480.海軍空技廠 陸上爆撃機「銀河」11型(P1Y1)[旧日本・海軍]

NAVAL AERO -TECHNICAL ARSONAL DIVE- BOMBER"GINGA"( P1Y1) (FRANCES) [JAPAN- NAVY]

全幅:20.00m、全長:15.00m 、総重量:10,500Kg、最大速度:548km/h
発動機:星型2列18気筒「誉」12型 1,825馬力×2  武装:13mm機銃(前旋×1、後旋×2) 
爆弾:800kg×1または500kg×2  乗員:3名
初飛行:1943年8月
  
イラスト:小池繁夫氏 1993年カレンダー掲載   Illustrated by KOIKE, Shigeo   

 この作品を手にするなり、「本当にきれいな飛行機ですね」と小池さん。銀河は中島飛行機の傑作エンジン「誉」を搭載し、5000kmを超える長大な航続距離と戦闘機並みのスピード、雷撃・水平爆撃・急降下爆撃が可能な強度と優れた操縦性を持つ傑作機だった。

 1940年に第一線の航空参謀より将来の洋上作戦のために、「爆弾搭載量1トン、航続3,000浬(5,500km)の急降下爆撃機ができないか」との希望的構想が持ち上がり、翌年、雷撃も出来ることを加え、計画要求書としてまとめられた。空技廠では山名正夫博士をりーダーとする空技廠の三木忠直ら技術将校チームが設計に取り掛かった。

 当時としてはけた外れの性能要求であることから、機体の前面面積を出来るだけ切り詰め、軽量化に努めた。操縦席も単操縦式とし、前方の偵察爆撃員と後方の電信兼射撃手の乗員3名とした。発動機は当時まだテスト段階であった中島の十五試「ル号」(後の誉)を選んだ。これは制式エンジンでは要求性能がとても得られず、小径で高出力が必要だったためである。主翼は高速を出すため高翼荷重にし、かつ縦横比を7.3とした独特の設計となった。

 1942年1号機が完成し飛躍的な高性能が確認され量産が決定されたが、その後、誉エンジンの不調から制式化が遅れ、中島飛行機で1,002機、川西航空機で96機生産された。

 初期の試作機は概ね予定通りの性能を得ていたが、実戦の段階では戦時下の物資の品質低下が著しく、 量産の誉の不調が続き、稼働率は決して良くなかった。とくに、油圧系統が複雑で過熱やオイル漏れに悩まされた。 しかし、優れた性能とその優美な姿は、大戦後、英国の航空誌に「驚くほど洗練された設計。 時速35Oマイルの世界最高速爆撃機」という記述が載つたほど。

 作品の左上方からの素直な構図。アングルを「おとなしい」と見る人もいるだろうが、銀河の洗練されたフォルムを表現するには、この角度、この空(大気)の色が最適なのに違いない。

【追記】
 十五試双発陸上爆撃機の試作1号機は昭和17年6月に完成し、最大速度556km/hと、従来の日本の爆撃機に比して飛躍的な性能であった。海軍ではそれまでの爆撃機の運用を、この「銀河」と、開発進行中の4発の大型陸上攻撃機の「連山」の2機種に絞ることを決定し、中島飛行機小泉製作所を生産工場として大量生産を企図した。

 試製「銀河」は発動機も所定の性能が発揮され、大きな問題も無く活躍を期待されたが、機体の製造工程が複雑であり、また「誉」発動機の不調、整備の困難さなどの欠点が目立ち、制式採用は昭和19年10月まで遅れた。その後も度重なる改修が行われ、発動機をオーソドックスな14気筒の「火星」に改修した一六型も生産された。

 意欲的な設計では有ったが、戦時下における資材調達の難航・工作制度の低下・熟練工の不足から、「誉」発動機は多くの誤算を生み、いろいろな無理がたたって、当初の目的をほとんど達し得なかったといえる。

 なお、終戦後の復興において、生き残った技術者たちは翼を失ったことから、中島飛行機を改称した富士産業(後の富士重工業)において135cc,2馬力のラビットスクーターを開発した。 その試作車の車輪はこの銀河の尾輪のストックを用いたという。(勿論量産仕様は異なる)

  
【追加イラスト】 これは1970年代の初期のカレンダーに用いられた「銀河」の小池さんの作品。
   機種の13mm機銃の武装は無く、試製「銀河」のイメージだろうか。
 イラスト:小池繁夫氏 1979年カレンダー掲載    Illustrated by KOIKE, Shigeo  
 

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