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寝室は縁側に出られる作りにはなっておらず、庭に面した部分は壁に作り付けの低い棚があるだけだったので、居間との境の襖が閉じられると、日の落ちかけていた時刻の部屋はほとんど真っ暗になった。
その小暗い中、山上は音を立てて押入れの襖を開け、少々乱暴に床布団を引きずり出して広げた。

「……」
はっきりとした原因はわからないまでも、自分の言動が山上を怒らせたことを少年は感じていた。
たぶん山上は盆の時のように自分を抱くのだろうが、このままそれに従うべきなのか…
(ゴウトが考えていたのが、交わりで心の毒を抜くという意味ならば、山上さんはその意図を読み取って、したくもない交接をしようとされているのだ…)
そんな義理は無い筈の山上がなぜゴウトの計画に沿うような真似をするのかといえば、それは決まっている。
(やはりあの事で、責任を感じられているのだ…)
少年は敷かれた布団の脇に膝を落とし、両手をついて頭を下げた。
「申し訳ありませんでした。これ以上のお気遣いは無用です。意に染まぬお振舞いはおやめ下さい」
「…?」

帯を解こうとしていた山上の手が止まり、それまで見ずにいた少年の方に目が向けられた。
「あれは、事故でした。自分も忘れたことです。山上さんにこれ以上ご尽力をいただくわけには参りません」
「君は…」
顔を上げると、山上は奇妙な目で少年に目を当てていた。
眉をしかめ、怒り出しそうにも、笑い出しそうにも見える。
ややあって、
「狐くんのことを、もう忘れてしまったのかい?」
今までには聞かれなかった、低く重みのある声音で尋ねた。
「……」
虚を突かれ、少年は意せずして身体を後ろに引いた。

「そんなわけ、ないよね?」
少年を追うように山上は身体を落として近づいた。
「総代としての名誉よりも、大事にしていた友達だろう?僕はあの時少し怒ったけれど、本当は君たちが羨ましかったんだ」
優しさの戻った声が響く。
その優しさが、少年のかばおうとしていた柔らかい部分に触れたようだった。
「…自分は、もう子供ではないのですから…忘れないと…」
言いながら、自然に目線が膝に落ち、言葉がつまる。
(だから、避けなければいけないと思っていたのに…)
これ以上何か口にしようとすることは危険だった。
少年は立ち上がって、今度こそ辞去しようと背を向けたが、またしても同じように素早く立ち上がった山上に後ろから絡め取られた。
「ご…ご勘弁を…」
聞き逃しようもない自分の声の震えに少年はうろたえたが、山上の手は緩まなかった。
「今は…我慢しなくていい」

途端、堰が切れたように涙が抑えられなくなり、そのことでまた神経が高ぶり動揺する少年を、山上は夜泣きをする赤子をあやすように抱き、黙って背中を撫でた。
漏れ出そうになる嗚咽を必死にこらえるが、身体の不規則な痙攣は隠しようがない。
どんなに呆れ、軽蔑されているかと思うと、少年は我が身が情けなかった。
だが山上の声はあくまで優しかった。
「大人になれば悲しいことを簡単に忘れられると思っているのかい?大人は決して泣いたりしないと?」
言いながら山上は指で少年の頬をぬぐい、濡れた睫や目の縁に唇を付けた。
「そんな風に思っているのだったら、君は子供なんだよ」
笑いを含んだ声で言い、
「そして、子供は素直に大人の言うことに従うものだ」
「……」
耳元で響く声に、何の術をかけられているわけでもないのに、少年の身体は芯が溶けたように力を失った。

***

素肌に触れる敷布のひんやりとした感触が、高ぶっていた神経を少々宥めてくれた。
それと共に、感情を露出した後の身体全体に残るぼんやりとした鈍さは、少年に不思議な陶酔感を味わわせた。
自らも着物を脱いで後、しばらくそんな少年の顔に目を当てていた山上は、ゆっくりとその唇を少年の口と合わせた。
「……」
遠いところで駆り立てられる感覚がある。
しかしそれはまだ膜一枚隔てた向こうのようだ。
山上にもそれはわかっているようで、その唇は瞼や頬を這ったり、耳をくわえたり、顎の下を吸ったりと、のんびりと遊ぶように動き回る。
同時に掌は背中や腰、腿などをせわしなくさすっている。
それは犬の仔が共に生まれた同胞と無邪気にじゃれ合う様に似ていたが、やがて、片方の手が少年の手を取り、熱い箇所へと導いた。

