階段に足をかけた時から既に上方に漂う強く邪悪な気が感じられた。
少年も山上も身に付いた作法で足音を殺しているが、悪魔が相手であればもう存在を感じ取られていると思った方がいいだろう。
そうとあれば真っ向から勝負を挑むだけだ。
少年は一気に階段を駆け上った。
階段を上った先は墓地の中だった。
(以前にも来た外国人墓地か…だが、現界では、あのような物は無かった筈)
と、ゴウトの注意を引いた物は墓地の真ん中に描かれた魔方陣だった。
回りには間隔を置いて火がゆらめき、ペンタグラムの描かれた札があちこちに貼ってある。
五、六体の人影が見えているが、操り人形のようにふらふらとゆらめくばかりで、特に近づいてくるようでもなければ、逃げる様子も見せない。
こちらに気づかない距離ではないが…
「あれらはたぶん下僕代わりの死人だろう。邪魔をしてくるもの以外、構うな」
倒すべきは使役している悪魔本体である。
魔方陣の向こうにそそり立つ、山羊の頭に羽の生えた毛むくじゃらの悪魔がご本尊のようだった。
脇には人に甘い夜の夢を見せて誘惑する美しい女性悪魔や、その男性版の悪魔たちが控えており、その後ろには十人ほどの人の姿があった。
(あの悪魔共が、人間に化けて犠牲者を釣って来たのだろう)
人々は老若男女様々な取り合わせで、洋服の紳士もいれば着物の婦人もいる。
その中に少年の制服と同じとおぼしき学生服姿がある。
(あれが三村らしいが…)
立ち姿はしっかりしているようだが、こちらを見ても特に動きが無いのは何か術にかかっているか、薬のせいなのだろう。
(やはりこの、黒弥撤が「おはこ」の悪魔を倒さんと話にならぬようだな)
その悪魔は落ち着いた口調で語りかけてきた。
「デビルサマナーか。今なら見逃す。邪魔をするな」
「まず、誘拐した人間を返せ」
少年は真っ直ぐに悪魔を見据えて言う。
「誘拐だの返せのと何を言い出すやら。あの者共は自らやって来たのだぞ」
悪魔は可笑しそうな口ぶりで答えた。
「たばかりを言うな。好んで悪魔に近づく人間がいるわけがない」
きっとなって返す少年を見て、悪魔は更に笑った。
「それがいる、というのが人間の面白いところだが、忠義一筋のサマナーにはわからんか…」
「何?」
「まあ聞くのだ、国家治安の飼い犬…いや、狐よ」
「悪魔にしゃべらせておくのはよせ。詐術にはまるだけだ」
ゴウトが少年に注意すると、悪魔は邪悪な笑みを浮かべて黒猫に目を向けた。
「おまえは…相当の年月、人の来し方を見てきているくせに、知らぬふりをするか?都の文明が殷賑を極め輝きを放つ程に、人の子の魂は澱んでいくことを知らぬわけでもあるまいに」
「……」
「今、異国の文化が巷に溢れ、その恩恵を多大に受く層がある一方で、その豪奢を目の当たりにしながら自分では手に入れられぬ者たちが数多くいる。知らなければ働き蟻の心で犬の如く働いていられるが、隣でそれを楽しむ者がいれば、手に入らぬ美酒を求めて渇くしかない。満たされぬ渇きに疼く者が求めるのは…」
悪魔の目が煌いて、再び少年に向けられる。
「力を与えてやれる我々だ。サマナー、おまえの出番ではない」
「何を…」
言い返そうとした少年に、
「そうだ、そうだ」
「俺たちは、自分でここに来たんだ」
後ろの「被害者たち」が声を上げ始めた。
「悪魔と知った時は驚いたけど、取って喰われるわけじゃない」
「不思議な力をくれたのよ」
「これからお呼びする方は、もっとすごい力をくれるんだって」
「何も損はしないんだから、ほっといてくれよ」
人々は口々に語り、その目は異様に輝いている。
「……」
「十四代目!」
困惑のあまりか、声を失った少年に、ゴウトは活を入れた。
「闇に惑わされている者の言葉を深く聞くな!闇を討ち、光を顕すが我らの務めであるぞ!」
