(あの時返事が来ていたら、だと)
考えてみようとする川地の努力ははかばかしく進まなかった。
およそ礼状が来るなどと期待したこともなかった。
自分の我儘のせいで生涯の任とも言うべきものを失くしかけた少年にとって、せめてもの餞など忌まわしいものとしてしか映らぬかもしれぬとも思った。それでも、少年が無事戻り、以前と変わらぬ身にあると知って、何がしかを送りたい気持ちは止められなかった。せいぜい特徴のない、誰からの物などということを意識せずに使えるようにと選んだのが無地の白いハンカチである。
そのまま、打ち捨てられるかもしれぬ。それも仕方ない、と思っていた。
手紙の方も、長々と文を連ねることは避けた。
(慣れぬことで、洒落た文など思いつかなかったということもあるが)
それにしてもこの少年がいまだにそんなことを気にするというのがどうもわからない。
大体、あのように部屋から逃げたのは川地との同席が耐えがたくなったからではないのか。それを追われたので謝るしかなくなり…と思ったが、
(読み間違えたか)
というよりも、また自分も調子が狂って反応がおかしくなっているのだ、と川地は気づいた。相手が逃げたのならば、追ってはいけなかったのである。それをつい体が動いてしまって、こんなことになっている。
川地の黙考は気づかず長くなっていたようだ。少年は目を伏せた。
「…お忘れ下さい。またつまらぬことでお心を…」
言いつつ、立ち上がろうとする。
考えるより先に川地の手はその肩を押さえた。少年の体は骨を失ったように柔らかく沈んだ。再びその目が川地に当てられる。
薄く濡れた膜が光っているように見える瞳。
わずかに開いた唇。
どちらから動いたのか、川地が我に返った時二人の唇は重なっていた。
合わせるばかりで中々開こうとしない少年の両の唇を、川地は舌で割って中に入れさせる。
少年はぎこちなくそれに応える。
(慣れておらぬか…あるいは)
南蛮の人間にもそうは見ない、分厚い唇を嫌悪しているかとも思う。
だが川地が更に舌であちこちを探り出すと、少しずつ自分からも絡め、吸うようにする。
応えることが許されるのか、迷っていたという風である。
川地の手が腰や背中をつたい始めると、少年は更に身を寄せるようにした。
その手はこわごわと川地の二の腕をさするようにする。
体の熱が伝わり、胸の鼓動が聞こえるほどになる。
(これ以上は…)
続けることを、しばし川地はためらった。
だが顔を離そうとするだけで少年は抗うように両腕を川地の背へ回す。
技巧でしているのではない。
赤子が母親の乳にすがって離れないような、そんなよるべなさがある。
心があれば、これを無体に退けることは出来ないだろう。
そんなものを自分が持っているのか川地は定かではなかった。ただの肉体の欲情が呼びおこされたのに過ぎないかもしれぬ。たぶんその方が近いのだろうが、川地はそれを抑える気持ちを捨てた。
川地が両足を開くと、それを合図と心得た少年はようやく体を離し、地面に膝をついて川地の下腹部に顔を近づける。
川地は自分で前みごろを横によけ、下穿きの紐も解く。
布の下で既にかなりの張りを見せていたものを、少年は柔らかく口に含んだ。不安げに目を上げるのを、川地がかすかな吐息と共に肯いてやると、安心したように舌を動かす。
変わらず、慣れぬ動きだがそのことが逆に昂ぶりを速める。
「もう、よい」
そのまま続けさせては我慢がきかなくなりそうだった。
川地は立ち上がって羽織っていた少年のマントをベンチに敷いた。
その横でわずかに衣擦れの音をさせ、少年の白い腰が月明かりに浮かぶ。
少年はマントの上に横たわり、川地はその両足を抱えた。
二本の足は川地の脇腹を放すまいとでもするように挟む。
少年は自らの指で急ぎボタンを外していく。
川地の口は開かれた上衣の下の白い肌を吸い、手では少年のものを探ってやる。
声を抑えようと唇が噛みしめられる。
学帽の下で眉根がひそめられる。
川地の背に伸びる指につい力が入りそうになっては自制するらしく、緩められる。
その様子全体が愛しくもあれば、もどかしくもあり、川地の方は動きが抑えられなくなる。
抑えきれない声が洩れ出し、川地の背を布ごと掴む指が離れない。
じき、肉の震えを感じたかと思うと、温かな噴出が川地の腹を濡らした。
荒い息の川地を上に乗せ、自分もまだ治まりきらない動悸のまま少年は、
「お寒く…ありませんか」