「してくれる?」
少年はうなずいて、握ったものをゆっくりとさする。
抱いたまま布団の上で身体を転がして、少年の身体が山上の上に乗せられたので、少年はそのまま身体をずらして、手だけでなく唇や舌を使って務めをする。
徐々に山上の息遣いが荒くなる。
「この間は、可愛かったけれど、今日は、綺麗だ」
かすれ声でそんなことを言う。
そういう言葉も少年にはいまだ紗幕の向こうのようで、答えられずにぼんやりと笑みを浮かべてみるのが、また山上の興をそそるらしい。
「そのまま、乗ってごらん」
少年は言われるままに身体を起こし、山上の上に跨る。
慣れぬ身の振る舞いで、相手の身体も意図せず動いたりもするので最初は少々手こずったが、やがて落ち着くべきように落ち着いた。

「動いて。…ゆっくりで、よいから」
山上の片手が脇から腰に添えられ、もう一方の手がまだ軟らかさを残す少年のものに伸びる。
「……」
自然に息が漏れ出す。
自分の中で熱が上がり出すのが感じられた。
山上の手の動きに従って、膜が剥がれていく。
遠いどこかであちらこちらに生まれ、それぞれ一人勝手に潜んでいた芽が、急に気を揃えて同じ速さで育ち始めたような、そんな感覚がある。
山上もそれを感じるのか、満足そうな笑顔を見せる。
激しくなる動きの中で、覆いかぶさるようにもなる少年の胸や喉が吸われ、手の動きが速まる。
もう、膜はない。
山上の目に優しい許諾の色を見た少年は、そのまま上りつめた。

***

「まったく、葛葉十四代目は良いお目付け役を持ったものですね」
「なに、長く生きていれば多少の智恵も付くというだけのことさ」

山上は更に返しを言おうとしたらしいが、結局は口を閉じた。
敏い男であるから、自分の敗北はとうに認めていて、今日はただ愚痴を言いに来たのであろうと黒猫は察していた。
(鳴海といい…そういう巡り合わせなのか、俺は)
どちらも、他に事情がわかっていて何でも言える相手が他にいないのである。
それならそれで互いがそういう相手になればよいと思うが、今のところはどうもそうはいかないらしい。
それなので、少年の登校中の、人気の無い多聞天での貴重な昼寝の時間がこのように、休暇中の山上によって潰されているのであった。
(まあこっちは、俺の言葉もわかる分楽ではあるが…)

「あなたは…ご存知だったのでしょうね、僕の彼に対する思い…単純ではない、アンビバレントな感情を」
「異国の言葉はよくわからんが、どこの国でも人の気持ちというものはそうそうは変わらぬようだからな」
「異国…僕の外見のことで、そう言われるのですか」
山上は珍しく、眼鏡の奥の目を少し細めて聞いた。
「今は当てつけとして言ったわけではないが、それがお主の心持ちの根にあることは、自分でもわかっておられるだろう?」
「……」
まだまだ西洋人が奇体な目で見られる時代である。
「本物」の西洋人ならばそれはそれで一目置いて見られるということもあるが、山上のような、明らかに西洋人と日本人の両方の血が混じっている風貌は十分に興味、嘲笑、軽蔑などの対象になり得る。
普通一般の世間でそうなのに、それが修験の一族という、古来よりの日本の道を究めるべきとされる世界にあって、山上がどんな思いをしてきたかは、多少想像はついたとしても、本人以外にはわからないものだろう。

