身代わり登校二日目の授業中、狐は教師から名指されてうろたえた。
ただ教科書を読むように言われただけなのだが、人の言葉を話すのはともかく、読み書きの方は不得手である。こういう時のために少しは勉強しておけと言われてはいたが、いつかそのうち、と先延ばしにしていた。
(しょうがない…)
狐は立ち上がって教科書を読もうとするふりをしながら、机の上に崩おれてみせた。
「おい、大丈夫か」
教師や周りの級友が驚いて助け起こす。
「…大丈夫です…すみません」
言いつつ、顔色は蒼白に見せている。人に化けられる変化の力があるのだから、このくらいは手もないことである。
「昨日も体術を休んでいたようだし、どこか悪いのか」
「少し…貧血の気味かと」
少年の顔色を見て教師は肯き、
「夜も眠らず根をつめているのではないか。この学校の生徒は勉強熱心だからそういう者が多いが、体の事も気をつけねばいかんぞ。誰か、医務室に連れていってやれ」
「あ…平気です、一人で行けます」
少年は心配そうな教師に、少しだけ顔色を取り戻して微笑んでみせた。
医務室で、また少し血の気の引いた顔を見せてベッドに横になる許可をもらい、狐は授業中の考え事を再び思い返した。うろたえたのは、そっちに頭が行って上の空だったこともあったのだ。
その考え事のせいで多少睡眠不足だったのも本当である。
もちろん、前日に無理矢理誓わされた約束の件だ。
あの後、マントや服の埃をはらったりして、おかしなところがないように気を使って探偵社に帰りついたのはもう夕刻を過ぎる頃だった。
「うっかり、市電を乗り間違えて迷ってしまった」
という狐の言い訳を所長の鳴海は何の疑惑も抱かずそのまま信じ、
「これからは道がわからなくなったりして困ったら、ここに電話しなさい」
と、番号の刷ってある名刺を渡した。数字くらいならなんとか読めるが、一応後で少年に聞いて確かめよう、と思う。
その少年は帰っていなかった。こちらはちゃんと電話で連絡を入れており、捜査で忙しいので今夜は帰らないということだった。
聞きたいことは色々あったが、少年の鋭い目の前には何もかも明らかになってしまうという恐れの方が強く、その不在に狐は安堵した。
初日からいきなりこんな失敗をしてしまったなどとは知られたくない。「使えない」と思われて失望され、里に帰されるようになるのも嫌だし、とにかく少年の役に立ちたいのだ。
狐は自室に戻らずそのまま事務所の椅子に座りこんで鳴海に色々と話しかけた。鳴海はうるさがったりはせずに気さくに返事をしてくれる。
無口な少年とばかりいるので普段の会話はあまり弾んでいないが、元来は話し好きのようで、相手がいるのは嬉しいらしい。
「帝都は里と違って綺麗な人が一杯いますね。でもコー…十四代目は、帝都でもいい線でしょう?」
「そうだな、同じ顔をしている相手に言うのもなんか変だけど、うん、目立つ方だよね…あ、でもこの間すごいのを見たよ」
「すごいって、どんなのですか?」
「年は少し下みたいだったけど、元どこやら家のお坊ちゃまとかでさ。モガのおかっぱ頭を伸ばしたような髪で、唇なんか、化粧してるみたいに赤いんだ」
狐は内心小躍りをした。子供が所長のことを言っていたから、こちらも知っている相手なのだろうと当たりを付けて話を振ってみたのである。
(でも、見たってことは知り合いまでは行ってないんだな、所長さんの方は)
それから適当に世間話なども混ぜつつ、その夜のホテルでのことなどを聞いているうちに、どうやらその問題の笛が今は名も無い神社にあるらしいことがわかった。
(普通なら手に入れたらそのまま始末しちゃうのに、よほど強いヤツが憑いてるのかな。それで封じるのに何か特別なものがいるってことかな)
力のあるご神木などは、悪用されないようにいくつかに分けてあちこちで守らせていたりするそうだから、少年が捜査で走り回っているというのは、その一つずつを集めているのかもしれない。
(でも、所長さんもあの子も何もされてないよね…コーホがいない間あの子と二人で待ってただけって言うんだから)
だったら自分が手にしても大丈夫だろう、と狐は医務室のベッドで転がって考える。とりあえずやる事は決まった、と思うと眠気がやってきた。
そのまま一眠りして昼休みを知らせる鐘が鳴る頃にはすっきりと目覚めると、また適当に顔色を調節して、午後の授業は早退扱いにしてもらうことにした。常日頃真面目らしい少年のお陰で、さぼって遊びに行くなどと疑われることもない。かえって、
「気をつけろよ、歩けなさそうなら俥を呼ぶか」
などと心配されるほどである。
「大丈夫です」
青白い顔で健気に微笑んでみせた少年は校門を出るやいなや鼻歌を歌いながら歩きはじめた。
***
「おや、十四代目の『カゲ』ではありませんか。どうかしましたか?」
名も無い神社で呼び出した使者は少年を見るなりすぐに尋ねた。
(やっぱり、駄目か)
少年本人のふりをして笛を持っていこうとした狐の目論見はあっけなく潰えた。しかしこれはまあ、駄目で元々というほどの考えである。本番はこれからだ。
「十四代目に頼まれたんです。笛を持ってこいって」
使者は少し首を傾げた。
「何故自分で参らぬのですか?昨夜、そこの修験界に入ると挨拶がありましたが」
(え、修験界?)