少年は、はっとしたように黒猫の翡翠の瞳と目を合わせると、瞬時に胸元のホルダーから管を取り出し、二体の仲魔を呼び出した。
翡翠色の霧から現れたのは、江戸時代の小娘の顔が鶏に乗った火を使う悪魔と、体中に巻きつくツルバラだけが衣装の西洋美女悪魔、こちらは氷と回復が得意技である。
少年と仲魔たちは間を置かず悪魔たちに攻め寄った。
少年は常に仲魔たちの位置や状態をうかがい、適切な指令を出す。
黒弥撤悪魔の得意な呪殺も、色情系悪魔の誘惑も効かない仲魔たちであるから、少年は主に自身の防御に気を配り、隙を見計らって鋭い刃を浴びせていた。
敵が強い技を使いそうな時には隠し身で仲魔をかばいながら攻撃を避ける。
二体同時召喚は盆の後の演武の儀で力量を証明してようよう許された技で、上手く使いこなせるものかと少々危ぶんでいたゴウトだが、杞憂だったようだ。
一方山上は素早く人々の方へと走り、戦闘に巻き込まれないよう後ろへ下がらせていた。
(…全体の位置がきちんと見えているのだ)
見事な共闘ぶりに、ゴウトは感心した。
「やめろ、やめてくれ、葛葉!」
最後に残った山羊頭の悪魔にとどめを刺そうとした時、人々の内から学生服が飛び出した。
その手から放たれた光が少年の刀を弾いた。
「三村?」
「これは俺の、俺たちの希望なんだよ!」
三村は悪魔をかばうように、素早く刀を拾った少年の前に立ちはだかった。
「……」
「おまえなら知ってるだろ、俺は学校じゃ成績も振るわないし、得意なことも無い…このまま学校を出たところで、どこか地方で教員でもやって、つまらない人生を送るだけ…でも、この悪魔は俺にこんな力をくれた…この後は、もっと…」
「三村、聞いてくれ」
三村は遮るように少年の前に手をかざした。
「おまえにはわからないよ。そんな顔で…すごい力持ってて…学校でだって何か特別扱いで…俺とは全然違うんだよ。もう、構わないでくれよ」
「三村…」
少年は刀を下ろし、三村に一歩近づいた。
と、まだ息の絶えていなかった悪魔が身体を起こし、三村の背後から死の呪文を放った。
反射的に構えた刀に、呪文の衝撃でよろめいた三村の身体が突き刺さる。
「三村!」
好機とばかりに悪魔は、少年に体勢を直す暇を与えず今一度呪文を唱える。
しかし更にその背後から一陣の風が襲った。
「ぐおっ…これは…」
悪魔の身体を縛るように何枚もの霊符が取り囲み、光を放った。
その光の中、悪魔は塵と化し、くずおれて消えた。
「大丈夫か!」
少年に走り寄る山上の手に見えたのは、輝く扇だった。
(破魔の霊扇で弱点を突いたか…我らには使えぬ術だ)
「自分は…しかし三村が」
青くなっている少年に、
「まだ息はある。動かさないで…」
山上は血の染み出している胸部に手を当てた。
その部分がぼおっと光り、血が固まった。
「これでしばらくは大丈夫だが、とにかく早く病院に運ばねば…」
見回すと、墓地の隅に光る場所があった。
「助かった、あそこに出口が出来ている」
この場を支配していた悪魔が倒されたからなのだろう。
山上は三村の身体をゆっくりと抱き上げ、振動を与えないよう気をつけて歩き出した。
少年とゴウトは当然その後に続いたが、従うべき主のいなくなった人々もいそいそと付いてきた。
「見まして?あの悪魔、あの学生を盾にして…」
「ひでえやつだ、やっぱり悪魔は悪魔だ」
「言うこと聞いてたら俺たちも何されるかわからなかったな」
(身勝手なことを…まあ、正解だが)
ゴウトは半分は呆れ、半分はそのたくましさに感心したが、山上のすぐ脇を歩いて三村の様子をうかがう少年にはそんな声は耳に入っていないようだった。
現界に出てすぐに目に入った教会に三村を運び、とりあえずそこに医師を呼んでもらったが、治療の設備が足りないということで医師の車で大きな病院に運ぶことになった。
三村は意識が戻らず、深手ではあったが、最初の応急処置が功を奏して命はとりとめるだろうということだった。
