牛の寝通りの途中にある榧ノ尾山牛の寝通りから奈良倉山

大菩薩山塊で一般に宿泊山行として考えられるルートは、大菩薩嶺から南大菩薩に至る主脈、大菩薩峠からの小菅道、丹波道、石丸峠近くからの牛の寝通りくらいとなるだろう。主脈の縦走や丹波道の下りは歩いたことがあるが、残る小菅道、牛の寝通りは未踏だった。これらは新旧の小菅道であるわけだが、とくに牛の寝通りの尾根は地図上でも主脈や楢ノ木尾根に負けず劣らずよく目立ち、楢ノ木尾根を歩いて北方に眺めても長く伸びやかで、東に奈良倉山を起こしてさらに権現山まで続く稜線はいつか歩いてみたいと思わせるものだった。
2006年7月下旬、職場の夏休みをとったもののなかなか明けない梅雨に長期山行計画を実行する気が失せ、それでも週間天気予報を眺めて暮らしているうち、週の半ばに天候が回復するとの予報が出た。最低でも二日間はもちそうなので一泊行程の山行を考えるうちに、夏の、それも平日の大菩薩なら間違いなく静かなはずとあたりをつけ、牛の寝通りを歩いて奈良倉山に達し、西原峠から稜線を松姫鉱泉に下ってバスで大月に出る予定としたのだった。


今回の宿である福ちゃん荘の宿泊客は私一人で、予想以上に閑静だった。明日の山行だが、できれば松姫鉱泉に午後に2本しか着かないバスに乗りたい。そのためには遅くとも出発は5時になる。では早寝しようと日暮れて早々に寝に就いたのに、夜の涼しさを過大評価して寝具を掛けすぎたため暑さのあまりに夜半に眼が醒め、そのまま寝付けなくなってしまった。盛んにストレッチ体操をしたり、気分転換に天の川の流れる夜空を見上げたりしてみたものの、朝方に寝たのは2時間強という相当な寝不足の状態で早朝に起きる羽目になった。そして眠い目をこすりながら小屋を出たのだった。
天気はよく空気はまだ乾燥している。欠伸を連発しながら大菩薩峠へと向かう途中、富士見小屋前からは富士山が青空の下にすっきりと立っているのが遠望できる。泊まり客がいなかったのか、出入り口のシャッターが閉まったままの介山荘を横目に峠に出てみると、かなりの強さの風が甲府盆地側から吹いてくる。日本海側にある梅雨前線のせいか南アルプスはみな雲の中だったが、奥秩父の一角や八ヶ岳の山影は判別できた。振り返って奥多摩方面を眺めれば、奥多摩三山が雲海から頭を出し、とくに大岳山が尖塔のように朝の光のなかに浮かんでいる。大菩薩嶺へと続く山の斜面には朝の斜光線が長い影をつくっている。
大菩薩峠から富士山、中景は三ツ峠山(左)と御坂黒岳
大菩薩峠から富士山、中景は三ツ峠山(左)と御坂黒岳
朝の斜光線を受ける大菩薩峠
朝の斜光線を受ける大菩薩峠
熊沢山の歩きにくい斜面を上がり、眼下にいつも変わらず柔らかな草原の石丸峠を見下ろす。目の前には小金沢連嶺が長い山嶺を延ばしている。奥に頭を出しているのは雁ヶ腹摺山だ。ここからも奥多摩三山が遠望できるが、すでに大岳山は沸き上がる雲に飲み込まれそうだ。真ん前に立ち上がる1957メートル峰の右脇に顔を出す富士山を見やりつつ、滑りやすい斜面を下って石丸峠に着く。ここでもまだ吹き超す風が強い。
峠から15分も行くと左手に下る道筋があり、それが牛の寝通りへの入口だった。あいかわらず風が強いので腰を下ろしても休んでいる気がせず、かなり眠いのだがもう少し居心地のよい場所を求めて下り出すことにする。木々に覆われた中を行くと右手に見晴らしが広がるところがあり、雁ヶ腹摺山の姿が正面に大きい。いつもは大月側から眺める姿を裏から見ているわけで、多少なりとも新鮮だ。
牛の寝分岐直下から雁ヶ腹摺山を望む 牛の寝分岐直下から雁ヶ腹摺山を望む
すぐに長峰分岐が現れる。楢ノ木尾根と牛の寝通りに挟まれた長峰への標識には「道跡不明瞭通行注意」とあった。長峰もいつか歩いてみたいところだが、登るか下るかについては迷うところだ。この分岐のあたりから下りが急傾斜になってくる。平坦な尾根になる1,700メートルあたりまで200メートルほどを一気に下り、そこからさらに200メートルを下り、さらにだらだらと下っていくと、石丸峠ほどではないが空間が開けた場所に着く。そこが榧ノ尾山で、石丸峠からすると470メートルほどを下った勘定になる。単に尾根の続きが多少伐採されているだけでピークらしいところではないが、立派な標識が立っていてちょっとした達成感を与えてくれる。木々はないものの風もなく、甲府盆地から山並みを吹き越す激しい気流もこのあたりには届かない。