帝都のどこかを走り回っているのだろうと思ったのに、こんなところで何をしているのだろう。しかも律儀に断りなんか入れて…
「あ、はい、えーとですね、それはもう済んだのです。それで帰るところに迎えに来て、外で会ったんですが、笛をいただいてくるのを忘れたと言うので僕が一走り」
狐は出来るだけ落ち着いた調子で話した。幸いこの少年の顔は表情が出にくい顔である。というよりも、身代わり役として似せるために、あまり表情を出さないよう訓練してきたという方が正しい。
「ああ、そうでしたか。ご苦労様ですね」
使者は口元に笑みを見せ、しばし奥へ去った。
胸の鼓動が高まり、自然と後ろに組んだ両の手を握り合わせてしまう。
ようやく使者が持ってきた布包みを息を詰めるようにして受け取り、出来る限りゆっくりと頭を下げる。
「ありがとうございました。では…」
言って去ろうとした時、使者の目線が自分の後ろに動いたことに気が付いた。
「十四代目…?」
ふり向いた狐の目に、修験場に通じる手水鉢から姿を現した少年の姿が見えた。
こちらに気が付いたのか、眉をひそめている。
狐は笛の包みを胸に抱えて、驚き顔の使者を横目に奥の森の方に駆け込んだ。
逃げ切れるかと思ったが、
「ニンゲン〜、こっちだよー」
偵察に飛んだらしい疾風属の仲魔が上空から叫ぶ。
(ああ、駄目かあ…)
狐の耳に下生えを踏み分けて走ってくる少年の足音が聞こえた。
***
少年と一緒に昨日子供が案内した通学路の途中にある物置小屋に入ると、暗い中でも空間が歪むのがわかった。
霧に包まれたような感覚の後、回りに光が戻り、昨日と同じ屋根裏部屋に移動していた。
あの子供の階段を上ってくる足音と匂いがする。
「へえ、あそこが使えるってわかったんだ。さすがだね」
ドアを開けて子供が言う。
(コーホの考えた通り、あそこの中に通路を作ってあったんだ。あんなところから気絶した人間を運び出したり入れたりしてたら人目につく危険があるからって)
狐は心の内で感心する。
「今日また学校で『待ち合わせ』をするつもりだったけど、君の方から来てくれたんなら手間が省けたね」
子供は楽しそうな声でこちらに近づく。
「待ちきれなかったの?これが…」
クスクスと笑いながら少年の前に立ってマントの前を開き、片手でいきなりズボンの前をつかむようにする。
「……」
少年は驚いたような小さな吐息を漏らす。
「笛は、ここに…」
言って、腰のベルトに挟んでいた笛の包みを抜いてみせたが子供は、
「そんなのは後でいいよ」
と、慌しい手で奪い取り、脇の布をかけられた椅子か何かの上に、なかば放るように置いた。
(乱暴だなあ…大事な笛じゃないの?)
子供は笛には見向きもせず、少年に向かって片手を一振りした。
(何…?)
