目 次 へ

 

古田武彦講演会

  王朝の本質〜九州から東北へ 平成15年6月8日  大塚区民ホール  (要約 田遠清和)

 

   

 古田です。今日は大塚で講演ができるということで楽しみにしてまいりました。       

 さて、5月20日の日に、弥生が500年遡るというニュースが一斉に報道されましたが、私はすでに5月の初旬にそのニュースを聞いていました。私はこのニュースを見て一種談合めいた印象を抱かざるを得ませんでした。

 この話はもう十年・二十年遡る話です。私も「古代史の未来」等に書いています。それより何より発表以前にC14の測定をした科学者がいるわけです。それについては、一切触れていないわけです。その人たちの談ぐらいあってもよさそうなのに一切そうした記事はありませんでした。また朝日新聞の記者だった内倉さんは「太宰府は日本の首都だった」という本を出版しておりますし、草野さんという方は「日本古代史学のコペルニクス的回転」という本を書いております。しかし、それらについては一切触れていないわけです。

 また私自身も著作や朝日カルチャー等で考古学編年はおかしいと主張し続けてきたわけですが、一切コメントを求めにこない。ですから、これは談合だと感じたわけです。

これは済んだ問題ですが、済まない問題のほうがもっと大きいわけです。

 

 NHKのアナウンサーが弥生時代はのんびりした時代だったとコメントしているわけですね。私はこれを聞いてあきれてしまいました。昔は縄文時代がのんびりしていたわけです。今度は一転して弥生時代がのんびりした時代になったわけです。このコメントのからくりはわかりますよね。500年先頭は遡ったかもしれないが、後はそのまんま、というわけです。考古学編年はいじくらないぞというわけです。しかし、そんなことはありえませんよね。それをNHKのアナウンサーは言わされているわけです。

 自然科学の測定値を採用する場合、先頭の一点だけ採用してあとはそのまんまなどということは、ありえないわけです。ところが、どうもそれをやろうとしている。それを国民に押しつけようとしている。日本以外ではきちんと放射能測定値を使用しているわけです。というわけですから、この問題はこれからがお楽しみというわけです。

 お楽しみの内容はどうなるかと言えば、これは大変なものですよ。例えば神籠石の問題。これは4〜5世紀になるわけです。高句麗や新羅とあれだけの戦闘をしていながら、倭国は全く無防備であったということはありえないわけです。すなわち倭の五王は神籠石の中の王であったということになるわけです。九州王朝説を無視することは、ますますできなくなってくるわけです。

 そればかりではありません。東北王朝もそうですよ。多賀城から6世紀の遺跡が出てきているわけです。仙台の佐々木さんはそれで困っているわけです。何が困るかと言うと、多賀城碑には8世紀初頭に大和朝廷がこれを支配したと書いてあるわけです。それが更に1世紀もさかのぼると、もはや説明がつかなくなるわけです。多賀城には絶対年代が書いてあるわけです。

というわけで今回の発表は、これからが面白いわけです。まあ、どうやって騙していくかということになるかもしれませんが、これは大和一元論に立つから説明がつかないわけです。多元説に立てば、なんということもないわけですね。これを、言葉で置き換えますと、

@放射能測定の再検証をする。

A連続検証をする。(先頭の1点のみの検証にとどめない。)

B総合検証をする。(談合仲間内での検証にとどめない。反対意見の学者を参加させたシンポジウムを開催し議論する。

 再・連・総の検証をする。これが大切だと考えます。

 

 2

さて、それでは本日の主題であります王朝の本質というテーマに入らせていただきます。

 まず第一に、弥生の土笛の問題です。これは分布している領域が非常に狭く、下関の綾羅木(あやらぎ)遺跡から出雲・舞鶴までの日本海側に限られているわけです。能登半島から北にはないわけです。また、出土時期も弥生前期(BC300年〜200年)の遺跡には出てこないわけです。例外的に舞鶴の遺跡は中期のものですが、それ以外は弥生前期であるわけです。

 これは中国の陶?(とうけん)という楽器と似ているわけです。中国では陶?は朝廷の儀式に使った楽器ではあるまいかと、わたしは想像しております。その際楽器の演奏だけではなく、歌が歌われたであろうと思われます。詩経は脚韻を踏んだ詩ですが、そうした形式が成立するためには、音楽すなわち楽器が必要であったと考えられます。陶?は出雲中心に出土するわけですから出雲朝廷の儀礼の場で使われた楽器、それが陶?であるわけです。