ここでようやく落ち着いて休憩し、朝食を摂った。大ダワへと歩き出してすぐ、樹林の中で蝶が乱舞しているところにさしかかった。花が見あたらないのでなにを栄養源としているのだろう、カブトムシのように樹液を吸っているのだろうか。沸き上がるように飛翔してきては歩き続ける単独行者のあとを追ってくる。いったいなにに反応しているのか、着ている服の色に惹かれてついてきているのか…。いつまでも姿を消さない無音の羽ばたきに、かつて読んだ漫画で、南米だったかの密林に棲息し、人間の身体に卵を産み付ける鱗翅類の話があったことを思い出した。皮下にできた蛹は人間の顔にそっくりで、傷つければ近隣の村で顔に傷を負った子供が生まれてくる…。やや光が回っているようにも見える場所まで来て、ようやく蝶たちの姿が見えなくなった。
まだ9時前だが、すでにヒグラシの澄んだ鳴き声が響いてくる。榧ノ尾山から起伏があまりなく歩きやすい道が続く。木々に覆われて直射日光が当たらず、植物が蓄える水分のせいでか涼しい気がする。下草に覆われた林床があると思えば、都会の公園のように内部を散策できるのではないかと思える林もある。植林されたところもあるが、自然林の眺めが続いていたため新鮮にさえ映る。ほどよい負荷と変化する周囲の眺めに、余計なことはいっさい考えなくなり、ただ歩いているだけ、いわば坐禅の只管打坐ならぬ只管歩行の状態だ。
牛の寝通りは現在の小菅道が明治12年に開通するまでは小菅大菩薩道と呼ばれ、小菅に下る唯一のルートだった。いわば小菅道の旧道なのだが、牛の寝通りという名は後世に定着したもののようだ。隣の長峰同様に上野原方面への往来もあったようで、往時は賑わっていたにちがいない。榧ノ尾山を過ぎてしばらくすると左手に石仏が佇んでいるのに出会うのはその名残だろう。
あまりに快適に歩いていたため、ガイドマップにある"牛の寝"、1352メートル標高点、"ショナメ"などの地点をすべて気づかずやり過ごし、先方に光が回っている空間が近づいてくると大ダワの開けた草地だった。木々のトンネルのなかを1時間以上歩いてきたので開放された空間が心地よい。かつては周囲がすべて開けて楢ノ木尾根はもちろん長峰も眺められたそうだが、いまではこれらの尾根が延びる南側は木々に遮られて展望がない。奥秩父側にやや見晴らしがあり、正面に和櫛の姿をした飛龍山が仰げる。あたりには腹が赤みがかったトンボが飛び交っている。日が差すと遮るものがないので暑い。
大ダワ手前の草原
大ダワ手前の草原。左手すぐの林の中で小菅への道が分岐する。
大ダワから仰ぐ飛龍山
大ダワから仰ぐ飛龍山
大ダワで牛の寝通りは目の前の大マテイ山の山腹左側を巻くようにして小菅に下っていく。右へと分岐して稜線沿いをたどる道筋は松姫峠から奈良倉山へと延びるものだ。その右への道に入ってすぐ、「大マテイ方面」と「大マテイ山・鶴寝山」との分岐に出会う。何がどう違うのかよくわからない表示であるし、持参したガイドマップにもこの分岐の記載はない。ともあれ山名がある後者をたどることにする。"日向みち"と名付けられているルートは、山腹を絡むように進み、次なる道標に出くわすと左手に登っていく踏み跡を示して大マテイ山頂とある。どうやら今通ってきたものはただの巻き道で最近造られたものらしい。先を急ぐため大ダワ山は次の機会、牛の寝通りを経て小菅に下るときにでも登ることにしよう。このあとも山道は錯綜し、比例して標識も多かった。松姫峠と小菅を結ぶ散策地として地元が山梨県と協力して整備したものなのかもしれない。


