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古田武彦古代史杉並講演会

「日本古代史の今〜中国とアメリカからの報告」  後編

 2003年3月21日(金) 杉並産業商工会館 ホール  (要約 田遠 清和)

 

  11 日出づる処の天子

 さて、後半の話をさせていただきます。

 邪馬壹国が博多湾岸にあるということに気がつく以前にわたしの中では、九州王朝ということが問題となっていました。何故なら「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや」という明治以降の教科書で強調された名文句に疑問を持っていたからです。

 何がおかしいかと言えば、これが近畿天皇家の対隋外交だということが根本的に間違っている。その根拠も明白でして、この記事は古事記・日本書紀には一切出てこないわけです。中国の隋書に出てくるわけですが、そこには「タリシホコ」と出てくる。推古天皇や聖徳太子には、そんな名前はないわけです。しかもタリシホコは男性ですが推古天皇は女性であり、また聖徳太子は男性ですが摂政に過ぎない。タリシホコは天子を名乗っているわけですね。聖徳太子とは身分が違うわけです。しかも隋書には「阿蘇山あり。」と書かれている。阿蘇山は飛鳥にはない、九州にあるわけです。ということで幾つも理由があげられるわけですね。

 隋書についで旧唐書という書物があり、そこには倭国と日本国とは別国であると書かれており、金印をもらった国である倭国は七世紀の末まで続き分国である日本国に併合されたと書かれているわけです。そういうことは、すべてウソにして古事記・日本書紀が言っているように天皇家は最初から日本の中心であったという遣り方で戦前から現在までやってきたんですね。

このことも、わたしは『失われた九州王朝』で強調して以来『九州王朝の論理』をはじめ何度も書いているわけですが、それに対して一切反応がないわけですね。しないままに、日出づる処の天子は聖徳太子だよと言い続けているわけです。聖徳太子は中国の使者を騙して女を男とウソをついた。そのウソに中国の使者は騙された。聖徳太子はすばらしいんだ、ということを梅原猛さんなどは書いているわけです。文化勲章をもらったからこれは本当だろうというのが、現在の日本の知的レベルなわけです。わたしの主張に、誰も正確に反応していないわけですね。

 

   12 神籠石

その後、この問題に対する裏づけは幾つも出ているわけです。そのひとつが神籠石問題です。

神籠石というのは、石を巨大なレンガのように切りそろえて石垣にしたものです。こんなケースは中国にも朝鮮半島にもない非常に珍しいケースなわけです。それが北部九州中心に分布しているわけです。日本人の器用さを証明しているものですが、それは太宰府や筑後川中心に分布しているわけです。

 滋賀県立大学というところでシンポジウムがありまして、わたしも出席しましたが、韓国からも学者がこられまして講演をされました。それによれば、百済・高句麗で5世紀段階で造られた山城が次々に発見されている。それに対して司会者が日本の場合はどうでしょうということで、日本にはこれに対応する山城はないということで話をまとめようとしました。そこでわたしが手を挙げて答えたわけです。

 「ちょっと待ってください。そこには神籠石というものが入っていないじゃないですか。おそらくこれは5世紀から7世紀、白村江以前に造られたものだと思います。百済や新羅が倭の五王の時代に何の軍事要塞も造らなかったとしたら、おかしいじゃないですか。」そんな結論が学界のシンポジウムの結論だとしたら、たまらないとわたしは思っていますから神籠石問題を取り上げたわけです。

神籠石の存在を認めてしまうと、倭の五王というのは大和ではなく、北部九州すなわち博多湾岸・太宰府・筑後川流域の勢力だ、とこうなるわけです。

これも考えてみれば当たり前のことでして、倭の五王は都督を名乗っているわけです。倭王は都督であり、都督の居るところは都督府であるわけです。日本で都督府のあった痕跡がある場所は太宰府の都府楼跡しかないわけです。現地へ行きますと都督府跡と大きな石碑に書いてあります。ですから、太宰府こそが倭王がいた場所であったわけです。飛鳥には都督府跡なんてないじゃないですか。倭の五王の居た場所は太宰府で、それは神籠石という軍事要塞に囲まれていたわけです。