 出雲風土記には「朝廷」という言葉が頻出しますが、それは出雲朝廷であるわけです。国造という言葉もたくさん出てきますが、それは出雲朝廷の国造であるわけです。ところが江戸時代の国学者達は、それはけしからんと言って大和朝廷に変えてしまったわけです。原文を改竄して大和朝廷にしてしまったわけです。岩波古典文学大系などがその例ですが、それは本来形ではないわけです。ですから、陶?は教科書には出てきません。しかし、出雲朝廷は実在した。だから国譲りという神話が記紀にあるわけです。出雲から筑紫に政権が移ったわけです。

 記紀にも弥生の土笛の記事がありませんが、それは大和朝廷の楽器ではないから掲載されていないわけですね。それが世界中どこででも通用する理性的な判断なわけです。自分たちが滅ぼした敵対する勢力のシンボルだから書かなかったわけです。自分たちのシンボルである三種の神器については繰り返し繰り返し書いている、それと裏腹の問題である、というふうに理解できるわけです。

 この理解が正しいとすれば次の重大な問題が発生するわけです。つまり近畿を中心に銅鐸が溢れるほど出土しているわけです。土製ではありませんが楽器という点では共通しています。

 ところが近畿のど真ん中で作られた古事記・日本書紀には銅鐸の記事が一切ないわけです。これは、何遍考えてみてもおかしいわけです。本居宣長はこの点については一切触れていませんが、宣長が触れていなくても、おかしいものはおかしいわけです。記紀の編集者が銅鐸を知らなかったなどということは、ありえません。では何故書いていないか。それは三種の神器に敵対する勢力であったからだと考えざるを得ません。

 これを銅鐸王朝と仮に呼んでおけば、銅鐸王朝を滅ぼして三種の神器の王朝がとって変わった。だから記紀には銅鐸の記事がない。そう理解する他ないわけです。弥生の土笛の問題はささやかなことのように思われていましたが、実は日本の歴史を変える問題を孕んでいたわけです。

 といたしますと、7〜8世紀の段階で存在した九州王朝の記事が記紀に一切ないことも理解できるわけです。隋・唐に敵対した南朝系の九州王朝は記紀に掲載するわけにはいかない。しかし、神籠石までは消し去るわけにはいかなかったから、それは残ってしまったわけです。記紀には先在王朝を消すという伝統があるわけです。伝統という表現は適切ではないかもしれませんが、弥生の土笛(出雲王朝)・銅鐸王朝・九州王朝と前在王朝をすべて消し去る伝統があったと考えても間違いではないと思います。

 

 3

 さて、そこで問題となるのは東北王朝です。

 これには前段として、早稲田大学で作られた被差別部落の分布図が問題となります。と申しますのは、驚いたことに、この分布図は古墳の分布図とそっくりなわけです。これはやっぱり何かあるなと感じたわけで、被差別問題というのは江戸時代に始まるのではなく古墳時代に遡ると考えられるわけです。江戸時代のひとが古墳の分布図を作成して、それに合わせて被差別部落を作っていったなんてことは、ありっこないわけです。

 ところが今問題の東北には古墳がないわけです。ですから、これは古墳を作った勢力とは別の勢力が存在していたと考えざるをえない。東北には被差別部落はない。あるいは激減する。これは説ではなく事実です。

 よく古墳がないから東北地方は遅れていたと考える向きがありますが、これは間違った考えだと思います。何故かと言うと古墳というのは死んでからも目立ちたがり屋であったひとのシンボルであり差別のシンボルであるわけです。そういう見方をすれば、東北に古墳がないという事実は、そういう古墳文明とは異なる文明があったということを意味いたします。

 東日流外三郡誌には「ひとの上にひとを造らずひとの下にひとを造らず」という言葉が繰り返し巻き返し語られているわけです。そうした思想の上に立つ文明があったと考えざるを得ないわけです。もっとも、東北には一切差別がなかったかと言えば、そうではないわけです。その証拠に青森では「このツボケ」仙台では「このエゾ」という罵倒語が使用されているわけです。しかし、被差別部落はほとんど存在していないというのは事実なわけです。

 さらに東北王朝を考える場合、宮城という地名が問題となります。宮城というのはそうはない地名ですね。宮は宮殿、城は柵という意味です。大和朝廷があそこを宮城と呼んであげますかね。宮城と呼んでいるのは、どうも東北王朝側ではないでしょうか。

 この問題を調べるためには、地名辞典で宮城という地名が特殊なものなのかどうかを確認すればいいわけです。また東日流外三群誌を読めばいいわけです。東日流外三郡誌もあれを偽書呼ばわりしている一部の連中がいるわけですが、全く馬鹿馬鹿しいわけです。

