不納山石尊山から不納山 左奧は稲包山

国民保養温泉に指定されている群馬県の四万(しま)温泉には、赤沢林道を越えて法師温泉側に出る山歩きのときに初めて訪れた。ここは史跡や古い宿、虚飾の少ない商店街を眺めてそぞろ歩く方が楽しいという向きにお薦めのところで、そういう場所は繰り返し来ても飽きがこないものである。だからよい山歩きの計画さえできれば再訪をためらう理由などなく、秋も深まるころ喜んで出かけていった。初日は最寄り駅の中之条駅からバスで途中下車して高田山を登り、元禄年間に創業という宿に泊まった。二日目に登ったのが温泉街の背後に高まる不納山(ぶのうさん)である。夏場だとヒルだらけだそうだが、この時期なら安心して楽しめる。ヒルもいないが人もいない。秋の盛りの日曜日だというのに誰にも会わなかった。


十月中旬の朝はまだ寒いというほどではない。営業を始めて三百年を超すという宿「積善館」を出て、日向見地区へ車道を徒歩で上がっていく。道路脇にある稲襄(いなづつみ)神社の裏から「水晶山遊歩道」と名付けられた幅広の山道が始まる。急な斜面をジグザグに登りだせばあたりは自然林で、植生の保護地域になっているようだ。栗やコナラ、ミズキなどの木々が細いものは斜面に垂直に、見るものにとっては斜めに、太いものは重力に逆らわないよう見るものにとってはまっすぐに生えている。
尾根に乗ってしばらくすると、ガイドブックに書かれている不納山への分岐点に出る。標識はない。遊歩道から分かれて少し進むと初めて「不納山へ」を示す標識が出てくる。そこから下って、幅の広い植林の尾根となる。こういうところは見通しがよさそうでいてかえってルートを見失いやすいものだが、歩いていく先々の木の幹に赤ペンキで進路がくどいほど示されていてまったく心配ない。斜面をからんで再び尾根を登り出せば、これがなかなか急で、直登のため高度は楽に稼げるが疲れもする。とちゅう、見張り番をしていたらしいニホンザルに出会った。紅い顔でこちらを睨みながら木から滑り降り、右手の谷間に消えていった。
250メートルほどの急登で着いたのは山頂部をぐるっと半周してとりまくコブのひとつで、そこからいったん下って登り返すと「掘金山」という山名標識が下がっている。このあたりに来るといままで聞こえていた四万バイパスを走る車の音が聞こえなくなる。不納山の頂上とされる場所へはさらにゆるやかなコブを二つ三つ上り下りして達する。あたりは小広く開けてはいるものの眺めはなく、地面は背の低いササに覆われていて三角点が設置された一角がほんのわずか切り開かれている。この山は少人数で来て閑けさに浸るのがふさわしいところだろう。
不納山 山頂部
不納山 山頂部
25000分の1の地図によると最高点はさらに南東にある隣のピークなので足を延ばしてみる。ところどころに下がる青い荷造り紐に導かれていよいよ薄い踏み跡をたどると、そこはいっさいの人工物のない自然のままの頂だった。先ほどと同じく矮生のササが覆う中にいろいろの木々が生えているだけである。音もなく明るい。不納山はいい山だ。


ここから先はルートが判然としないため、元来た道を戻ることにする。山頂部のコブを越え、急傾斜を下って幅の広い鞍部に戻ってくると、なんと先月の岩櫃山に続いてここでもカモシカに遭遇した。今度のは若い。そのせいか好奇心が強く、なかなか逃げない。写真を撮ろうとしたら横を向かれたので大きな声を出したら、びっくりしたのか走って離れてしまった。悪いことをした。それでも立ち止まって向きを変え、相変わらずこちらをじっと見ている。いつまでも睨めっこはできないので手を振って別れを告げた。
遊歩道に戻り、水晶山をめざす。不納山の山腹を巡るようにつけられた道はほとんど平坦な幅の広いもので歩きやすく楽だ。なんとなく着いてしまう水晶山は山とは名ばかりのちょっとした岩峰だった。だがこのてっぺんからは昨日登った高田山が正面に見える。石尊山らしき小さな突起もわかる。右手には鼻曲山・浅間隠山に浅間山が午後の日差しに霞んでいた。
水晶山からは遊歩道とはいえわりと急な道を下っていく。途中から荒れたダートの林道に変わり、舗装道となったところでまっすぐ歩いていくと、四万温泉の山口地区に下り着く。さらに歩いて温泉口まで行き、そこにある日帰り入浴施設「清流の湯」で汗を流してバスに乗り、中之条駅に出た。
2001/10/15

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