ドアの外の小さな踊り場から階段を下りていくと、広いエントランスホールを囲む回廊の端に出た。真ん中は吹き抜けになっている。西洋風のお邸だ。だが家具などはほとんどなく、あっても埃を被っている。窓ガラスも破れたままの箇所がある。
「ここって、使ってない家なんだ?」
階段をホールへ下りながら狐が聞くと子供は肯いた。
「母の祖父が亡くなる時、母にくれたんだ。でも不便だからって使ってない」
「へえー、もったいないね」
子供はふん、と鼻を鳴らすようにする。
「こんな程度の家、いくつでもあるもの」
「ふうん、うちの所長さんなんかいつも家賃払うのに困ってるみたいなのに、君はすごいんだねえ」
感心して言う狐を子供は妙な目で見る。つと目をそらし、
「僕にはもう権利はないけどね」
少し唇をとがらせて言う声は小さかった。
見ると、足元もふらついている。
(あんなでっかい魔しょってたんだから疲れるよね)
狐はホールの壁際に残されていた横長の木製の椅子に目を付け、子供をそこに引っぱっていって座らせ、自分もすぐ隣に腰かけた。
上の方からは物がぶつかるような音や叫び声のようなものも聞こえてくる。
(コーホ、大丈夫かな…)
少年の強さはわかっていても、やはり心配になる。
と、子供が尋ねてくる。
「それより、おまえは何なんだ。あいつに使われてる悪魔の仲間か?」
「まあ…そんなものだよ」
「ふうん。おまえはあの笛に閉じ込められてたやつみたいに自由になりたいとか思わないのか?」
「僕は閉じ込められてるわけじゃないし…でもあれ、すごい魔だよね。君、あんなのに憑かれててよく死ななかったねえ」
子供はまた鼻を鳴らす。
「最初は笛から呼びかけるくらいの力しかなかったんだ。あの所長とかいう男と二人になった時、僕だけがその呼ぶ声を聞いて、取引をしたんだ」
「所長さんはそんなこと全然言ってなかったけど」
「実際には姿も見せたし結構時間もかかってるけど、術で忘れさせたんだ。あいつと一体化して力をもらってね」
ああ、コーホが記憶がどうのとか言っていたのはこのことだったのか、と狐はやっと思い当たった。
(それで、笛にはもう魔の気配が無いんで変だって思ってたんだな)
狐が納得していると、子供は厳しい顔で床に目を落とし、ほとんどひとり言のように話し出す。
「その長い時間、あの狐は御前をたぶらかしてたんだ。一度は離れたくせにまた寵を得ようとしてさ…僕がなんであの秘書に選ばれたと思う?『あいつに似てる』からだよ。なんでこの僕が…本来いるべき羽林の家から厄介者として追い出されて、今度は卑しい狐の身代わりとして稚児扱いだなんて…」
子供の声は小さかったが、天井の高いホールにはよく響いた。
「嫌ならば、やめればいい」
階段を下りてくる少年にもそれは十分に聞こえていたらしい。
だがその答えは子供には気に入らなかったようだ。子供は顔を上げて叫ぶように言葉を叩きつける。
「山育ちの獣が気楽なことを言うなよ。嫌だからってやめたりしたら、僕の養父の立場がどうなると思ってるんだ。大体、僕からやめたなんて誰も信じない。あの怪物のご機嫌を損ねて御役御免になったんだって言われるんだ。そうして僕は今の家でもまた厄介者になるんだ」
子供の言葉に少年は顔を曇らせた。
「…君が本当にお側にいるのが嫌なら、あの方は怒ったりなさらない。話せば、わかって下さる」
「それで、前のようにご奉仕させて下さいって頼んだのか」
口元に歪んだ嗤いを浮かべて言う子供に、少年は目を伏せて頭を振った。
「あの方は、もう自分にはお会いにならない。自分も会うつもりはない。でも、誰かがお側にいてお慰めしてくれていると思うと嬉しい」
「おまえの代わりにか?」
「君と自分とは違う。あの方もそれはわかっていらっしゃる」
「……」
子供と少年はしばらく何も言わず目線を合わせた。
