晴海町で少年は人々に三村の写真を見せて聞き回った。
「町を歩くついでに尋ねてみるから」と、担当教師から写真を借りてきていたのだ。
だが見覚えがあるという人間には行き当たらない。
ラスプーチンの言っていた港のあたりだけでなく、山へ上った海軍省の方へも足を伸ばしたのだが、成果は無かった。
(外国婦人と一緒だったというのだから、目立つ筈と思ったが)
さすがに、広い帝都の町中でたった一人の人間を探すということなどは、余程の僥倖でも無ければ不可能なのだ。
陽が陰り、波の色が暗さを増してくる。
少年は急に疲れを感じて、埠頭のビットに腰をかけた。
ぼんやりと足元に目線をやりながら、しばらく潮風に吹かれるままになっているところへ、
「…あなた、大丈夫、です?」
妙な呼びかけをしてくる人間がいた。
目を上げると、立っていたのは背広姿の西洋人の男だった。
痩せて背は高く、洋杖をついている。
濃い褐色の髪には鬢のあたりに白いものがいくらか混じり、灰色の目の下にも皺が見えたが、西洋人種というのは大体日本人からすると老けて見えるので、年齢としては四十前後だろうと思えた。
「どうか、しましたか?お腹、痛い?」
優しげに話しかける言葉は、抑揚が少し変ではあるが、なかなか流暢な日本語だ。
旅行者ではなくこの近くに居留している人間なのだろう。
「休んでいただけです、何でもありません」
少年は首を振って答えたが、
「学生さん、でしょう。月、出てます。おうちの方、心配する時間でしょう」
男は心配そうな顔つきで、立ち去ろうとしない。
「……」
すぐに立ち上がって帰る挨拶をすればいいのだとはわかっていた。
だが何故か少年はそうする気が起きなかった。
単なる勘とは言いつつ、内心では自分の直感に自信があり、見事三村を発見できる気がしていたのにそれがしくじったことで、出かけてきた時の意気込みが裏返しになった形で、意気消沈の度合いが激しかったのかもしれない。
あるいは、黙って寄り道をした揚句がこれでは申し訳も立たない、手がかりの一つも見つけてからでなくては、という気持ちも働いたのかもしれない。
(任務に入れば、何日も無断で帰らぬ日もあるのだから…)
「大丈夫です。誰も心配はしません」
「オー…」
男は眉をひそめた。
その顔つきは、心底同情を寄せているように見える。
「心配する人いない、それ、残念なことです。あなた、うちに少し休みにおいでなさい」
肩に手をかけ、立ち上がるように促す。
「いえ、大丈夫ですから…」
断っても男は首を振り、
「遠慮、いけません。人、困った時、お互い様、ね」
熱心に勧める。
(そうだ、同じ西洋人ならば、三村と婦人が一緒にいたのを見ているかもしれない)
思いついた少年はポケットから写真を取り出して男に見せた。
「友人なのですが、この辺りで見かけたことはありませんか」
男は写真を手に、少し考えている風だったが、
「私はわかりませんが、知っている者がいるかも…」
「その人に会わせていただけますか?」
少年が言うと
「うちに来て、暖かいお茶飲んで、休んで、一緒に考えましょうね」
男はにっこりと微笑んだ。
***
「まさかあいつ、嘘言ったわけじゃないよなあ…」
ついと口を出たという感じの鳴海のひとり言が耳に入り、長椅子の上で香箱を作っていたゴウトは首を持ち上げた。
デスクの向こうの大きな洋椅子に腰を落ち着け、紙巻を吹かしながら無為に時を過ごしている様子はいつものことだが、その顔には苛立ちが見てとれる。
(まあ、わからんでもないが…)
無用心に心のうちを漏らしたことを恥じてか、鳴海は苦笑いのような顔を見せたが、どうせならと思ったか、腹のうちを吐き出し始めた。
「来てないとは言ったけど、電話じゃ見えないんだからほんとのところわからないもんなあ…」
夕方、少年がいつも帰る時刻をかなり過ぎても戻らないので、鳴海はまず学校の方に電話を入れて、少年がきちんと登校し、最後の授業まで出ていたことを確認した。
それから山上の研究室に電話を入れてみて、来ていないという返事を貰ったのだが、それから更に半刻ほどの時間が経っていた。
少年が西洋の男に言ったとおり、任務中であればそんな心配はしないし、普段もそうそう詮索するような真似はしないのが鳴海の方針だが、今回はどうも大人しく帰りを待っていられない気分らしい。
鳴海は半分方山上の返事を疑っている。
人の言葉を簡単に信用しない探偵の性ではあるが、今回はそれ相応の理由があった。
昨日おかんむりのまま神社から戻ってきた鳴海は、夕刻近くになって山上から「少年に学校帰りに寄ってもらったので帰りが遅くなる」という電話を受け取ったのである。
「そのつもりなら、来た時に言っておけばいいのに、どういうつもりなんだ?まさか、まだ俺との間に何かあるとか疑って、反応を見たってことか?」