と老人を気遣う。
「大丈夫だ」
川地はしばらくそのままに少年の熱い素肌を自分の頬に味わう。
次第に落ち着いてくる規則正しい胸の動きが、ついと眠りに誘いそうな心地である。
少年は狭いベンチで釣り合いを崩さぬようにとしてか、両腕を川地の背に回したままでいる。
(この時をのばしたい、などと思っているわけでもあるまい)
この少年といるとどうも自分に都合のいいことを考えがちなのだ、と川地は自分を戒める。同じように、いや、それ以上に美しいもう一人の少年といてもそんなことは考えないのだから不思議なものだ。
そのわけを川地はつきつめようとは思わない。
体を離そうとすると、少年の手に力が入る。
川地が首を振ると、少年は目を伏せて従う。
身支度を終えて立つ少年は、顔だけが伏せ気味である。
座ったままで着物の乱れを直した川地は、うながして今一度自分の横に少年を座らせた。
「手を」
川地の言葉に少年は少し怪訝そうな顔をしながらも、素直に片方の手を出す。
以前にも見たその大きく厚い掌を川地は自分の両手で取り、指の腹で撫でた。
少し乾いた、熱い手。
「これは、この帝都の人々のために使うものだ。儂も含めて」
「……」
少年はまばたきをし、川地の顔に見入るようにする。
「そうだろう」
少しの間、自分の内を覗き込むような顔を見せた後、少年は肯いた。
「…はい、そうです」
小さいが、その声に力があった。
「大事にしろ」
「はい」
少年は再び肯く。
立ち上がる川地に再び自分のマントを着せかけ、少年はまたその後についた。
廊下に戻ってガラス扉を閉める時、黒い鳥が一羽、植え込みの高い枝から飛び立つのが見えたような気がした。
***
「で、預けた笛はそのままなのかい?」
数日後、探偵社の事務所のデスクで、神社から戻ってきて報告を終えた少年に鳴海はあらためて尋ねた。
「前の絵みたいに、おまえが処理するんだと思ってたけど」
「…少し、妙な気がしたので、使者の人にも見てもらって」
それでもよくわからなくて、しばらく預かってもらうことになったということか、と鳴海は推測する。
(ゴウトがいないと、話を接いでくれるヤツがいなくて不便だな。「あいつ」はそういう点ではあんまり当てにならないし)
少年の部屋にいる新しい居候のことを考えながら、
「まあ、とにかくこの件は一応『済』にしておくか。ご苦労様」
言ってコーヒーを入れる用意を始める。
「しかしあの子、元々の笛の持ち主の家の出だそうだけど、よく何も文句を言わずにこっちに渡してくれたな。そりゃ、あの川地って爺さんの力で手に入ったわけで、爺さんがこっちにくれるって言えば何も言える筋合いではないけど、ちょっと駄々こねれば爺さんも考えるって関係だろう、あれは?」
「……」
言ってから少年の沈黙に気づいて、
「ああ、おまえにそんなこと言ってもわかんないよな」
流行りの歌を口ずさみながらコーヒー豆を挽いていると、珍しく少年の方から話をしてきた。
「部屋で待っていた時…あの子…何か話していましたか?」
「ん…?あの時?そういえばおまえ、迷って随分遠くまで行っちまったんだって?おまえ変に足速いから爺さん探すのに苦労したんだろうな」
「あ…すみません…」
「いや、俺に謝ることはないけどさ。しかし、怪物とか言われてるけど結構気さくでいい爺さんじゃないか。まあ敵に回すと怖いんだろうけどさ」
鋭そうな目を思い出しながら鳴海は、湯の沸騰するのを待つ。
「ああ、それで待ってる間、ね」
少年の最初の問いを思い出し、鳴海はその時のことを思い返してみたが、
「うーん、特別な話はしなかったと思うよ。天気とか。晴れてよかったとか、そんなこと言ってたと思うけど」
三十男の探偵と、名家の美童では共通の話題もあるわけもなし、鳴海はただコーヒーを味わって待っていた、と思う。テーブルの向こうの相手は、布包みを開いて笛を見たりしていたような気もするが、既にそれほど覚えていない。
「…そうですか。では…」
少年は言ってドアの方に向かう。
「コーヒー、飲まないのか?すぐ入るぜ」
「いえ、いいです」
愛想のない少年の返事を聞きながら、鳴海は自分でもよくわからない溜息をついた。
(やっぱり、ゴウトがいなくなって淋しいんだろうな。「あいつ」は捜査の役には立たないけど、そこら辺でちょっとはなぐさめになるといいが…)
***
廊下を歩く革靴の足音が聞こえた。
この部屋の主だ、とすぐにわかる独特のリズムのある音だ。
