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「岩宿遺跡」と かみつけの里博物館を見る旅    柳川 龍彦

 

 六月二十九日 八時 東京駅集合。

T/Cの高木さんを含め、総勢十七名。

 東北自動車道の佐野藤岡I/Cを経て、まず「大前神社」に到着。

 無人なので、資料などないので、インターネットで検索した内容を以下に記す。

 

 

 

 

 

 大前(おおまえ)神社

 栃木県下都賀郡藤岡町大字大前字磯城宮三八三

 式内社 下野國都賀郡 大前神社 旧郷社

 祭神 於褒婀娜武知命(おおあなむちのみこと) 

 配神 神日本磐余彦火々出見命

 『神名帳考證』出口延経 豊城命 

 『神名帳考證』伴信友 大穴持命 

 『下野國誌』     大名持命 

 『神名蝶』      大己貴命 

 『明治神社誌料』

 於褒婀娜武知命 神日本磐餘彦火々出命

 一品 中務卿具平親王

 三品 弾正尹阿保親王

 四品 中務卿上総常陸大掾貞純親王

 延喜式内大前神社沿革史には、大前神社はその先磯城宮と号すとある。

 

 高木さんが、地元の鳥山さんをどこからか見つけてきた。

 その鳥山さんの話では、

@ “おおまえ”といわれているが、“おおさき”が正しいと強調されていた。

A所在地の「字磯城宮」とあるが、この字は、大前神社のところだけであり、また三八三番地しかない。

 

 さて、それからは、“その先磯城宮と号す”という碑文探しである。

移築された明治十二年の碑らしきものを見つけたが、文字が読めない。 

 懐中電灯を持ってきた人もいたが、藤沢会長が、“水にぬらしたら”ということで、同行の人が持っていたペットボトルのお茶で碑面をぬらしているうちに、左右の斜めから見ると、どうやら読めるようになった。

 何人かが写真を持っていたが、曇りということもあり、よく撮れなかったと思えた。

 次に、途中で昼食後、笠懸町阿左美にある「岩宿遺跡」に向かう。

 ここは、昭和二一年秋に、地元の相澤忠洋によって、赤土(関東ローム層)の中から数個の石片を採集した。

 この相澤忠洋の胸像は、岩宿ドームの入口の反対側にある。

 それまで、この関東ローム層は、約一万年まえの火山噴火による火山灰により、人が住める状況ではないというのが定説とされていた。

 昭和二四年九月〜十月に明治大学考古学研究室と、さらに、昭和四五年〜四六年に東北大学考古学研究室により調査がおこなわれた。

 その結果、岩宿ゼロ文化と命名された「珪岩製旧石器」群が発見され、現在も論争中とのこと。

 

 つづいて、群馬町の「かみつけの里博物館に。

 榛名山東南麓にあるが、一五〇〇年前に二度にわたる噴火で埋もれた遺跡が出てきた。

 博物館の資料には記されていないが、説明のなかでは、昭和五六年の上越新幹線の事前調査で、日本で初めて発見された豪族の館の跡が、「三ツ寺T遺跡」といわれている。

 また、保渡田古墳群として、八幡塚、二子山、薬師塚という三つの前方後円墳がある。

 このうち、八幡塚古墳が復元されている。この三つの古墳の発掘状況は、それぞれ、

  八幡塚 昭和四年

  二子山 昭和五年

  薬師塚 江戸時代に盗掘されたらしいが、昭和六二年の土地改良事業で調査がなされた。

 これについては、もらった資料には何もしるされていなかったので、旅行後に学芸員に電話して確認した。

 

 ここで、座間の鈴木さんは、二日目は用事があるとのことで、同行できず、皆と別れ帰られた。

 

 一日目が終わり、水上温泉の松の井ホテルに。

 中国建築(和風のホテルで何故中国建築かは理解できないが)の“唐天竺”という雄大な大広間での食事となったが、これが予想だにしない豪華なものだった。

 食事を終え、何人かが残り雑談していたが、そのとき藤沢会長が、今までの旅行で、ホテル・食事とも最高ということで褒めることしきり。

 高木さんも褒められて、しきりに恐縮していたが、それより今後の旅行のときに、あまり格の違うところを選べなくなったというプレッシャーを感じていたように感じられた。

 次回以降に、期待大だが・・・

 

 閑話休題

 二日目は、月夜野町の矢瀬遺跡に。

 縄文後期(約三五〇〇〜二三〇〇前)の住居・祭祀遺跡・水場などが比較的狭い範囲に配置され、縄文期の集落の状況がみられる。

 この中で、火を炊いた炉の四隅に“目”の字のような形の石が置かれた“四隅袖付炉”といわれるものがあるが、これは、日本ではたった一つの特異なものだそうだ。

 

