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*閑中月記 第二十五回 ―顔回― 古田武彦
要約 田遠清和
*「弥生時代の開始年代」 ―国立歴史民族博物館講演録―
・館長挨拶 館長 宮地 正人
・「研究の内容・結果・意味」 助教授 藤尾慎一郎
要約 高柴 昭
「日本古代史の今〜中国とアメリカからの報告」後編
要約 田遠清和
*「岩宿遺跡」とかみつけの里博物館を見る旅 柳川龍彦
*慶州・伽耶史跡巡りの旅に参加して 松戸市 藤吉和史
*読者コーナー 深津英美
*事務局だより
高木 博
*案内とお知らせ
・ 『60年振りの大戸神社の神幸祭を見に行く旅』
・ 定例会議・勉強会
*編集後記 高柴 昭
一
冷夏は子供たちを悲しませている。せっかくの海水浴や渓谷遊びも、雨にたたられてお手上げだ。だが、猛暑で三千人死亡というフランスの情報を聞くと、比較にもならない。地球全体では、バランスがとれているのだろうか。
今回は中心の主題に入る前に、前回書き残したテーマにふれておきたい。「吉山旧記」の問題だ。
大善寺玉垂宮の「鬼夜」の火祭が終始「鬼面尊(きめんそん)という御神体を中心におこなわれることはすでにのべた。正確には、本殿から鬼殿(おにどの)へと、このご御神体の箱を移し奉ってから、当日のお祭が徐々にはじまり、夜の最高頂に達するのである。
ところが、この神社(久留米市)の北方に「鬼面(きのめん)」の地名がある。わたしがそれを「発見」したのは、例の「放射線測定」の問題について書いていたときであった(「『14C』の五月二十日」 『多元』NO56)。 わたしはこの14Cの問題について、かって「学問の鬼」ともいうべき方に出会ったことがある。九州大学の坂田武彦さんだ。工学部冶金学科の助手として生涯をこれに投入された。わたしと同名の、この方のお宅におたずねしたのは一九七七年の一月のことだった。
そのさい、「太宰府」や「水城」に関する調査結果を口頭でお聞きし、それを文書でしめして下さいとお願いすると、快諾してすぐ、お手紙を下さった。その筆頭が次の一文だった。
KURI(九州ラジオアイソトープの略号)
KURI 0005 筑紫郡大宰府町池田鬼面
古代製鉄登釜の木炭 1950年より1570年前±30年(RIの測定値は1950年を基点とするーーー古田注) 発掘者 福岡県教育委員会
(「ここに古代王朝ありき」朝日新聞社 一九七九年刊
331ページ収録)
わたしが今回、着目したのは、右の「小字(こあざ)」とおぼしき「鬼面」の地名だった。
「この『鬼面』と『鬼面尊』とは、関係があるのではないか。
この疑問だった。わたしの中からの「問」だったのである。
早速、問い合わせてみた。先ず、太宰府市(坂田さんは「大」と書いておられたが、「太」が正しい。町名として。ー合併前であろう。)そこでの結論は、「字、池田はあるけれど、その中の『鬼面』というのは見当らない。」とのことだった。ただ、隣の筑紫野市にあるのではないか、とのこと。そこで筑紫野市に聞いてみた。
「やはり、『鬼面』という字は、今はない。筑紫野市の紫(むらさき)の何丁目かになっているようだ。」
その「鬼面」というバス停と、先の太宰府市池田とは、直線距離はそれほど遠くはなれてはいないようであるから、関係がある(或は、同一地名)かもしれぬ。
ともあれ、わたしの中に生じた「仮説」は次のようだ。
「大善寺玉垂宮の御神体、『鬼面尊』の出生地は、この『鬼面』の地ではないか。」と。
もちろん、太宰府の天満宮の火祭にも「鬼」の存在は欠かせない。けれども、そこでは「鬼」は、いわば悪者であり、あくまで「征伐の対象」である。「討伐して、めでたし、めでたし」という、むしろ日本の祭では、通例のタイプである。
太宰府近辺では、「鬼」のついた小字名が少なくない。たとえば、「鬼掛(おにかけ)」など、鬼が討伐されて逃げるときのしぐさに当てて語られているようである(火祭)。
しかし、この「鬼」こそ、当の「天神様、以前」の支配者、古代文明の奉持者、ハッキリいえば、縄文人であり、弥生前期人たちとその統率者だったのではあるまいか。この疑問だ。
わたしは今度は、太宰府の火祭をじっくりと見たい。観察したい。そしてよく考えたい。その火の影から立ち現われる「古代の真実」、それが今から楽しみである。