 記紀は南方系の海洋民族の歴史ですが、沿海州の民族の歴史それが東日流外三郡誌であるわけです。だからこの本の値打ちは非常に大きいわけです。ところが記紀しか認めない連中がこの本を偽書呼ばわりし、挙げ句の果てに古田まで偽書を作ったなどと馬鹿馬鹿しいことを言いふらしているわけです。もう、そんなことに騙されちゃいけません。

 明日から5日間、わたしは青森で東日流外三郡誌の講読を行います。偽書騒ぎがあれだけ広まっても土地の人は平気なんですね。あれを嫌がるひとたちというのは津軽藩の子孫であるわけです。しかし、庶民は東日流外三郡誌の内容が正しいことを知っているわけです。例えば活字にされていない本に「丑寅風土記」というものがありそこに「邪馬壱国史」という章があります。そこで釈要条というお坊さんが「邪馬壱国」について書いているわけです。「皇史には邪馬壱国の条なし。また卑弥呼のことなし。また日本書紀にまた一書に曰くといふは皇史の他に歴史書あるを証するなり。」と言っているわけです。これは短いけれどもキーポイントをずばっと付いているわけです。

 秋田孝季が繰り返し言っていることは、自分がおかしいと思ったことでも、そのまま書き写すという点です。そうして集められたのが東日流外三郡誌です。自分はえらいからこれはこうにちがいないといって勝手に直されるのが一番困るわけですね。ですからわたしは秋田孝季を信用しますね。東日流外三郡誌が偽書であるなどといって消し去っているひとの罪は深いですよ。またそれにビクついて東日流外三郡誌は読まんでおこうとかいうのもどうかと思います。こういうひとたちと論争しても、全く無駄です。もともと誹謗・中傷を目的としているわけですから。

ところが実際これを読んでみれば、こういう鋭い一節が随所にあるわけです。わたしは命があればいつか秋田孝季伝を書きたいと考えています。寛政原本が出てきて欲しい。そのためにも書きたいと考えています。

 

  4

 それでは後半に入らせていただきます。

 魏志倭人伝の中に侏儒国という国がございます。博多湾岸が女王国の中心として「女王国の東、海を渡る千余里、また国あり、皆倭種なり。また侏儒国あり、その南にあり。人の長三、四尺、女王を去る四千余里。」と倭人伝にあります。これを読みますと東に四千余里ということではなく、千余里東へ行ってからその南に侏儒国があると方角が屈折して二段階に書いてある。合計四千余里であるわけですから、東へ千里行ってから南へ三千余里行くという風に解釈したほうがいいのではないかと考えました。

 すると東へ千里の地点には関門海峡があり、そこから南へ三千里行くと高知県の足摺岬がある。そこが侏儒国と考えたわけです。足摺と高知市との間に「鈴」という地名がある。スは住まい・鳥栖のスであり住居を意味する。そのダブリ言語が鈴であり、チリンチリンと鳴る鈴ではないと思うわけです。これは南方系の言葉ではないかと考えています。シマシマなどというのもあります。そこに背が低い人もいるということを勘案して侏儒国という国名にしたと考えております。

 実際に背の低い人がいるかというと愛媛県の宇和島というところに行って一軒の家を訪ねたところ身長1メートルほどの背の低い方がいらっしゃいました。愛媛県の東北の瀬戸内海の別の島では島中が背の低い方だということを、古田史学の会の合田さんという方からお聞きしました。合田さんが直接その島へ行って確認されたそうです。

 その侏儒国がここにあるということは非常に重要でして、そこから更に船行一年で裸国・黒歯国へ到る、その出発点がここであるわけです。船行一年は二倍年歴で半年。サンフランシスコまで3ヶ月、サンフランシスコからエクアドルの沖合まで更に3ヶ月、計半年かかるわけです。そこが黒潮の終着点です。何故終わるかというとフンボルト大寒流とぶつかるからです。そのため暖寒流が交わるこの一帯は世界一の漁場となっています。エクアドルのバルディビアから縄文土器に似た土器が出るわけです。

 そこへの出発点が侏儒国すなわち足摺岬なわけです。ここは縄文における成田空港のようなわけです。黒潮に乗りさえすればスッと行ける。案外知られていませんが魏志倭人伝で重要なのは裸国・黒歯国であるわけです。倭人伝というのは女王国のことを書くためにあると思いこんでいる。

 しかし中国人の目線では違うわけです。何故なら班固の後漢書では西記伝で「日の没する国」を書き得た。これは漢書の司馬遷がなしえなかったことです。それに対して倭人伝は後漢書の班固がなしえなかった東の果ての国・裸国・黒歯国を書き記すことができたわけです。中国の世界認識はそこまで到達し得たというのが中国側の視点です。変な言い方をすれば女王国は途中下車であるわけです。

