品の生産と消費財の欠如で悪名高かったのだ。
 旧ソヴィエト圏と比較して、資本主義は確かに、ある程度まで、生産者が消費者に説明責任を持つようにさせている。特定の生産者が消費者の願望を無視すれば、そうした生産者は、願望を無視していなかったり、無理矢理にでも聞き入れたりしている生産者に負け、おそらくは倒産してしまうであろう(もちろん、大企業は、それが持っている資源のために、零細企業よりも遙かに長く持ちこたえることができる)。つまり、私たちはニンジン(利潤)と鞭(貧困の恐怖)を持っているのである−−だが、もちろん、ニンジンは消費者に対する鞭にもなりうるのだ(消費者がどれほどそれを必要としていようとも、利益なくして販売なし、である)。このアナロジーに対する明快な反論(つまり、私たちは人間であって、ロバではない!)を無視しても、この主張には大切なポイントが含まれている。アナキズム社会では、消費者ニーズはどのようにして確実に満たされるのだろうか?
 個人主義−相互主義アナキズムのシステムでは、市場に基づいているが故に、生産者は市場力の影響を受け、そのために、消費者ニーズを満足させねばならなくなる。もちろん、このシステムには三つの問題がある。まず第一に、金を持っていない人々は、生産された商品を手に取ることができず、従って、病人・障害者・高齢者・若年者はその商品なしでやっていくことになる。第二に、不平等がもっと顕著になり、成功した生産者が他の生産者を破産させてしまう。こうした不平等は消費を歪める。資本主義でもそうだが、少数者がこの世の良い物全てを手に入れることを保証するのである(個人主義アナキストは、不労所得が不可能になるため、これはあり得ない、と主張している)。最後に、このシステムは、資本主義に戻ってしまう危険を持っている。上手く行かない協同組合は倒産し、組合員が失業してしまうかも知れない。これが、失業労働者の一群を創り出し、そして、成功した企業が失業者を雇用して、その失業者を協同組合に参加させないようにすることで、賃労働が再び出現する危険を創り出す。このことは自主管理とアナーキーを事実上終わらせてしまうだろう。それ以上に、上手くやっている企業は、「防衛機関」(つまり、暴力団)を雇い、資本主義の所有権思想を強要することもできるのである。
 プルードンはこの問題を認め、市場力の影響から自主管理を守るための農工連合を主張していた。集産主義アナキストも同様にこの問題を認めている。どちらの枠組みであっても、自主管理は協同組合型仕事場間の合意によって保護される。その合意は、資源を連邦内の他の仕事場と共有するというものであり、そのことで、新しい労働者が、既に生活手段を利用している労働者と同じ条件でそれにアクセスできるように保証するのである。このようにして、賃労働は廃絶される。さらに、仕事場連邦が相互扶助を実践し、メンバーに対して実費のみで資源とクレジットを提供する。そのことで、自分達の生産が消費者のニーズを満たすように調整しながら、企業が破綻しないように守るのである。
 いずれにシステムにおいても、生産者は消費者に対して説明責任を持つ。協同組合間で購入と販売のプロセスが行われるからである。ジェームズ=ギョームは次のように述べていた。労働者協会は『(コミューンの)交換銀行が提供する施設に消費されていない商品を預ける』だろう。『交換銀行は、製品の価値を示した流通性証票を生産者に支払う。』(この価値は『地域の協同組合連合と様々なコミューンとが契約上の合意をすることで事前に確立される』)[Bakunin on Anarchism, pp. 366] 商品の需要がなければ、生産者協会は交換銀行に労働の産物を売ることはできないため、生産者は自分の生産を適宜調整することになるだろう。ギョームは、時間と共に、生産が発展し、継続的に需要を満たすようになるに従い、このシステムが自由共産主義に進化すると期待していた [前掲書, p. 368]
 相互主義と集産主義アナキストは、生産が消費者ニーズの影響を受け、そうでない場合には生産者の収入がなくなる、と主張するが、共産主義アナキスト(金銭のない社会を求めている)は、自分達のシステムでもそのようなやり方で生産者に見返りを与えると主張することはできない。ならば、『万人の欲望』が実際に満たされると主張するためには、いかなるメカニズムが存在するのだろうか?無政府共産主義では、どのようにして、生産が『消費の単なる奉仕者』となり、『諸条件を消費者に命ずるのではなく、消費者の欲求を形成する』のだろうか?[Peter Kropotkin, Act for Yourselves, p. 57]