この八月八日、わたしは七十七才を迎えたのであるけれど、当の日まで生きていたい。よぼよぼでも歩きたい。「歴史は足にて知るべきものなり」(秋田孝季)なのであるから。
二
今日の本筋は、論語である。何回にもわたり、ふれてきた。その要旨は次のようだ。
第一、論語は、孔子の門弟の各系列の「伝承」を含む。それぞれの流派の「主義・主張」(イデオロギー)が、「わたしの流派の祖(たとえば、「子張」など)は、孔子先生から、このように聞かれた。」という形で盛りこまれている。すなわち、A、B、C、―――Xの各流派の主張の「集大成」が論語である。
従って「論語全体に一環する立場」を求めることは、史料批判上、不可能である。
たとえば、為政第二・二十三の「子張伝承」と八 第三・九の「孔子曰」とは、全く別の「主張」が盛りこまれている。後者のような、「文献が不足であるから、夏や殷の礼を知ることは、わたしにはできない。」という、孔子の実証主義に対し、前者では「子張の伝承」として。孔子は「夏ー殷ー周の礼」のみか、「十世」でも「百世」でも知ることができる、という理念第一主義が宣布されている。
もちろん、両者を「両立」させるような弁証も不可能ではないであろうけれど、むしろ「子張の流派は、孔子先生の教えに従えば、過去の『十世』でも、未来の『百世』でも、見通し、かつ予知できる。」そして、いわゆる「儒教の偉大さ」「孔子先生の万能」をここに誇示しているのではあるまいか。
従って「本来の孔子の発言」は後者の方にあり、後代(孔子没後)、偉大化された儒教のイデオロギーが前者にあらわされている。ーーーわたしはそう考えた。すなわち
一、論語全体の立場は一貫している。
ーーー否。
二、論語はしょせん、各門弟の各流派の主張の寄せ集めであり、
「本来の孔子の立場」を求めることなど、到底不可能である。
ーーー否
三、わたしの立場は、次のようだ。論語の中の
A、本来の孔子の立場
B、後代(孔子没後)の各流派の主張(イデオロギー)の立場
右の両者が「共在」している。
ーーーそのように考えているのである。
三
右のような立場から、わたしが注目したのは顔回だ。
論語の中で、各門弟中、顔回の存在は質量ともに 抜群である。たとえば、「子曰く、『如しがざるなり。吾れと女(なんじ、子貢)と如しがざるなり。』(公治長第五)と、孔子が自分も、子貢も、顔回には及ばない。ことを言い、顔回が死んだとき、「子曰く『
噫(ああ)、天予(わ)れを喪(ほろ)ぼせり、天予(わ)れを喪ぼせり。』」 (先進第十一)
と言ったこと、有名である。それは果たして、孔子にとって「一片の感傷」だったのだろうか。この言葉がもし「正当」であったとすれば、漢代の「国教」となった儒教、漢代以降の代々の儒教とは、このような「孔子の目」から見たとき、一体何だったのであろうか。
わたしはその「解決の鍵」を次の一節に見出した。
「子曰く『賢なるかな回や。一箪(たん)の食(し)、一瓢(ぴよう)の飲、陋巷(ろうこう)に在り。人はその憂いに堪えず、回やその楽しみを改めず。賢なるかな回や。』」(雍世第六)
わたしは諸橋 次氏の『孔子伝(上下)』によって、「陋巷」が曲阜の中の固有名詞であることを知った。顔子廟のそばに、今も「陋巷街」のあることを知り、その地を直接たずねたのである。(昨年10月)
そして「陋宗(ろうそう)」という言葉が"いやしい血筋の人々"をしめす(諸橋大漢和辞典)ことからも、顔回はやはり「陋宗の出身」であるから、この陋巷の地に住んでいたのではないか。もちろん「奴隷」ではなく、「自由民」であろうけれど、半面、いわゆる「士大夫」といった階層にぞくしているのではなかったこと、この一点は疑えないのではあるまいか。
× × ×
その点、孔子自身もまた"例外"ではなかった。「吾れ少(わか)くして賎(いや)し。故に鄙事(ひじ)に多能なり。君子、多ならんや。多ならざるなり。」 (子罕《かん》第九)
孔子は、みずから「自分は生来、『賎』だった。」と言う。彼もまた、いわゆる「士大夫」の徒の出自ではなかったのである。
諸橋氏によれば、父親の祖先は「宋」の名家であったけれど、亡命して「魯」に来たという。八子をもうけたが、七子まで女であり、一子のみ男だったが、いわゆる"智恵おくれ"の人であった。ために、彼は新たに一女を得て子供を生ましめた。これが孔子である。
しかし、彼の母親は「ト者」であり、「賎」の出身であった。それゆえ司馬遷は史記の孔子伝において、それを「野合」と称している。