 かつて邪馬台国の本が夥しく出版されましたが、裸国・黒歯国について書かれたものはありませんでした。これもよく考えてみましたが意味があったんですね。近畿説の場合(長里で)東へ千里行くと伊勢湾あたりに到達します。そこから南へ三千里行った場合、太平洋のど真ん中になってしまうわけです。だから近畿説の場合、侏儒国を比定できないわけです。だから書いてない。

 例えば近畿説の代表である和歌森太郎さんなどは「私観邪馬台国」という論文の中で「侏儒国などは夢まぼろしのことなり。論ずるに足らず。裸国・黒歯国また同じ。」と書いています。夢まぼろしだから相手にしないと言っているわけです。和歌森さんのお弟子さんは皆これに右に習えをしたわけです。だから新聞も書かない。邪馬台国は近畿に決まりみたいな書き方しかしない。こんなことはおかしいですよね。

 夢まぼろしとか言う前に、侏儒国の地理的位置を示すべきなんですよね。そこから評価をするのはかまわんわけです。しかし夢まぼろしだから論じないというのは、まさに逃げているわけです。まあ、今までもそんなものだとは感じていたわけですが、今回改めて検討してみてわかったことは九州説もまた同じだということです。

 例えば筑後山門説ですが、ここから東に千里行き南に三千里行くと奄美大島あたりまで行ってしまうわけです。朝倉でも同じようなものですよ。つまりわたしの博多湾岸説・短里説のみが侏儒国のリアルな位置を比定できるわけです。

 だから九州説の学者も「夢まぼろし」説、これ便利ということで一切侏儒国については触れてこなかったわけです。これは共同謀議すなわち談合みたいなもんです。これはおかしいですよ。

 ところが博多湾岸を起点にしますと、そこから約71度東南の方向(足摺岬)に侏儒国があるわけです。邪馬壱国だけが単独で存在しているわけではなくて、周辺の国との相関関係(構造)があるわけです。それを無視して「夢まぼろし」と言うのは、もはや学問ではないと考える次第です。古田一人を無視して村八分にしてしまえば、それで済むんだということでは、外国の学者が見た時に物笑いの種にされることは目に見えているわけです。

 

  5

 次ぎに更に簡単な論証について触れておきます。

 「女王国の東、海を渡る千余里」とあります。この「女王国」というのは女王国の中心領域の意味に解釈できます。まかりまちがっても「女王国の東の端」の意味ではないと思われます、そう書いていませんから。そうしますと、女王国は海に面した国でなければいかんわけです。

 つまり、これでもう大和説はアウトなわけです。大和は海に面していませんから。また九州説でも筑後山門はアウト。東に海を渡っていけませんからね。また朝倉や甘木説もダメなわけです。残る所はわたしが提起した、博多湾岸説以外にありえないわけです。

三番目に、倭人伝の三原則について述べさせていただきます。

第一「中国の使者が行った所は里程で書いてある。」

第二「中国の使者が行っていないところは里程で書いていない。」

第三「中国の使者は倭王に会っている。」

 これが三原則です。

 第一原則、これは当たり前です。中国側は里程を知っているわけですからね。

 第二原則。これは第一の逆です。まさか倭人が行って中国の使者のために調べてあげるということは考えられないですから。

 第三原則。倭人伝にこうあります。「正始元年、太守弓遵、建中校尉梯儁等を遣わし、詔書・印綬を奉じて、倭国に詣り、倭王に拝仮し、ならびに詔を齎(もたら)し、金帛・綿けい・刀・鏡・采物(さいぶつ)を賜う。倭王、使いに因って上表し、詔恩を答謝す。」

 つまり、正始元年に中国の帯方郡の使者が倭王に会い、天子の詔勅その他をもたらした。倭王は上表し、それに感謝したという文章です。ところが、はっきりそう書いてあるにもかかわらず「拝仮」という文字を根拠に会っていないと屁理屈を言うひとがおるわけです。これは諸橋の大漢和を見ればすぐにわかりますように「仮」という字には「嘉」(よみする)の意味があると書いてあります。そして「拝嘉」には「下の位の者が上の位の者に会って感謝する」という意味が出てまいります。ですからこの場合、倭王と帯方郡の使者では倭王が上位者であるわけです。ですから何にも問題はないわけです。この文章は会ったという文章そのものじゃないですか。それを「仮」だから会っていないというのはナンセンスです。

 この部分は倭人伝の心臓部にあたる部分じゃないですか。その心臓部をウソだと言ったら、あとは何を本当だと言いたいんですか。邪馬台国を論ずる意味がないじゃないですか。最近「新しい歴史の教科書を考える会」でも「倭王に会っていない。」などと書いておりますが、馬鹿馬鹿しいことです。これは馬鹿馬鹿しいけれども、談合の結果なんですね。この部分では古い教科書派と全く意見が一致するわけです。