 この軍事要塞は7世紀前半にも存在していたわけですから、日出づる処の天子が、この軍事要塞の外に居たとしたらかっこうがつかないじゃないですか。そこで「君をば天とす、臣をば地とす。」(日本書紀推古天皇憲法十七条三)というセリフはおかしいじゃないですか。神籠石の図ひとつみたって明治以降の歴史の記載は全部アウトなわけです。アウトだと言い続けて三十年近くたちますが、教科書はそれを一切無視して、日出ずる処の天子は聖徳太子だと言いはっているわけです。だから、日本はよっぽど腐っているわけですね。腐っている、腐っていると申し訳ないんですが、わたしはそう思います。

 

  13 (へき)(じゃ)と石馬

 近年何度も、中国の南朝の陵墓を訪れておりますが、そこには辟邪というものが残されております。まあライオンに翼を付けたような想像上の動物なわけで、これは陵墓を守る守護神のようなものですが、陵墓自体はほぼ破壊しつくされているわけです。そこに南朝の宮殿跡があったことは明らかなわけですが、宮殿跡は一切なし。これは北朝によって破壊されたわけです。そして一部残されたのが辟邪と亀さんの石像であるわけです。

つい先日、橿原考古学研究所で南朝陵墓のシンポジウムがあり、スライドを見ていた時に気がついたんですが、この辟邪というのは馬ではないか。すなわち人間が背中に乗るための動物ではないかということに気がつきました。誰が乗るかと言えば死せる天子が乗る。天子が辟邪に乗り天空を駆け上り自分のかつての領地を飛翔する。そのことに、遅ればせながら気がついたわけです。一方の亀さんは、天子が海を渡るための動物として置かれている。

この推量が正しいとすれば、もうひとつの問題が派生してくるわけです。死せる天子が辟邪に乗るとすれば将軍は何に乗るか。将軍は天子の部下であるわけです。そう、将軍は馬に乗る。漢代のカクキョヘイという馬に乗った将軍の石像は中国では有名ですが、将軍は馬に乗って活躍する。そうしますと、倭の五王も将軍ですよね。将軍の居るところには石馬がいなければならないわけです。

 石馬は飛鳥にはない。筑後、すなわち九州にある。磐井の墓と言われる岩戸山古墳などにあるわけです。まあ、あれもだいぶ壊されておそまつになっておりますが、その壊された残欠の比較的ましなのが残っているわけです。一部鳥取県にもありますが、近畿飛鳥には全くないわけです。倭の五王の居所には石馬がなければならない。従って、倭の五王の居所は九州である、という論理が成立するわけです。

 神籠石について、ひとこと付け加えておきますと、力石さんという鳴門大橋などを設計した建築家の方がいらっしゃいまして、その方に、もし天皇家に神籠石の設計を依頼されたらどこに造りますか、というご質問をしたわけです。舞鶴と大和の間に最初に造り、続いて大阪湾・岡山に造ります、ということでした。まあ、リーズナブルな意見でしょうね。部下のいる九州だけに造って大和周辺に造らないということは、ありえないわけです。ところが、現実には近畿にはない。

それを従来の考古学者・歴史学者の全員が、神籠石は大和朝廷が造ったものと主張し続けているわけです。そんなのは日本でだけ通用する屁理屈に過ぎないわけです。そういう教科書を百三十年間作り続けているわけですね。

 

 14 日本古代史の現在

 権力者というものはあさましいもので、ウソは通用すると思っているわけです。そういう悪い夢を見るんですね。しかし、その夢は敗戦が示したように必ず醒めるわけです。敗戦で醒めなかった夢は、また必ずいつか醒めるわけです。わたしは、さっきから腐っている腐っていると言っているわけですが、日本人というのはそんなに馬鹿じゃないと思っている。遠からぬ未来には必ず醒めると確信しています。若い優秀な研究者が続々と登場しております。

 ですからあらゆる大学、あらゆる博物館を使ったウソは必ずばれる、わたしはそれを一回も疑ったことはありません。

 それに関連して申し上げますと、京大学生新聞というのがございまして、古田史学に基づいた歴史記事が、すでに九十回に渡って掲載されております。それが、学内に山積みにされている。だから、京都大学の学生は皆これを読んでいるわけです。読まずに断固無視しているのは史学科だけなわけです。無視はしているけれども、学生新聞には古田史学の記事が4年に渡り載り続けているわけです。

