2006年秋、レンタカーを駆ってアメリカ南西部をドライブした。
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TAMAYO の 旅行記 ②
 

【6日目】Gallupのトラベルロッジで朝オフィスにコーヒーを取りにいくと、メキシカンの掃除の女性が、シーツなどを乗せるカートに子供を乗せて仕事をしていた。子連れでもいいの?と聞いたら、もちろん!と言って、子供までもちろんと言うので笑ってしまった。いろいろなところで見かける、働いている女性の姿がカッコいい。自信あり気で満足そうだ。仕事を楽しんでいるのがよくわかる。昨夜遅くこのモーテルにチェックインした。おんぼろキャンピングカーはもう出発したようだけれど、子供を4人つれて、自転車を積んで、多分金曜日の夜だけ遅くなってモーテルに泊まって、今日はどこかで家族でキャンプするのだろう。モーテルに泊まっていると、みんな自分のやり方で自分たちだけの旅行をしている。誰も惨めな貧乏旅行なんて思っていないし、出来るだけお金を節約して旅行することが楽しいのだろう。私から見れば、ちょっとおかしいような人もいるけど。戦争ごっこが好きで、戦車もどきの車で迷彩色のファッションの人。中年のヘビーメタルのおじさん、暑いのに真っ黒の革ジャンだったり、それだって誰も白い目を向ける人もなく、グッドモーニング。自分の生き方で生きればいい。私やYASUHIROみたいなのと同じ。こんな旅行は私たちには普段の生活の延長みたいで、それが出来るなら一生続けても飽きないだろうな〜。入国して6日めで、もう日本にいるよりも気楽になってきた。Albuquerqueという地名はスペイン語だろうか?ある馬鹿記?アルバカーキーに着いたのは午前中だった。AAA(日本のJAFと同じ、提携しているので地図をただでくれたりする)を探して、市内のスーパーマーケットの駐車場で、車の窓を開けてとまっていた白人の男性に、地図を見せて訪ねた。この男性も地図を見つめたまま、しばらく黙っていた。「もう知らないんじゃないの!」と思うくらいじっと考え込んで、それから実に丁寧に教えてくれる。そばで奥さんがピーチクパーチク言うのもお構いなしにじっくり考えている。誠実な人が多いのか、その場しのぎが通用しないシビアな国なのか?こちらに語学力が無いのでよくわからなかったが、パークとかリバーとかの単語を頼りに、そんな雰囲気のあたりにいったら見つかった。探し当てたのはいいけど、土曜日なので12時に終わっていた。今度はモーテルを探して街外れまで行った。フエブロ式とかいうレンガ色の四角い建物がならんでいる美しい住宅街は、東側に丘があり、長い坂道がまっすぐに東西につづいていた。歩道橋は木で出来ていて、街との調和を考えたデザインで、落ち着いた静かなたたずまいによくあう。モーテルを探して、住宅街をぐるぐるまわっていると、芝生に水をまいている奥さんがこちらを見ているので、'ハーイ'というとわざわざ来てくれた。どうしたのと言う感じで・・・・モーテルに行く道を聞くと、地図を見ながら親切に行きかたを教えてくれた、ほんとにいい人だ。モーテルはすぐ近くだった。チェックインしてからマーケットのあるダウンタウンへ行った。やはりこの街も買い物の出来る場所は、巨大な駐車場がある一角にすべてのショッピングセンターが集まっていた。ここにはデパートも映画館もあった。デパートで少し商品を見て、本やCDも見て、食料を買ってまた住宅街へいくと、公園で子供たちがサッカーをやっていた。5歳か6歳くらいの子どもだからルールはわからないみたいで、ただボールを追いかけて蹴っている。親たちは木陰で寝ころんだり、イスに座ったりしてのんびり子供たちを見ていた。何だかずっと前からこの町に住んでいるような錯覚をおこしそうになった。夕方、丘に登っていくと、犬を散歩させている人、マウンテンバイクに乗っている人など、この町に住んでいる人の土曜日の夕方に、西日が強く射していて、アメリカの田舎町の普通の時間の中に身を置いていることが、とても不思議だった。

