窪平バス停付近から見上げる小楢山(右)と大沢ノ頭(左)、中間のたわみが小楢峠

小楢山から妙見山

小楢山は登る山ではなくて下る山だという。山頂北方の焼山峠に車で上がれば大して高度を稼がず一時間少々で頂上に着き、あとは南東の甲府盆地に向かって延々と下る。下りが多すぎると達成感が矮小化されてかえってくたびれるだろう。その延々と歩くコースを往復するのも気が乗らず、中央本線の車窓から小楢峠を底に優美な弧を描く稜線を見上げるだけで足が向かずにいた。最近、山頂から南へ妙見山というピークを経て縦走するコースがガイドに載るようになり、周遊コースの可能性に興味が湧いてきた。日帰りは難しいので、塩山温泉に前泊して歩くことにした。


予報では晴れるはずの日の朝、昨日ほぼ一日雨だったせいで秋の甲府盆地は一面の雲に覆われていた。塩山駅からタクシーに乗って高度を稼ぐうちに西から晴れてきたが、歩行開始地点のオーチャードビレッジフフという宿泊施設ではまだうっすらガスが漂っている。先にはゲートで締め切られて専用車両しか通れない舗装道がまだ続く。そのゲートを開けて日の差さない山間に踏み込んでいく。
単調になりかねない舗装道だが、傍らには沢が流れて水音に和ませられる。行路の傍らには曰く謂われのありそうなのが色々出てくる。座頭塚、山の神の碑、林道開設記念の石柱、布袋岩なる大岩に開山碑と飽きさせない。背後からエンジン音が聞こえてきたと思ううち、林道工事の人を乗せた車が4台上がってきて、だいぶ先にあるらしい現場へと去っていった。
歩き出して一時間ほどで父恋し道の入口を目にする。岩場があって歩きにくいと聞くルートだ。本日は楽に登るつもりなのでそちらには入らず、なおも舗装道を行く。おそろしい傾斜の急カーブで尾根を乗り越すと水平路となって右手の広い谷間を回り込む。林道が分岐しており、左に伸びる先が工事現場らしい。まっすぐ行く本線はやや下り、母恋し道の山道入口を左に見せる。
隣の尾根はまだ高い
隣の尾根はまだ高い
コケは青々としている
コケは青々としている
母恋し道を行くのは父恋し道より楽だとのことだが、出だしは岩がごろごろしていて少々歩きにくい。それでもさほど急ではないので色づいた木々など仰ぎ見る余裕はある。細かいジグザグを切り出すので小楢峠は近いのかと思うと、左右彼方に見る隣の尾根がまだ高い。さらに高度を稼ぎ、再び細かいジグザグを切り出し、斜面が小さな草原風になると、ようやく峠だった。
右手の林のなかを緩やかに登ると山頂はすぐで、差し掛け小屋のようなものが見えてくる。その先は空き地のように開けて大展望台となっていた。正面の富士山がまず目を惹く。かなり下まで白い。甲府盆地の上は晴れ渡っているものの、昨日からの雲はまだあちこちの山腹にわだかまり棚引いていて、遠くの山々は判別しがたい。それでもすぐ右手に低く丸い山はよく目立つ。水ヶ森だ。その遙か彼方には白峰三山がこれまた白く、遠く離れて立つ塩見岳も同様だ。さらに離れて雲間に顔を出す双耳峰は悪沢岳と赤石岳が重なったものだろうか。
甲府盆地を北から見下ろす場所はいろいろあるが、ここ小楢山は人間の居住空間に近いわりにはかなり高い。とくにすぐそこに見える塩山市街地は見下ろす感が強く、1,700メートルを越す高度はダテではない。平日月曜の朝10時過ぎなので誰もいない。自分一人で向き合うには余りある空間だ。