鶴寝山へは、今朝がた大菩薩峠に登って以来、ひさしぶりにやや登った気がして着いた。とはいえ大マテイ山との鞍部から60メートルくらいしか上がっていない。そもそも榧ノ尾山からここまで、ほとんど1350メートルから1400メートルほどの間を上下しつつ歩いている。ただし距離があり、ややペースを上げて歩いているので長々とジョギングをしているようなものだ。疲労はたまる。山頂にはベンチが2つあり、ザックを下ろしてそのうえに寝ころんだ。
山頂は周囲がやや開けており、大ダワ以来の眺めがあるはずだったが、すでに空は梅雨前線の影響で発生した雲に覆われ、向かい合う楢ノ木尾根の稜線にもガスがわき始めており、木々のあいだから霞み始めた大峰と泣坂の頭を仰ぎ見れただけだった。この日歩いた行程のほとんどに当てはまることだが、とくにこの区間は紅葉の時期以降にたどるのがもっとも良いのではと思える。広葉樹が多いので色づく季節は夏以上に素敵な眺めだろうし、葉が落ちた頃となれば右手の楢ノ木尾根が梢越しに高く望めるのではと思う。今日のところは雁ヶ腹摺山は望見できたものの、大峰や泣坂の頭は生い茂る葉の隙間からときどき透かし見ることができたくらいだった。
鶴寝山山頂からガスに呑まれる大峰(左)と泣坂ノ頭を望む
鶴寝山山頂から望むガスに呑まれる大峰(左)と泣坂ノ頭
大マテイ山周辺から鶴寝山の間には分岐が多い
大マテイ山周辺から鶴寝山の間には分岐が多い
鶴寝山の前後あたりからときおり車のエンジン音が聞こえていたが、山頂から松姫峠方面に15分ほど下ると前方に広い舗装道が見えた。トイレとバス停があるきりの峠を往来する車は平日のせいかほとんどない。西方が開け、天気さえ良ければ楢ノ木尾根や小金沢連嶺の見晴台らしいが、この時刻ですでにガスのせいで大菩薩の主要なピークはすべて見えなくなっている。
持参のガイドマップにはこの峠へのバスが季節限定で日に1本あると記載されていたが、実際の停留所に掲示された時刻表を見ると夕方近くなって上野原に向かうバスが2本ある。これなら午前中に小菅から登り、そのバスに乗って中央線側に出るという計画もできそうと思えた。(しかし帰宅してWebで調べてみるとどうも認識が間違っているらしい。実際に計画するときには、当然ながら改めて確認する必要がありそうだ。)
ガスに包まれる葛野川流域の谷底を見下ろす
ガスに包まれる葛野川流域の谷底を見下ろす
車道を渡り、舗装道と並行して走る林道の入口を見送って山道に入る。奈良倉山に続く稜線を右手に見上げて山腹を行くもので、歩きやすいのはよいのだが少しずつ高度を下げていくのが気になる。間違えたルートではと心配になるころ、再び林道に合して奈良倉山へを示す標識に出会う。奈良倉山はここで左手前方に高まっており、しばらく行って山道にはいることになるはずなのだが、その入口を見落としてしまい、暑苦しそうなガスがわだかまる楢ノ木尾根方面を右手に眺めながらだらだらと歩いていくうち、どうも山頂はすぐ上なのではというあたりで朝からの寝不足がついに臨界点に達した。横になる適地を探して戻るのも進むのも面倒なので、すぐ横のややガレた斜面の前でザックを下ろして少々寝ることにした。アリやハチにたかられてときどき目を醒ましながらも寝ていた。相当疲れていたのだろう。