【7日目】サンタフェのオールドタウンは、古いフエブロ式の建物が中央の公園を囲んでいる。サンタフェには多くのアーティストが集まって、創作活動をしている。広場のまわりのの店は、そのアーティストたちの作品を売っていて、サンタフェアート独特の色の絵、工芸品、アクセサリー、編み物、帽子、革製品、あらゆる商品がアートだ。広場の木々は金色に紅葉し、涼しい風が吹くとベンチに、はらはらとこぼれ散る。広場のあちらこちらに、アクセサリーの店、からくり指物の店、ピスタチオとかきれいな石を並べた店などが木陰に広げられ、店の片側の軒下に、ナバホインディアンが並んで、インディアンジュエリーを売っていた。ほとんどがターコイズと銀の彫金で、武骨な細工だが案外値は高い。広場の外れの小さな店のウィンドウに。ちょっと気に入ったトップを見つけたので入ってみた。How Much?というと、やおらファイルをとり出して、ページを繰る。どうやらアーティストの作品らしい。でも思ったより安かったので、買うことにした。カードでサインすると、「キタムラサン」と上手に発音したので日本人もよくくるのだろう。広場に面して教会があった。サンミゲル教会、礼拝堂に入ってみるとやはりメキシコ風の感じがする。アメリカ人の観光客が帽子をとりなさいと教えてくれた。教会の中でも宗教画の壁掛けや十字架などのお土産を売っていた。今日は日曜日だけど、礼拝に来ている人はいない。教会の隣のカフェテラスでコーヒーを飲んでから、また街をぶらぶらした。店の裏側の道は、アトリエ、ワークショップ、画廊があり、街角には彫像が立っていて、古い彫刻のある扉ばかり集めているアトリエもあった。サンタフェは、街全体が芸術作品のような街だった。北の方は、チマヨ、タオス、フエブロ、アビキュー、ゴーストランチなどネイティブの街が点在しているらしい。フエブロというのはメキシコインディアンだとか?なんかの本で読んだが、キバと呼ばれる、儀式用の建物と言うのか、何だかわからない石段のついた土の塊みたいなのや、ズニ族の儀式用の衣装などを見ると、《一万年の旅路 Walking People 》に出てきた太陽の民のような気がする。あの一族も太陽のような大きなペンダントを首から下げて石を積み上げたり、土をこねまわして、何だかわけのわからない建物みたいなものを造っていたと書いてあった。ゴーストランチまで行って見たかったけれど、2日程余分にかかってしまうので、Santa Rosaへ向かった。そこから84号を南下して、Fort Sumnerへ向かう。もうメサも現れないし、大地に深く切り込んだ亀裂も見えない。一面の牧場地帯だ。地平線まで牧場以外何もない。馬も牛も遠くに時々群れているだけで、飼育されているようには見えない。そんな何もないところに車を止めて写真を撮っていたら、故障と思ったのか、通り過ぎた車が止まって、若い女性が降りてきてくれた。写真を撮っていると言うと、そのまま走り去った。ほんとに親切な人が多い。もっともこんな車も通らない何もないところでは、助け合うことが必要だと思う。Fort Sumnerは日曜日ということもあって、全く人の気配がなかった。何を売っているのかわからない小さな店が数件あったが、休みのようで、モーテルが2軒とあとはガソリンスタンドだけ。あと普通の民家が数件まばらにあるだけ。まるで牧場の中にちょこっと人がかたまって生活していると言うような街だ。Fortだから砦があったところらしい。その砦には牢獄もあって、昔インディアンたちがアメリカ中から連れてこられてここにつながれ、獄死した人も多かったという悲しい歴史もあるところだ。ここは今まで訪れた街の中で一番小さくて静かな街だ。モーテルの隣が《ビリーザキッドミュージアム》30年ほど前にサムペキンパー監督の映画《ビリーザキッド》でボブディランはエイリアスという少年の役を演じていた。当時30歳は過ぎていたのに本当に少年のようだった。この映画の中で名曲《天国の扉》が生まれた・