真白き富士の根
真白き富士の根。
左奥に台形なのは三ツ峠(のはず)。その手前は、達沢山か。
足下に塩山市街地の一部。
山頂から北方を振り返る
山頂から北方を振り返る。黒いのはゴトメキのあたり?
<FONT size="-1">焼石峠から小楢峠に続く山道</FONT>
焼山峠から小楢峠に続く山道
未だ残る雲のおかげで山座同定はかなり困難だったため、休憩は早々に切り上げることになった。もと来た道は下らず、山頂周遊をしてみようとヤブ気味の平坦地を縫う踏み跡に入る。ここは錫杖ヶ原と呼ばれる場所で、夏ならお花畑になるそうだが、今や目立つのは冬枯れした草ばかりだ。少々下って小楢峠から焼山峠を結ぶ巻き道に合するところには水場があると地図に記載があったが、まるで気づかなかった。ここで南に進路を変え、再び小楢峠に戻る。
母恋し道を左に見送って稜線を進むと、山道は左手頭上に大岩を仰ぐようになる。その岩は列を成し、こちらにのしかかってくるようだ。なるほどこれが幕岩か、幕のように続いているということなのだろう。岩列の終端部あたりに来るとチムニー状の部分があり、鎖が下がっている。帰りのバスの時刻を気にする気持ちが先立ちいったんは横目で通り過ぎたが、次いつ来られるかと思い直して戻り、ザックを下ろして登り出した。
掴みやすい岩角はそこここにあるものの、昨日の雨のせいか足がかりに滑るところがある。チムニー上端には絵に描いたようなチョックストーンが挟まっていて、これを回り込んでてっぺんに出る。驚いたことに岩列上部は西側に傾斜した平坦面が続いている。下から仰ぐと先端の尖った高さの異なる岩が並んでいるように思えたが、そうではなかった。幕岩とはわりと大きめの柱状節理なのかもしれない。それでも最高点というものがあり、岩が少々積み重なっている。その上に出ると、周囲は遮るものが全くなし、のはずなのだが、それは天気が佳ければの話で、いつのまにか沸き上がってきていたガスで小楢山がまるで見えない。なんてこったい。
主役は文字通り雲隠れだが、他に観るものはいくらでもあった。まずはそのガスの向こうからのっそりと姿を現す金峰山だ。「何処に放り出しても百貫の貫禄を具えた山の中の山」は山腹のところどころに岩峰を突き立てて厳めしく、かつての修験者が各所随所からあの山を目指したのも改めて頷ける。左手はるか彼方には曲岳火山群茅ヶ岳が秋色に染まり、手前近くには水ヶ森が小楢山同様にガスに覆われ出していた。
ガスに隠されつつある水ヶ森。右手に茅ヶ岳。その手前に曲岳火山群。
ガスに隠されつつある水ヶ森。
右手に茅ヶ岳。その手前に曲岳火山群。
水ヶ森の右手前は一ツ木山。
はるか彼方に南アルプス。
西に向かって傾く幕岩上部。
西に向かって傾く幕岩上部。 
幕岩の小チムニーは登るより下るほうが緊張した。鎖がないと難しいのではと思える。里から小楢山として仰ぐ優美な双耳峰の左側ピーク、大沢ノ頭(大沢山としているガイドもある)はそこからすぐで、展望は悪くないが、幕岩での眺めを見てしまったため残念ながらあまり感心できなかった。父恋し道はこのピークに上がってきており、覗いてみるとさほど険阻な道のりではなさそうに見えた。実際はどうだか、いつか辿ってみたいものと思う。


