樹林越しに黒川山。左奥に飛龍山がガスに呑まれつつある。 黒川山、鶏冠山
大菩薩山塊にはひとり主脈を離れて孤高を感じさせる山がある。遠望すると存在感が際立つ山で、一つは雁ヶ腹摺山、もう一つは大菩薩嶺から北に一歩離れて立つ山である。どちらも高所の峠からわりと楽に山頂まで到達できるが、麓から見上げる高さが変わるわけではなく、繰り返し眺めてもやはりよい山だと思わせる姿をしている。
大菩薩山塊北端にある山の呼称については、ときとして混乱が生じているように思う。大きな台形の山容を見せているものは黒川山で、その長くゆるやかな頂稜から少し離れてそそり立つピークが鶏冠山だが、この後者について、「鶏冠山はトサカ山というのが正しいが、現今はもっぱらクロカワ・ケイカン山と呼び、それが正名化してしまった」と、1959年発行の岩科小一郎『大菩薩峠』にある。ところが近頃では黒川山と鶏冠山とを合わせて黒川鶏冠山とされるらしい。黒川鶏冠山という名の山があると素直に考えた人が、黒川山と鶏冠山とあると知って驚いたという話も聞く。以下では混乱を避けるため、黒川鶏冠山という呼称は使わない。
従来、黒川山へは柳沢峠から辿るようガイドされていたものの、最近まで峠までのバスがなく、車で峠まで上がって往復か、高額となるタクシーを使用するしかなかった。朝一本とはいえ塩山からのバスが通るようになって計画が楽になったので、9月中旬の暑さが和らぐころに出かけてみた。


バスが出るのは塩山駅8時30分、そこそこ座席が埋まった状態だったが、大菩薩峠登山口でほとんどの客が降車し、残ったのは自分を含めて2人だけだった。三連休最終日だからかもしれないがこの利用率は少々心配でもある。身軽になったバスは山間の舗装道をなおも上がっていく。ふと気づくと車線が妙に新しい。トンネル入り口の銘板を車窓から見れば竣工日付がわりと最近だ。造っている最中の別経路もある。奥多摩からの観光客を呼び込もうということかもしれないが、だとしたら投資額が相当なものに思える。
舗装道の脇から始まる山道は細かったが、ほんの少し登って平坦になると、木々の合間同様に道幅も広がった。笹原の上に灰緑色の空気が漂う。9時を回っているというのに肌寒い。見上げれば曇り空、そのせいか人影がない。ここは東京都水道局が管理する水源の森。”ブナのみち”と名付けられたとても歩きやすい散策路が続き、誰も見あたらないのが不思議なくらいだ。黒川山にせよこの森にせよ、歩く季節は別にあるのかもしれないが、この日、寂しく沈んだ明るさがいろいろ洗い流してくれるようで、かえって気分は高揚する。風もなく、鳥の声も虫の音もなく、森の中は枯葉一つ落ちる音さえない。立ち止まれば静寂そのものだ。滅多に経験できない貴重な静けさ、そのなかに浸れるのは贅沢というものだろう。
広く緩やかな散策路
広く緩やかな散策路
秋の気配
秋の気配
散策路は回遊するように整備されており、黒川山へのコースを分岐させる地点は現地案内板で「梅ノ木尾根」とされている。目的の山へは右だが、正面に続く先によい展望台があるとあったので寄り道してみる。ものの5分と発たない間に、立派なテーブル二基にベンチがしつらえられたテラスに出る。正面にはあいにくの曇り空の下、奥秩父東半分が遠く左右に広がっていた。長々と延びた稜線の右端、飛龍山が重厚な三角錐の背を立てて存在を誇示している。天候を差し引いても荷を下ろして湯を沸かすによい開放感だが、まだ歩き出してわずか半時強でもあり、腰を据えるにはさすがに早い。熱い飲み物を口にするのはもう少し先の楽しみとしよう。
「多摩川源流域を望む」
「多摩川源流域を望む」
正面やや右に少し尖っているのが唐松尾山
やや左に低めの台形をしているのが笠取山
三叉路に戻り、西へ続く径に入る。いままでとは変わってやや細い径となり、少しばかり山深さが増す。奥多摩方面は森の背後に空間が広がっているが、木々が途切れず眺望が開けることはなく、幹の合間に黒川山が特徴的な台形の山容を透かし見せるくらいだ。かつて何かの雑誌か書籍で見た大きな姿はなかなか望めない。ときおり横切る沢筋には二抱えか三抱え以上はある大岩が雪崩のように積み重なっている。よく見れば山道はるか下まで累々と重なり、穏やかな林のなかでそこだけ不穏な雰囲気が漂っている。
コケ覆う径
コケ覆う径
ふたたび三叉路に出る。じっさいには変則的な十字路なのだが、左に下っていく踏み跡は管理用とかの理由で進入禁止とされている。ほぼ正面に延びるのが黒川山に続く。右へのは丸川峠に向かうもので、下山に辿る予定の道のりだ。
やや下り気味の山腹道をしばしで、ガイドマップにはない林道に出る。どこからどこに続くものなのか、ともあれ土煙を巻き上げるものの気配はない。未舗装道を斜めに横切り、標識の立つところから、幅広の、これまた林道のような径に入る。ときおり日も差すようになり、明るく静かな林の中にコントラストが舞い戻る。陽光を浴びて針葉樹の幹も気分良さげだ。すでに黒川山の本体を登りだしており、見上げれば伸びやかな稜線部が樹林に覆われて高まる。
黒川金山へと下る径を見送り、右手の谷間を眺めながら高度を上げていくとようやく頂稜だ。左へ折り返すように稜線を辿りだすと、右手の高みが妙に明るい。そこは三角点のある場所だった。しかし眺望はない。さらに進むと、岩場の展望台に出た。狭いながら眺めはよい。先行者の姿もなく、しばらくは独り占めできそうだ。ではここで休憩しよう。
展望台から奥秩父方面を望む
展望台から奥秩父方面を望む
自分自身と、バーナーを安定的に岩の上に据える。湯を沸かし、コーヒーを淹れる。登り始めに眺めたのと同じく奥秩父の東半分が、一ノ瀬の広い谷間の向こうに黒々と延びている。先ほど以上に雲が下がってきているようだが、雨が降ることはなさそうだ。到着時に陰っていた日もまた差し始め、気温がやや上がる。羽アリのようなのが多数、いっせいに舞い上がり、つい最近ブヨに刺されて参ったばかりの身を怯ませる。一瞬の紗を作った虫たちは、すぐさまどこへともなく消えていった。


