中島飛行機の想い出

斎藤氏の「中島飛行機の思い出」はさらに続く・・・。

 ここからは太平洋戦争戦時下の話です。生産資材は勿論、毎日の食糧から生活日用品まで欠乏する中で、一般国民はそれに耐え、新聞ラジオの報道を信じ頑張っていたのです。 斎藤昇氏も同じ使命感に燃えて必死に行動します。

小泉製作所時代 3.(昭和17年 1942年)

 昭和17年は太平洋緒戦に於いて我軍の電撃作戦が至る所で絶大なる戦果をもたらし、息つく間もなく進撃
発展して得意の絶頂に達した年であつた。

 国内態勢は「一億一心」 の標語のもとに、すべてが戦力増強に集結せらたたことは当然であった。当 社もこれがため活気が倍加したのであった。私達の担当であつた最終工程の組立工程関係は厳しい予定納期に対するすべての遅延の要素が皺寄せられる結果、想像以上の苦労を重ねなければならなかったが、機体が完成して組立工場の大開戸が開かれて搬出される際、各機種毎に定められた音楽、軍艦マーチ、君が代マーチなどの演奏裡に送り出される時の愉快なあの気持は実に何ともいえず、苦労が一度に吹き飛ばされる思いであった。しかしこの行事も士気を鼓舞する意味で認められたものであったが、この音楽によつて各機種が今日は何機完成したということが外部へも容易に判別されることとなるため、これも数ケ月で機密保持のうえから中止されることになった。

今年も、97戦闘機(累計2019機)、1式二型戦闘機、百式二型重爆、2式一型戦闘機(40機)
2式二型戦闘機、97陸攻、2式陸偵(477機)等の量産をなし、又ダグラスDC3輸送機は71機生産したが、当社に於いては軍用の第一線機に重点が置かれたため以後の生産を中止して、引きつづきその後は昭和飛行機会社に於いて製作することになったので、半成部品、集成部品等をすべて昭和飛行機に譲渡することになった。
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       上左は97式戦闘機、 上右は1式戦闘機(隼)の組み立て工場

 なお翌年半田製作所で生産された天山(B6N1) は今年3月に試作機が完成したが、量産に入ったのは18年
の初めからであった。 発動機は「護」1850馬力が搭載されて速力260ノット、2000哩の航続カを持っていた、後に火星を搭載して終戦までに1269機生産された。

 又航空技術廠で設計並びに製作(試作機のみ)された15試陸上爆撃機(銀河、P1Y1、略号Y20)も当社で生産することになったので、4月中旬に量産に対する製造方法を検討するため、私は島崎、大野、柏崎、及び押田進の諸氏と共に空技廠に於ける構造審査に出席して、試作された機体に就き数日間、慎重に検討した結果、
胴体や翼等の分割製造には之等の構造を相当改修せねば量産に支障を来す事を発見したので直ちに改修意見を提出し、之が翌18年に銀河二一型(P1Y1-S)として量産されることになった。

 さて話は一寸前に戻るが、この年の1月20日から繊維製品類の統制が始まり衣料切符が発行されて、生活は益々窮屈さを深めて来た。 又この月の21日には当社の前支配人であつた浜田雄彦氏(浜田昇氏の厳父)が病死されて当町長念寺に於て盛大な社葬が執行せられた。 氏は当社の揺藍時代から発展に尽された功労者の一人で数々の逸話もあり私達に最も深い印象を与へた人であった。

 4月18日には我国が初めて本土に敵機を迎えた日で、我国民に異常な衝撃を与へたのであった。 米国のB25爆撃機数機は太平洋上から低空にて水戸地区より関東に侵入し、京浜、名古屋、神戸等を経て支那大陸に飛び去ったが、其間、投弾、機銃掃射の空襲を受けたが被害は僅少と発表せられた。 続いて19日に再度来襲し霞浦航空隊に投弾された。 然しこの本土来襲の意義は一般国民に与えた心理的影響は相当大きなもので、之がため防空訓練も益々真剣の度を加えて来たのであった。

 天山(B6N1)も正式に採用が決定されて5月下旬には量産に対する打合せ会が開かれた。 其后7月19日には完成された試作機「天山」の進空式が太田飛行場に於て行はれた。

