海軍の90艦戦、陸軍の91戦闘機が制式化された1930年代前半は、まだ海外の航空技術者を招聘して指導を仰ぎつつ自らの技術力を蓄積する期間であった。 1930年代半ばになると世界の航空機技術は急速に発達し、欧米では新たな航空用兵の研究が盛んに行われ、機能を絞った機体が開発されるようになってきた。 日本の陸海軍からも、ありとあらゆる種類の飛行機の試作命令が溢れるように出された時代でもある。
そういった時期に、欧州では複座戦闘機の研究が盛んに行われていたことから、日本の陸海軍も、それに興味を持ち、海軍は中島・三菱に試作命令を出した。 中島では6試複戦で素早く応えたが試験飛行で破損し、続いて8試複戦に取り組んだが、複戦がどうあるべきかの要求性能も不明確の中で、・三菱の8試複座戦闘機ともに試作だけで終わり、単発戦闘機は単座に絞られていった。
一方中島では、今後の技術の方向は単葉と定め自主研究を進めていたことから、陸軍向けには意欲的な単葉のキ-8複座戦闘機を試作したが、やはり採用されなかった。 このキ-8は中島の大和田繁次郎技師を主務者として1934年に合計5機が試作された。 この機体は中島で初めての片持式低翼単葉、全金属製平滑羽布外皮構造で放物線テーパー翼を採用、付け根を逆ガルタイプとして、胴体も全金属製モノコック構造の意欲的な設計であった。
発動機は94式550馬力(中島の寿三型)で、前面面積(空気抵抗)を減らすために、バルブロッカー部分がカウリングから突き出たイボのあるものが採用された。
試作初期型の性能は91式戦闘機とたいして変わりが無く、陸軍の審査で安定性も悪く不具合も多かったことから軍は意欲をなくしてしまったが、中島の努力により、その後一応の成果を挙げたが、海軍と同様に用兵上の目標がはっきりせず、不採用になった。
しかし、ここで得られた自主技術により、単座戦闘機のキ-11の開発も合わさって、次の中島の傑作戦闘機キ-27(97式戦闘機)に至るのであるが、Ki-8の初飛行からたった5年後の1939〜1940年にはには、隼、鍾馗、零戦、百式司偵などの名機が初飛行をしており、日本の凄まじい超加速度的な航空技術の発展が伺える。
上の図を見ていると、後の96艦戦にも通じるデザインともいえる。それにしても後席の射撃手は大変だったろうと想像される。 操縦士は機首のガンで敵機を追って自分の意思で旋回するからまだ良いが、後席射手は後ろ向きで急な旋回をされたのでは、たまったものではない。 後ろ向きでジェットコースターに乗っているようなものだ! |