「ある印刷会祉が、この作品(上のイラスト)を天地逆に印刷しそうになったことがあるんです」。背景の雲の形や色合い、機体に反射する陽光を見れば間違いに気づくはずだが、確かに宙返り途中の背面降下を上昇中と勘違いしてもおかしくない。何しろ「源田サーカス」で知られる海軍のアクロバットチーム(源田、岡村、野村のトリオ)が題材なのだから。
1929年(昭和4年)の海軍の主力艦上戦闘機はイギリスのグロースター社のガムベットをベースとして、中島が更に改良設計し、国産化した三式艦上戦闘機であった。
中島飛行機では、この三式戦闘機を凌ぐ期待の開発を自主的にスタートさせ独自設計の試作機を製作した。この機体は、軍ではとりあえず「三式戦闘機性能向上型」と呼ばれたが、中島社内では「NY試作海軍戦闘機」と名付けられていた。N
は中島、Y は設計主務者の吉田孝雄技師(戦後の富士重工業2代目社長)の頭文字である。
また本機は中島が国産化を目指してライセンスを取得していたブリストル社のブルドッグMk2A戦闘機を参考とし、ブルドッグと同じエンジンのジュピター7型を採用して「吉田ブルドッグ」とも呼ばれ、中島社内では、おおいに期待されたが、海軍での審査の結果、三式戦闘機と大差が無く、NY戦闘機は不採用となった。

一方、日本海軍でも、1928年には三井物産を通じてアメリカからボーイングF2B-1戦闘機を、更に翌々年にはボーイング100D戦闘機を購入し、新型戦闘機の研究を進めていた。
中島では、ここで何としても制式機を獲得すべく、設計主務者を中島飛行機発祥以来の中枢の技師長である栗原甚吾技師を据えて、全力で取り組む体制とした。 まずエンジンを中島が新しく開発した「寿」とし、翼形状もボーイング100Dに似た抛物線の整形を施し、機体の徹底した軽量化に努めた。
そして、1931年5月に試作機「NY改」を完成させ、期待の成果をほぼ手中にすることが出来、確信を持った。 だが中島では、更に万全を期して改良を進め、翌1932年初頭になって、この試作機を海軍に納入した。
海軍での審査の結果、最大速度・上昇力・航続距離の全てで大幅な向上を見せ、とくに運動性は当時のいかなる外国機よりも優れ、世界一級の格闘性能として認められ、1932年(昭和7年)
4月に九〇式艦上戦闘機として制式名が与えられた。 ここに、外国機を参考としながらも、純粋に日本人設計による最初の艦上戦闘機が誕生し、採用されることになった。
初期の一型から二型、三型、そして複座練習戦闘機を含め、1936年までに約100機あまりが製造された。 上段の源田サーカスのイラストの機体は上翼に5度の上反角を持つた特徴的な三型である。 それに対し、下のイラストは上反角が無い二型(下翼はともに3度の上反角がある)である。なお初期には車輪に覆い(スパッツ)が取り付けられていたが途中から廃止された。(下のイラストは1976年のカレンダーに掲載されたもの。なお上翼中央部に2本の線があるが、これはプロペラの赤いストライプの残像。原画の汚れではありません!) |