妙見山への踏み跡に入る。ガイドマップに朱線が引かれるようになってまずまず歩かれているようだが、天狗岩という展望台がある旨の標識を見送った先で踏み跡を見失いかけ、本来辿るべき尾根筋でなく谷あいに向かいだしてしまった。このコースはそこここに標識が立ち、この後出てくる岩場には鎖まで下がっていて整備が進んでいるようだが、下る先の交通が不便なので利用者はそうそう多くないらしく、山腹を絡むような場所では踏み固められた道筋ができあがっていない。迷ったらしい踏み跡が途切れたのはそこで引き返した証だろう。自分もこれは違うなと気づいて後戻りする。
紅葉した木々の葉群を樹間に窺い頭上に仰ぎながら尾根筋を行く。気づけばなぜか林道まで見えてくる。地図上で妙見山三角点があるピークの手前で、立派な林道が尾根を断ち切って乗り越しているのだった。父恋し道の分岐から母恋し道に至る途中で左に分岐していった林道がここに続くようだ。2012年版のガイドマップにすら記載がないので、初めてこのコースを訪れる人はみな驚くのではないだろうか。しかし周囲はそう植林が目立つわけでもない。いったい何に使う林道なのだろう。そう思って眺めているうちにも山間に重機の音が響き渡る。
林道を越えて再び登りに転じる。出だしこそ山道だがさてピークかという手前は岩場で、下がっている鎖を使わざるをえないほどの急傾斜だ。息を切らして登り着いた場所はただの肩で、標柱が立っていて見返りの岩と記されている。確かに、振り返って来し方を見れば大沢ノ頭が意外なほどの高さで、背後の小楢山本峰が隠れてすっきりとした姿だ。その右奥には乾徳山と黒金山の尖ったピークが段を成し、さらにその右奥には奥秩父東半の山並みが黒く広がって隣の大菩薩連嶺を引き立てている。この眺めは幕岩には及ばずとも悪くない。とはいえ逆方向からここに来たら何を見返るんだ、先は木々しか見えないぞ、と心の中で突っ込みをいれてもみる。
「見返りの岩」から見上げる大沢ノ頭(大沢山)。
右手に黒金山がガスに隠れる。
赤み増す木々
赤み増す木々
再び水ヶ森(奥)
再び水ヶ森(奥)
昔のガイドで妙見山とされ、三角点もあるピークはそこから軽くもう一登りだった。標識が山名を差山と教えている。少々開けているものの展望はない。このピークが里と山を隔てる障壁となっていたのか、ようやく里の音が聞こえ出す。安心しているのも束の間、奇妙な光景にでくわす。歩いている稜線の先が丸扇のように広がっているのだ。まるでサザエさんの頭のようだが、近寄ってみると、髪にあたる部分がみな岩場なのだった。左右の山腹まで岩場なので、下手に巻くぐらいなら正面から突破すべきだろう。鎖など見あたらないので適当に登れるところを登って高みに出た。そこに立っている標識が、こここそ妙見山と教えていた。
いよいよ里が下に見え始める。すぐ降りられそうに思えるのだが、なかなか下り着かない。バス時刻に間に合わせるように急いで歩いてきたため、左右の膝の脇が痛くなってきた。こうなるとバネが効かず、意志とは裏腹に小幅で下らざるを得ない。足下も滑りやすく、この下りでは何度も滑って転ぶ羽目になった。転んだついでに横になって休んでいると、ひとしきり風が吹いてカラマツの落葉を顔にも胸にもまき散らしていく。立ち上がって落ち葉を払いきるころには、林のなかにぱらぱらと響く音は止んでいる。
最後のピークからの下りはかなりの傾斜で、膝の痛み、バス時刻への焦燥、なにより安全第一、もはや気力勝負だ。すぐ下にある日帰り温泉施設からグリーンスリーブスの旋律が果てしなく繰り返されるのも気にならなくなってきた。久しぶりにきつい下りだ。朝方歩いた舗装道、あれを下っていたら、それは楽だろう。ある意味、本日の小楢山は、自分にとっては下る山だったかもしれない。


ようやく車道にでて、右奥に見える集落に向かう。そこには北原というバス停留所があり、すぐに折り返して戻ってくる下りバスが出て行くところだった。よかった間に合った。バスを降りたおばあさんがにこやかに杖を突きながら近くの自宅に帰っていく。本数が少ないといえども、このバス路線をありがたいと思うのは、自分だけではないのだった。
2012/10/29

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