 気持ち悪くてしかたがないんじゃないかと思うわけです。だから古田史学の会ですとか前の市民の古代の会とかを分裂させたりする策謀が絶えず行われているようです。アメリカにはアメリカなりの、日本には日本なりの陰湿さがあるようですが、しかしそんなことは最後には失敗すると思います。

 京都学生新聞には、いよいよ九州年号のことが掲載されました。大化以前にある古代年号ですが、天皇家以前に年号なしという水戸学派の栗田寛(東京帝国大学教授)によって明治以降の教科書には掲載されなくなった年号です。が、江戸時代には現在の邪馬台国論争のように活発な議論がされていたわけです。ところが、明治以降は議論も許さない。結論が出たからそうなったのではなく、イデオロギーによってぴたっとやんでしまったわけです。

わたしなどは、そのことを強調して書いておりますから、古田などは足を引っ張るか中傷するかして、どんな手を使ってでもいいからやっつけろということになっているんですが、こういう学生新聞でわたしの説が取り上げられるようになってきているわけです。それが現在の日本古代史の状況です。

 

  15 孔子論

 さて昨年中国へ行ったわけですが、孔子が生まれた曲阜という処に行くのが長い間の念願で、それを果たすことができました。論語の中でわたしが非常に関心をもった箇所があります。それは顔回という孔子のお弟子さんが登場する部分です。顔回は回数的にもたくさん出てくるわけですが質的にも他のお弟子さんとは全く異質な扱いになっているわけです。

 顔回が死んだときの孔子の嘆きようといったらありませんよね。「天をぼせり、天予を喪ぼせり。」

 あんなことを言われたら他の弟子はどう思うでしょうね。まだ、俺たちは生きているんだよ。先生のそばに居るんだよ。それなのに、天は私を滅ぼしたとはどういうこっちゃ。

またこういうのもありますね。哀公という諸侯の一人が孔子に「あなたのお弟子さんで学を好むものがおりますか」とこう聞いたわけです。すると孔子が「昔おりました。顔回という者がおりました。学を好む者でした。その彼が死にましたので今はおりません。」(雍也篇・二)これもやっぱり他の弟子が聞いたら目も当てられんじゃないですか。先生は全然俺たちのことは問題にしてくれないんじゃないか。

孔子という人は他人の気持ちを慮る人のように習っておりましたけれども、全然他の弟子の気持ちを察していないですね。顔回に対しては、なにか、異常な雰囲気を感ずるんです。おそらく皆さんもそうだと思うのですがね。これを解明しないで論語を細々と解釈してみてもはじまらんなあ、というのがわたしの印象でした。

 それで、諸橋徹次さんの『如是我聞孔子伝(上)(下)』を読んだときにはっと気がついたことがありました。それは諸橋さんが曲阜に泊まったときに陋巷街という地名があったと書いてありました。陋巷というのは地名だったんだなということにその時気がつきました。

 「論語」雍也篇九に、孔子が顔回について語った有名な一節がございます。

「子曰く、賢なるかな回や。

の、一の飲、陋巷に在り。人はその憂に耐えず、回やその楽しみを改めず。賢なるかな回や。」

 「えらいものだよ、回は。竹のわりご一杯の飯にひさごの椀一ぱいの飲みもの(という粗食に甘んじ)みすぼらしい露地のすまい。ほかの人ならそのつらさにやりきれまいが、回は(そういうことは一向に気にかけず、)あいも変わらず自分としての(全力投球する)楽しみをもっている。えらいものだよ、回は。」

 普通の解釈では「陋巷に住んで」というのは「貧しい住まいに住んで」というほどの意味に書いてあるわけです。教室でもそう教えてきましたし、自分でもそう思っていたわけです。ところが、それだけではなくて陋巷とは特定の地名だったわけです。

 陋巷に住む人間はそれに相応しい人間です。陋巷に住んでいるのは陋宗であり、陋宗とは卑しい血筋の人間のことです。奴隷ではないにしろ下の下の人間、それが陋巷に住んでいた。そういうことを孔子は知っていたし、弟子達も当然知っていたわけです。

 そういう身分の人間は普通ならば学問をしようが何をしようがどうにもならんわけです。ところが孔子はそうは思わなかった。どんな身分の人間でも学問をすれば君子になれると主張したわけです。

 君子という言葉は孔子以前から使われていた言葉ですが、それは高い身分を表す言葉に過ぎませんでした。卑しい身分の人間がいくら努力しても君子にはなれなかったわけです。それが常識でした。