【8日目】朝窓のカーテンを開けて、食事をした。窓のすぐそばに小さな家があり、その向こうはずっと牧場だ。本当に静かないい処だ。9時少し前だったが《ビリーザキッドミュージアム》へ行った。ここも私だけシニア割引料金。ビリーに関する展示はそれほど多くはなかった。それはそうだ、21歳の生涯なのだから。21歳までに20数人殺した天才シューター・ビリーはわりと裕福な家に生まれたようだ。まず最初にビリーが殺された日の新聞が展示されていた。「ビリーが死んでよかった。みんな喜んでいる」という記事と、ふっくらとした少年のような、ビリーの死に顔の写真が載っている。口を少し開け、一筋血が流れていたが、目は軽く閉じられ、眠っているような顔だった。こんな子供のような奴だったのかと思った。生前の写真や絵もあったが、首をちょっとかしげイキがっている。暴走族の兄ちゃんというような風体だ。missingの似顔絵も何枚か展示されていた。本名(ウィリアム・ボニー)多分、一人殺しお尋ね者になり、逃亡するために次々と人を殺したのだろう。ビリーが使っていた小さな鍋や調理器具もあった。こんなもので一人で食事を作りながら荒野を逃げまわっていたのか?寂しかっただろうな〜。ビリーを追っかけていた保安官はいい顔をしていた。ビリーはここからずっと北のデュランゴで殺された。そのビリーのお墓が何故フォートサムナーにあるのかわからない。このミュージアムはアメリカアンティークの宝庫だ。幌馬車、農機具、工具。洗濯機の移り変わりには笑ってしまった。映画の中でアーミッシュガ使っていた手間しドラムはわりと新しいほうの型だ。ストーブ、タイプライターカメラ、通信機、いろいろなものが展示してあった。FortSmunerから84号をテキサス方面へ向かう。途中テキサスとの州境に近いところで郵便局を見つけて、YASUHIROは日本へはがきを出した。ここの郵便局には中年過ぎの女性がたった一人。とてもかわいいおばちゃんで、写真を撮らせてくださいと言うと、快く承諾してくれた。窓口の鉄格子を気にして、なにか言ったいた。「まるで私牢屋にいるみたいでしょう」とか言っていたと思うけれど、よくわからない。YASUHIROも私もそうそうとうなずきながら写真を撮らせてもらった。good luckそしてさようなら。車に乗ってから、あの人はびっくりしただろうねとYASUHIROと笑ってしまった。あの郵便局に日本人がハガキを出しに来るなんて最初で最後の出来事になるねきっと・・・・・・まるで宇宙人のような気分だ。テキサスの州境を越えるとすぐに、大地が真っ黒に染まっているように見えた。牛の群れだ。その向こうに工場のような建物があり、そのまわり四方地平線まで牛の群れで埋まっている。いくつかの柵に分かれているが、それぞれの柵に数百頭の牛が入れられ地平線の彼方から、なにかに追われるように、一列になって牛が駈けてくる。中の道には、牛を運ぶ大きなトラックが砂ぼこりを舞いあげながら、しょっちゅう出たり入ったりを繰り返している。YASUHIROが車を降りて柵すれすれでカメラを向けると、みんなこちら側に集まってきて、首をふりふりこっちを見ている。群れの奥で牛たちは(多分もうすぐどこかで処分されると言うのに)繁殖行為に一生懸命だ。煙の上がっているあの工場みたいなところで、体を洗われ、トラックや汽車に乗せられ、牛たちは競りにかけられるのだ。それにしてもこの何万頭もの牛をみんな食べてしまうのか。まだ若いかわいい顔の黒毛牛だから、おいしそうと言えば言えるけど・・・・・ここから少しUS40に向かって走って、ガソリンスタンドのコンビニへ行くと、学生の団体がいてハンバーガーやホットドッグを食べていたけど、何しろ蝿が多い。外にすてられた食べ物のパッケージに真っ黒に蝿が群がっている。車のドアを開けると蝿が入ってくる。テキサスの牧場のゲートは、時速120kmで走って30~40分おき位にあるのだからすごい広さだ。途中、綿畑だと思うけれど、巨大な散水機がいっぱいあったので、車のメーターで測ってみると、なんと1kmもあった。何もかも大きい。このあたりから道の両側に恐竜の看板が出てきた。博物館があるようだ。