「…まあそれが、ある意味励みとなって、力をつけることが出来ましたがね」
という言葉は真実だろうが、だからと安心して口元に浮かんでいる歪んだ笑みを見逃してはなるまい。
その頑ななまでに育った強い向上心が精進を尊び、俗に交わることを恐怖させ、更に里で初めて少年を見た結果、盆の出来事が起こったのである。
「汚らわしい一族、目下の者だと思うのに、あの、まったく、そのために生まれてきたといった様が…。自分には決して得られないものだと、改めて思い知らされました」
羨望、憧れと表裏一体の嫉妬と憎しみ。
カゲ狐のことは心から後悔して済まなく思っているが、少年に対する思いというものはまた別の場所に残った。
「手に入れて、優しく弄んで、最後には壊してやりたいと、思ったのですがね」
挑むような顔つきだったが、ゴウトは目を細めた。
「そう悪ぶらんでもよい。つまるところは、惚れたということだろう」
簡単に言ってやると、山上は絶句した。

「そこまでわかっていて、僕を慰め役に当てたのですね。これだから…」
「年寄りは、と言いたいのだろう?」
一人と一匹は笑った。
一人は諦めたような苦笑、一匹は翳りのない満足げな笑いだった。
それでもその役を見事に務めてくれた青年に礼は尽くすべきだろうと、黒猫は胸のうちを語った。
「あいつには、感情的なしこりが出来た時、甘えられる目上の人間も、共に馬鹿をやって忘れられる友人もおらんのでな、今のところ…」
「あなたもあの所長も、その気になればだいぶん、甘えさせてやれるように見えますが。それに、慕っているという人も別にいるのでしょう?」
「それは、あれが何かとことん心弱りでもして、そうでもしなければ任務遂行に支障が出ると自覚したならばそういうこともあり得るが、ちょっと滅入ったくらいで上司に頼ろうなどという考えは抱くまいよ」
「ふん、それで、僕なのですね」
山上は立ち上がり、軽く背広の裾をはらった。
「今日も探偵社には寄らんのか」
「もうしばらく、遠慮しておきますよ。お二人が長い任務に出た後に、三鞭酒の瓶でも持ってお邪魔しましょう」
「それが、平和だな」
ゴウトは笑って門に向かう青年を見送った。

***

本郷の病院の門をくぐった少年は、受付で聞いた三村の病室へ向かった。
やっと意識を取り戻し、容態が安定したということで、僅かなら面会も許されるようになったということだ。
軽くノックをして部屋に入ると、三村は眠っていた。部屋には誰もいない。
少年は少しほっとした思いで、鞄からノートを取り出した。
(これを置いて、帰ろう…)
そう思った時、
「葛葉…?」
微かな音で目が覚めたのか、三村の目が自分に向いていた。
「……」
少年はすぐには言葉が出ず、ただ肯いた。
それから、
「ノートを…授業の、ノートを。写してきたから…」
やっと言って、ノートを脇の棚の上に置いたが、返事は無い。

ひたと当てられ続ける三村の視線に、少年はまた言葉に詰まる。
それでもようやく、こう言った。
「君が治って学校に来られるようになった時、自分はたぶん休んでいる…事情で、少し長く出られない。だから…」
三村は黙ったままだ。
「だから…その時は、君がノートを取っておいてくれると、嬉しい」
三村の顔に驚きが浮かんだ。
しばらく互いの顔を見合わせた後、やっと三村が口を開いた。
「僕で、いいのか」
「頼む」
三村は小さく肯いた。
「わかった」
「助かる」
「あまり上手な字じゃないけど」
「お互い様だ」
少年たちは学生らしく短い言葉を投げ合った。

少年が暇を告げると、最後に三村が言った。
「…気をつけろよ」
少年は微笑んで肯いた。
「有難う」
三村は少し妙な顔をした。
(…?)
「俺にその顔があったらな…いや、忘れてくれ」
「ああ…?」
学友も山上も、時折自分にはわからないようなことを言う。
鳴海やゴウトがいつも言うように、サマナーとして成長するには、もっと世間に通じなければならないのだろう。
(今度行く世界で、それが役立つのかどうかはわからないが…)
夕方の空に浮かんでいた月を見ながら、少年はそんなことを思った。






-the end-



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