終業の鐘がなり、教師は読本を閉じて講義を打ち切った。
級長の号令と共に生徒たちは立ち上がり、礼をした。
教師が部屋を出ると同時に張りつめていた空気が一斉にゆるみ、当番の生徒が黒板の文字を消している間にざわめきが広がる。
教科書やノートを揃える手間すら惜しんでまとめて抱え、教室を飛び出して行く者もいれば、座りなおして級友たちとの会話に興じる者もいる。
帰りにどこかへ寄る相談をしている者たちもいれば、誘い合って部活動に行く者たちもいる。
そんな中、少年は誰とも交わらず本やノートを鞄にしまってそのベルトを肩にかけ、マントを羽織り一人静かに教室を出た。特にその姿を気にとめる者もいない。
(一日目は、無事に終わりそうだ)
そんなことを思いながら校門のところまで来ると、門柱に寄りかかるように立っている生徒がいた。
片方の手で学帽の庇を上げて自分の方に目を向ける。
見覚えのある顔だ。
クラスにはいなかったが、今日の午前中にあった柔術の、二組合同の授業で見たような気がする。
少年自身は「体調が悪い」と見学をしていたので遠目で見ただけだし、名前までは思い出せない。
「やあ、今帰り?」
「あ、うん…」
「急いでるの?」
「う、うん、ちょっと…」
実際には別に急いではいなかったが、下手に話が長引いたりすると困る。
外側は高等師範学校生徒の姿をしていても、中身はまだこの学校にも帝都にも慣れていない、山里育ちの化け狐である。些細なことから怪しまれてはまずい。
(忙しいサマナーなんだから、学校なんてやめてしまえばいいのに)
狐は気楽にそんなことを思い、「鳴海さん」という所長にも言ってみたが、
「それは駄目だよ。サマナーは人を護るものなんだから、まず人として、人に交じって生きることを知らないとね」
と、それまで見せなかった真面目な顔つきで諭すように言われた。
(そんなものか)
と狐は思い、それならそれで自分の務めを果たすだけである。とにかく出席をして怪しまれないように振るまい、その日学校であったことは忘れないうちに少年にでも所長にでも話しておくようにする。
狐である少年は駅の方に歩を進めつつ、隣を並んで歩き話しかけてくるその生徒の言葉に適当に返事をしていた。
幸い生徒の言ってくるのは、
「今度の弓の授業はいつだっけ?」
とか、
「先週銀座で始まった新しい活動、見たかい?」
などという当たり障りのないものばかりだった。忘れてしまって構わないようなことばかりだし、
(これなら駅でじゃあまた、と別れればすむな)
だが少年が安心していると、あるところまで来て生徒は突然とんでもないことを言い出した。
「実は、ちょっとつきあって欲しいとこがあるんだ」
(ええっ、そんな)
困惑が顔に出たのか、生徒は笑みを浮かべた。
「いや、そんな面倒なことじゃないんだよ。すぐそこだし」
「でも、早く帰らないと…」
抵抗してみたが、生徒はひるまない。
「頼むよ、ほんとにすぐだし、実は人に頼まれたんだよ」
そこまで言われると、邪険に断るのも角が立ってまずいだろうという気になった。
高等師範学校の生徒相手にそれ程の難問を持ちかけてくる人間もいるまい。
「わかった、どういうこと?」
生徒はここじゃまずい、と唇に人差し指をあて、しばらく黙って道を歩いた。
学校から駅までの道は元々人通りがあるし、特に今は学校帰りの生徒が多い。
片側に原っぱが広がっているところまで来ると、生徒は立ち止まって少し離れた物置小屋のようなものを指差した。
「あそこで、ちょっと、会いたいって子がさ…従姉妹なんだけどね。いや、手紙を渡したいだけらしいけど、他の生徒に見られたくないって」
「ああ…」