 リバータリアン共産主義者の主張では、自由共産主義社会において消費者ニーズは満たされる。その理由は共産主義アナキズム社会の分権型連合性質にある。
 リバータリアン共産主義社会で生産者が消費者に説明責任を持つようにするメカニズムとはどのような物なのだろうか?まず第一に、コミューンは分配ネットワークにおいて出口の力を行使する。あるシンジケートが規格外の商品を生産したり、消費者ニーズの変化にも関わらず生産活動を変えることを拒んだりした場合、コミューンの小売店は、希望している商品を生産するシンジケートに発注先を変える。元々のシンジケートは在庫を貯めるために生産し続けることになるが、これは、無意味な仕事であり、誰もやらないとは言わないが、ほとんど行う人はいないだろう。結局、人々は概して有意義で有用な仕事を行いたいと思っているものなのである。誰も望まないものを生産するといった単なる仕事は、やる気を失わせるような仕事であり、正気の人であれば、全くではないにせよ、ほとんどの人がこのような仕事を行わないだろう(資本主義下で、人々は、収入がないよりはましだという理由で、精神を破壊するような仕事に耐えているが、そうしたインセンティヴは自由社会には存在しない)。
 お分かりのように、「出口」はリバータリアン共産主義においても存在し続ける。だが、反応の悪いシンジケートや能率の悪いシンジケートも、ガラクタ(もしくは平均的な品質よりも劣る商品)を生産し、他者の労働の産物を消費することで社会にいる他の人々を搾取しながら存在し続け、貧困と失業の恐怖がなければ、確信を持って、永久にこのことを行い続ける、と論じることもできよう。市場がなければ、こうしたシンジケートを罰する権力を持った何らかの官僚主義形態が必要となる(もしくは発達する)、というわけである。つまり、国家は「リバータリアン」共産主義においても存続し、「より高次の」団体が低次の団体に対して強制を用い、消費者ニーズや充分な生産を確保する、とされるのである。
 一見して、これは起こりうる問題のように思えるが、よくよく吟味してみると、誤っていることが分かる。なぜなら、アナキズムは「出口」だけでなく、「声」にも基づいているからである。資本主義とは異なり、リバータリアン共産主義は、提携とコミュニケーションに基づいている。それぞれのシンジケートとコミューンは、他者全体との自由合意と連合の中にある。例えば、特定のシンジケートが粗悪品を生産したり、その仕事を充分に果たせなかったりすれば、このシンジケートと接触している人々はすぐにそのことを分かる。まず、シンジケートの仕事に不満な人々は、組織を合理化するように直接要請するであろう。これが上手く行かなければ、将来的にそのシンジケートと「契約」することを拒むことで、自分の不満を知らせる(つまり、そのシンジケートが望む物品を提供することを拒むと同時に、「出口」としての力を行使しするのである)。また、社会全体に(メディアを通じて)このことを伝え、消費者グループ・協同組合・関連生産者連邦・シンジケートがメンバーとなっているコミューン連邦にコンタクトを取る。そして、連邦のメンバーに問題があることを伝えるのである(関連する連邦には、地方コミューン連邦や地域コミューン連邦、一般産業間連邦、特定産業連邦やコミューン連邦、仕事を十全にこなしていないシンジケートが加盟している連邦が含まれる)。現在の社会では、消費者団体やプログラムに加え、「口コミ」という同様のプロセスによって警告や推薦が行われている。ここで提案したいのは、この習慣の拡大である(このプロセスの存在は、価格メカニズムが実際には、意志決定に必要な全ての関連情報を消費者に提供しておらず、余談に過ぎない、ということを示している)。
 一定数の不満が申し立てられた後でも当該のシンジケートがやり方を変更しなかった場合、非暴力直接行動を受けることになる。産物と投資に関して、そのシンジケートをボイコットし、(多分)地元コミューンもボイコットすることになるだろう。その結果、提携組織の利得からそのシンジケートが排除されることになるだろう。シンジケートは、誰も自分達と提携したがらないという事実に直面し、メンバーに対する消費財を含めた物品の減少に悩まされる。その結果、資本主義下での企業と同じプロセスが生じ、消費者を失い、収入も失うことになる。しかし、自由社会が、貧困や飢餓といった弊害に人を追いやるとは思えない(資本主義では追いやっている)。むしろ、生存に必要な最低限の物資はなおも手に入れることができるだろう。