 次に、榛名町の榛名神社に。

 榛名神社というのは、榛名町の北方(月夜野町の近く)や沼田市にもあるようだ。

 随神もん(山門)から本殿(改築中であった)まで、ゆるやかな山道を歩くこと約十分で。

 一三世紀のなかばの創建とされ、南北朝時代から神仏習合となり、上野寛永寺の管下となっていたが、明治初年の神仏分離により榛名神社として独立した。

 境内は、那須火山脈に属しているため、あちこちに奇岩がある。なかでも、本殿の裏にある岩は、下から見上げると、いまにも崩落しそうな状況で、何人かが震度5以上で落下するのではというような危惧をしていた。

 通りがかった神官に尋ねたところ、“みすがた岩”だと言っていた。

 その帰りがけに立ち寄ったのが、「榛名町歴史民族資料館」である。

 ここで、同行の渡邊さんが、とんでもないものを見つけた。

 “榛名町歴史文化年表”というものが掲げられていたが、その中に、なんと、

・大化二年(六四六)群馬評長野里、 井岡評、 多胡里

・霊亀元年(七一五)「評」、「里」は廃され、郡・郷となる。 

とあるではないか。

 早速、職員を呼んで、出典を尋ねたがわからず、前館長のときにこの年表はつくられたはずということで、連絡をとってくれた。

 埒が明かず、高柴さんが電話を代わり確認していたが、このときははっきりしなかった。

 調べてもらって、高柴さんに連絡があるということで、この日は終わった。

 この記事が出るときまでに、何か進展があればと願うばかりだが・・・

 期待するほうが無理かな。

 

 最後が、高崎市の「観音塚考古資料館」であるが、本来なら月曜で休館なのに、事前の高木さんの連絡で、わざわざ開けてくれていたし、学芸員の滝沢さんが、古墳の玄室内の説明にも同行してくれた。

 感謝、感謝。

 六世紀末から七世紀初めのもので、群馬県内では、最後に造られた前方後円墳である。

 昭和二〇年三月に、防空壕として石室が開口された。

 その際に、今展示された三〇〇点あまりの出土品が発見されたもの。

 この玄室は、横穴式石室で、関東の石舞台といわれているそうだ。

 石室と羨道で約一五メートルあるが、特に玄室の天井は約六畳ほどの巨石(五〇〜六〇トン)であり、壁面もこれに準じた凝結凝灰岩でつくられている。

 

 ここで、すべてのスケジュールを終了し、関越道を通って、途中練馬区役所のところで数名が下車し、予定どうり、新宿駅に到着し解散となった。

 

(追記)

 全くのプライベートで恐縮だが、小生仕事で二〇数年つきあっていた人が、四年程前に、東京の中野から笠懸町阿左美に転居した。

 この旅行の案内をもらったときに、岩宿遺跡の所在地をみてビックリ仰天した。

 前もって連絡をしておいたところ、岩宿文化資料館に訪ねてきてくれた。

 三〇分ほどの再会であったが、大変嬉しかった。

 ひとえに、企画をしてくれた高木さんに感謝。

 その人が持ってきてくれたお酒が、食事後の何人かの胃の中に消えたことを付け加えて。

 

 

慶州・伽耶史跡巡りの旅に参加して   松戸市  藤吉和史

 

釜山(プサン)の西にある金海国際空港についたのは、七月十七日の昼だった。『慶州・伽耶史跡巡りの旅」の始まりである。現地ガイドの金順姫さんに案内されて、十七名のメンバーはチャーターのバスで釜山近郊の史跡見学へと向かった。

洛東江にさしかかったところで、この川の東が新羅で、西が伽耶の国だったのですと説明され、実際に体感することの大切さをはじめから考えさせられた。

 

 初日は、釜山近辺の金海博物館、金井山城(クンジョンサンソン)、そして釜山博物館を見学した。はじめに訪れたのは、伽耶時代の出土物を中心にした「金海博物館」で、われわれの知識では当然のことながら、日本で見る遺物と共通のものを感じた。つぎに訪れたのは、四世紀の新羅時代に作られたという「金井山城」だった。十八世紀に日本の侵入に備えるため改修されたものだが、もとは十七キロメートルあったという石垣を見て、わが国をの神籠石を連想したメンバーは私だけではなかったようである。