「まあ、無事に任務――というわけではなかったが、完了したな」
「はい…山上さん、今回は本当に…」
「ああ、いいって。付き合うと言った以上、出来る最善のことを尽くすのは術者の当然の務めだ。立場が逆だったとしたら、君だって君の持てる力のすべてを使ってくれただろう?」
筑土町へ向かう車の中、とりあえずの言葉をかわし合うと、その後しばらくは会話が途切れた。
山上は今回も丑込返り橋からまっすぐ神代坂を上り、多聞天前に車を停めた。
「それじゃ、鳴海さんによろしくお伝え下さい。またいずれ、改めてご挨拶に参りますから」
と丁寧に言ったのはゴウトに向けた言葉で、少年の方には、
「次の任務までに何かあったらいつでも来てくれたまえね。夜はここにいるから」
と渡した名刺には、仮住まいの住所でも書いてあるらしかった。
少年は肯いて、それを制服のポケットにしまった。
***
月曜になって少年が登校すると担当教師が朝鈴の後で声をかけてきた。
「三村が見つかったそうだ。サボって晴海をうろついている時に、外国人との争いに巻き込まれて大怪我をしたとかで、今は入院中だ。不祥事ではあるが、まあ無事で良かった。おまえにも心配をかけたな」
「いえ、見つかってよかったです」
少年と教師の会話を聞いていた級友たちがさまざまに憶測をし始めた。
「外国女でも争ってやられたのか?」
「意外に軟派なヤツだったんだな」
「戻ってきたら武勇伝を聞かせてもらわねばな」
「そういえば、隣の組の永井もこの間…」
級友たちの勝手な噂話はすぐに別の話題に移って行った。
土曜日に探偵社へ帰り着いた時にはもう夜も更けていた。
鳴海には一度海軍省に着いた時と、事が済んでから教会の電話を借りて連絡を入れていて、山上が一緒だと言うことは初めの時に報告済みだったが、帰る間際に貰った名刺のことは言い忘れていた。
実際には、大体の報告が終わって「他に、何かあるか?」と鳴海に聞かれた時にふと思い出したのだが、なんとなく「いいえ」と首を横に振ってしまったのである。
普通ならそういう時に「おい、まだあるだろう」と促す筈のゴウトも何故か指摘しなかった。
少年は不思議に思ったが、その後自室に帰り寝支度をしていた時のゴウトの言葉は更に不思議なものだった。
「悪魔の毒は、遅れて回ることもある。そうなったらまた、あの男を頼るがいい」
(言われた時は意味がよくわからなかったし、昨日は報告書を作成したり他の用事で忙しくて忘れていたが…)
こうして級友たちの話を聞いていると、三村の言葉が思い出されてくるのだった。
(おまえにはわからないよ…これは俺の希望なんだよ)
(このまま学校を出たところで、つまらない人生を送るだけ…)
(俺とは全然違うんだよ。構わないでくれよ)
他の人々の言葉も。
(俺たちは、自分でここに来たんだ、ほっといてくれよ)
(すごい力をくれるんだって)
そして、悪魔の言葉…
(満たされぬ渇きに疼く者が求めるのは力を与えてやれる我々だ)
確かに自分は三村や他の人々の命を救ったが、だからといって彼らのこれからの人生が変わるわけではない。
あの時、最後には人々は、悪魔の言いなりになっていたら危なそうだとは気づいてくれたようだが、それでもほんの少しは(でも、もしかしたら、幸運をつかむ機会があったのではないか…あの書生が余計なことをしなければ…)という心も残っていたのかもしれないのである。
それに対して自分の出来ることは無い。
そして三村のあの時の顔…
悪魔をかばっての、必死の形相。
その後、自分の刃に貫かれた時の驚きの表情。
悪魔の呪殺から身を守るために構えた刀が、三村には自分に斬りかかってきたと見えていたかもしれない。
(こんな風に考えてしまうことが、ゴウトの言っていた毒なのだろうか…)