目が醒めてみたら正午だった。奈良倉山から下山先の松姫鉱泉まではコースタイムで2時間半ほどかかるので、疲れている身でこれから2時台のバスに間に合うよう行動するのはよろしくない。で、バスはあきらめ、とにかく確実に山行を終えることを至上命題にした。そう考えれば焦って歩くことはない。下山したら松姫鉱泉でゆっくり一浴してからタクシーで大月に出ればよい。さて、奈良倉山の登り口を探してみよう。
標識が多い奈良倉山頂
標識が多い奈良倉山頂
左手の高みが低くなってくるころ、標識があって夏草に覆われた山道の入口を示している。入ってみると植林の滑りやすいもので、面白みのない登りを10分弱で、左手に富士の”天望台”というのがあるが、見えるのは白い雲のみ。そこからすぐで山頂だった。樹林に囲まれて眺めがなく、それだけならよいのだが標識が賑やかすぎるほどに立っていて雰囲気が落ち着かない。長居をするほどのところでもないので早々に往路を戻った。奈良倉山は遠望するとわりと大きな山体で、車道が近くを走っているとはいえあまり人の訪れのない好ましい雰囲気の山なのではと勝手に想像していたが、最近になって林道が開かれてしまい、そこからの展望がよいため、かえって山自体の雰囲気が悪く感じられるようになった気がする。
さてあとは西原峠まで出て下るだけだ。まず普通の車は走れないだろうと思える林道をえんえんと歩いていく。途中、右手に下っていく踏み跡を示す古びた標識があったが、夏草に覆われていてとても入る気がしない。そこからしばらく歩くのだが、先ほどのが西原峠だったのではないだろうか、奈良倉山の入口と同じく下り口を見落としたのではと心配し始める。だがそれはどうやら佐野峠とされているところだったようで、奈良倉山から1時間ほどでようやく松姫鉱泉のある中風呂への下りを示す標識が現れた。手前では林道そのものが分岐しており、左へのものは坪山方面に向かうものだ。ここが西原峠だった。


西原峠からの下りは、出だしから中程まではそれほどでもないが、崩れやすい植林のなかの踏み跡を通ったり、下山地点近くではヤブに覆われていて踏み跡を足で探りながら歩いたりと多少気疲れするものだった。人家の屋根がすぐ先に見えると山道ももう終わりに近く、「お疲れさま」とでも言うように乱れ咲くナデシコが出迎えてくれる。家の裏では右から佐野峠かららしき踏み跡が合流してくる。この建物は無人かと思えたが、前に回り込んでみると目の前で犬に吠えかかられて驚いた。しかも家から離れるように歩いていくのに吠えながら通路沿いに追いかけてくる。防犯のために必要なのはわかるが、もう少し離れたところで飼ってほしいものだ。
山道の尽きる人家の裏にて。「左 ちちぶ 小すげ」の字が読める。
山道が初めて出会う人家の裏にて。
「是より 右 さひ…(「さひ」のみが地名と考えれば宮内敏雄氏『奥多摩』にて遍盃と並んで言及される「西(さい)」のことか (*1))
 左 ちちぶ 小すげ」の字が読める。西原峠へは右に向かう。
 左への道は佐野峠に続くもののようだが、歩けるのかどうか不明。かなり草深いように見えた。
 この石碑の前に立つにはやたら吠える犬に立ち向かう覚悟が必要(2006年)。
短いが神経を使った下りから解放され、葛野川を渡って車道に出る。日帰り入浴を期待していた松姫鉱泉は、なんということか、本日が平日のせいか閉まっていた。がっかりして玄関口で休んでいると、まったくなんということか、午後に2本しかないバスの1本目が目の前を通り過ぎていった。久しぶりに長時間歩いたので疲れて余裕がなくなっていたのか、通過時刻に間に合うように下山していたことに気づかないでいたのだった。しかしなんと言い訳してみたところで鉱泉宿は開かず、バスも戻ってこない。しかたなく大月からタクシーを呼び、いつものように駅前の銭湯で入浴して帰宅したのだった。
2006/7/26~27


*1 小林経雄氏『甲斐の山山』(平成九年改訂二版)によると、この道しるべには「左ちちぶこすげ道 右さいはら道」と刻まれているとのこと。佐野峠に続くこすげ道の上部は「篤志家も音を上げる猛烈なバラヤブである」ともある。(2007/1/5追記)

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