少年は納得した。この少年の容姿ならそういうこともあるだろう。
(とりあえず、手紙なら大丈夫かな。今は勉学が第一とか言って、受け取らずに済ませられるといいけど)
下手に話が進んだり、逆にこじらせたりしては叱られる。
「女子部の人?」
「うん、大人しい子だから君は知らないと思うけど」
そんなことを話しながら二人は小屋に歩いていった。
生徒が小屋の入り口の戸を開け、少年は中へ入った。
窓一つない小屋の中は真っ暗である。
(なんだってまたこんなとこで)
そんな疑問の湧いた次の瞬間、頭に鈍い衝撃があり、少年の意識はすぐに途切れた。
***
気がついた時少年は見知らぬ小部屋の床に横たわっていた。
(天井が斜めだ…)
天井というより、屋根裏部屋なのだろう。
小窓から入る光で、使われていないらしい家具や木箱が積んであるのが見える。
布のかかっているものもある。
横になって薄目を開けた体勢で、まずはそこまでを見た。
頭に衝撃を受けた後は、用心して動かなければならない。
襲った相手がすぐ側にいないとも限らない。
(誰もいないようだな)
ゆっくりと体を動かすと、少し埃が舞った。
体を起こそうとして、手足が不自由なことに気がついた。
手首と足首を縛られている。手の方は後ろ手だ。
それほどきつい縛めではないが、簡単には解けないような形だ。縛り方を心得た人間のやったものである。
(うーん…)
どうにか半身を起こして壁に寄りかかり、どうしたものかと少年はしばし考えた。
本来の姿に戻れば人間との太さの違いで抜けられるか、そうでなければ足の方の縄を食いちぎることは出来るかもしれない。
だが既に階段を上ってくるらしい足音が近づいていた。匂いは先程の生徒のものである。
(とりあえず、出方を見るか。とにかく同じ学校の生徒なんだし…)
だがドアを開けて現れたのは少年よりいくつか年下に見える子供だった。知らない相手だが、とにかく綺麗な顔立ちをしている。
白いシャツにベストとズボンだけの洋装に切り下げ髪。背は自分より小さく、体も細身のようだ。
通った鼻筋は形良く細く、白い肌に赤い唇が目立つ。
(ちょっと、コーホに似てるかな)
しかしその雰囲気は表面似ているようで、かなり違う。
そこまで見てとった時、その子供は年に似合わぬような冷めた笑みを浮かべて口を開いた。
「また会ったね、狐君」
少年は動揺を顔には出さないよう、唾を飲み込んだ。
睨むようなふりをして今一度相手の顔を見直す。
(いや、見たことない子だ…ということはコーホが会った相手なんだ)
正体がばれているわけでもなさそうだ、と思う。
少年の里の一族は「狐」と呼ばれることもあるのだ。そうしてそう呼ぶ場合、相手は大抵その一族を軽んじていた。
(それはいいけど、知り合いっていうのは困るなあ…)
どこぞの名門とか政治家などの子弟でもない限り、単なる男子高校生を襲って拉致監禁する者などいるまい。
ましてや少年の身分は住み込みの書生、月々の払いも遅れ気味な探偵社の助手である。身代金を取るあてにもならない。
それだから後頭部に衝撃を受けた瞬間、サマナーとしての少年の「敵」にやられたのだと思った。
そういう類の相手ならば、こうして命があった以上は、正体がばれようがどうしようが逃げることを考えればいいのだが、顔見知りとなると、少し様子を見て出方を考えねばなるまい。
「いきなり僕が近づいたら君も少し警戒するだろうから、同じ学校の生徒の姿を写させてもらったよ。彼は何も知らないんだから、次に会っても責めてはいけない」
子供はドアを閉めて数歩歩き、少年の前に立った。
(擬態かあ…そんな技を使えて、しかもこんな風にコーホを捕まえるってことは、こう見えて闇のご同業…?)