 三原則に照らして考えればどうなりますか。近畿説はまずダメですよね。近畿までの里程はないですから。筑後山門までの里程もありません。だからこれもダメです。つまり全部アウト。だから東大系も京大系も握手するわけ。しかしこれは全くダメなわけです。三原則に当てはまるのは、博多湾岸説しかないわけです。

 これは非常に簡単な論証なわけです。しかし世界中の誰が見てもおかしいと言うひとはいないと思います。そのとおりだと、わたしは言うと思うんですよ。残念なことに『「邪馬台国」はなかった』には書いていませんが書いておけばよかったですね。

 さてもう一つおもしろい発見がありましたのでお知らせします。それは南宋紹熙本百衲本には誤植があるということです。三十国の中に「都支国」とありますが皇室書陵部蔵の南宋紹熙本では「郡支国」(くしこく)となっています。これはオランダの難波収さんという方が指摘してくださったのですが、これはどちらが間違いかはっきりしています。百衲本は皇室書陵部蔵の南宋紹熙本を元にしていますから、これは単純ミスだと思います。

 大阪書院版の『倭人伝を徹底して読む』では皇室書陵部蔵の南宋紹熙本を使用していましたが、朝日文庫版では百衲本を使用しています。ですがわたしは全然気が付きませんでした。(本文はどちらも「都支国」表記・・田遠注)たった一字の問題ですが、これは非常に大きい問題だと思います。「郡支国」というのは「つくしこく」のことではあるまいか。これまで邪馬壱国の中には三十国は含まれないと考えておりましたが、どうもそうではないのではないか。そういう問題に発展してまいりました。

 

   6

 次ぎに「吉山旧記」についてお話させていただきます。(古田会News91号参照)

 これは福岡県の久留米市の大善寺玉垂宮で行われる火祭りの問題です。壮大なスケールの祭りで大晦日から始まり1月7日に大団円を迎えます。当日は夕方から夜の十一時ごろまで続き、町内・社中大勢の人が動員されて火祭りが進行するんですが、その各パートパートを受け持つ家が決まっています。興味深いのは日本最大の火祭りというばかりではなくて、ご神体が鬼の面であるわけです。誰も見たことがないということですが、では何故鬼の面だとわかるのか。それはともかく、鬼が主役でずっと祭りの中心を占めているわけです。しかも、ふつう鬼は退治されてしまうわけですが(太宰府の祭りなどはそうです。)ここの鬼は退治されないわけです。わたくしの感覚では縄文に遡るすばらしいお祭りだと思われるわけです。

 この火祭りの由来が「吉山旧記」という古文書に記されているわけです。これを見ると話は全然違っていて、桃桜沈輪(ゆすらちんりん)という悪者を藤大臣(とうのだいじん)が退治した話になっているわけです。

 ところが「吉山旧記」には草稿本とも呼ぶべき原本がありまして、慶長年間に作り直しているわけです。それと比較しながら読んだところ真相が見えてきたわけです。もともとこれは九州王朝の歴史書なわけです。「國所家(こくしょけ)滅亡せし中、姓名ありといへども全(まった)からざれば記さず。」と書いてあるわけです。この國所家というのが九州王朝であるわけです。滅亡したならば書き記しておけばいいわけですが遠慮して書かずにいる。

 もうひとつ興味深いのは、「吉山旧記」は明治5年6年頃に最終的に書かれているわけですが、その時期は微妙な時期なわけです。というのは鳥羽伏見の戦いで幕府軍が破れた頃の文書が大善寺に残っていました。それによれば、これからは天皇家の時代だから天皇家と関わりのない祭神では具合が悪い。そこで宮司さんは玉垂命を武内宿禰に変えてしまったわけです。それが文書で残されていたわけです。(これは高木さんのご苦労で久留米の文書調査をした時にわかったことですが)

 あることだとは思っていましたが、証拠を残しておいてくれたのがすごいですね。祭神は善寺玉垂宮・鬼夜保存会の会長光山さんによって十年ほど前にもとの玉垂命に戻されたわけですが、祭神を変えるということは、ここだけではないと思います。古事記や日本書紀でもみんな変えられている、そう考えるべきなのでしょう。

 ところで「吉山旧記」には武内宿禰が出てくるわけですが、肝心の玉垂命は一切登場しないわけです。ですからこれは「吉山新記」というべき性格の文書であるわけです。文書は変えられたがお祭りはもとのまんま。文書は大和朝廷用に作り替えられている。この問題につきましては、これから詳しく研究していきたいと思っています。

