「何と言われようが返事は同じだ。さっさと出て行きたまえ」
上等そうな布でくるまれた笛らしい物を胸に抱え、もう片方の腕は怒気もあらわに指を伸ばして探偵につきつけているのは、笛の演者でその持ち主の男だった。回りにいる男たちも同じように探偵を睨めつけている。だが探偵の方はそんなものは目に入っていないように涼しい顔で会話を続けようとする。
「まあそうおっしゃらず、最後までお聞き下さいませんか。もちろんこの笛がお家の宝だということはよく存じておりますが、そういうもの程欲しくなるのが人の性でして、是非とも折り合える条件を聞いて来いと命令されましてね。自分はただの仲介役ですので、どうかその辺の辛さというのも察していただければ…」
さっきの男たちのやりとりにも辟易したが、こちらもまた実の無さという点ではいい勝負の長科白だ。助手の少年の方はその後ろに、いつもの能面の横顔を見せて立っている。
(相変わらずだな)
内心おかしく思い、そう思えたことで川地は安堵を覚えた。
狭い帝都である。
二度と会わぬと心で決めたところで、今日のようにいくらでも偶然というものはある。
それが起こった時自分の心がどのように揺れるかと怯えていた川地は、存外に平静な心のまま少年を見ることが出来た自分に安心をしたのである。
「誰が欲しがっていようと、どんな条件だろうと、手放せないものというものがある。君はたとえば親兄弟を売れと言ったら値段次第だと答えるのかね」
怒りの冷めないらしい相手に向かい、探偵はあくまで軽い調子で続ける。
「いえ、そのように大袈裟にお考えになられても困りますので。家の宝とはいえ、家族のように生まれた時から共にあったというものとは、違いが出ますでしょう」
「……」
男は言葉に詰まった。
痛いところを突かれたようだ。なるほど、代々伝わったものではなく、当人の代に金で買ったものなのだろう。探偵はその辺りのことは調べてきているらしい。
(しかし、やり方が今ひとつまずいな。どれ程の代価を約束されても人目、それも仲間の前で「家宝」を譲るなどと言えば面目が立たぬ)
この手の話は人知れず持ちかけるものなのだが、一介の探偵風情では新興とはいえ財閥である相手に対する伝手がなく、仕方無しにこういう席に潜り込んだのかもしれない。
「と、とにかくどんな条件でも手放す気はない。大体、一体誰が我家の家宝と知ってそれを求めるのだ?名も出さず売れとは、あまりに無礼ではないか」
相手は逆襲してきた。
「いやあ、それが大っぴらに名前は出せない方ですからこうして自分のような者が動いている次第で」
探偵は笑いを浮かべて言い、さも大物が後ろにいるとでも思わせたいのだろうが、
(底の浅いブラッフだな)
見るものが見れば、そんなことではないのが丸見えであろう。案の定相手は、
「ほお、この私に名前が出せないとは、それはもうやんごとない身分のお方と考えていいのかな?」
「……」
今度は探偵の方が言葉に詰まった。ここで肯えば依頼人は上つ方に連なる筋と断言することになる。そこまで言ってしまってはすぐに裏を取られてしまうのだ。相手は探偵の内心の動揺を見破っている。
「話はここまでのようだな」
と言うのを機に、
「それではどうあっても、お譲りいただけないか」
川地は割って入った。
少年がさっとこちらに顔を向け、目を見開いた。
***
その夜は今回の催しのせいもあってかホテルは既に満室だったが、成沢に自分の名前を出させて、臨時の時のためにホテルがとってある特別室を準備させた。川地と雅近は二人掛けの長いソファに並んで腰をかけ、探偵と助手はその向かいの一人ずつの椅子に座った。騒動の元になった笛は布にくるまれたまま、間のテーブルに置かれている。
ルームサービスのコーヒーが運ばれてくると、探偵はいち早くカップを口に運んだ。
「いやあ、さすがに帝国ホテルだ。コーヒーもいい豆を使っていますね」
顔中に広がるような笑みで言う。味もわからずただ迎合するおべっかではなく、実際にコーヒーが好きで言うらしいので、川地もつい苦笑のような笑みを見せたが、