稜線を標識の立つところまで戻った。鶏冠山へはと標識を改めて確認してみるが、「山」とは記されておらず、鶏冠神社とある。その神社こそは鶏冠山の山頂にあるのだが、地図をみてはいたものの現地で正しく確認せず、鶏冠山は黒川山の稜線続きだろうかとか考えて、案内もないのに山頂稜線の反対側へと探索にでかける。下って登って、眺めのないちょっとしたコブに出て行き止まりとなった。眺めは無い。これは違うなと分岐に戻る。
黒川山稜線の三叉路
黒川山稜線の三叉路。
目の前は三角点のコブ。
あらためて確認する。鶏冠神社とある標識には手書きで「鶏冠山」との追記もあった。これに導かれ、往路と反対側に伸びる山道を下る。その先に期待通りに鋭い鶏冠山の姿が浮かぶ。しかるべき場所から遠望したら牙のように見えることだろう。鞍部から登り出すと目の前に岩場が広がる。脚だけでは登れないがさほどのことはなく、いったん下って細い踏み跡を辿り、塔状のピークを登っていることを感じながら、らせんを描くように上がる。着いた先では木の祠が木々を背負って虚空を眺めている。ここが鶏冠山山頂だった。
鶏冠山山頂、鶏冠神社
鶏冠山山頂、鶏冠神社
鶏冠山頂から大菩薩嶺を望む
鶏冠山頂から大菩薩嶺を望む
鶏冠山頂から今倉山を遠望する。左奥には鹿倉山が霞む。
鶏冠山頂から今倉山を遠望する
切り立った岩峰の上なのでなかなかの高度感だが、とくに大菩薩側の足下の切れ落ち方は尋常ではない。鶏冠山登り出しの鞍部からも垂直の岩壁が見上げられたが、その上にいまいるわけだ。だからこそ真正面の大菩薩は遮るものない全身像を見せてこのうえなく格好良い。かつて奥秩父から遠望してあの三角錐の美しいのは何かと思ったものだが、ここから間近に仰いでもやはり美しい。これを眺めながら小休止とした。
目に入るものは大菩薩嶺ばかりではない。丹波大菩薩道を乗せる尾根に今倉山が大きい。道志に同名の山があるが、山頂部が双耳峰に見えるところまで同じで、こういう姿の山にはこの名前を付けるのだろうかと思いもする。その左奥には大菩薩山系北東端を締める鹿倉山が丸く盛り上がる。その向こうは奥多摩だ。9月上旬の三連休最終日、観光地には人が多く訪れていることだろう。
黒川山の展望台で大休止したので湯は沸かさず、眺望に浸ったのちは早々に下山することにした。同じ道のりで鞍部まで戻るつもりでいたが、手も使って登った岩場の脇に踏み跡があり、脚だけ使って鞍部に出た。そのまま景色を巻き戻しながら往路を戻っていく。黒川山の頂稜を越え、明るい林を見送り、林道をまたぎ、丸川峠へ続く径との分岐に着いた。さてここからは基本的になだらかな道のりを一時間半で丸川峠だ。すっかり狭くなった山道に踏み込み、淡々と歩いて行く。ときおり、コケに覆われた大岩の重なる上を歩いたりもする。まるで奥秩父か八ヶ岳にいるかのようだ。年配の夫婦らしきかたがたとすれ違ったが、そのお二人もすばらしい眺めだと感激していた。

丸川峠へ続く径
草原が山間に広がるのが目に入ると、丸川荘の屋根も見えてくる。明日は平日なので泊まり客はなさそうだ。小屋主のかたが掃除に精を出している。大菩薩登山口へとコースは徐々に下りだし、ところどころ足だけでは降りられない急降下にまでなる。岩が出ていたり、差し渡された木の根の下が抉れて足が付かなかったりと、疲れた身にはなかなか堪える状況だ。右下から沢音が聞こえだし、近くなってくる。左からも聞こえてくる。右の沢の脇に延びてきていた林道に出ると山道は終わりだ。ところどころ簡易舗装された林道を下り、丸川峠分岐の駐車場に出ると、大菩薩登山口に続く舗装道はすぐ先だった。


登山口の停留所に着いてみると、バスが来るまでだいぶ間があった。待合所にもなる食堂はすでに閉まっていたので、徒歩10分の大菩薩の湯まで下り、ゆっくり湯につかって待った。すっかり日が落ちてから塩山駅に出て特急に乗って帰った。車内は混雑していたが、山がよかったのであまり苦にならなかった。

2014/09/15


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