567. フオッケウルフ Ta152H-0 高高度戦闘機 [ドイツ]
            FOCKEWULF Ta152H-0 High-Altitude lnterceptor[GERMANY]
 

 全幅: 14.40m、全長: 10.71m、翼面積: 23.3u、
発動機: ユンカース・ユモ213E液冷 倒立V型12気筒 1,750馬力(離昇)、1,740馬力/10,000m (2,050馬力MW50使用時)、
総重量: 4,730kg、最大速度:760km/h/12,500m(W.MW・GW)、
武装: 機関砲30mmX1+20mmX2、
乗員:1名
初飛行: 1945年
 
                                                 Illustrated by KOIKE, Shigeo  , イラスト:小池繁夫氏 2007年カレンダー掲載


  1941(昭16)年夏、英仏海峡上空の航空戦に登場して以来、メッサーシュミットBf109(Me109)とともにドイツ空軍の主力戦闘機の双壁として、敗戦の日まで戦い抜いたフオッツケウルフFw190であるが、その最終発展型の一つがTa152である。

 名称がTa152となっているのは、1944年にドイツ航空省が、なぜか航空機の名称を設計者名で呼ぶことに統一したためである。 Taとはフオッケウルフ社の設計部門の最高責任者だったクルト・タンクを意昧している。(下記) 戦時中の「メッサーシュミットMe109」が戦後「Bf109」と開発当時の社名略語で呼ばれることになったのとは少し事情が異なる。

 フオッケウルフFw190Aに装着されていたBMW801は素晴らしい空冷星型工ンジンだったが、出力向上の余地がなくなったために、より高空で、より大出力が期待できる列型液冷工ンジンに換装したFw190D(長ッ鼻)シリーズがつくられた。 Ta152シリーズはその発展型でノーズは更に70cm伸ばしたものである。 日本機での列型液冷エンジンの三式戦闘機「飛燕」を星型空冷エンジンに換装した五式戦闘機の逆をいったもので、まるで南の海の“へらやがら”(口の細長い魚)に似た滑稽なプロフィールとなった。

 Ta152Hは雲霞のごとく押し寄せてくる「頭上の敵機」ボーイングB-17や、やがて来襲すると予想されたB-29を迎え撃つために開発された高高度戦闘機であるが、高高度性能を確保するためのユンカース・ユモ213E工ンジンには、2段3速の過給器が装着され、水メタノール噴射(MW50)を利用すれば、高度10,000mでも1,740馬力を維持できる。さらに酸化窒素注入装置GWを使用すれば、さらに14,000mを超える高高度での性能を改善できると期待されていた。

 主翼は、僅かな機動でも失速しやすくなる空気密度の低くなる高空での航空戦に備え、翼幅を延長して翼面積を増し、翼幅荷重と翼面荷重の低減を図っていた。

 敗戦直前の混乱期に登場したためデータは錯綜しているが、このエンジンが噂どおりのバワーを発揮すれば、クルト・タンクが自ら操縦桿を握って10,000mの上空を試験飛行中に遭遇したP-51ムスタングをみるみる引き離したという伝説にも納得がいく。 画はHシリーズの量産先行型となるTa152H-0である。

 Bf109の実機は多くの米・英・独の博物館で見ることができるが、 Fw190を見ることは少ない。米国NASMのウドバーハズィーセンターに 空冷エンジンのFw190F-9が展示されており、これはFw190Aを後に爆撃戦闘機型に改造したものである。 また米国オハイオ・デイトンの空軍博物館には 液冷エンジンに換装したFw190D-9が保管されているという。

 

 ★★奇才エンジニア、クルト・タンク " Kurt Tank " について★★

 1898年生まれ。幼いころより航空に強い興味を持っていたが、17歳で騎兵として第一次世界大戦に出征し2度の負傷を負って勲章を得ている。 前線でも物理と数学の参考書を手放さず、出征中に大学受験資格を取得している。 復員後、ベルリン工業学校に入学し、専攻は電気工学であったが、大学4年の時に飛行力学の講義が再開され、ようやく念願を果たすことができた。

