初期の中島は従業員の数も僅か何十人という小規模なもので、元海軍大尉中島知久平から小使に至るまで、一家族のごときなごやかな雰囲気に包まれていた。 夜遅くまで残業が続けば、十時頃になると、「腹がすいたろう」と知久平が町の汁粉屋に電話をして何十人分と取り寄せる。 このように知久平の部下達をとことんまで大切にする思いやりは、当然所員一同の心の奥深くまでしみこんでいったことだろう。
戦後、元海軍大将井上幾太郎は、『巨人 中島知久平』の序文の中で「余は既に八十路の坂を越えているが、まだ中島君より偉いと思われる人に接したことがない。 とにかく、中島君の人物が巨大でそれに卓越した頭脳を持っているのであって、その高邁なる見識と先見の明には驚嘆せしめられるものがある・・・・」と述べている。
この言葉に要約されるように、後に航空人、事業家、政治家として幾多の業績を重ねた知久平の偉大さを顧みるとき、峨々たる近寄りがたい人物像が浮かんできてもやむをえないだろう。
- ところが、今、かつての知久平と働き、仕えた人達の思い出話は、知久平が決して雲上人ではなく、実に近しい、滋味あふれる人柄であったことを一様に伝えている。 ここでは佐久間一郎、同次郎のお二人の思い出話を中心に断片的ではあるが、情の人、中島知久平のプロフィールを覗いてみたい。
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- 【追記】?もあるが、ともかく知久平は、創業時代の仲間を“当然ながら”とくに大切にしたようだ。
−「その頭で帰れるかい?」−
知久平の言葉遣いは非常に柔らかな調子で、上が下の者を見下すような威圧的な言葉遣いでは決してなかった。 それは友人に対するような話し方であったという。
1918年(大7)のことである。知久平は尾島の実家に両親を訪ねるために佐久間一郎運転の車に同乗した。実家のそばに高さ2メートルの土堤に登る急勾配の坂があった。 なにしろ大正時代の車である。知久平は「佐久間君、この坂、この車で登れるかい?」と尋ねた。
「はい、登れます」と、当時25歳の佐久間は一気に急勾配の坂を登り切った。
ところがである、次いで直角に直ぐ曲がるべきところを、あまり勢いよく登ったために曲がりきれず、不運にも下の桑畑に転落横転してしまった。 二人は車から放り出され、特に佐久間は車の下敷きになって、頭にひどい怪我をした。 はじめに念を押されて登ったにかかわらず、車を横転させ、放り出された知久平は、あわや首筋に達するほど、桑の切り株で洋服の襟元を切り裂かれた。
車は土堤の下の畑に横倒しになったが、いあわせた農家の人たちによって引き起こされ、今日は縁起が悪いということで、再び佐久間の運転で引き返すことになった。
彼は激しい叱責を覚悟した。 ところが知久平の第一声は、大怪我をした佐久間を気遣って、「佐久間君、その頭で帰れるかい?」という優しい言葉であった。 知久平は3度も同じ事を繰り返し尋ねたという。 帰って来て、佐久間は自分の頭がスイカのように(コブで)腫れあがっているのに初めて気付いたそうである。
その晩、アメリカに機械を買い付けに行く、栗原甚吾の送別会が開かれた。 その席上でこの顛末を話した知久平は、「佐久間という奴はえらいやつだ。 あんなスイカみたいな頭で運転して帰ってきた」と、半ばからかいながら、佐久間の気力を褒めたたえたのである。
- このように「・・・・・かい」という優しい尋ね方、危機に直面しながらも、部下のみを真っ先に気遣う思いやりは、まさに知久平の真骨頂をしめすものといえよう。
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- 【追記】
- このときの車は中島が最初に買っもので、東京芝の古道具屋で300円で購入した単気筒エンジンの中古車。 昔東大の先生がイギリスで買って持ち帰ってきたもの)
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−保険がかけてあるから、大丈夫だよ−
- 1921年(大10)8月のある夜、尾島飛行場にある格納庫3棟が全焼した。 原因は中島格納庫の一隅を借りていた民間飛行家が自機のエンジンを整備中、誤ってガソリンに引火し、木造であったため、またたく間に燃え広がった。 そして佐久間一郎らの懸命の消火活動むなしく、すべての格納庫と中の8機を焼失した。
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燃え切るころには知久平も駆けつけてきた。佐久間は責任の重さを感じ、なんと謝ろうかと思いつつ知久平の前に出たが、間髪を入れず知久平は、「佐久間、心配することはない。 保険が掛けてあるから大丈夫だよ」といった。
後に調べて判ったことだが、保険はそれほど掛かっていたわけではなかった。 それを承知で佐久間らの気持ちを少しでも和らげようとする知久平の深い思いやりがあった。
- 【追記】
- 写真が尾島の格納庫。 尾島飛行場は民間の飛行場として利用され、格納庫も共同利用されていた。 焼けた飛行機の前で中島の所員が呆然とする写真を見たことがあるが、この時のものだったのか?、それとも機体の火災か? 何処で見たのだったかなぁ・・・?
−廊下でコツコツ−
中島が一回り大きな会社に成長したころの話である。知久平は社内を見て回る際、いきなり大部屋のドアを開けて入るようなことは決してなかったという。 まず自分が来たことを知らせるがごとくドアの前の廊下をコツコツ足音をたてながら歩き、しばらく間を置いてから、おもむろに部屋のドアを開けたそうである。
そして部屋の中に入っても、上の者には目もくれず、下の者に対して、「おお、やっとるか」といった調子で声を掛けて回った。 これでは皆いい加減な気持ちで仕事が出来ないのは道理ではないか。
−「奴の鼻づらをこすりつけてやれ」−
同じように工場内視察のときであるが、翼の組立て工場にくると一同不満気な様子だった。「どうだい、うまく出来るかい」と尋ねると「はい、ターンバックルが足りなくて、一寸仕事が途切れています」との答えが返る。
- ターンバックルが切れていること、そして明日入荷することを百も承知の知久平だが、「そうか、だれか佐久間次郎のところへ行ってこい。 佐久間は事務所でタバコを吸いながら天井を見ておったよ。 ここへ引っ張ってきて、奴の鼻づらをこすりつけてやれ。 そうすりゃ、間違いなく直ぐ揃うぞ」と、ユーモアたっぷりにけしかけながら何気なく皆の不満を吹き飛ばしたのであった。
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- 【追記】写真は陸軍向けの中島式五型練習機を組み立てる呑竜工場内部
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