やがて子供は立ち上がった。
「…あの魔はどうした」
「封じるには力量が足りなかったので斃した」
「力ずく、か。いかにもだね」
それだけ言って子供は背を向け、ホールの正面玄関から外へ出て、一人歩いていった。
「なんだよ、お礼の一言も無し?あんなやつ、助けなくたってよかったのに」
狐は憤慨して言ったが、少年の表情は普段と変わらない。
「帝都の人間を守るのは自分の務めだ」
「あんなやつでも?」
「それは、関係ない」
少年は言って、再び階段を上っていく。
「コーホ、帰らないの?」
「帰る。来た道から」
狐が慌てて後を追うと、少年は前を向いたまま言った。
「後で詳しく話をしろ。鳴海さんに報告しなければならないし」
狐は思わず足が止まる。
(怒ってる…)
「置いていくぞ」
少年は歩き続ける。狐は小走りに追いついて、横から少年の片腕に自分の両腕を巻きつけた。
「ごめんなさいコー…十四代目、でも僕だって役に立ちたくて頑張ったんです」
小首を傾げ、上目遣いで顔を見上げる。
少年は横顔を見せたまま、狐の方を見ようともしない。
「もう絶対こんなことしませんから、帰さないで下さい」
必死に言うと、少年は仕方無さそうに狐の方に目を向ける。
「じゃあまず、身代わりくらいはちゃんとしろ」
「僕、どっか変ですか?」
「尻尾」
狐は気づかないうちに、尻尾を出して足の間で降参の身振りをしていたのだった。
***
数日後、学生服姿の狐はメモを片手に知らないお屋敷町を歩いていた。
鳴海の書いたそのメモは狐にはまだ読めないが、電柱や家の門に付いている標識と形を見比べたり、人に見せて聞くのに使っている。
音の方は、少年に教えてもらったのを忘れないようにずっと口の中で呟いている。
(あざぶ、にしまち…、あ、ここかな)
門柱に見える表札の字は、「住所」の隣に書かれた「名前」の上の方と一致している。
高い塀とその中の高い木で内側はまったく見えないが、あの子供の匂いが強く漂ってくるところがあった。
(あの子の部屋に近いとこかな)
人通りが無いのをいいことに狐はぴょんと塀の上に飛び、中へ下りた。
「ここら辺はまだ時々狸が出るけど、狐も来るのか」
子供の声に狐は思わず後ろに飛びのき、植え込みの後ろに身を隠したが、小さな茂みはあまり役に立ってはいない。
(えー、学校に行っているはずの時間だから黙って置いてこいって言われたのに…)
潅木の向こうには小さな池があり、その向こうに母屋とは離れた棟の家屋の縁側が見えている。
今日は和服姿の子供はその縁側に腰掛けて沓脱ぎ石に足を下ろし、いつもの冷たい笑みを見せていたが、
「今更隠れたってもう尻尾をつかんで…ほんとに尻尾があるの?」
目を丸くすると、最後の方は、まるで尋常小学校の子供のような声になった。
(あっ…)
驚いた拍子に、また尻尾が出てしまったのだ。
「こないだの、悪魔の方なんだな?ちょっと、こっちへ来いよ。来ないと人を呼ぶから」
言いつつ子供は自分も立ち上がり、器用に着物の裾を捌いて走ってくる。
池にかかる小さな石の橋を渡って真っ直ぐに狐のところまでやってきた子供は、素早く狐の学帽を取った。
「あ、駄目だよ」
「耳もある…」
こちらも驚いた拍子にひょいと出てしまったのだ。
子供は吹き出した。
「ば、化けの皮がはがれるって、こ、こういうことなんだ…」
おかしさに耐え切れないらしく、体を折って笑い続け、言葉も途切れ途切れになっている。
狐はまったく楽しくない。
「誰かいるの?」
離れから母屋へと続いているらしい渡廊下から女性の声がした。途中の枝折戸を開けてこちらにやってくる。
「お母様」
子供は表情を元に戻し、狐は急いで耳と尻尾を引っ込めた。
「雅近さん、こちらは?今日は気分がすぐれないと学校はお休みしていたのに」
子供の母親という女性は狐を訝しんで見る。