 在学中、タンクはグライダーを自ら設計して飛行を体験し、更に民間飛行学校で小型機の免許まで取得している。一次大戦での兵士の体験、電気工学、航空力学、そしてパイロットという彼の特異な経歴は、後に、フォッケウルフFw 190の成功につながる。(タンクはその後も操縦を続け、4発機の操縦免許までも取得している)

 大学卒業後はロールバッハ金属飛行機会社に入社したが、1930年BFW(バイエルン航空機製造会社)に転職したものの、生産する飛行機の度重なる墜落事故で1年半後に倒産してしまった。

 そして1933年、33歳の時、最高の活躍をすることとなるフォッケウルフ社に再び転職した。 タンクは技術部長となり、フォッケウルフ社の航空機(固定翼)開発を任され、社運はタンクの双肩にかかることになった。 同1933年、ドイツ空軍は、次期主力戦闘機の競作を発表し、フォッケウルフ社は全金属性モノコック構造、液冷エンジン、引込脚のFw 159で応募したが、時代遅れのパラソル翼であったため一次審査で敗退してしまった。

 タンクは苦しくなった会社の経営を立て直すため、1936年の春頃からいきなり4発旅客機Fw 200「コンドル」の計画に取り掛かった。 Fw 200は当時として画期的な大型高性能機であり、1937年には初飛行に成功して、1938年にはベルリンからニューヨークへ24時間56分で無着陸飛行を行ない、その数ヶ月後にはベルリンの空港を日本の立川飛行場に向かって離陸し42時間18分の長距離連絡飛行記録(途中給油着陸)を打ち立て、ルフトハンザ航空に採用され、また政府専用機にも採用された。 この成功により、フォッケウルフ社の名声が高まり経営は軌道に乗ることができた。

  1937年秋、ドイツ空軍省は、操縦が難しく着陸事故も多発していた主力戦闘機メッサーシュミットBf 109一本で戦争を継続することに不安を覚え、フォッケウルフ社にバックアップ戦闘機の開発を打診し、タンクはFw 190をもって、それに応えた。

 Fw 190は1939年から製造をはじめ、順次性能を向上させた改良型を投入し、1945年の終戦の時まで約20,000機が製造され、第二次世界大戦中を通じてドイツ空軍の主力の単座戦闘機であった。 本ページで紹介の高々度戦闘機Ta 152は、大翼面荷重、大アスペクトレシオというタンクの持論がそのスペックに明確に表現されている。 

 

 タンクは戦後も航空エンジニアとしての活躍の場を海外に求め、アルゼンチンの航空技術研究所でジェット戦闘機の開発をおこなったり、インドの軍用機開発にも携わった。 

 その中で1959年頃、富士重工業宇都宮製作所の守衛所の前に突然、ブリストル社の紹介状を持った外国人が訪ねてきた。 

 当時、量産されていた航空自衛隊のジェット練習機T-1Aが装備していたブリストル製オーフュースMk.805エンジンの艤装を見学したいと述べ、控えめに「私はクルト・タンクだ」と名乗ったという話が残っている・・・。 

 

 しかし改めて当時の富士重工業エンジニアに訊ねてみると、その時若手エンジニアを中心にタンクとディスカッションの機会を持てたという。 その印象は、やはり百戦錬磨のエンジニアらしく、技術の話では強力な自論を展開して頑固な一面を見せていたというが、喜々とした若手エンジニアの顔に尊敬の思いが見える。
(これらの写真はその時のスナップで、鼻柱の凹みは自分が操縦していて不時着時の負傷の痕で、彼の特異な経歴を象徴している!) 

 タンクは、戦後米国を中心として世界を舞台に活動していたが、現役引退後はドイツに戻って余生を過ごし、1983年没した。

 

 


[HOME/WhatsNew/NAKAJIMA/KOUKEN/MUSEUM/QESTIONNAIRE]

-