(もっとも自分にはそれより先に匂いでわかるけれども…)
ドアが開いて、部屋の中に入ってきた少年はこちらに目を向けた。
「耳」
言われてはっとし、引っ込める。
以前はいつも完璧だったが、この少年に「化ける」のは久々のことなので気を抜くとついボロが出てしまう。
帽子を被っていればごまかせるが、暑苦しいので普段は脱いでいた。
「出来ないなら、元の姿でいろ」
少年は、自身そっくりに化けている狐を見てそんなことを言う。
ほとんど無表情だが、嫌がっているのはわかる。
まあ生まれつきの双子でもない限り、自分と同じ顔と声の存在にすぐ側でうろうろされるのは神経に障ることでもあろう。しかし、
「いつも練習していないと、ちゃんと身代わりが出来ないじゃない…ですか」
そう言って顔色をうかがう。
里にいた頃はごく普通に遊び仲間のようなしゃべり方をしていたが、少年が代を継いでからは一応きちんとした話し方をするように気をつけている。
少年は渋々といった様子で目をそむけ、自分から離れた机の前の椅子に座る。
確かにこれから時々あるだろう身代わり登校などの際に失敗してはまずいが、そもそもそんなことよりも、この狐が本来の白狐の姿でいるより、自分に化けているのが好きなのだということを、少年は知っているのである。
「なぜだ」
と聞かれたこともあるが、狐にもその理由はよくわからない。強いて答えるならこの少年が好きだからだろう。
まだ巣穴で母狐に甘えていた頃から、こちらもまだ幼い少年を見かけて一目で気に入ってしまったという以外、常に側にいられるようにと、少年が武術を筆頭に様々な術の修練を積む間、人間に化けて人を操る鍛錬を重ねてきたことに理由はない。
少年の周りの大人たちも、この狐が「使える」ことを知って練習に力を貸してくれたし、お返しに里の様々な仕事もしてきた。
その里の家の名を継ぐ何代目かの候補になっているというので、当時は「コーホ」と呼んでいた少年が見事襲名を果たして代を継いだ後は、少年はお目付け役と一緒に帝都に出てしまい、たまに里帰りする時くらいにしか会えなかったが、先日急に自分の方に「帝都に行って、当代に協力せよ」というお達しが来たのである。
どうやら、世間知らずの少年は、一人帝都の厄災を防いで、無事お目付け役からは卒業したものの、まだ「人間だけ」相手の暮らしには慣れきっていない、ということらしかった。
その少年はまだ難しい顔をして椅子に座っている。
「…そんなに嫌なら、戻りますけど」
仕方なく言ってみると、少年ははっとしたような顔を向け、それから首を振った。
「ちょっと、考えていただけだ」
好んではいないが、叱ってやめさせるまではしない。そういうところも少年のいいところだ、と狐は思う。
「何を考えているんですか。難しいことなら所長さんと考えた方が、いいんじゃないですか?」
聞いてみると、
「鳴海さんでは、わからない」
容赦の無い返事が返ってくる。
「人間以外のことですか。でも年を取っている分、わかることもあるかもしれませんよ」
「里の人間ならそうだろうが、あの人は普通の人間だから」
そう決めつけたものでもないだろうと狐は思うが、大きな問題ならばさすがに相談くらいはするのだろうし、ここは逆らわないことにする。
「僕ならどうです」
言ってみると、少しこちらを見て考えている。
「…物に憑いている魔が、姿を現さずに人の意識や記憶を消したりするということがあるだろうか」
少年はそんなことを聞く。
「さあ、そんなことが出来るんならすごく強い魔でしょうが、でも記憶を消せるんだったら、姿を見せても、後で忘れちゃうんだから関係ないでしょう」
少年は目を丸くする。
「そうか」
驚いたように言う。
「頭がいいな」
狐は黙って慎み深げに笑った。
誰でも考え付くようなことだと思うが、少年は体を使う方が性に合っているのでこのくらいのことで感心するのだ。実際、さっさと所長に相談していればすぐに解決していただろうが、そんな興冷めなことを言うよりは自分が役に立つと思わせておいた方がよい。
「そういうことか…」
少年は一人得心している。
「明日から、ちょっと捜査に行ってみるから」
「僕が学校に通うんですね」
狐は少し興奮して聞いた。
初任務だ。少年は肯き、
「大人しくしていればいいから」
「わかってますよ」
安心させるように満面に笑みを見せて答える狐を少年の方はどこか不安そうに見ていた。