この孔子の父親についても、"士大夫の出身ならず。"とする見地があるけれど、その場合は「野合」と称すること自体、無意義となるであろう。
思うに、孔子の母の場合、「正規の結婚」ではなく、世間の目では「若い妾」のごとき存在であったため、右の司馬遷の評語が生まれたのではあるまいか。
そのため、孔子の生まれて三年にして、父親が没したあと、"賎しい身分の母親のもとで"孔子は「賎人」として生きることとなったのであろう。
もとより、顔回の「陋宗」の血筋」とは異なるものの、二人とも、レッキたる「士大夫」のような上層身分ではなかったこと、両者に共通した「階層」上の運命だったように思われる。
四
顔回が「仁」について孔子に問うたとき、孔子は次のように言った。「(A)己れを克(せ)めて礼に復(かえ)るを仁と為す。(B)一日己れを克めて礼に復(かえ)るを仁と為す。(C)一日己れを克めて礼に復れば、天下仁に帰す。(D)仁を為すこと己れに由(よ)る。而(しかして)人に由らんや。」
右の(B)(C)共に「一日」という時限でのべられているように、「仁」とは決して"長大な時間を要する"ものとは考えられていないようである。けれども顔回はこの孔子の言葉に満足せず、「請(こ)う、其の目(もく)を問わん。」と言った。もっと"具体的に"しめしてほしい、というのである。これに応じて、孔子は言う。
「一,礼に非ざれば視ること勿(な)かれ、ニ、礼に非ざれば聴(き)くこと勿(な)かれ、三、礼に非ざれば言うこと勿(な)かれ、四、礼に非ざれば動くこと勿(な)かれ。」
この四箇条をあげたのである。これに対して、顔回は直ちに"納得"した。
「回、不敏(ふびん)なりと言えども、請う、斯(こ)の語を事(こと)とせん。」 (顔淵 第十ニ)
では、なぜ。なぜ、右の四箇条は、容易に顔回を"納得"させえたのであろうか。どうしてこれが"具体的"であり。かつ"わかりやすい"のであろうか。
× × ×
ここで孔子の言う「礼」とは、わたしたちの通常聞いている「礼儀」などのことであるはずがない。なぜなら、「視・聴・言・動」すべて“礼儀正しく”する、というのでは、それこそ「息がつまる」のではなかろうか。わたしなど、まっぴら御免だ。では、この「礼」とは何か。孔子は「天体の秩序」を「地上の道徳」比することを好んだ。譬えば「子曰く『政を為すに徳を以てすれば、譬えば北辰の其の所に居(い)て、衆星のこれに共するがごとし。』」 (為政第二)
カントが道徳律について語った有名な言葉と同じく、孔子もまた「天上に、歴然たる秩序(礼)のあるごとく、この地上にも、人間にとっての秩序(礼)がある。」そのように見なしていたのではあるまいか。すなわち、そのような「礼」(天然の道理)によって、あらゆる言動を行なう。―――これ以外に、人間の依拠すべき基準はない。孔子はこの一事を顔回に告げ、顔回は深くこれを「了解」しえたのではあるまいか。
× × ×
論語に頻出する、もう一つの用語に「君子」のニ字がある。このニ字は「君主」もしくは「在位者」の意味で、古くから詩経や易経に出現している。
しかし、論語の場合、右とは異なる用語である。冒頭の「学びて時にこれを習う。」にはこの一節が「また君子ならずや。」の一語で総括されているように、自己の学習、知己の到来、内面の自信、これらをしめくくるキイ・ワードとして、この「君子」の一語が用いられている。(学石第一)
すなわち、「君主」とか「在位者」とかに非ず、自己内部の修養こそ「君子に至る道」と見なされているのである。
言いかえれば、「天の秩序」としての「礼」を、地上の人間の内部の秩序とする人、これこそが「君子」となりうる。
孔子はそのような立場に立って、説いた。そしてそれを正面から十二分にうけとめた者、それが顔回であった。
× × ×
他の門弟の場合、必ずしも、このような孔子の心情を理解してはいなかった。その多くは、みずから「士大夫」であり、「士大夫としての教養」として、孔子の教えを゛聞く゛人も少なくなかった。むしろ、それが多くの門弟にとっての「常道」だったからである。
しかし、孔子にとって、「自分の説くところを完全に理解する人」を、「後生」たる顔回に見出した。それは「余人」には見出しがたかったのである。
そこに、その顔回の死にさいし、孔子が「天、余れを喪ぼせり。」と切言した、真の理由が存在したのである。
五