「友人です。謡の会の練習を見る約束をしていて」
子供は口元にすました笑みを浮かべてすらっとそんなことを言う。
「それなら、早くおっしゃってくれればいいのに…何も用意していないわ」
眉をひそめる母親に、狐は笑いかけた。
「お気を使わないで下さい。本当は、思い出して雅近君にお借りした笛を返しに来ただけなんです。すぐ、帰りますから」
そう言って制服の裾の下から、ズボンの後ろのポケットに入れていた包みを出してみせる。
子供は息を飲んだが、かろうじて声にはしなかった。
母親の方は、狐の「邪気の無い」笑顔に機嫌を直したのか、
「あら…でもそれだけでお帰ししては申し訳ないわ。折角来ていただいたのだから、お急ぎでなかったら少し雅近さんとお話なさっていってちょうだい。すぐお茶を出させますから」
そんなことを言いながら渡廊下に戻っていった。
「主従共に人をたぶらかす術に長けているんだな」
子供の方は口をとがらせている。
「僕は狐だもの。それより、この笛。もう安全だからって」
包みを渡そうとすると子供は、
「あいつが寄越したのか」
「自分が持っててもしょうがないからって」
不貞腐れるような顔でしばらく包みを見ていた子供は、ようやく狐の手からそれを取って離れの方へ引き返した。狐も後を追う。
「ねえ、吹いてみせてよ」
「狐なんかに、もったいない」
「そんなケチなこと言わなくてもいいじゃない。ねえ」
「…少しだけだからな」
子供は縁側から部屋に入って座布団の上に座り、包みを開いた。
中から現れた笛を少しの間、その細い指で愛おしそうに撫でる。
やがて、美しいが、どこか物悲しいような調べが流れ始めた。
狐は縁側に座って黙って聞いていた。
(ああ、なんかいいなあ、この気…綺麗で澄んでて…とろけそう…)
「お友達はお帰りになられたのですか?坊ちゃま」
茶と菓子を運んできた女中は、一人部屋で笛を吹いている子供に尋ねた。
「あら、犬?お飼いになるのですか?随分、大きいですね」
縁側の隅で丸まっている白い毛の塊に気づいたらしく、また聞く。
「いや、迷い犬だからすぐ返すよ。ああ、お菓子をやるから、それ、置いていって」
子供は口から笛を離して、返事をした。その口の端が笑っている。
女中が去ると子供はこらえ切れなくなったように笑い出した。
「この笛、便利なんだな」
白狐は飛び上がって少年の姿に戻る。
「ちょっと、油断したからだよ…やだ、もうやめてよ」
子供が再び笛を口にしようとしているのを見て、狐はあせって止める。
「それより、そのお菓子食べていいんでしょ。こんなの初めて見た」
部屋に入って、早速手を出す。菓子をほおばった狐はその味わいに、またうっかり耳が出そうになる。
「これ、すごく美味しい。何ていうの?コーホにも持って帰っていい?」
「マドレエヌっていう西洋菓子だけど、コーホって…ああ、あいつのことそう呼んでたっけ。変な名前だな」
「僕がそう呼んでるだけだよ。昔から癖になってるから」
「昔?」
狐は問われるままに、里での少年との暮らしを語った。
「失敗して、襲名出来なかったらどうなるんだ?追い出されるのか?」
「失敗したら大抵死んじゃうみたいだけど、そうじゃない人は訓練の先生になってたりするよ」
「馬鹿にされるんだろう」
「そんなことないよ。襲名の儀ってすごく大変らしいもの。死ななかっただけでもすごいんだって」
「じゃあ成功したあいつは本当にすごいってわけ」
「そうだよ、ちっちゃい頃から訓練ばっかりやってたんだもの」
少年を褒められると、狐は自分のことのように嬉しくなって自慢してしまう。子供はしばらくそんな狐に目を向けていたが、懐からハンカチを出すと、鉢の中の菓子を包んで結んだ。
「ほら、やるからもう帰れよ」
「え、全部いいの?有難う」
思わず尻尾を振りたくなって、狐は気を引き締める。