 孔子はこの常識をうち破って、天の礼を学べばどんな卑しい身分の者でも君子になれるんだ、こう主張したわけです。これが孔子の基本的な理念、一番言いたかったことじゃないかと思うわけです。

孔子も実は卑しい身分の人間でした。孔子のお父さんは高い身分の人でしたが戦乱で亡命して流れてきた人物だったわけです。ところがお母さんは占いをしている被差別民であったようなのです。

諸橋さんによれば、最初のお母さんには9人子供が生まれたんですが、ただ一人の男の兄弟は知恵遅れの子で、他は全部女の子だった。それで、男がほしいと思った孔子のお父さんは若い女性に孔子を生ませた。で孔子が生まれて二年目にお父さんが亡くなったわけです。ですから孔子はお母さんを抱えて非常に苦労したようです。

 ある弟子が「先生はどんな雑事でもできますね、やはり聖人だからですね」と言ったところ、兄弟子が「そのとおりだね。」と答えた。ところが、その話を聞いた孔子が「それは違うよ。わたしは賤だった、だから何でもしなければ食べていけなかったんだよ。君子というのは何でも知っていなけりゃいけないってことはない。おれみたいに苦労する必要はないよ。」そう答えた話がございます。「君子多ならんや。多ならざるべき。」というわけですね。

 ということは、孔子の母親は妾であり、貧しい血筋だったわけです。司馬遷の史記によれば「野合」したと書いてあります。野合というのは簡単に言えば、身分違いということです。それで孔子は生まれたわけです。しかも父親が早く死んだため母親を抱えて苦労した。わたしが何でもできるのはそのためだということを孔子は率直に述べているわけです。

 顔回に対する特別な思い入れ、それは孔子自身が賤の身分だったからではないでしょうか。賤の身分である孔子が陋の身分である顔回に教える。その教えを顔回は疑わずに楽しみにしているわけです。その姿を見て孔子は自分の跡継ぎがいると思って楽しみにしていたと思うんですね。しかし、その顔回が若くして死んだ。ということで、天われを喪ぼせり天われを喪ぼせりという深い嘆きの言葉が出たわけです。

 では他の弟子はどうかといえば士太夫の身分であったわけですね。孔子の教えというのは士太夫の飾りですよ。飾りとして孔子の教えを聞いていたわけです。孔子はそこに未来を見なかったわけです。

 孔子の教えというのはインドの仏教と違って、中国で生き残るわけです。漢の時代には儒教は国教になり、その後もそれに準じる扱いを受けていくわけです。共産中国の現代ですら孔子大学とかいうのができておるわけです。その意味では儒教は滅びていないわけです。ところが孔子は天われを喪ろぼせりと言った。孔子は思い違いをしたんでしょうか。

 そうではない、孔子は正しかったわけです。国教になった儒教が何をしたかと言えば、ようするに、君には忠、親には孝、簡単に言えばこれが儒教だという教えを広めたわけです。それだったら、これは士太夫の儒教ですよ。ところが孔子の教えというのはそれにつきるものではなかったわけです。

 学問には、様々なしがらみや身分差別を越えて突き抜けるものがある。天なる秩序はどんな身分の者でも学問によってとらえることができる。それをとらえた者が本当の君子であり、君子とは生まれつきの身分で決まるものではないんだ。そんなのは偽君子だ、というのが孔子が言いたかったことだと思うんですよ。

 孔子は中国各地をさまよい歩いて結局受け入れられなかったわけです。諸侯は孔子を利用はしたかったんだが、その思想は受け入れられなかった。孔子も諸侯とはけっして妥協をしなかった。そういう孔子に顔回は惚れ込んだわけです。

 漢代の儒教というのは国家統治の道具として利用されるわけです。漢の高祖というのは洛陽の商人だったわけです。ですから自分が天子だということを人々に納得させるために苦労したと思うんです。そのために儒教を利用した。

 君には忠・親には孝。だから高祖には親に対するように尽くさねばならないという理屈で、国家統治というコンクリート固めをしたわけです。簡単に言えばそういうことです。

 その基本線は朱子学に引き継がれ、それが海を渡ってきて徳川幕府が再利用するわけです。徳川も将軍様というのはあんまり威張れる身分じゃないですからね。単なる一大名に過ぎなかったわけです。その大名のトップであることを教えるために朱子学を利用したわけです。将軍様に忠節を誓うことが大切なことなんだぞという頭のコンクリート固めをしたわけです。