US40に出てからは一気にAmarilloへ向かった。Amarilloは天然ガスが出るとかで、裕福そうなわりと大きな街だ。AAAを探すために、またもや住宅街をぐるぐる廻ってしまった。ミッションスクールやミュージアムのある大きな住宅街を車でゆっくり廻っていて、警備員のような格好をした人に道を尋ねると、「学校へ来たのかね?」と聞かれた。紳士的な人で丁寧に教えてくれて、行ってみると最初道を聞いたブティックの前にあった。そこで地図をもらって、有名な《ビッグテキサン》というステーキはウスに行くと、入り口に年配のカウボーイスタイルの男性が4~5人たむろしていた。ドアを開けてくれたからこの店の従業員らしい。吹き抜けの高い天井の、まるで西部劇の映画さながらの店内は、ウェイターもウェイトレスもみんなカウボーイスタイル。席についてふと窓の外を見ると、テキサスのやくざ風の男が、子分を連れてやってきた。隣の席の夫婦はよく食べる。何だかわからないが、次から次へといろんなものをたいらげているので、見ているだけで胸がいっぱいになった。二人とも200キロ位ありそうな体形だから必要なのだろう。でも今まで出会った中年のアメリカ人はみんな太りすぎだ。アメリカ人はたばこを吸わなくなったけれど、たばこより太り過ぎの方が問題だ。店を出てから写真を撮っていると、店の前にいたカウボーイがリムジンに乗って出ていった。お客さんを迎えに行くらしい。さすがに馬車ではなくリムジンで・・・・アメリカの田舎者の来るレストランかも知れない。アマリロは落ち着いた美しい街だが、貧困がみえないと言うのも何となく不自然で、価値観が一つしかないような窮屈さもあって、泊まる気にはならなかった。まだ陽が高かったので、またUS40にのって、Oklahomaへ向かった。すぐに日が暮れてきた。アメリカの大型トラックの運転手は落ち着いたしっかりした運転で、マナーがいい。日本のトラックの2倍位ありそうな巨体なのに、少しも邪魔な感じがしない。アメリカで一番カッコいい男は、大型トラックの運転手かも知れないな〜・・・なんて思っていたら、ハイウェーパトロールがキラキラ光らせながら後ろにいた。GroomとAlanreedの中間くらいだったろうか?なんで?と思ったが仕方ないので車を寄せて止まった。「Can you speak engrish」「No」この会話何となくおかしいのだけれど・・・・「ライセンスとパスポートを見せなさい」何で止めたか教えてくれない。懐中電灯を顔に照らしながら、「スピードダウン、ダウン」と言って行ってしまった。メキシコ系の顔をしていた。走りながら「さっきあいつ横に並んだから、追い抜くのかと思っていたら、急にスピードを下げて後ろについたから、へんな運転する奴だと思っていたけど、多分オレゴンナンバーの車に、東洋人が乗っていたからなんか調べておきたかったんやろ。職務質問みたいなものや」とYASUHIROがいった。陽が落ちるとフリーウェイを走っている乗用車はめっきり少なくなる。ほとんどアメリカ人の乗った仕事用の車。だからShamrockで降りて、Route66沿いのモーテル《Route66モーテル》に入った。このモーテルのおじさんはメキシカンの面白い人だった。日本でもよく見かける気さくなおじさん。私たちが、スモーキングルームと言うと「もうこの頃は誰も吸わないんだよ。アメリカってのはそう決めるとみんなやめちゃうし、またなにか別のことで逆になったら、みんなどっとそっちへ行くだろう?」みたいな感じ。「このモーテルは1948年にアメリカ人が建ててんだよ。だけどアメリカ人はもう誰もモーテルなんかやりたくなくって、それを買ってこうやってきれいにしてさ、やってるわけよ」だいたいこんな感じだと思うけれど、よくしゃべる。えっ?1948年?うっそ~でもバスルームの壁にはめ込まれたアンティークのヒーターを見ると本当かもしれないと思った。テキサスに入ってから急にむし暑くなって、ここは特別暑かった。でもバスルームにヒーターがあるくらいだから、寒くなったらまた特別寒いのだろうか?

