中島の社風 その3 (知久平の次の夢)

 中島 「三鷹研究所」の大構想にむけて

 中島飛行機が巨大化する中で、中島知久平は経営を弟の喜代一に譲り、自身は政界に入って専念していた。しかし中島飛行機の人達は、知久平を大社長と呼んでいた。そういった中で、中島知久平は自らの次の夢の実現へと歩み出したのである。

 
 1940年(昭15)、喜代一社長(知久平の弟)は、突然秘書課長であった太田繁一(1938年入社)の前に大きな地図を広げ「ここに研究所をつくる」と赤線で囲ったところを示した。なんと62万坪もある。 

 

 なんで研究所に62万坪も?と怪訝な顔をしていると、「これは大社長の夢であり、構想だから直接指示を受け三鷹で土地買収に専念するように」と言い渡された。 以下、太田繁一の話を続ける。(以下、太田さんの敬称を省かせていただきます)

 
 そこで太田はまず三鷹に拠点を探したが、日本橋の問屋の旦那さんの森山さんという方の別荘があり、一部が洋館風で事務所に出来そうなので、まずそれを譲り受けた。それが現在も富士重工業三鷹事業所敷地内に残る森山荘(現在、東京スバル販売店のショールームから隣地に望める)である。

 

 100人を超える農家を中心とした地権者との膨大な買収交渉が始まるわけだが、中島はこの若い社員に、何と運転手つきの自動車を与えた。 この当時、自動車は大臣級の政治家か大企業のトップしか持てなかった時代である。 この事業に賭ける中島の意気込みが知れる。

 
 買収を進める中で知久平は度々視察に来て、その時に太田が聞かされた構想は、「まず最初は、中島飛行機の開発部門が太田や小泉、荻窪と離れている。 これを一堂に集めた航空技術の研究所とすること。 そして先進の研究成果を組み込んだ試作機を造る工場を作って、そこと調布飛行場とを専用道路で結んで試作機を飛ばすことを考えている。

 そしてもう一つ、中島とは関係無く、社会・経済・政治等に関する国内外の学者を集め、日本の国の経営に関する諸問題を研究するため、それに専念できる施設とともに、学者たちの住宅もここに作りたいのだ。」と・・・、かくも途方もない遠大な構想が、そこには秘められていたのである。

 
 「ここ三鷹は高台もあり美しい赤松の林が連なり、その間をクヌギ、ナラなどの武蔵野特有の雑木林が取り囲み、また小川にはワサビが育つ澄んだ水が流れている(野川の川辺)。 遠くは富士山(富嶽)が望める絶好の場所だ。そういった環境で学者諸賢を始め、我社の技師たちが、梢を渡る松籟(しょうらい)に耳を傾けつ、林間を逍遙して、心身の疲れを癒すとともに、新たな構想を練ったり、良い研究が出来るようにしたい。 だからこの美しい赤松を決して不用意に切ってはいけない」と言われた。 

 太田はその崇高な計画に心を奪われたという。

 

 また買収した敷地内を案内していた時、一定の地域を指定して、「ここは花畑にするから保留しておくように」と指示された。

 

 その指定地域の広いこと!日比谷公園ほどもあろうことに仰天したと太田は語る。「当初はなんでこんな広大な土地が必要か?と理解に苦しんだが、知久平の語る言葉を聞くうちに、国の経営に関する研究と言った遠大な構想は、到底常人では遠く思い及ばなぬところであり、その桁外れのスケールの大きさに、今更ながらに感嘆を禁じ得なかった」と・・・。

 
 ある時、調布飛行場の防衛航空隊から「高台の松が離着陸に邪魔だから切れ」とねじ込んできた。 知久平は現場を見て、太田に「そんな筈はないから、絶対に切ってはいけない」と言われ、「離着陸の進入角度はこれこれの筈だから問題はない。それでも駄目というなら操縦技術が問題である、と理由を言って説得せよ。」と指示を受け、「それでも聞かぬならわしが行く」と言われた。 それを防衛隊に伝えたら、相手も「大臣が言われるのでは…」とすごすごと引き下がったそうだ。

 
 

 かように理想を追い求める大構想であったが、買収が完了し、その地鎮祭・鍬入れ式の日が1941年(昭16128日の真珠湾攻撃のその日になってしまったのは運命の悪戯としか言いようがない。

 

 この戦争は中島知久平の次の夢を打ち砕き、一部開発部門を集約することと試作工場の設置だけに終わらざるを得なかった。左の写真は終戦直後の三鷹研究所の姿です。左に設計本館、中央奥に試作工場、手前に板金工場が見える。

 

(ここでの中島飛行機の活動は、別のページ「中島最後の飛行機 誕生秘話(クリック」をご覧ください)

 

 
 戦後、中島知久平はGHQから戦犯として出頭を命じられたが、それを無視し、病気(多分仮病である)を理由に拒絶し、この三鷹の敷地内の「泰山荘」に居を構えて戦後の日本の動向を見守っていた。

 

 そのころを太田は振り返って、「敗戦を迎えて政治家・軍人をはじめ有力者が、そのショックで虚脱状態に陥り、昨日までの威勢はどこへやら、茫然自失、なすことを知らずといったとき、知久平先生はお顔の色も艶々としてたいへんお元気であった」と言う。