以上のような、わたしの理解からすれば、孔子の切言は、決して「いっときの感傷」ではなかった。顔回の死と共に、「孔子の教え」は、終わったのである。
他の「士大夫」などの門弟は、彼等の身分を飾る教養として、いわゆる「孔子の教え」を“愛好する”かもしれぬ。しかし、それは、それだけのことだ。「孔子の真の教え」は、すでに「喪」びているのである。
× × ×
以上のような見地からすれば、漢代の「国教」としての儒教、それは果たして何物であろうか。「孔子その人の目」からは、いかに見えるのであろうか。
そこでは「忠君と両親への孝」を主柱として「儒教」が“再建”された。論語の中の、その種の「文例」が抜き出されたのである。「中庸」や「大学」という“抜萃句集”の成立の意義もそこにあろう。そこでは、まちがっても、(論語の)
「天、余れを喪ぼせり。」
などの類の句は「抜萃」されることはなかったのである。
なぜなら、洛陽の商家の出身の沛公を以て、「中心の絶対者−天子」とする立場、そのためのコンクリート的イデオロギーとしての役割こそ主要だった。儒教は、そのための、「喪びざる国教」でなければならなかったのであるから。
六
南宋の朱子学は、この「国学の伝統」を継承した。「南宋のナショナリズム」を加味しつつも、漢代の「国学」としての“用途”は、あやまることなく、うけつがれたのである。
さらにこの“用途”を日本の徳川幕府も承継した。「南宋の天子」ではなく、「江戸の将軍」に対する「忠君と親孝行」の教えを以て中核としたのであった。
それを、山鹿素行の『中朝事宝』は、一変させ、“換骨脱胎”させた。「忠君」の対象を、「江戸の将軍」から、「京都の天皇」へと“おきかえる”という、思想上の一大転換をおこなったのである。
これが、江戸末の吉田松陰や明治維新の中心指導理念に与えた影響はつぃては、日本思想史上すでによく知られている。
これらはすべて「孔子の教え」そのものではなく、あの「漢代の国教」のコンクリート的イデオロギーの精神の伝統に立つものだったのである。
× × ×
これに対し、孔子自身の説くところは異なっていた。再びこれを要約すれば、
第一、
天には、天の秩序があり、それを「礼」と呼ぶ。
第二、
地には、地の秩序があり、人間はこれによって生死する。これを「仁」呼ぶ。
第三、
この「仁」を身につけた人が「君子」である。
第四、それは、その人間の出自が「賎」であろうと、「陋」であろうと、一切関係がない。
第五、逆に「陋巷」に生きていた顔回のみが、孔子の説くところの真意を、あやまりなくうけとめ切っていた。
以上だ。右のような「孔子の教え」は、おそらく人類の全思想史上に輝く一大精華ではあるまいか。
今後、人類全体の胸裏に、くりかえし熱くよみがえってくるであろう。それが、この地球の未来だ。
孔子は顔回を以て「学を好む」者だ、と言った。そして顔回が死んだあとは、「学を好む」者を見ない、とすら言った。
「学を好む」とは、何か。単に“勉強が好きだ”というだけではないであろう。それなら、顔回以外にも、いないはずはない。いなかったはずはないのである。では、何か。
すでにのべてきたように、人間が「学ぶ」ということの無上の価値を知ること、そしてそれを愛することだ。
たかだか、権力者への「忠誠の道」などを学ぶこと、それを「学を好む」などと、決して孔子は言いはしなかったのである。
真に「学を好む」者が、どう生きるか、何を突き抜けるか、それが人類をどう変えるか。それらの未来を、孔子は遠く見すえつつ、この「学を好む」という言葉を使ったのではないか。
とすれば、たとえ「生きていたときの孔子の目」には、それが顔回ひとりしかいなかった、としても、永い人類の歴史の中では、決してそうではない。決してそうなってはならないのである。
人間は、剣を発明し、銃を発明し、火薬を発明した。さらに次々と大量破壊兵器を発明した。それらの「殺戮」の対象は、他でもない人間自身だった。
この「発明という名の一大愚行」の螺旋階段から、人間はぬけだすことができるか。地球は、それを静かに見つめていることであろう。
人間が滅び去ったあと、次の生物の目にそこに残されているのは「賛美と惜別」か、それとも「嘲笑」か。―――それが今から問われはじめているのではあるまいか。
もう、雨はあがつた。暑熱の日々も、はや短い。わたしは日本海を渡り、ウラジオストクの地で、人間の歴史の痕跡をじっくりと見つめていたいと思う。―――お元気で。
ニ〇〇三年 八月十五日 記了