キ-115「剣」誕生秘話

 本編は中島飛行機の技師であった青木邦弘氏(1935年入社)の手記をご本人の了解を得て原文のまま掲載しました。先般(97〜99年)ご本人にお目にかかる機会を得て、いろいろ当時のお話しを伺えました。高齢ではあられますが、今なお中島の技術魂を強くお持ちで感銘を受けました。以下の手記を繰り返し読んでいますと、戦争末期の苦悩と責任感、そして焦燥感に駆られ必死に取り組んだ姿が目に浮かびます。

まえおき

 私は、「キ-115 剣(つるぎ)」の主任設計者である。この飛行機は、その設計の真意が理解されないまま、始めから特攻を意図して制作された飛行機として、戦後いろいろと批判を受けている。したがって、この飛行機が問題にされる点は、技術上の極端な省略と見掛けの粗末さもさることながら、これを造った動機にあった。本機は一部の人がいうように、最初から特攻用として造った飛行機では決して無かった。いまごろになってこのような話を持ち出したのは、これも太平洋戦争を綴るささやかな歴史の一駒として、その真相を明らかにしておくことが、私の義務と感じ、老骨に鞭打って一筆執った次第である。 (1985年)

三鷹研究所の発足

 戦局が次第に険しさを加えてきた昭和18年の秋、われわれ「キ-87」の設計チームは、太田製作所設計部の先遣部隊として、当時建設の始まって間もない三鷹研究所に転出した。この研究所は、将来中島の総合技術センターとする意図の下に建設されたと聞いていたが、とりあえずは試作工場として使用されることになった。西は多摩霊園、南は調布飛行場に隣接し、面積約60万坪の広大な用地が充てられていた。偶然にも、昭和16年12月8日日米開戦と同じ日に鍬入れの式が行なわれ、約2年を経た昭和18年秋には、まだ武蔵野の名残りを止どめ人家が四、五軒点在する中に、 木造2階建ての建設事務所が一棟ポツリと建っているだけであった。われわれは、とりあえずその2階に陣取って仕事を開始した。

三鷹研究所のキ-87試作機

 ここでの任務は、当時まだその名さえ知らなかったB-29を迎え撃つための排気夕−ビン過給器付高々度戦闘機キ-87を設計、試作することであった。基礎設計はすでに太田で済ませてきていたが、住宅事情がままならぬ時代であったため、人数はできるだけ絞って、設計の直接要員は60人程度に過ぎなかったと記憶している。しかし、いずれも97戦以来 隼、鍾馗、疾風など、中島の伝統的戦闘機の設計を手掛けた手慣れた連中ばかりであった。

 一方、工場建設の方はわれわれの進出に刺激されてか、一段と活発になってきた。われわれは、設計本館のコンクリート打ちやスパンが50mを超える巨大な組立工場の梁が、一本ずつ組み上げられていくのを眺めながら仕事を続けた。そして、年を越えた春ごろであったと記憶しているが、まず鉄筋3階建ての設計本館が完成して、われわれはそこに移った(現在も国際キリスト教大学の建物として残っている)。これに続いて組立工場も完成し、試作工場の大部隊を始めそれぞれの部門が移転してきて、ようやく活況を呈してきた。昭和19年もようやく初夏を迎えようとするころであった。結局、この研究所は設計本館、組立工場、発動機工場の一部を完成したところで終戦を迎えているが、戦時中この研究所が果した仕事は、キ-87およびキ-115(剣)の設計と試作機の完成であった。

 戦後は、一時期設計本館には米軍が駐留した。その後、米軍が引き揚げると、全体は分割されていくつかの法人に売却され、その内の設計本館と組立工場を含む部分は、現在国際キリスト教大学となっている。また、エンジン工場を含む部分は、現在富士重工業の工場として使われている。その他の部分は、暫定的にゴルフ場として使用されていた時期もあった。こうして、この研究所は大きな戦禍を受けることなく、当時の建物はいまもなお一部が存続して使用されている。

勤労学徒の参加

 いつのころからか勤労動員による学生が配属されるようになり、設計室も次第に賑やかになってきた。中学生ぐらいの少年、少女たちから、高等学校級の男性や女性もいた。男子学徒は、すべて理工系の人たちで、女子学生でも上級生徒は部品図を引くのに役立った。また、太田製作所から転出の際、女子はすべて残してきたので、図面の複写、保管、その他の管理業務には、女子学徒が当ってくれた。しかし、そんなことよりも、女子学徒はこの世間から切り離されたような殺風景な男世帯に、一脈の薫風を吹き込んでくれた効果は大きかったと思う。厳しい戦時下にもかかわらず、若者たちはそれなりに新らしいムードを作り出して、気持よく仕事に励んでくれた。こうして、キ-87の設計は思いのほか順調に進んだ。

 一方、製造部の方もいよいよ本格的に作業を開始し、研究所の仕事はようやく全面的に軌道に乗ってきた。そんな矢先、太田では超重爆「富嶽」の開発が中止となり、設計部は解散になったという知らせが入った。戦局の推移から判断して、これから設計を始めるのでは、何をやっても間に合わないと見極めをつけたのであろう。三鷹にはなんの指令もこない。そのままキ-87の試作は続けられ、数カ月後の秋も深まるころ1号機は次第に形を見せ始めてきた。

 太田市の中島記念図書館に保管されている「必勝戦策・富嶽計画」青図は6発爆撃機の外観図、計画書には米国の工業力や航空機開発予測など、詳細に述べられている。(極秘書類で50部のみ複写され、これは34番の資料であった)


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