 

 そのお元気のもとを太田が知久平に尋ねたところ、「僕は戦争に負けたとは思っていない。太陽が雲にちょっと隠れただけで、そのうち雲が通り過ぎれば、太陽は再び輝き始めるだろう」と答えられ、 「日本は今、敗戦で惨めな状態にあるが、その潜在的工業力は素晴らしいものがある。十年先、二十年先には、世界各国から、飛行機も自動車も化学肥料も、なかには日本でほとんど産出しない鉄鋼でさえ、原材料を送って日本で造ってもらう方が有利というようなことで、これらの原材料を積んでくる船や、製品を送り出す船で、日本の港は溢れるようになるだろう・・・」と仰せられた。

 

 そして「戦前から貿易収支は万年赤字で、外貨獲得に汲々としていた日本が、今日、世界一の外貨保有国となっていることに思いを致すとき、今更の如く、中島先生の彗眼に驚嘆敬服してしまう」と・・・。 1998年の中島知久平顕彰記念冊子で太田はこのように述べている。

 

 終戦2年後の1947年に知久平は晴れて戦犯解除になったが、その2年後、1949年に病で急逝してしまった。 享年65歳の今から見れば若すぎて惜しまれる巨星の死であった。

     

   ↑左は泰山荘の表門、 右端写真の茅葺屋根が泰山荘母屋である。

     この母屋は1960年漏電による火災で消失したのは誠に残念。 

    2001泰山荘再建プロジェクトが発足し、残った建物は無事修復されている。

 太田が泰山荘の土地買収にあたって、当時の所有者は日産財閥で茶人の山田敬亮で

あったが、氏の病床で「知久平の崇高な目的の為なら土地は譲る。しかし泰山荘は何とし

ても後世に残してほしい」と聞かされたという。 それがICUに引き継がれ現在も一般にも

公開され、遺言を果たしている。

    

  そして中島飛行機の解体整理の中でその大部分の土地を手放した跡地に、国際基督教大学(ICU)が1953年に設立されて、知久平の夢が別の形で現実になったのは、運命というべきものであろうか。まことに幸いなことと喜ばしい思いにかられる。 富士重工業には約1割だけの土地が残され、現在スバル研究所として技術研究開発の拠点となっている。

 

 この研究所構想は、戦後歴史を振り返る中で、当時のドイツでのクルップ社の研究所を参考にしたのではないか?と言われている。 知久平の真意は計り知れないが、産業革命ののち新しい技術が次々と生まれる中で、ドイツのジーメンス、クルップ、ザイス社などは研究所を設置して大量の研究者を雇用して技術開発に注力していった。 この研究開発は第一次世界大戦で大きく変わり、一次大戦後にはほぼすべての先進国の大企業は独自の研究所を設置して研究開発を管理した結果、自動車、飛行機、ラジオ(通信)などの分野で技術が画期的に発展していたのである。 だが工学だけでなく経済学や政治学など文系を含めた総合的な研究所は、企業単位では想像もつかないことであったと思われる。(サイト管理者記述)

 以上の内容は、太田繁一氏へのインタビュー(2008年)と「中島知久平顕彰記念冊子(1998年)」による。 太田繁一氏は1938年東大法学部を卒業し、当時大卒事務系を全く採用していなかった中島飛行機に何としても入社しようと、あれこれ画策(今でいう就活)するも、「事務員なんかは要らない。要るのは技術者だ」と言われてもへこたれず、あらゆるコネを総動員して粘りに粘って、遂に入社を果たし、当時建設中の武蔵野製作所に総務課に配属となった。

  しかし入社してみると、大企業に関わらず、人事管理などはまるで町工場以下の態で、全く無頓着であった。 そこで「こんなものじゃ駄目だ」と、人事カード制度や関連する給与制度を所長の佐久間に提案したら、「じゃ、お前がやれ」との即断命令で、入社1年目でそんな重要なことを任されてしまった。 ところが、その能力が高く認められることになり、直ぐさま社長秘書課長に抜擢され、中島の中枢に関わることとなった。 

 

 そして終戦後は中島飛行機の解体整理にかかわり、さらに富士重工業設立に加わり、1960年に取締役、1971年常務取締役を務め、現在2010年なお矍鑠として御暮しである。201110月、白寿を迎えられた太田氏にお願いして、泰山荘の茶室の一角「待屋」にてICU関係者を前に当時の様子を1時間半にわたってお話しいただいた。 太田氏も泰山荘を取り巻く木々が立派に成長し美しい森を形成していることに感激されていた。 (講演会を設定していただいたICU関係者に感謝します)

 

  

上の3枚の写真は中島で「栄」エンジンを開発した小谷技師のゆかりの方から、泰山荘の近況写真を送っていただきました。(2010.6.5) この「知久平の次の夢」のページをご覧になって、早速に泰山荘を訪問され写真を撮って送っていただいた次第です。(感謝 感謝 !

まだまだ武蔵野の面影があって赤松が多くのこっているのですね。 また、ICUの正門に至る道は春になると見事な桜並木が学生たちや近隣の人たちを楽しませています。

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