雁峠、笠取山、唐松尾山雁峠から笠取山

雁坂峠を境に奥秩父主脈縦走路は東西に分けられるのが通例のようだ。金峰山、国師岳、甲武信岳を擁する西半部に比べ、東半部はどちらかというと地味な印象がある。それはとりもなおさず比較的静かな山歩きが期待できるということでもある。だいぶ前の秋に雲取山から雁坂峠までを東半として歩いたときは、期間が平日だったこともあってか、町営奥多摩小屋(これを書いている現在は民営)を出てから雁峠までの丸二日間、誰にも出会わなかった。
その静かな山行時、将堅峠から雁峠までの区間は山腹を行く巻き道を辿ったので、雁峠以東では奥秩父最高点にあたる唐松尾山を踏み残すことになった。あの長くて退屈な巻き道に比べれば稜線を行くルートは変化があって面白いものだろう。そう思い続けながらもなかなか出かけないでいたが、ある年の秋風が立つころ静かな山に行きたくなってようやくこの山に白羽の矢を立てた。塩山駅からのバスを広瀬湖の近くで降り、亀田林業林道を辿って雁峠に上がり、笠取山荘前に幕営して唐松尾山に軽装で登る。下山は雁峠から往路を戻った。山は佳かったのだが、季節ものなのか、たくさんのヤスデを目にした。


塩山から乗った西沢渓谷行きのバスは発車時には満員となった。だが半数ほどは恵林寺で下車し、その後誰も降りないまま雁峠への登山口にあたる新地平バス停に着いた。降りたのは私一人、次の停留所は終点なので、恵林寺に向かわなかった客はみな西沢渓谷を訪れたわけだ。
雁坂トンネルができたせいでか車の往来が途切れない車道を横切りやや進むと右手に舗装林道が分岐している。上がり気味を辿っていくと右手に人造湖である広瀬湖が見下ろされる。舗装林道は10分と少々で車止めのゲートにつきあたり、その先は未舗装となる。某林業会社の敷地らしい荒れた感じの光景を見回しながら幅広の道を行く。車の往来がないのが救いで、アスファルトで足裏が痛むこともなく、クモの巣にひっかかることもなく、通りのよい風に吹かれながらゆるやかに上がっていく。終始、広川という小さな川沿いで、川幅のわりには水量が豊富で水音も騒がしいくらいに高く、かえって山の静けさを引き立てている。下ってくる人は2、3組あったくらいだった。
林道終点から雁峠に至る沢筋
林道終点から雁峠に至る沢筋
林道を2時間ほど歩いて、ようやく山道にかかる頃合いとなった。それまでと違って細い山道を沢沿いにくねくねと登る。しかし沢の音は相変わらず大きく、涼感を感じさせる。9月とはいえ上半身はTシャツ一枚で登るほど暑いのでなおさらだ。木々の並びが途切れだし、右手に沢の源頭を見下ろすころ、その水音がいったん途切れる。あたりに笹原が広がり、稜線の上に笠取山が頭を見せ始めると、広々と空が開け、高原情緒の漂う雁峠に着いた。峠には山の持ち主なのかナタを腰に落とした男性がひとり佇み、大荷物を背負って上がってきた単独行者に穏やかな声でねぎらいの声をかけてくれた。
もうひと登りで雁峠
もうひと登りで雁峠
稜線を縦走してきたときに比べて、広瀬湖から上がって達する雁峠では開放感を心から味わえる。笠取山は久しぶりに再会したというのに相変わらず澄まし顔だが、日差しが回って表情は明るい。その左手彼方に波打つ和名倉山の稜線は雲の影になっているのか黒木に覆われているからなのか沈んだ雰囲気で、どことなく眠っているようだ。木立に隠れるようにして建つ雁峠山荘はまだまだ現役で、前回の縦走時に泊まったものなので健在なのが嬉しい。
懐かしき雁峠山荘
懐かしき雁峠山荘
笹の道を分けて笠取小屋に向かう。すでに4組ほどのテントが張られており、1組は二人組で他は私同様の単独行だった。小屋で記帳したノートを見ると、行き先は雲取山だったり甲武信岳や瑞牆山だったりする。みな奥秩父縦走中のようで、わたしのようにテントを立ててこのあたりを歩こうという人はいないようだ。
テント設営後には笠取山を往復しようと計画していたが、久しぶりの重荷を背負った山行に加えて最近の仕事の疲労から歩く気が起こらず、中に入ってお茶を入れたりしているうちに夕方になってしまった。予想以上に寒くもなってくる。日が沈む前に小屋前のベンチがある広場に出てみると、広い谷間の彼方に端正な三角形のシルエットが目を惹く。久しぶりに見る大菩薩嶺の引き締まった姿だった。広場で賑やかにしていたパーティは小屋に引っ込み、テント泊の登山者はめいめい日暮れ時の静けさを味わっている。今晩の山は期待以上に静穏なようだ。