(ノンシャランな伊達男に見せているようだが、それだけではなさそうだな)
少年の属している機関に関わりがあるのならば、当然それなりの「前」があるのであろう。その辺りのことは必要になればまた成沢にでも探らせるとして、
「それで、実際にこの笛を欲しがっているのは誰なんだ?」
先刻の川地の出現には相手だけでなく探偵の方も驚いたようだった。いきなり未知の人物から助力を得られたのだから当然であろう。だが続いて後ろから姿を現した成沢の姿が目に入ってとりあえず納得をしたものか、呑み込み顔で黙った。ここは川地に任せた方がよいと踏んだのであろう。頭の回転は速いようだ。
また持ち主の方は、更に成沢の後から追いついて前に出た雅近の姿を見たことで得心がいったようだ。
その場にいた他の者たちの頭の中にも、今は他家へ出された名家の末裔が、せめて先祖の家宝をその手にしたいと成金の老人に媚びを売ったという筋書きが自然に出来上がったと見え、場の空気は一斉にゆるんだ。
「これは…お人が悪い。川地様のお望みとあればこのような大仰なことにせずとも、電話の一本ですぐにお持ちしましたのに」
持ち主は歪んだような笑いを隠しつつ言う。稚児の言いなりになっている成金を軽んじていることを周りにはうかがわせつつ、言葉だけは丁重という、もういい加減自分でも飽きが来はしないのかという作法である。
「どうぞ、このような物でよろしければお持ちください」
そう言って川地の方へうやうやしく布包みを差し出す。わざとらしい様子がみえみえである。金なり仕事上の便宜なり、後でそれなりの代価を得られることはわかっているのだ。
川地が顎をしゃくると、探偵は助手に声をかけた。だが助手はすぐには動かなかった。もう一度即されて、はっとしたように改めて持ち主の方に目を向け、急ぎ包みを受け取って頭を下げる。
「では、後は部屋の方で話すか」
探偵に向かって言う。その時にはまだ部屋は取っていなかったが、そのようにでもしないと「自分が頼んでいたことである」という芝居が壊れてしまう。仕方のないなりゆきだ、と川地は心の中で誰にとも知れずに言う。
(元気であったと、知れればよいのだ。一言くらい声を聞いても、構わぬだろう)
そんなことを思いつつ川地は廊下をロビーの方に向かった。成沢は川地が「部屋」と口にした瞬間にもうフロントの方へ走っていた。
「その前に…こちらは確か初めてお目にかかりますね。秘書の方とは二度ほどお会いしていると思いますが」
探偵は上着のポケットから名刺を取り出して渡した。川地は受け取りつつ、
「川地省吾という。名刺は持たぬ」
「ご高名は存じております。そうでしたか、こちらが」
探偵は少し目をみはって、
「以前にうちの助手がお世話になったと思いますが、記憶違いでしたらご勘弁を」
軽い笑みを浮かべて言う。へつらうわけでもなし、特に含むような表情でもない。単に会話のいろどりとして昔話を持ち出しただけなのだろう。この上司には実際の「世話」の内容は伝わっていないようだ。
「そうだったな。知人に頼まれたことで、あまり覚えてはおらぬが」
「この助手は少々物知らずなところがあるので、失礼でもしないかと案じていました」
「いや、そんなことは--」
なかった、と言おうとして、覚えていないという直前の言葉に反することに気づき語尾が曖昧になったが、どのみち社交辞令の一環であって、相手も返答の内容を細かく聞いている様子はない。
「それで、この笛は…」
川地が再び尋ねた時、それまでうつむき気味に座っていた助手の少年は唐突とも思える動きで立ち上がった。実際には特に速い動きでもなかったのだが、予想していなかったせいで川地だけでなく、探偵や、こちらの隣の少年も驚いたようだ。
「どうした?」
探偵が聞くのに少年は、
「…すみません、失礼を…はばかりに」
言ってドアの方へ向かう。
「洗面所なら、この部屋のを貸してもらえば…」
探偵が言うのも聞こえないように少年は足早にドアを開けて出て行く。その時には川地も既に立ち上がっていた。
「迷うといかんだろう。雅近、お客様のお相手を頼んだぞ」
