赤沢林道と稲包山奧四万ダム湖より稲包山

昨夜の宿の軒先から舗装道路を歩いて一時間、ようやく山道にかかっていた。風もひとけもなく、あたりは寒々とした冬枯れの景色だが、その中にもカエデだけが真紅の姿をまばらに残している。葉が落ちているせいで視界は広く、しかも稜線に出てからの道は広く平坦で歩きやすい。立ち止まると足下で騒がしかった落ち葉がおしゃべりをやめ静けさが広がるが、都会ではもちろん人臭いところでは得られない広々とした静寂さに気分は高揚するばかりだ。世界が自分に浸透し、自分が世界に拡散していく。


いま歩いているのは赤沢林道と言い、群馬県の四万温泉と法師温泉を結ぶ古くからのハイキングコースである。林道とはいえ尾根沿いに伸びるただの山道である。道なりに行けば山向こうの法師温泉までは4時間とかからないが、山道のかなた、あの先端を尖らせて周囲の空気を引き締めている山に行くには途中から寄り道しなくてはならない。山の名前は稲包山(いなづつみさん)、平安時代の昔より里人の信仰で登られた山で、山頂からは眺めがとてもよいという。振り返れば、ダムでできた青黒い湖面の向こうに今朝出てきた四万温泉の建物が何軒か見えていた。
稲包山に寄り道する分岐点は赤沢峠と言い、広い谷間の奧に人里が望まれる。石仏が数多くたたずむ新治(にいはる)村の匠(たくみ)の里で、かつて連れと二人で石仏巡りをしたり、体験工房でろくろを回して陶器つくりをしたところだ。今日は一人なので「あのあたりを歩いたね」と喋り合うこともできない。ただ眺めるだけだ。峠には四方吹き抜けのあずまやが建っており、ベンチに座って一息ついていると、それまでの森閑として音のない世界に何かが降りかかる気配がする。もしや、と思って耳を澄まし目を凝らすと、案のじょう、小雨がぱらつき出していた。周囲を見渡すと、それまで見えていた冠雪の谷川連峰が雲に覆われている。これでは上に行っても苗場山の姿すら拝めまい。だがまだ雲は高い。引き返すには早すぎる。雨具を着込んであずまやを出た。
赤沢峠から続く稜線から稲包山
赤沢峠から続く稜線から稲包山(右奥)
稲包山まではピークを三つ四つ越えていく。急な上り下りは必ずぬかるみになっている。足回りを泥だらけにして最後の急登をこなして山頂に出ると、ぐるりと360度を見渡せる眺望が待っていた。だがすぐ目前の山肌をスキーゲレンデが幾条にも削ぎ落としているのは情緒に欠ける。雪もないのでなおさらだ。そちら側に背を向けるようにして小さな祠のある山頂に腰を下ろす。目の前の三国山はほとんどガスに覆われていたが、幸いに雨はやんでいた。
とはいえ空模様はあいかわらず悪く、いつまた崩れるのかわからないので大急ぎで湯を沸かし、熱い紅茶を入れる。食事はいわゆる栄養食で済ませた。いくぶんあわただしい休憩時間を過ごしてそろそろ出発しようかと思っていると、中年男性が一人、こんな天気なのに上半身Tシャツ一枚で現れた。四万温泉側から往復だという。「雨が降らないといいですね」とお互いに挨拶して山頂を後にして急斜面を下りだすと、周囲がガスで見えなくなり始め、新治村の背後にあった低山さえ姿を消したと思うまもなく、雨が激しく振ってきてしまった。赤沢峠まで行って、あずまやでしばらく雨宿りをする。


法師温泉までの道は、あずまやからすぐの間が少々急だったり岩が出ていたりだが、そのあとの大半はなだらかな良いものだった。足取りも軽く、コースタイムの三分の二近くで法師近くに着く。それまで水平だった道もジグザグを切って急降下しはじめ、終点が近いことが知れる。あまり早くバス停に着いても時間が空くからと途中で休憩していたら、ニホンザルの群れが3,40匹くらいぞろぞろと出てきて周りの木々に登り、わずかばかり残った葉っぱを食べ始めた。まるで包囲網のただなかにいるようで気が気でない。目を合わせないようにそっと輪の中から立ち去る。
山道の終点のスキー場が見えてきて安心していると、犬のような鳴き声をあげるものがいた。下草の枯れ果てた林のなか、軽やかに逃げていく大きな四足動物の姿を目で追う。てっきりカモシカかと思って遠くで立ち止まっているのをじっと見れば、耳が大きい、腕や足が太い、全身が黒い。なんと、熊ではないか。自分の顔から血が引いていくのがはっきりわかる。よく考えてみれば、こんな里近くにカモシカが出るはずがない。
赤沢林道の終点近くで
赤沢林道の終点近くで
スキー場前からバスで半時ほどの猿ヶ京温泉に出る。ここは連れと二人で泊まりに来たことがあり、匠の里同様に懐かしいところだ。一軒の民宿で日帰り入浴を頼む。薄めても循環させてもいないという風呂から上がって、みやげ物も売っているその店先でお茶をいただきながら上毛高原行きバスを待った。夕方5時、外はもう真っ暗で、山から下りてきた雨があたりに降り注いでいる。隣の停留所が始発のバスは乗客が一人もいなかった。寂しくもあり、嬉しくもありの一日だった。
1999/11/23-24

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