少年はポケットに手を入れ、その中に収まっている名刺の縁に、遊ぶように指を滑らせた。
そこには、先日お茶をよばれた植物園から東の大通りを渡って少し先の住所と電話番号が印刷されている。
だが少年の目に焼きついているのは、その裏に走り書きされた「今週ハ研究室ハ休ミ」という文字だった。
渡してくれた時には「夜は」と言っていたのがこの注記ということは、つまり、今なら夕方でも訪ねて行ってよろしいということなのだろうか。
(自分勝手な解釈をしている気がするが…)
学校が終わって行ってみて、もしも迷惑そうな素振りが少しでも見えたらすぐにお暇しよう、と自分の心を持て余し始めた少年は、少々乱暴に予定を決めた。
***
少年の急な来訪に山上は少し驚いたような様子は見せたが、
「早速とは、嬉しいね」
と、笑顔で部屋に招じ入れた。
今日はいつもの洋装ではなく、着物を着ている。
普段用の紬で、かなり手を通された物のようだった。
そこはちょっとしたお屋敷の離れになっていて、少年は母屋の使用人に案内してもらったのだが、横手には離れに直接出入り出来る門もあるらしい。
「僕は単なる間借り人で、ここの家の人とは殆ど没交渉だから、いつもそっちを使っているんだ」
山上は言い、茶の用意を始めた。
少年は今日こそは自分が役目を果たそうとしたが、
「君はお客なんだから、座っていなさい」
と言われ、それを断るのではかえって失礼になりそうで、仕方なく卓子の前に敷かれた座布団の上に正座した。
「本当に、お邪魔ではなかったでしょうか」
「全然さ。今は担当教授が独逸の学会に出かけていて、暇なんだ」
(それで、お休みだったのだ。わざわざ自分のためにというわけではなかった…)
少年はほっとして、辺りを見回す余裕が出来た。
離れは二間に土間付きの簡単な厨房と厠、風呂が付いただけの作りで、一部屋が少年が今いる六畳の居間であり、開け放された襖の奥の四畳半が寝室のようだった。
床の間には掛け軸と一輪挿しが飾られ、違い棚の上には茶器が置かれている。
六畳の片側は雪見障子になっており、そこから縁側と、小さな中庭があるらしいのが見えた。
こんな部屋の中に着物姿の山上がいるのは、なんとなく日本趣味の外国人に招かれたようだった。
薬缶から湯を急須に注ぎながら少年の視線の動きを観察していたらしい山上は、
「僕がこんな家にいて、君があのハイカラな探偵社に勤めているというのは、面白いね。自分の部屋もそうなのかい?」
と、笑いながら尋ねた。
「ビルヂングが洋風でそのように作られていますから…私物はそれ程ありませんし」
「…君はこだわりが無いんだよね」
山上の口調に少年は目を上げたが、
「さ、どうぞ。今日は生憎菓子の用意がないけれど…」
言われ、少年はゴウトの言葉を思い出して強く首を振った。
「それで、今日は、何か特別な用事なのかな?いや、ただ遊びに来てくれたのでも全然構わないし、むしろその方が嬉しいけど」
気遣ってくれる山上の聞き方に、少年はかえって自分の身勝手さが恥ずかしく思えた。
「…すみません。色々と、考えていて…自分が軽はずみだったり、無力なこととか…それでつい、ゴウトに言われたことをそのまま…」
山上は微かに眉をひそめた。
「というと?」
「悪魔の毒が回ったと感じたら、助けていただくようにと…」
少年の答えを聞くと山上は一瞬目を見張り、ついで、考え込むような表情になった。
「…なるほど、よく出来たお目付け役だな。目は確かだよ」
苦笑いするような口元に、少年は自分が何かの間違いを犯したのだと知った。
「申し訳ありません。勝手な真似ばかりしてご迷惑を…失礼致します」
立ち上がり出口へ向かおうとした少年を、こちらも素早く立ち上がった山上の身体が阻んだ。
「性急に決めてかかるのは子供の悪い癖だ」
「……」
戸惑う少年の背中を山上は奥の寝室へと押しやった。