(ちょっと癖になっちゃってるなあ…気を付けないと、また怒られる)
「僕からだって言ったらあいつは食べないかもな」
「そんなこと無いよ、僕が美味しいって教えてあげるもの」
狐は微笑んで庭へ下り、走り出した。子供が呼び止める。
「ちゃんと、玄関から帰れよ」
そう言われてもどっちへ行っていいのかわからない。
「この次は、そうする」
面倒になった狐は来た時と同じように塀に飛び上がり、前の道に人がいないことを確かめて飛び降りた。
「次なんて、ないんだから」
塀の中から叫ぶ子供の声が聞こえ、狐はなんとなくおかしくなった。
***
「へえー、マドレエヌじゃないか、懐かしいなあ。うん、バタがよくきいてて美味い。コーヒーにもよく合うんだよね」
鳴海は帝都でもまだ珍しい菓子をゆっくりと味わいつつコーヒーを飲み、報告書にもう一度目を通している。
久々に平和な探偵社の夜である。鳴海と少年と狐は客用のテーブルを囲んで狐のもらってきた西洋菓子で夜のお茶会としゃれこんでいた。
「しかし、こないだの報告聞いて驚いたよ。自分が記憶失くしてて、そのことすら気づかなかったなんて」
「すごく強い魔でしたからねえ」
「そんなもんの呼ぶ声聞いちゃうなんて、あの子もいくらかそういう力があったんだな」
「ご先祖さんは近いみたいですからね」
(本人は嫌がってるみたいだけど…それにコーホときたら)
黙って菓子を味わっているらしい少年の方を見て、狐は報告の時のことを思い出した。
所長に「知り合いだったのか」と聞かれた少年は、
「親類みたいなことを言っていましたけど、自分はよくわかりません。少し似ているみたいだから、そうなのかもしれませんが」
正直に愛想の無い答えをしていたのだった。
「その悪魔も西洋系か」
菓子を見ながら鳴海は少年に言う。
「そのようです。昔、西域あたりからも人が多く渡ってきていた時代に紛れてきたのを、力ある術者が封じたのだと思います。あの笛も古くから伝わっていて、力がありましたから。しかし時が経って術の力も薄れていたのでしょう」
鳴海は肯き、後で清書して報告書に付け加えるためのメモを取った。
(捜査のことだとこうやって長い話も出来るんだよね、コーホは)
狐はテーブルに両肘をついて頬に拳を当て、うっとりと少年の顔を眺める。少年は僅かに嫌そうな顔をする。少年が何か言う前に狐は先手を取る。
「十四代目、美味しいでしょう?」
「うん…」
少年が少し顔をほころばせて言うのを見て、狐はほっとし、顔がゆるむのを感じる。実は結構甘いものが好きだということはわかっている。
「こんな美味しいものくれるなんて、結構いい子ですよね」
「なんだ、もう餌付けされてるのか」
鳴海がからかうが、少年の目はまた鋭くなった。
狐は思わず何度も首を横に振る。
登校初日の午後にあったことは全部話させられていたが「そういうこと」に関する部分は、鳴海への報告の中では上手に省かれていた。
「ゴウトが、そういうことは鳴海さんには言うなと言っていたから」
というのが少年の言う理由である。
(本当にそれだけなのかなあ)
と怪しむ気持ちもないではないが、とりあえず少年が言わないと決めているのなら、自分も黙っているし、「御前」のことも聞かないようにする。
(でもあの笛はなんていうか、あの時よりもっと気持ちよかったなあ。あれだったら、また聞きに行っても、コーホ怒らないよね…?)
とろけるようなここちよさの中で変化の術も自然に解けてしまい、夢心地になった時のことを狐は思い返していた。
音がさまざまな色の光になって流れ出す中、菩薩様の後ろで楽を奏でる迦陵頻迦の音につられて乱舞する鳥たちの五色の羽が舞い散る。
(あの子にもそういう世界が見えてたんだったら、いいなあ)
もう一つ、甘い菓子を手にとって齧りながら狐はそんなことを考えていた。
-the end-