向こうから切られたらしい電話の受話器を荒々しく戻しながら、鳴海は新たに怒りを燃やしたのだった。
(少々、うがち過ぎとは思うが…)
鳴海の見方はいかにも男女の駆け引きや修羅場に慣れた遊び人めいているのだが、まったくあり得ないとも言い切れない。
初日のからかいは、平生は奇をてらった発言で相手を煙に巻く戦法がお得意の鳴海がお株を取られ、まずは山上にゴングが鳴ったというわけだな、と可笑しく眺めていたが、その電話の後ではゴウトもあらためて山上に対し、単なる善意の協力者とだけ見て安心してはならぬかもしれぬ、という思いが湧いた。
儀式の上のこととはいえ、一度は少年を抱いているのである。
祭神の眷属同士としての神事とはいっても、肉を通しての触れ合いによって情が湧くということは起こり得る。
もっとも少年の方はただ格上の神に仕え、力を分けて頂いたという意識しか持っていないのは見ていればわかる。
だが相手もそうとは限らない。
(冗談に紛らわせて、案外と本気で尋ねたのかもしれない)
少年の、「校門のところでお会いして…」と始まった報告を聞いてからは尚更その感を強くした。
(わざわざ、誘いに来たと…あれだけ狐の一族を毛嫌いしていた男が)
そうして昨日の今日なのだから、鳴海が疑うのも無理もなかった。
「書生相手に学校までお迎えに来て、立派な職場を見せて、お茶入れて名物の菓子だって?帰りには途中までお見送りとか、とんとおぼこ女学生の気を引くやり口じゃないの」
鳴海も、ゴウトと同じ考えの道筋を辿っていたらしい。
盆の時の山上の役割や、成金の老人と少年の関わりについては、例の依頼の後ゴウトの判断で(こうなればそろそろこの男も、上司としておおまかなところは知っておくべきだろう)と、少年の登校中に話してあった。
もちろん、話すと言ってもゴウトの方は筆談である。
いちいち文字を書いたりタイプを打つのでは手間がかかり過ぎるので、いろはにほへとを表にして、それを前足で指していくというやり方で、鳴海の察しの良さも加わって、迂遠なようでも案外確実に話が通じるのであった。
もちろん、自分が話したということも含めて、一切他言無用である。
とはいえカラスの方では既に鳴海が知ったことを察しているらしいが…
とにかくその裏事情というような物を知った鳴海は、老人の方については、
「まあ、普通に考えたらちょっと変わった相手だけど、霊だの悪魔だの見える子だから、何よりまっすぐ中身を見て魅かれたんだろうな。将来のためにならないからって自分から手を引いてくれるようなお人ってことだし」
と、好意的な反応を見せた。
だが山上については、
「カゲ狐のことは事故だし、今更俺がどうこう言うことでもないけど、でもそもそもはそいつがやたらに偉ぶって、変な突っかかり方してきたのが原因なんだよな?それでこっちに悪いと思って代理を引き受けたってのは立派だけど…」
言いながら、眉をしかめる。
「どうも、出来すぎの言い訳って匂いがするねえ」
頭を振りながら言ったのだった。
その時は少々考えすぎではないか、と思ったのだが、
「俺はあの子と違って色々曲がって育った人間だから、僻目で見てる部分があるんだろうけど、どうもあいつにはすっきりしないものを感じるんだよな。たぶん、向こうも同じような感じを俺に持って、それで絡んだんじゃないかな」
今日こうして、自らのことも突き放すように言う鳴海を見ると、案外にその勘は正確なものなのかもしれなかった。
味方として信用できないというわけではない。しかし…
「でもまあ、ちょっと、考えすぎかもな」
鳴海は頭を振り、立ち上がった。
苛立ちを口にしてしまって、だいぶん気分が晴れたらしい。
「多原屋で飯食ってくるわ。もう、牡蠣が出てるかな。あいつ帰ってきたら言っといてね」
(おいおい、おまえのせいで、こちらの方が片付かない気分になったというのに、勝手に一人で立ち直るな)
ゴウトがニャアニャアと鳴くのを文句と理解したらしい鳴海は、
「お土産、買ってくるからさ」
と機嫌を取るように言い、帽子と上着を肩につかんで足早に事務所を出て行った。
(お気楽なものだが、何も情報が無い以上、ここであれこれ考えていたところで実にはならぬしな…)
ゴウトは溜息をつき、重ねた両の前足の上に頭を落とした。
山上と少年が親しくなること自体は別に構わない。
特殊な力を持つ人間として、腹蔵なく話せる相手がいるというのは少年にとって良いことであろう。
その役割を担う筈だった狐がいなくなってしまった今では、余計にそういう存在が必要でもある。
年が割合に近いのも、好ましい。
親しい以上の関係になるとすれば、それはまた考えねばならないことだが…
それでも、任務に支障を来さない限りは、咎められることでもないだろう。
だがそれはあくまで、少年の自由意志によってそうなったということが前提である。