早口で言いおいてそのまま後を追った。残された少年が嫣然と見せる微笑と、探偵の当惑顔が最後に目に入った。
***
少年は廊下の突き当たりの階段の前に据えられたカウチに座っていた。川地が近づいても目を向けようとはしない。ごく近くまで寄って、ようやく気づいたらしく顔をこちらへ向け、立ち上がった。
「…申し訳ありません」
頭を下げる少年を見ながら、久しぶりにこれを聞く、と思う。
「何を謝る」
「…お忘れになられていたところを、またご迷惑をおかけする仕儀に」
「……」
川地がどう返事をしたものかと言いよどんでいるうち、階段を上ってくるいくつかの足音が聞こえた。ロビーから上がってきた客だろう。ちらりとこちらを見ながら奥へ歩いていく。それを見るうち、川地は心が決まった。
「来い」
言って、階段を上る。少年は少しおいて、黙って後を追ってくる。しばらくどちらも黙ったままに、階段を上り、廊下を歩いた。
突き当たりにガラスを嵌めた大きなドアがある。川地はドアを開けた。
夜風が顔にあたる。夏の間はテーブルが出され、活動などが映されているが、今は誰もいない。
奥へ進むと中庭が見下ろせる屋上庭園である。高く伸びた植え込みが茂り、昼間には水を出しているのだろう噴水の彫像がそびえている。下の階では部屋からバルコニーに出て今宵の月を愛でている客もいるようだ。
川地は手すりから少し離れたところのベンチに腰を下ろした。ふっとくしゃみが出るのに、少年は間をおかず自分の着ていたマントのボタンを外して背に着せかける。
「おまえは」
「鍛えておりますから…」
見た目は寒そうな学生服だが、顔にも鳥肌一つ立てていないところを見ると言葉どおりなのだろう。そもそも、いつもその言葉に嘘やら見栄やらはまるで無かった。
「おまえも、座れ」
ベンチの隣を示すと、少年は言われるままに川地からは少し離れて腰をかけ、顔は前を向いて少しうつむけたまま、次の言葉を待っているようである。
「…忘れては、おらぬ」
ようやく、川地は言った。
「あの上司は細かいことを知らぬようだから、あのように言ったまでだ」
「……」
少年は黙ったままでいる。こちらに見せる横顔も変わらない。
どう続けたものかと川地が思いあぐねていると、いきなり口を開いた。こころもち、川地の方に顔を向けている。
「有難うございました。ハンカチと、お文を」
「ああ…元気にしていたか」
「はい」
短く答えて少年は肯く。
普通ならばまず最初に交わすような挨拶を今になってやっと済ませるところが、いかにもこの普通とは違う少年にふさわしい。
「お礼の文を書かねばと思ったのですが、かえってご迷惑だろうと」
「そう思ったのか?」
少年がそんな風に頭を回すというのが幾分腑に落ちず、川地は聞いてみた。
「いえ、そのように、ゴウトが」
「ゴウト?…あの黒ずくめの女か?」
聞き覚えのない名だと、川地は尋ねた。成沢の報告にもそのような名はなかった。上司はまた違う名であったし、そういう点での記憶力はまだ衰えない川地である。
少年はただ首を振り、また横顔をうつむけた。
「今は…いません。それで、鳴海さん…所長が一緒に」
(鳴海というのが、あの上司だったな)
変わらず人との会話に慣れていないらしい少年の話は、一度には意味をつかみにくい。
(外歩きに随行していた仲間のような者がいたということか。それがいないので所長が出張ってきていると)
「相変わらす、働いているのだな」
「…はい…?」
川地の言葉に少年は顔を上げ、少し訝しげに答えた。ただするべきことをしていると思い、いやそれ程の意識もなくそれを行っていて、働いているという気持ちなどはないのだろう。
「それで、よい」
自分の言うべきことはこれだけだ、と思い、そろそろ戻ろうと考え始めた時、少年はまた川地に顔を向けて口を開いた。
「ご迷惑だったでしょうか…文を差し上げましたら」
その目はまっすぐに川地を見ている。
いつか見たことのある表情だという気がする。
(思い出しては、いかん…)
問われたことの意味だけを考えねばならぬと、川地は集中に努めた。