 大戦の展開と共に工場の拡張計画も進捗し、海軍機体関係は半田市に、又陸軍機体関係は宇都宮市に夫々製作所建設が決定して7月中旬には半田に於て地鎮祭が行われた。

 之に先立ち半田製作所建設副委員長の藤森正巳氏(注、委員長は吉田孝雄氏)をはじめ各該当委員であった、石井、芦沢、甲田、松山、対比地、其他先発の諸氏は6月以来半田に乗り込み建設の進捗に挺身されていたが、私は当時自分の任務外の事であつたので大した関心は持たなかった。

 昨年の田宮飛行士の殉職に続き、今年10月7日又もや陸軍機関係の林三男飛行士が「キ43一式二型戦斗機(隼)」にて試験飛行中に太田飛行場に墜落惨死せられた。 機体完成にはこの様な尊い犠牲が度重なる事を銘記せねばならない。

 この年の年末には小泉製作所の工場や福利、厚生施設も概ね完備されたし、太田工場から小泉工場への移転も大略終了に近付いたので、11月3日の佳日に小泉製作所の開所式が総合グラウンドに於て誠に盛大豪華に挙行せられた。 戦時中にも拘らず之だけの催しが出来たことに私達は全く驚かずにはおられなかった。

【参考追記】
戦況における日本の優位はこの年1942年の前半までで、6月にはミッドウェー海戦で決定的な敗北を期しているが、大本営による一般への報道は勝ったかの如く行われ、国民には知らされていなかった。 一方、中島飛行機の工場拡張が開戦後のこの年から急激に加速されたことを見ても分かるように、太平洋戦争は総力戦が予想されていたにかかわらず、あらゆる面で全くの準備不足であったことが伺える。
 

 

小泉製作所時代 4. (昭和18年 1943年)

 太平洋戦争第3年目の昭和18年も、あわただしき新年を迎へねばならなかつた。 特に私達には正月早々、半田製作所へ転勤を命ぜられたので一層多忙であつた。 平常時の転勤であれば身軽に赴任も出来るのだが半田工場の建設に対して能率的に生産移行出来るかと云う事が大変な重荷となつて居たからである。

 私に対しての転勤命令は私としては突然の出来事で今日まで何等の予告も受けて居なかつたが、然し、何とな
く半田行きの覚悟だけは出来て居たので別に何の動揺も感じなかったが、さて転勤と決まれば今まで半田製作所に対して何等の関心をも持ち合せなかっただけに、一体半田と云う所は何処にあるのか、今日まで知り得た私の知識では、名古屋の近在であると云う事だけであった。

 改めて半田製作所に対する概念を地図や建設プラン等の説明を聞いて、半田が「市」であることに先づ驚いた。 私達は以前から愛知と云えば名古屋城と瀬戸物の産地であることは知って居たし、又今まで度々三菱との交渉等で何度となく名古屋に行った事はあったが、半田と云う言葉を一度も聞かなかった。 勿論、知多木綿も、ミツカン酢も私達には大して関心もないので知らなかったのが当然と云えよう。 然し此度赴任するとなれば凡てのことが直接一身上の問題となって来たのであった。

 前にも述べた様に半田に於ける工場建設も着々進捗したとは云え、本工場の敷地は全部埋立てなければならないので建物の建設は準備中であったが、私達は一日も早く機体製造に着手するため、所在の織物工場を改造してこれに当てることになり、初めに整備されたのが内山工場であった。

 そこで現場関係者を小泉製作所から先発として約500名の基幹部隊を送り出すことになって、私と共に稲場敬、
中務敬次、村井正の諸氏がこれに当ることになり、人選を始めたのであるが実にこれは大変困難な仕事であった。

 半田製作所の完成には数万人を必要とするが、これ等は現地に於て集められるので小泉製作所からの転勤者は之等の人達を指導せねばならぬ基幹部隊が必要である故、どうしても少数精鋭主義で行かねばならなかった。 この様に半田側としては希望するものの、小泉側としては優秀な者は出来るだけ残したいと思うのが人情で、そこに第一の困難が横たわって居た。 然しこれは話し合いで或る程度は解決出来たが、選考された本人達は転勤を喜ばない人が大部分であったのだ。

 その第一の理由は郷里から離れることを甚だ嫌うこと。 第二は、太田では経済統制下に於ても生活物資の入手が割合円滑に行われて居るが、他国に出ては、この実績を放棄せねばならず、旅先に於ての生活に不安があること。 第三には二重生活等の経済上の問題を生ずること。 第四には転勤者に対する手当の問題があった。