 

 7

 われわれは、古代史の研究もできますし、バイブルやコーランの研究も自由にできます。そういう時代に生きているわけです。

 現代の中国の学者は満州のことを「偽満州」と呼んでいます。背後に関東軍がいたわけですから、満州は傀儡政権に過ぎなかった。だから、これはもっともなことです。同じように現代の日本は「偽日本」と呼ぶことができます。マッカーサー以来アメリカ軍が駐留し続けているわけですから。日本政府や天皇が居てもアメリカ政府の意向に反したことはできないわけです。従って、わたしが生きてきた五十数年間は「偽日本」の中にあったわけです。

 そして「偽日本」のいかがわしさに汚染されない真実はなにかということを求め続けて来たのがわたしの学問の本質である、ということが言えます。

 これは歴史の上にも前例がありまして、イエスの時代、圧倒的な軍事力でローマがイスラエルを支配したわけです。ですからこれは「偽イスラエル」であったわけです。ユダヤの祭司たちはピラト総督と握手をした、その下での正義であったわけです。イエスが言っている「人はパンのみにて生きるにあらず」というパンは衣食住すべてについて言っているわけです。いくら文句を言っても「偽イスラエル」のパンで生きるより他ない。それ以外の選択肢はなかったわけです。

 ところがイエスは、人間は「偽イスラエル」のパンのみの存在ではない。それ以上の、それに汚染されないものを求める魂がある存在だと言ったから、内心そう思っていた民衆が感動したわけですね。また、それだからイエスは処刑されたわけです。処刑したけど、処刑したほうが滅びてキリスト教は残った。

 圧倒的な軍事力でなしうることとなしえないこととがあることをバイブルは立証しているわけです。ところがアメリカ人のように毎日バイブルと居るとそれが見えなくなってしまうわけです。

 わたしがもう一つあげておきたいのはアメリカのペインという人が書いた「コモンセンス」(岩波文庫)という本です。当時イギリス軍がアメリカ植民地に進駐しておった。それはアメリカ人のためにしていることだと主張していた。ところがペインはそれはウソだと言ったわけです。誰もが言えなかったことをペインは言ったわけです。

 日本人は大変おとなしい民族ですが、今は何でも言える時代です。思い切って言うことが必要なのではないでしょうか。ご静聴ありがとうございました。  

 

目 次 へ

 

「弥生時代の開始年代」  国立歴史民族博物館講演録

その一  要約・文責  高柴 昭

 

国立歴史民族博物館(以下歴博)の主催による「弥生時代の開始年代」という講演が本年七月二十五日に行われました。今後何回かに分けてその要約をお伝え致します。

 

第一部では館長の挨拶のあと、四人の研究者による講演が行われました。自然科学系の研究者から、炭素14年代測定法に対する丁寧な説明があり、それを受ける形で、文献史学の研究者から、半信半疑ながらも、消極的に事実の前には従わざるを得ない、と言う段階から一歩進み、この事によって説明が可能となる幾つかの事実を踏まえて、今後更に研究を進めていきたい、と言う旨の報告がありました。

第二部では、予め提出済みの質問に対する回答が各講演者からありました。鋭い質問が多いこともあり、これまでの見解等と、どのように折り合いをつけていけば良いのか、戸惑っておられる本音のところが垣間見られました。

 

尚、図表等は歴博のホームページもご参照下さい。

http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/news/index.htm

 

館長挨拶   館長 宮地 正人

 国立歴史民族博物館は、単なる博物館ではないと考えています。歴史学は総合科学であり、文献史学、考古学、民俗学、自然科学の四つの学問分野の人が共同して研究しながら、日本の歴史と文化を解明し、解明した内容を論文だけではなく研究展示として皆さんに還元して行く、その中の主要部分は常設展示に持って行くという姿勢で研究している博物館と思っております。

今回お話しする絶対年代の問題も我々の共同研究の一つのテーマです。我々の以前からの夢であった、非文字資料から年代を決められるかどうか、ということについて、ようやく最近、相対年代だけでなく絶対年代がわかり始めてきました。文献史学では、非文書か文書かと言うことはその内容から判断しますが、それと同時に、この紙がいつ作られたか、ということが判れば非常に強い年代決定の材料になると考えています。

今回ご報告するのはそういった研究の途中の成果ですが、それも一年やニ年の研究でやったわけではなく、ご案内の三内丸山遺跡の絶対年代の決定辺りから、炭素の年代測定、或は植物生態学による年代推定等の研究を通じ、確信を持てる成果を得て、この間報告しました。