【9日目】 Oklahoma州に入ると緑が多くなった。日本のちょっと広い農場の風景とそんなにかわりはない。農場の散水機もテキサスの程長くない。アリゾナの異様さに慣れてしまって何だか物足りないほど日本的だ。Route66の方がきっと面白いだろうと思いながら、US40を走り、早い時間にモーテルに入った。すこし古いけれどデラックスなモーテルだった。オフィスのインド人の女性は頭のよさそうな人で、ショッピングセンターやオフィス街への道をテキパキ教えてくれた。オクラホマシティーは風の街。北からも東からも南のメキシコ湾からも風が吹き込み渦を巻いている。この日は湿った熱い風が吹いていて、ショッピングセンターの中まで、木の葉が舞い込んでいた。YASUHIROはアメリカンイーグルと言うジーンズのブランドが気に入って、ジャケットや帽子を買った。オクラホマのショッピングプラザは、横浜のランドマークプラザとほとんど同じような感じだった。3階は広いファーストキッチンで、メキシコ人、インド人、イタリア人がそれぞれ店を出していた。「一番」と言う名のすし屋まであった。日本の留学生のような子も結構いたけれど、小さい子にはやはり日本人は珍しいらしい。じろじろ見たり、怖そうに親のスカートの後ろに隠れながら、見ている子もいた。食事をしてから、オフィス街へ出かけてみた。突き当たりに何だか不気味な灰色の壁があった。モーテルの人がウォールと言っていたのはこのことらしい。街のシンボルにするために造ったただの壁のようだ。5時を過ぎていたので人影もまばらで、公園をジョギングする人がいるくらいで静かだった。ちょうど40年前の丸の内のようで、古い立派なビルが並んでいた。ある古いビルはちょうど修復中だった。元のままの姿を残して修復している。丸の内もこの街のように、使えるビルなら使い続ければいいのに、と思った。今はもう上にのばしただけの安っぽいビルしかなくなってしまったけど、40年前はちょうど今のオクラホマシティーみたいに、ゆったりしたオフィス街だった。仕立てのいいビジネスマンがすれちがう時「ハロー」と微笑んだ。やっぱり黙って通り過ぎるより楽しい気分になる。「ハロー」とこっちも、ちょっと笑った。

【10日目】オクラホマのTVのお天気チャンネルは、朝からトルネード情報をやっている。4月のトルネードはもっと北の方だったのだろうか?2~3日前から北朝鮮の核実験のニュースも大々的にやっていた。私たちがアメリカについてそれまでは、アーミッシュの少年が殺されたニュースばかりだったが、それどころではなくなったようだ。私たちもそろそろ折り返し地点だと覚悟を決めた。YASUHIROがもう一度Grand CanyonのDesert Viewへ行きたいと言うので、ラスベガスからフーバーダムを見て行こうということになった。もう少しいたかったが急いでテキサス方向に向かった。オクラホマのRoute66はすごく興味があった。Route66を走って Elk CityでRoute66 Museumへ行った。昔の(60年代)鉄道の駅、床屋、病院、銀行などがあった。クラシックカーも展示してある。農機具とかいろいろな鉄条網、など、主に農場で使うものを展示しているところの受付の女性は、黒人のカッコいい人だった。私はここでアメリカの赤い大地の土を微粒子の粉にした染料を買った。この土を見るたびに異様なメサや、美しい赤い大地の風景を思い出すだろう。このミュージアムは色々なパートに分かれているのだけれど、その各受付には必ず女性がいる。それが見事に適材適所、落ち着いたおばさん、派手なおばさん、黒い人、白い人、たとえば農場にはさっきの黒人女性というふうに・・・・みんな楽しそうに働いている。US40で テキサスに入って、少し走ったところのレストエリアで休憩しようと車を降りて、ベンチに座ろうとすると、さっき車を降りる時に挨拶を交わした老夫婦が、こっちへいらっしゃいと呼んでくれた。