 万が一、この全面ボイコットが変心をもたらさない場合、二つの選択肢がある。シンジケートを解散し、メンバーに新しい仕事場を見つけるか、現在の利用者にシンジケートを引き渡すなり売り飛ばすなりする(つまり、その社会は明らかにメンバーが属したくないと思っている社会であり、そこからメンバーを排除する)かである。どちらの選択肢に決定するのかは、当該職場の重要性と、シンジケートのメンバーの願望による。シンジケートが解散を拒んだ場合、第二の選択肢が最も論理的な選択となる(そのシンジケートが希少資源を管理していない限り)。多分、第二の選択肢が最も良いだろう。提携の利益を痛感させてくれるからである。除名されたシンジケートは、単独で生きて行かねばならず、その労働の産物を売ることで生き残らねばならず、すぐに復帰するだろう。
 クロポトキンは100年以上前にこうした条件について論じていた。引用する価値があるため、長くなるがここで引用しよう。

 まず第一に、自由労働の原則に基づいた社会が、怠け者によって本当に脅威にさらされたとしても、私たちが現在手にしている権威主義組織なしで、そして賃金制度(業績による支払)を頼みとすることなしに、社会を防衛できることはハッキリしているのではないだろうか?
 何らかの事業のために結集したボランティアグループを例に取ってみよう。成功を信じながら、メンバーは皆一心になって働く。しかし、その中に一人だけ、自分の持ち場から頻繁にいなくなる人がいる。事業を危険にさらしているこの仲間に対して、いつの日か、次のように述べられるであろう。「友よ、私たちは君と一緒に働きたいが、君は持ち場からいなくなることが多い。この仕事をやる気がないのなら、一緒に仕事はできない。さぁ、君の無頓着に耐えられる他の仲間を探したまえ!」
 これは全く自然なことであって、至るところで、今日のあらゆる産業においてさえも、実践されていることである。(労働者の)働きが悪ければ、怠惰などの問題のために仲間の仕事を妨害するのであれば、喧嘩好きだったりすれば、それで終わりになるのである。彼は、その職場を退くようにさせられるのである。
 権威主義者は次のようにうそぶく。全能の雇用主とその監督者のおかげで工場の秩序と労働の質が維持されているのだ、と。現実には、労働が質の高いものであるように取りはからっているのは、工場そのもの、つまり労働者なのだ。
 このように物事が行われるのは産業の現場だけではない。本の虫には今のところ何も分からないだけの規模で、あらゆるところで、日々、行われているのである。本の虫には何も分からないだけのことだ。他の会社と連合している一つの鉄道会社が、列車が遅れたり商品が駅で放置されたままになったりして、業務提携を満足に遂行できなかった場合には、他の会社が契約のキャンセルをする恐れがあり、この恐れだけで通常は充分なのである。
 取引が約束を守るのは訴訟の恐怖だけからだ、と一般には信じられている。決してそうではない。自分の言質を守らない商人は、大抵、裁判官の前には現れないものだ。債権者に訴訟を起こさせるというたった一つの事実だけで、大多数の商人が、仲間の一人に裁判沙汰を引き起こさせるような人との取引を永久に拒絶するのに充分なのである。
 それならば、工場の労働者・通商における商人・輸送組織における鉄道会社の間で今日行われている手段を、自発的労働に基づく社会において、使ってはならない理由があるのだろうか?[The Conquest of Bread, pp. 152-3]

 消費に対する生産者の生産責任を確保するために、リバータリアン共産主義(その他の形態のアナキズムでも)ではいかなる官僚的団体も必要とはしない。むしろ、反応の悪い生産者に影響を受ける人々によるコミュニケーションと直接行動の方が、消費に対する生産の説明責任を確保する効果的で効率的な手段であろう。

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