少年はその意図を思って少し怯えを感じた。さっきの生徒の姿が擬態だというのなら、この子供の姿だって本来の姿とは限らないわけである。
「次があるのかい」
動揺を抑え、なるべく本物らしく落ち着いた口調で言ってみると、子供はまた口元を歪めるような笑いを見せる。
「命を取ろうなんて思っちゃいないよ。その気なら意識のない間に、とっくにやっている。そうだろ?」
「帰してくれるのかどうかは別問題だから」
時空の狭間に送り出すような力を持ったご同業もいるのだ。
子供は床に膝を付いて少年と目の位置を合わせる。
「意外に疑り深いんだねえ?まあ、さすがというところかな」
細く長い指が少年の喉元に伸び、下に降りていく。
「大人しくしていれば、もちろんちゃんと帰してあげるよ。あの優しそうな所長さんのところへね」
言いながら少年の制服のボタンを外していく。
「なに…?」
子供は返事をせず、シャツのボタンも外し、首筋や鎖骨に唇を這わせてくる。
滑らかな、迷いのない動きだ。さらさらの柔らかな髪が肌をくすぐり、少年は思わず首を横にのけぞらせる。
「遠慮しないで声を出していいんだよ。この家には他に誰もいないし、庭が広いから、隣の家に聞こえる心配もない」
助けを呼んだりしても無駄だということだ。そのことは口に猿轡のようなものを嵌められていないことからも既に想像はついていた。
(人通りの音なんかもしないし、高台のお邸かどこかか…)
窓から入る日の光はそろそろ翳り始めているようだったが、殴られてからそれ程の時間が経ったという感覚はない。車で運ばれたにしても、帝都のどこかであるのは間違いないと思う。
子供は舌で胸への愛撫を続けつつ、片手はズボンのボタンを外し、そろそろと中を探りだす。
「あ…」
何をされるかは予想していても、つい声が出てしまう。
「いい声だね。それで御前をたぶらかしたんだね。あの夜も」
(何…?コーホってば、すました顔して何やってるのさ)
子供の言葉に内心驚き呆れつつ、
「そんなんじゃ…ない…」
と言ってみる。三角関係の修羅場であるなら、そんな風に言うしかない。
「今更、ごまかさなくたっていいでしょう?」
子供は探りあてたものを指で握り、親指の腹で先端を撫でる。
それは固さを増し、子供の指の腹が濡れ始める。
眉をひそめ、声を漏らしてしまうのが止められない。
子供の顔にはもう作り笑いもなく、冷たく不機嫌そうな表情が浮かんでいる。
「ふうん、そんな顔するんだね。そういうのが好きだって、御前がおっしゃった?」
「……」
狐には答えようがない。それ以前に正直、もう返事どころではなかった。
里での狐の仕事にはこういう類のことも含まれていた。
美しい女に化けることが当然多かったが、たまに「この少年」の姿でお務めをすることもあった。少年本人の初の手ほどき役の座を得るには、多くの者が手を挙げてもめたという噂がこの狐の耳にも入るほどで、表向きには禁じごとだったにも関わらず、隠れてそういう注文をされることも実際には多かったのである。
それだから、この姿でこういう扱いをされること自体は慣れていて、我を忘れても正体を露わす危惧はなかったのだが、
(こいつ…すごい、上手い。危ないかも…)
そういうことに「慣らされた」ということは、本物の少年よりも感度の方も高くなっているということだった。
狐はいつしか、再び床に横たわらせられていた。ズボンは縛られた足首まで下ろされ、上衣はすべてのボタンが外されて前を開かれている。
子供はそんな狐の上に覆いかぶさって指や唇や舌であちこちを探り、狐がそのたびに喘いで身悶えするのを愉快そうに眺める。
「そろそろ、つらいんじゃないの」
「……」
「でも、まだ駄目だよ」
子供は乾いた口調で言い、自分の口で濡らした指を狐の後ろにあてがった。そのまましばらく中を探られたと思うと、痺れるような感覚が体に走った。
自分が悲鳴のような声を出してしまったことには気がついていた。だが恥ずかしい、口惜しい、と感じる以上にこの状態を「終わらせて」くれるなら何でもする、その気持ちが勝っていた。
「誓うんだ。二度と御前の前に顔を出さないと」
狐は何を思う余裕もなく何度も肯いた。
「ちゃんと、言葉で誓うんだよ」
少年の指がまた容赦なく動こうとする。狐は必死に言葉にした。
「誓う、もう顔を出さない、誓うから…」
子供の顔に歪んだ笑みが浮かぶ。
「もう一つ」
狐は何を言われているかもほとんど意識しないままひたすら肯く。
「何でもするから、早く…」
「あの笛。あれは僕のだ。持ってきて返してくれるね」
「わかった、わかったから…」
狐はほとんど考えることもなく首を縦に振った。子供の唇が狐の張りきった先端をくわえて強く吸い上げ、同時に内側の指が動いた。
体が弓なりにそり、声が止められなかった。
気がつくと縛めは解かれ、服もきちんと直されて、元の学校の近くの物置小屋らしいところに一人寝かされていた。
自分が何を約束してしまったのかを思い出して、狐は身の震えるのを感じた。
「ちゃんと笛を持ってきたら、またしてあげるよ」
子供の甘い声が頭の中でまだ響いていた。