「これで、勝手には動けないでしょ。武器なんか役に立たないよ」
子供は昨日と同じような歪んだ笑みで少年の胸のあたりを突くようにした。
少年の体は、膝から力が抜けたようにその場に沈み込む。
自分の前に膝を付く格好になった少年の顎を指で持ち上げ、子供は立ったまま自分のズボンの前を開いた。
「今日は君の番だよ。昨日は君ばかり楽しませてあげただろう?」
少し眉をひそめる少年の顔を、子供は自分の腰の前に引き寄せる。
「何するのかわかってるでしょう。いつも御前にしてたことだよ」
「……」
少年は黙って口を開け、子供の望みどおりにする。
子供は満足そうな溜息を漏らす。
「ふ…上手いじゃない…似合ってるよ。君たちなんかは、こうやって僕たちの下で仕えてればいいんだよ。元が一緒だって、ずっと昔に君たちの家は上に使われるだけの生業に落ちたんだから」
(…そんな古いこと言われたって、コーホわかるのかなあ)
狐の素朴な疑問をよそに、子供の顔は上気して吐息も荒くなり、つま先立った足が床から上がりそうになる。
上半身の体重を預けるように少年の肩を押さえ込み、子供は自ら動く勢いを増す。
「…飲んで」
子供の両手が少年の後頭部を押さえつけ、体に震えが走るのがわかる。
「あっ…」
口の中の物を飲み込む音が響いた後、崩れかかる子供の体を少年はその肩に抱いた。
「放せよ」
子供は嫌そうに少年の手を振り払ったが、すぐに足元がよろけ、床に尻をついた。
「大丈夫か」
伸ばす少年の手を、子供は平手で打つ。
「馴れなれしくするな。おまえなんか、一生僕の下僕にしてやるんだから…」
青白く見える顔で子供がそんなことを言った時、新たな声がした。
「それは、己一人の力でやるのだろうな?」
子供の背中から白い霧のような物が湧き出している。それは徐々に人の形になっていき、やがて子供と完全に分離した。
狐は目を見張る。
(人みたいな形はしてるけど、角があって、羽根も生えてるし、皮膚も足も鳥みたいで…大体、でかいよ、この「魔」ってば!)
子供の方も少しあせった様子で叫ぶ。
「な、何を言うんだ、僕はちゃんと力を貸してやったじゃないか。でなかったらおまえはあの笛の中から出られなかったんだぞ」
「今は、自由の身だ。おまえの中に溜まっていた憎しみがいい糧になってくれて力を取り戻せた。これ以上下らぬ遊びにはつきあえぬ」
魔は言って辺りを見回し、笛の包みに目をやって言う。
「後は、あの笛さえ壊せば、俺は完全に自由だ」
「壊す?あの笛は僕の物だから取り返すって…」
「馬鹿を言うな。俺は何百年もあの中に封じられていたんだぞ。あんな危ない物を放っておけるか」
魔は片手を振り上げた。その掌から笛に向かって炎が走る。だがその炎は布の表面で弾かれ、かき消された。
「なんだと?」
布は中身ごと浮き上がり、ふわりと開いた。その中から現れた笛は見る間に少年の使う管に変わる。素早く少年の唱える呪に応えて管の蓋が開き、中から翡翠色の光が流れる。光は燃える車輪に磔にされたような仲魔へと変化し、布は再び管を包んでゆっくりと床に落りた。
「貴様…!」
炎の効かない相手だと見てとったか、魔はその手を少年と子供の方に向かって振り下ろした。
攻撃を予想していたらしい少年は子供を自分の後ろに回し、抜いた刀を構えて炎を受け止めた。様々な魔の術にも耐えるように鍛錬してはいるが、それでも少年の方には多少のダメージがあったようだ。
魔が再び手を振り上げて下ろそうとした時、後ろから仲魔が術を使った。
手は振られたが、何も起きない。
「貴様…魔封じだと?」
「何が出て来るのかわからなかったから、とりあえず封じる力を持った悪魔を探して来てもらったのだ」
淡々と言う少年に、魔の目は炎使いに相応しい怒りで燃え上がる。
「それなら力ずくでおまえを喰らうまでだ」
殴りかかろうとした魔に、少年は素早く抜き出した銃で氷の弾丸を撃ち込んだ。
魔は動きを止めたが、その生命力はまだまだありそうだった。
「この子を連れて逃げろ。まだ時間がかかる」
少年が呼びかけたのは、管を包んでいた布だった。布はまた浮き上がって空中で一回転し、少年と同じ姿になった。狐は罰の意味もあって、管を包む布に化けさせられていたのである。念の為、管を笛に見せかける目くらましも使っていた。
(一応守りの結界は張ってくれてたけど、どっちかって言うと管のためだったような気もするし…とにかく、怖かったあ…)
「え、何…?」
目を丸くする子供の腕をつかんで引っぱり、狐はドアへ走った。子供を先に部屋から出し、ドアを閉める間際に声をかける。
「コーホ、頑張ってね」
だが戦闘に忙しい少年には狐の言葉など耳に入れている暇はないようだった。