但し、皆さん同様、まだ材料が足りないと私は感じており、五年間くらい、色々な、批判や反対の方も含めた共同研究で、皆が納得する材料を共有財産として作って行かねばならないと考えています。

あと一つは、日本だけではなく、韓国、中国、そして可能であれば、北朝鮮の考古学・自然科学の人とも一緒に東アジアにおける農耕と文明の起源を考えて行きたいと思っています。最低5年間くらいはじっくり議論をした上で、皆さんで納得すれば良いと考えています。その結果、もしかすると、「東アジアの文明化」の出発は今まで考えたような春秋戦国、或は秦・漢帝国ではなく、もうひとつ前の、殷・周時代になるかもしれないという、非常に夢のある結論になるかもしれない、と言う期待を持っています。

 

「研究の内容・結果・意味」   藤尾慎一郎(考古研究部 助教授)

 

 今回、炭素14年代を計ったのは、夜臼(ゆうす)U式、板付T式の土器に付着している炭化物で、これをAMSで計り炭素14年代を出しました。得られた炭素14年代を、世界的な標準データベースであるINTCAL(歴年較正曲線)というものと対照して、私達が認識できる「暦」に換算したところ、11点の試料の内10点が前900〜750年の間に絞られることが分かりました(95%の確率)。

以上が概要ですが、まず、夜臼U式、板付T式とは何か、又、弥生時代とはどういうものか、という基本的な考え方からお話します。

九州北部の縄文から弥生に掛けての土器形式で、縄文晩期に属するのが黒川式と言われる土器で、弥生になると夜臼T式と言われる土器が現れ、弥生早期の終り頃に夜臼Ua式と言われる土器形式になります。前期の初めになると夜臼Ub式となり、板付T式という形式も併行して前期の初め頃に現れます。

 

           
     
 


ここで、皆さん「オヤ」と思われるのは、「弥生早期」という言葉ではないかと思います。1970年代の終りに、これまで縄文時代と考えられていた土器に伴って、完成された水田が福岡市から出て来ました。それ以前から、弥生時代と言うのは本格的な水田稲作の始まり、金属器を使用して農耕生活を始めた時代と定義していたので、完成された水田が出て来たことで、佐原真さんと言う方が、この時代から弥生時代に含めた方が良いのではないかと言うことで、それまでの弥生時代の前期の前に早期と言うものを加えた訳です。

ですから、それまでは夜臼式というのは縄文時代晩期の終りの土器と考えられていたわけですが、縄文時代の完成された水田の出現を機に、弥生時代の早期の方に組入れたと言うことです。今回歴博の立場は、この立場を採っています。

研究者の中には、ここは飽くまで縄文時代の晩期の終りであるとされている方もおられるので、皆さんは二つの説があるということを認識しておいて頂ければ良いと思います。

弥生時代の前期の初めと言うのは、大体、紀元前300年頃で、早期の初めが大体、紀元前400年頃と考えられていました。弥生時代は大体紀元前五世紀から四世紀に始まるというのが、ここ二十年ほどの考え方でありました。こういう風な年代がどういう風にして今まで考えられた来たかというと、実は、中国や韓国で出土する年代が分かる遺物、特に前漢の鏡ですと大体、紀元前の一世紀の前半に作られた、ということが分かっているので、その鏡が日本で出土する場合、その製作年代を遡ることはないということが前提になり、甕棺に伴って鏡が出てくる、中期の後半と言っている時期を、紀元前一世紀の前半と言う風に位置付けた訳です。ですから今回、AMSで計っても、その前漢鏡で決めた年代というのは動いていません。


ですが、その前漢鏡が出土する以前は、その遺物が何年に作られたか分からない試料を基準に年代が決められて来たということになります。詳しいことは後から説明しますが、そう言う分析をして、前期が紀元前300年、早期が紀元前400年から500年と言う風に考えていました。今回のAMS測定により、前漢鏡以前の年代が従来と異なるものであった、ということになります。

 歴博では数年前から文部科学省の科学研究費を頂き、縄文時代草創期から古墳時代に掛けての試料約七百点をAMS分析にかけて年代を出して来ています。その結果、昨年くらいから縄文時代のことに付いては学会等で発表して来ましたが、今年になって弥生時代の初めの頃のデータについて発表しました。今回は七百点程の試料の内、二十点についてのご紹介です。

 それでは、どういう遺跡から出土したものを使ったか、ということですが、まず上の地図をご覧頂きたい。

次に試料として使った物ですが、地図で示した遺跡から出土した各土器について今回は、煮焦げ、吹きこぼれといった、土器付着炭化物から測定用試料を作成しました。土器の口の部分の少し下のところに、吹きこぼれとかの煤が付きます。これを丁寧にはがして炭素14年代の測定を行うわけです。