テネシーに住んでいて、これから途中一泊してフェニックスに行くと言う。奥さんの時計はもうアリゾナ時間に合わせてある。(家からずっとアリゾナ時間だったようだ)2時間の時差があるのだ。奥さんは明るく楽しそうにしゃべる。「私の息子の奥さんはフィリピーナよ」「あたしは両親ともイタリア人で、夫は1/4チェロキー族の血が流れている。もう結婚して60年になるのよ」YASUHIROが「ぼくたち30年」「あらまだまだよ30年なて、だってこの人80歳なのよ」うーん80歳で車で2日の行程を当たり前のようにドライブしている。80歳の夫、いきなり私の方を向いて「あんたコームヘアーはすきかい」私「コームヘアー?」夫「うん」と言って、髪をオールバックにかきあげるしぐさを見せる。私はまだアメリカのコームヘアーを見たことがないので、「わからない」後で、多分リーゼントのようなヘアースタイルかな?と思った。そして多分コームヘアーは気に入らないのだろう奥さんが「だんだん頑固になってねー」みたいなことを言っていた。(だいたいこんなとりとめもないことを、英語と英単語でやり取りしながらコーヒーを飲んでいた)でも若い。うらやましいな〜私たちも80歳になってこんなふうだったらいいな〜心を残しながらさよならと言ってまた車に乗った。来る時にハイウェーパトロールに捕まったあたりの出口から、またRoute66を走ることにした。綿畑のある、真っすぐに続いている細い道や、その果てに有る小さな家や地平線を写真に撮っていると、赤いピックアップトラックが通り過ぎた。そして家の方に行くその細い道をだいぶ行ってから戻ってきた。目の前に郵便ポストがある。多分あの車にはそこに住んでいる人が乗っているのだろう。挨拶くらいしておけばよかった。私はわざとらしく体操なんかして車が来るのを待った。ボンボンみたいな顔をしたお兄さんが、「何してるの?」YASUHIROは「ピクチャー!!!」などと言っている。行きなりズドンと来られてはたまらない。私は「Big Farm Beautiful」とか知っている単語を並べておせじを言った。お兄さん思わず「サンキュー」と言いそうになった言葉を飲み込んで、でもうれしそうに、またトコトコ車で家の方に帰って行った。「知らん振りしてたのはまずかったなー」とYASUHIRO。確かに日本では誰もが見て見ぬ振りをすることが一つの礼儀であったりする。アメリカに来てから、身についてしまったその態度が、たまたま出会った、行きずりの人を不愉快にしていることがあるのに気づいた。オクラホマのオフィス街だって、ビジネスマンが、目が合えば「ハーイ」「ハロー」と言っていた。日本人もそれをやったら、みんな明るい顔になるのかも知れない。テキサスのこのあたりは、アリゾナやニューメキシコみたいに観光地ではないから、他人の家に土足で入り込むような態度に気をつけなければいけないと思った。アマリロのウォールマーケットの駐車場には、今日もアメリカの国旗が数十本もひるがえっていた。オクラホマもアマリロも国旗を揚げるのが好きな人が多いらしい。ニューメキシコの州境で、ビジターセンターに寄るつもりでいたら、そこを過ぎて、Glenrioの廃村にでてしまった。アメリカでは日本ではめったに見られない廃屋や廃村によくお目にかかる。廃虚、廃村に安らぎを感じるが、人の死に感じるのと同じようなものか?アメリカンドリームが廃村をつくるのか、住宅事情がよすぎるのか?この日はTucumcariに泊まった。一度モーテル6にも泊まってみようということで、US40を走っていると看板が見えたので泊まったというだけ。少し部屋は狭いが、清潔でこれで充分だと思った。一泊42$52¢

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