 その教えが裏目に出たのが幕末だったわけです。徳川を征夷大将軍に任命したのは、今は尾羽打ち枯らしているが実は天皇家である。その天皇家に忠節を尽くすことが将軍に忠節を誓うよりも大切なんだという論理が進行してくるわけです。一方では水戸学、他方では山崎闇斎という勤王の系譜が起こってくるわけです。それが明治維新に繋がるわけです。

 長州や薩摩の下級武士が、天皇を玉と称し利用して、倒幕を行った、それが明治維新であるわけです。下級武士が命令したって誰も言うことを聞かないから天皇を利用して徳川を倒した。それからは天皇家中心の時代が来たわけです。

 そして徳川が三百年続こうが、石器時代の昔から天皇中心の歴史であったんだという教えを宣伝し続けてきたわけです。

 ですから、それは違う違うとわたしらが主張しても聞く耳をもたんわけですよ。いわゆる権力に近いひとほど。本当だから教えている訳じゃないわけですよ。統治に都合がいいから頭をコンクリートするのに便利だから教えているに過ぎんのですよ。ただ、そう言っちまったら身も蓋もないわけで、真実というオブラートにはくるんでいるけれども、本音は統治に利用しているだけで、本当は尊敬してはいないわけですよ、権力に近い人は、と私は見て居るわけです。

 それをなるほどと思う方もそんなことを言われたらたまらんよという方もいらっしゃるかと思いますが、わたしは親天皇とか反天皇とかいうものは一切大嫌いである。そういうイデオロギーから歴史をやる遣り方は一時は栄えても、結局は亡んでしまう。そのことは歴史が証明している。戦争でものごとが解決すると思う権力者もいるんだが、後で歴史がそれを裁く。ということをわたしは疑っていません。

 歴史は論理的に進行する、という奇妙な言葉をわたしは信じています。歴史は論理的に進行する。時々の権力者はそれを忘れてしまうが、しかし歴史が論理的に進行するというルールには彼らは逆らうことができない、とわたしは思っているわけです。

 

 16 論語の二倍年歴

 最後に、非常に面白い問題を皆さんに紹介することにして終わりたいと思います。それは、先ほどから申しております九州王朝の問題、儒教の問題で東京の福永さんという方に協力をいただいたんですが、関西には古賀達也さんという方がおられまして最近めざましい研究をされています。古田史学の会の事務局長をされていますが、最近これは面白い問題だぞということに気がつきまして、それをご紹介したいわけです。

 と言いますのは、古賀さんは、論語は二倍年歴で書かれていると主張したわけです。わたしは、初めは懸念していたんですが、孔子の次の言葉に立ち止まった時にこれはと思ったわけです。それは「後生、畏るべし。」という有名な言葉であるわけです。「後生、畏るべし。」若い連中は畏るべきものだ、という意味ですが、それに続いて、四十五十にしてこれはという出色のものを示さない者はダメだよということを言っておるわけです。

 でも、これちょっとヘンですよね。

 というのは昔は四十五十になったら一生が終わってしまうわけじゃないですか。信長ですら人間五十年と言っているわけですから。

 ところがこれが二倍年歴だったら、つまり二分の一だとしたら、言葉として成立するわけです。いささか手厳しいけれども、二十、二十五だったらわかるわけです。今度論語をまじまじと読んで、これも二倍年歴でないと理解できない言葉だということに、遅ればせながら気がついたわけです。

 それがもしウソでないとすれば、論語の他の部分も二倍年歴でなければならないわけですね。そうしますと、あの問題の言葉ですよ。

 「子曰はく、吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑はず。五十にして天命を知る。六十にして耳順ふ。七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず。」(為政第二・四)

 この解釈が全く変わってきてしまうわけです。十五にして学に志す。これが二分の一でしたら、七歳半で学を志すことになる。これはだいぶ早いですけれどもそういう早熟の少年がいたとしてもおかしくはないですね。むしろ十五になって学を志すなんていうのは、志さなかった方がわりと平凡というか、普通のちょっと才がある少年ならば志すでしょ、てな感じじゃないですか。