(遺跡・土器・試料等の関係を次ページに表として示します。)

 

計測結果が得られたらINTCALと対照して実年代を求めるわけです。

従来、夜臼Ua式は、紀元前四〜五百年頃と考えられていましたが、AMSで計ると、大体前900年ということになり、板付T式というのは、紀元前300年頃と考えられていましたが、AMSで計り較正年代を出すと、800年から750年と言うことになりました。新聞報道等で有名になったのはこのことで、従来より500年ほど古い結果になりました。即ち、本格的な水田稲作の始まりがこれまでより500年近く遡ることになり、本格的な水田稲作の始まりを弥生時代と考える立場では、弥生時代が500年近く遡ることになります。

 

実は、ここで問題になるのは一番古い弥生土器(夜臼T)の付着炭化物を計っていないということです。これについては考古学的に検討しなければなりませんが、較正年代として出されたとてつもなく古い年代が、考古学的に認められるのか、という意味で三つの検証を行いました。

即ち、従来の土器編年との整合性がとれているか(順番が狂わないか、横との関係がずれないか)、次に年輪年代との整合性はどうか、それから年代が分かっている試料(紀年銘試料)との違いはどうか、という三点について調べました。

 

 
 


土器編年との整合性については、現在迄のところ、韓国南部や東北地方晩期と比べても逆転関係とか、横との関係が大きくずれるということは、見つかっていないということで、クリアーしていると考えております。

ニ番目の年輪年代との関係ですが、年輪年代は、実は針葉樹で計るのですが、針葉樹は九州では出土しなくて、近畿でしか出土しないので、年輪年代と炭素14年代との比較をやろうとすれば、九州では出来なくて近畿でやるしかない。従って、全部近畿のデータです。上の方は古くて下の方は新しい、布留0というのは古墳時代の始まりの頃の年代で、こちらは弥生時代の前期の後半の年代。(注:この部分プロジェクターによる説明)

こちらは「池上曽根遺跡」と言う例の祭殿の柱で有名になったものですが、これは年輪年代では紀元前52年伐採という年代が出ていますが、同じ柱から取った木を炭素14年代にかけたところ、紀元前60±20年という結果になりました。ですから、年輪年代と炭素14年代の直接的な関係がわかったのは、「池上曽根遺跡」で、同じ資料を分析しました。これは中期の終わりに属する年代です。

 今回我々が発表する前は、年輪年代について、比較的新しい時代については近畿の皆さんも殆ど認めているのですが、古い時代については年輪を無視していました。ところが今回歴博が発表した年代と古い時代が合ってくるということで、近畿の方でも大騒ぎになって、現在再検討が行われています。

 次に紀年銘との関係ですが、新しいところから行くと、後漢初頭(紀元一世紀の第三四半期)の墓から出て来た「棺」に付着していた漆の年代を計ったところ、56点計って殆ど誤差内に納まりました。

 もう一つは中国の例で、紀元前九、十世紀、西周時代の申侯(しんこう)の潤iそ)という人物、これは山西省の人ですが史記に紀元前812年に死亡したという記事が出ています。この人骨を測定したところBC808±8年の値を示しました。

以上のような検討を重ねて考古学的には、今のところは可能性があると、私共は判断しました。

 

 弥生時代の一番古い土器である夜臼T式は実際には計っていないのに、どいうふうにして年代を推定したかと言いますと、夜臼U式の上限が紀元前900年で、夜臼T式はそれより一つ古い土器でありますので、前900年に、土器の一形式の年代である、およそ50年から100年足しまして、前十世紀を上限にする頃が、弥生時代の最も古いところではないかと考え、弥生時代は紀元前十世紀を上限とすると言うことで結論を持ちました。

 今回の研究の意義は、土器形式と密接に関係している試料を取って、AMSで年代を計ると言うことは、細かい形式編年が完成している日本でしか出来ないことで、非常に意義深いことだと考えております。更に、AMS年代というのが、これから認められて行くようであれば、集落論などに非常に大きな大きな意味を持って来ると考えております。

 今後の課題としましては、本年度中に西日本の三箇所の地域で、前期から後期で6080程度の土器形式ありますが、その時代の夫々の土器形式の付着炭化物からAMSを使って年代測定ををやるつもりです。その後一、ニ年で東日本まで含めたものを測定し、更に、韓国、中国を含めた東アジアの先史時代の時間軸をニ、三年でやっていければと考えております。

 得られた成果をどう言う風に考えたら良いか、ということについては、館外の先生方も含めた上で、国際的な共同研究を進めて行ければ良いなと考えております。

 

目 次 へ