山上が格の違いをたてにとって交接を強要するようなことがあれば、それは絶対に許してはならぬことだ。
だが見たところ山上は頭の働きも良さそうであるから、露骨にそんなやり方はしないであろう。
格上の相手と敬う少年の気持ちを上手く利用して、少年の方からそうせねばならないと思うように仕向けるに違いない。
(本当にそういう気ならば、ということだがな…)
鳴海に釣られて先入主を持つことのないようにせねば、とゴウトは自分を戒めた。
***
レビソンと名乗った西洋人が少年を連れてきたのは、波止場から少し奥へ入ったところに建てられている大きな屋敷だった。
この一画は居留外人が住む地域で、西洋風の住宅が並んでいる。
昼間でも表通りの喧騒が届かない静かな区域であることは知っていたが、夕闇の中では更に人気が感じられなかった。
それでも通りを歩く間、いくつかの窓からは灯りが漏れているのが見え、住人がかけているらしいラヂオの音がかすかに聞こえてきたりした。
レビソンの住んでいるらしい屋敷は、外から見た作りはこじんまりとしていたが、入ってみると調度品は上等そうで、高い天井も凝った装飾がしてある。
案内された二階の部屋も、それほど広さはないが、大きな布張りの安楽椅子にはつややかな布地にレース飾りのついたクッションが乗せられ、コーヒーテーブルには真っ白な布がかけられている。
テーブルの下には東洋の意匠が織り込まれた緞通が敷かれていて、靴の下で柔らかく沈んだ。
使用人が言いつけられた通りに運んできた茶のセットは、華奢な陶器製で綺麗な花飾りの模様が描かれたものだ。
勧められるままカップに口をつけると、変わった香りが立った。
「故郷から取り寄せる特別のハーブを使っているのです。お好みに、合いませんか?」
少年が僅かに眉をひそめたのを鋭く見てとったのか、レビソンが心配そうに尋ねた。
「あ、いえ…」
少年は慌てて首を振り、その蜂蜜色の液体を口に含んだ。
慣れない味であるが、飲めないというわけではない。
「これもどうぞ。私の国の、懐かしい味です」
名前のわからない焼き菓子の方は、バターの風味が効き、砂糖も上等なものをたっぷり使ってあるようで、素直に美味しかった。
それに助けられるようにして、少年は茶を飲んだ。
親切にもてなしてくれるものを、残したりしては失礼だ。
少年が饗応に与かる間、家の主であるレビソンはもてなし役を務めるべく、天候やら新聞のニュースの話をして場を繋いだ。
「そういえば、あなたの名前聞く、まだでしたね」
「あ…そうでした。失礼致しました」
少年はカップと受け皿をテーブルに戻し、頭を一度下げて、襲名している名を名乗った。
だがレビソンは、表情はにこやかなまま、首を振る。
「いいえ、それではなく…あなたの、生まれた時、親からいただいた名前を…」
「…?」
少年は咄嗟に立ち上がろうとした。
だが身体は思ったように動かず、足がよろけ、椅子に倒れこんでしまった。
すかさずレビソンが上からのしかかって押さえつける。
「もう、動けないだろう?じき、私の言うがままになる…」
口調が変わり、訛っていた日本語も流暢になっている。
(罠だったのか…)
あのお茶に何かが、と思っても既に手遅れである。
「さあ、名前を言いなさい。そうすれば楽になる…」
「……」
レビソンの低く囁く声が頭に響き、少年はともすればそれに応えようとしてしまう。
薬か何かのせいでそんな風になるのだとわかっていても、徐々に抵抗する気持ちが弱まっていくのがわかる。
「ほら、逆らうのは苦しいだろう?」
「……」
少年は唇を噛みしめた。
次第に胸が苦しくなってくる。
いや、これは薬のせいで相手の言葉が暗示になっているだけだ。
実際には身体自体に変調はない筈…と自分に言い聞かせるが、完全にすべてを振り払うことは出来ない。
このままの状況が続けば、いずれ自制を失って降伏してしまうかもしれない…
少年は途切れそうな意志の力をふり絞って手を伸ばし、テーブルクロスの端をつかんで、思い切り引いた。
「うわ、何を」
ティーポットがレビソンの頭にぶつかって割れ、まだ残っていたハーブティが肩から背広を濡らした。
レビソンが思わず手を放した隙に、少年はポットの破片を手にし、尖った側で切りつけた。
外す筈もない距離だった。だが、
「小賢しい!」
まったく手ごたえを感じられず、レビソンも損傷を受けた様子がない。
(これは?)
戸惑う少年の手はレビソンにつかまれ、形勢はすぐに元に戻ってしまった。
「子供と思って手加減してやれば…」
その顔は今や髑髏となり、電燈が壁に照らし出す姿は幅広の頭巾を被った悪魔へと変貌していた。
「名を得て封じた上で、我が主に忠実な下僕にしてやろうと思ったが、こうなれば…」
悪魔は死の詠唱を唱え始め、少年は逃れられぬ死神の影を目の前に見た。