翌朝明るくなってから目覚め、テントから首を出してみると一面の曇り空で、地面を見ると驚いたことにヤスデがかなりいる。このヤスデ、大発生して線路をまたぎ列車を止めてしまうというキシャヤスデらしい。無数の細かな足を動かして移動するが、これが遅いようでいてけっこう着実なものだから気づくと近くに寄ってきていたりする。湿気が好きらしく、朝露が降りたせいか昨夕はまるで見なかったのが今はたくさん出ている。
実は以前に雲取山から雁坂峠まで縦走した際も、このヤスデがそこここにいるなかを歩いたのだった。毒をもっているわけではなく、「足の踏み場がない」という状態でもないが、気持ちのよいものではない。それでも前回はこの笠取山荘近くでは目にしなかったので今回も見ないで済むと思っていたのだが、そのときは11月上旬ですでに越冬準備に入った後だったらしく、まだ暖かい9月では出会わざるを得ないようだ。当初はテントを張りっぱなしにして唐松尾山を往復する予定だったが、この連中にたかられるのもいやなので撤収し、小屋に預かってもらうことにした。小屋主は昼には山を下るとのことなので避難小屋用の建物内に置かせておいてもらう。
笠取山中腹からガス漂う麓を見下ろす
笠取山中腹からガス漂う麓を見下ろす
あちこちにいるヤスデをできるだけ踏まないようにして雁峠方向へと向かう。峠前の小さな分水嶺の右手を巻くようにして広い水源散策路に入ったはいいが、周囲に漂うガスに惑わされて笠取山に続く急斜面を登り出してしまっていた。気づいたときはもう半分以上は登っていたので、ついでだからとそのまま上がってみた。天気のせいで残念ながら眺めはなく、歩き出して間もないので休憩をとることなく往路を下った。


あらためて笠取山の麓から、東に向かう奥秩父縦走路に入る。山腹の道はしばらくで水神社のある沢筋を横切る。右手に見下ろす谷間は多摩川の源流となる水が流れていくところだが、やや実感が湧かない。というのも源流の水滴が生まれるらしきところにいくら目をこらしても一滴も目にできなかったからで、ガスが漂っていたとはいえいつもいつも水滴が落ちているというわけでもないらしい。このすぐ先に山腹を巻き続ける道と稜線を行く道との分岐がある。今日は迷わず唐松尾山に続く稜線への道を選ぶ。
笠取小屋から唐松尾山に向かう尾根にて
笠取小屋から唐松尾山に向かう尾根にて
少し登って高度を稼いだ後、ゆるやかに上下する道のりになる。このあたりはヤスデの姿も見えず安心して歩ける。まだ朝早いせいかすれ違う人もいない。ひとりで辿る山道はガスで眺めがないとはいえ予想より明るい雰囲気だ。「奥秩父めいた針葉樹が密集しているのでは」と考えていたのだが、見渡す木々はどことなく親しげで、歩いていて穏やかな心持ちになる。笹原が広がるなかを行くところもあり、開放感が心地よい。
唐松尾山手前では急激に下るところがあり、晴れてさえいれば正面に本峰が見えるところだろうが本日はガスでなにも目に入らない。ギャップを越え、少々急な登りをこなすとほんの少し開けた山頂に着いた。シャクナゲの木々が多い。ダケカンバも目に入る。ガスがなくても木々に囲まれているため眺めはもとよりないだろう、縦走路の脇の休憩所といった風情である。
静かな唐松尾山頂
静かな唐松尾山頂
当初はここから将監小屋まで下り、山腹の平坦路を辿ろうかと思っていたのだが、山頂までの道のりで目にした森の佇まいがよかったので往路を戻ることにした。かつて来たときに歩いてかなり単調に感じた山腹の巻き道よりこちらのほうが好ましい。唐松尾山は山頂に至る道のりが評価されるべき山の一つだろう。


昼近くなって気温が上がり地面が乾燥してきたからか、水神社から先、ヤスデはほとんどいなくなっていた。笠取山付近では日帰り装備の人たちが多く見られた。車で一ノ瀬あたりまで来て上がってきたのだろう。笠取小屋でザックを回収し、雁峠に出た。たいがいの人は笠取山に登って一ノ瀬に戻るのか、ここまで来る人たちはいない。風が吹き越す笹原の峠は寂しいくらいに広い。
雁峠でしばらく風に吹かれてから、近くの笠取山、遠くの和名倉山を背にして新地平に下り出す。昨日同様、このルートは賑やかな水音が終点近くまで同行者だ。今回の山行はヤスデに参らされたが、山自体は悪くない。初冬あたりにまた来てみたいと思うのだった。
2004/09/19-20

追記:この2004年はキシャヤスデの大発生の年だったらしい。8年周期で大発生を繰り返すらしく、調べてみると前回奥秩父東半を縦走したときは1996年と、ちょうど8年前である。つまり2回続けてたくさんいるときに歩きに行っていたのだった。この次は2012年。忘れないようにしようと思う。

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Author:i.inoue
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