 三十にして立つ。立つっていうのは確立するっていうことですよ。しかし、二十代はだらだらしていて孔子は立たなかったのかって言えば三十では遅いわけ。十五才で立つということならば、さっきの話のとおり、父親の死後、母親を養うために苦労したという話に結びつくわけです。もう十五才になったわけですから、立たなければしょうがないわけです。

 四十にして惑わず。これも二十歳の時に、自分に確信を持ったということならばわかるわけ。

 五十にして天命を知る。天がわたしに命じているのはこういうことだということに、二十五才の時に気がついたというわけですね。これもよくわかりますよね。

 わたしが一番わかったのは次。六十にして耳順う。かつて岡田甫先生に、君これは大変な言葉だよ。耳順うというのは、相手の言うことにじっと耳を傾ける。孔子ですら、六十になるまで、それができなかったわけだから。そうおっしゃったのを記憶していますが、それだと聖人かなにかの言葉になって難しいわけです。わたしなども、未だになかなかできないわけですから。

 ところが今のわたしの理解によれば、耳順がうというのはさっきの天命を知るに連続しているんではないか。というのは判断の岐路に立たされたとき、天の命に耳従うということになるわけです。

 そりゃ他人の言葉に従うということもけっこうですよ。けっこうですが、やはり天命を知るという文脈を受けて耳順う、天命に順う、そう理解したほうがよくわかるわけです。

 最後に、七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず。これも三十五になるわけです。自分の経験にてらしてよく判るわけです。教員時代でしたが、こういくことをやれば校長がどういう反応をするか、労働組合がどうするか、相手の動きがわかるわけですよ。そっから先はなかなか大変ですが、基本的にはよくわかるわけです。そして自分の心の欲する所に従って、あれこれするわけですよ。非常に判り易いわけですね。

 ところが、七十だと、それこそ聖人君子みたいになってしまって現実にはありえないような話だとわたしも思っていたんですが、今の話だと非常に判り易いわけです。

 そうしますと、この言葉も孔子が四十才ごろに言った言葉になりますよね。このことには気がついたばかりですので、これが絶対に正しいなどとは言いませんが、しかし、今までよりもリーズナブルに孔子の言葉が理解できるように思えるわけです。

 特に論証としては四十五十にして聞こゆることなくんば、というあの言葉を一倍年歴で理解することは無理じゃないかと思って居るんですがね。歴代の注釈を見た限りでは、このような解釈は中国でもないわけです。これは、もしかすればもしかする。論語に対して全く新しい解釈が成立するようなテーマに逢着している、と言えます。

 だいたい、今の学者は中国も含めて、わたしの提案した二倍年歴なんて全然問題にしていませんよ。倭人伝には九十才まで生きていると書いてあるわけですが、これはおかしいわけです。船行一年もおかしいわけです。しかし、論語についても二倍年歴の可能性が出てきたわけです。

 

  17 最後に

 というわけで今の日本というのは大変おもしろい時代にあると思うわけです。どんなタブーにも惑わされずに、日本のタブーももちろんですが、古事記日本書紀に対しても遠慮のない批判ができる、論語に対しても遠慮のない批判ができる、コーランに対しても遠慮のない批判ができる。そういう場所と時間に日本はおるわけですよ。ここでやりはじめたら、面白くてしょうがないと思うわけですよ。目先だけ見れば大人達は行く先を見失っていますが、特殊な感覚で未来を見据えたら、歴史上たいへん面白い時代にあるわけです。

 帰りがけにメガーズさんに百三十才まで生きてくださいというご挨拶をしたところ、メガーズさんは「そんなに長生きしたいとは思いません。そのときには地球が壊れていると思いますから。」と非常に絶望的な言葉を静かに語られました。アメリカの現実というのは、メガーズさんにそれほど深い絶望を与えているのだなと思って驚きましたが、日本は戦争に負けたので、どんなタブーにたいしても遠慮のない批判ができるわけです。

 ですから、皆さんにはぜひ頑張っていただきたい。またそのことを若い方に伝えていただきたい。このことを述べまして講演を終わらせていただきます。長時間どうも、ありがとうございました。

 

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「岩宿遺跡」と かみつけの里博物館を見る旅    柳川 龍彦

 

 六月二十九日 八時 東京駅集合。

T/Cの高木さんを含め、総勢十七名。

 東北自動車道の佐野藤岡I/Cを経て、まず「大前神社」に到着。

 無人なので、資料などないので、インターネットで検索した内容を以下に記す。