 昨年半田に転勤した人達は現在まで既に6ヶ月以上経過しても普通の出張手当が支給されて居るが、今の所、人数も少ないので、それでも差しつかえもないが、今後の数千人の転勤者に対してこのまま実施されることは困難なことである。 これは半田許りの問題でなく、今後生ずるであろう宇都宮建設や発動機関係工場各分工場建設等に関連する故に、会社としても早急に解決せねばならなかったが、この解決がつかないので工員の転勤に対する決心も仲々決定出来なかった様だ。

 この件に就いて私も早く工員を輸送する為めに、毎日の様に会社側と交渉せねばならなかった。 かようなことで、彼等の云い分を聞けば無理もないが、この人達に大義名分を説くことは何としても困難なことであった。 しかしこれ等の中にあって自ら進んで転出を希望する者も相当あったので、正月下旬までには第一次の500余名程度の選考を終り、1月31日から三日間に分けて半田へ移転したのであった。 しかし、まだ其頃は住宅も出来て居なかったので、当分は旅館に分宿することになった。 私も角屋旅館に中務、村井の両氏と共に落ち付くことができた。

 さて半田に来て、先づ私達を驚かせたものは思ったより物資(日用品)に恵まれていることで、群馬では仲々手に入らないもの例えば紙類、チューブ入歯みがき等も見られたし、牛肉すき焼、トンカツその他魚類も喰えるし、酒も本場のせいか、手に入れることが出来た。名古屋附近とは云え、まだ田舎だと思ったのであった。

 そして私達は半田製作所に着任早々生産準備に取りかかったのであるが、前に述べた通り本工場の建物が建設中であったので、当地方の織布工場を使用することが計画され、乙川の内山工場、よしの工場(その後、山田紡績)若宮工場、植大工場(都築紡績)等々の工場改修が完成次第、転々と職場を渡り歩く有様であった。

 「天山」の生産移行計画も進捗したので、半田に於て募集せられた工員の作業慣熟のため半田から大量の作業員を小泉製作所に派遣することになって、私達も5月から小泉に出かけて、小泉製作所の第二製作部として天山の製作を始めたのであるが、この間半田製作所設立に伴う機械器工具類はもとより 資材、治具、天山の部品、半製品、集成部品等を毎日搬出すると共に小泉から半田への転勤者の選考、送り出し、と全く目まぐるしい毎日であった。

 秋になって半田工場の五号棟の一部が使用可能な状態となったので、小泉から送り出した部品で半田製作所に於ける第一号機の組立も始まり、12月も押し迫ってどうやら恰好が付いて、先づ完成の祝賀にまで漕ぎ付けることが出来た。 然し年内に第一号機完成の予定達成確保の為め、部品の運搬は殆ど工員が小泉から手持ち運搬をしたので、当時東京駅でもこの特殊な風景が名物となった位で、人よんで 「人・トラ」 (人間トラック) と称した。 鉄道でも、航空機第一優先の当時のこととて、相当大物まで車内に持ち込んでも別に文句なしに適用したのであった。


 尚、本年度に於て当社で生産された機体は、1式一戦(計716機)、1式二〜三戦、百式二型重爆、
 2式二戦、零艦戦、2式水戦、96式陸攻(412機)、陸偵、月光、天山、、百式三型重爆(6機)、
 銀河等の量産の他、17試艦偵(彩雲)の試作も完成して引続き半田製作所に於量産てすることになった。
 又、疾風(4式戦、キ84)の試作も年初に完成して量産準備にかかることになった。
 
製作所の建設では本年3月には海軍関係の発動機工場として埼玉県大宮市に大宮製作所が創立された。


【参考追記】
この年、戦況は一層悪化し、南方では昨年の8月より熾烈な戦闘が始まっていたガダルカナル島が、この年2月致命的な敗北により、多くの第一線で活躍してきた陸海航空兵士の数多くの命が失われ、完全撤退することになったが、軍の発表は「目的達成により転進す」となって、国民は勝利のような錯覚に置かれていた。 そして、悲報が続く。米英との開戦に最後の最後まで反対していた山本五十六連合艦隊司令長官は、その搭乗機が撃墜され戦死し、さらにアッツ島の玉砕と続きました。 そして国民総動員令に基づき、一億総戦闘員ということで学徒出陣が始まった年もあります。 また欧州では連合軍の反撃が決定的となり、3国同盟の一翼イタリアが降伏しました。

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