 つぎに、「釜山博物館」。ここには新羅・伽耶の時代から三韓、三国、統一新羅、高麗、朝鮮時代と時を追いかける展示室の順番で、釜山近郊の貴重な発掘物の展示があり、伽耶独特の特徴が除々に新羅に同化していく過程が理解できるようであった。

 雨になったニ日目は、中身の濃い史跡巡りだった。世界文化遺産に登録されているだけのことはあって、慶州(キョンジュ)の町全体が史跡のようである。建物はすべて高さが制限され、屋根も新羅風に瓦葺きにしてある。ガソリンスタンドまで瓦屋根なのには笑ってしまったがーーー。

はじめに、ホテルから近い「脱解王陵」と「金庚信将軍墓」を見学した。いずれも小さな円墳である。新羅四代王の昔脱解王陵の説明には倭国との関係の記述があり、日本語の説明では1000キロメートル東南としてあったが、原文では1000里である。短里なら多婆那国は北九州から山口県のあたりだと話し合った。

その後の「慶州国立博物館」の別館では天馬塚から発掘された金冠や宝剣、月城近辺の復元ミニチュア、そして聖徳大王の神鐘などを見学した。昼からは、曲水の宴が行われた遺溝である。「鮑石亭(フソッチョン)」、二十三基の古墳が整備さてた古墳公園「大陵苑」をまわった。とくに、「天馬塚古墳」は内部が復元され、中で木棺埋葬の様式や石積みの状態のほか、金冠や装飾品など多くの副葬品も見ることができた。この後、三国統一を記念して文武王が造った「臨海殿」や「石氷庫」を含む「月城跡」を散策し、世界遺産「仏国寺」にまわって二日目の雨中探索を終えた。

帰り道、ガイドの金さんと宗教の話になり、韓国ではお祈りの意味で、今で「キド(鬼道)」という言葉を普通に使いますと教えられた。倭人伝の卑弥呼が「鬼道を能くし衆を惑わす」のあの鬼道である。日韓の交流の古さと言葉の不思議さを実感した瞬間であった。

 慶州の古墳群や出土品、仏教関係の施設、仏像などを間近にて見て、紀元前五七年から九三五年までの新羅王朝の首都であった慶州の繁栄振りが想像できた。ただ、月池とよばれた池が新羅の滅亡後、衰退して雁鴨しか来なくなったので「雁鴨池(アナプチ)」と呼ばれるようになったという話には、歴史の悲哀も感じられた。

 ほかにも、武烈王陵、七世紀の天文台「チョンソンデ」、新羅歴史科学館の石窟庵などすばらしい遺跡を探訪したが、三日目の最後に廻った釜山の福泉洞古墳群と「福泉博物館」では、これまで見たことのない古墳団地とその展示があった。五万六千平米の丘陵に、二〜六世紀の伽耶文化と知ることができる木郭墓・石郭墓百七十期が発掘されており、それをほぼそのまま保存し、副葬品を博物館に展示している。馬韓から金官伽耶、大伽耶、安羅伽耶などの時代や地域を異なる出土品の特徴や相違、さらに新羅への併合による変化などがよくわかる展示となっている。ボランティアの学芸員の説明も熱心で、まだ新しいこの博物館を訪れる人を満足させてくれるものであった。

 三日間という短い日程でしかも釜山と慶州という限られた地域で、これだけ内容の濃い見学・探訪ができたことは、喜びとともに驚きでもある。最後に、この旅を企画・実施してくれたトラベルロードの関係者とスムースに楽しく一緒に廻ってくださった同行者の皆様に感謝いたします。

(二〇〇三年七月二十一日)

 

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読者コーナー

前号で「質問コーナー」を設けることをお知らせしましたが、より広い観点から活発な意見交換を行う場としたほうが良いのではないか、と考えまして、「読者コーナー」と改めることにしました。

早速、深津さんからお便りを頂きました。

 

          深津 英美

 前略

 此の度は又、「東京古田会ニュース」第九十一号を、有難うございました。

 今回も力作揃いでじっくり読ませて頂いておりますが、「質問コーナー」が設けられたとの事。早速そちら宛てに投稿させて頂きます。第九十一号の古田先生の「閑中月記・吉山旧記」を拝読し、幾つか疑問点が生じましたので。

 

@「鬼夜」の火祭り自体は先生のおっしゃるように、縄文期の発生でしょう。これも含めて日本各地に現存する「大祭」は、

?そのお祭りそのものの始まり(第一のきっかけ)

?大掛かりになった原因(第二、第三のきっかけ)

と、考えれば福永氏や福田氏の疑問も解決すると存じます。

A「鬼夜」の火祭りにおける?と思われる「桜桃沈輪」ですが、「桜桃」と書くと、現代の日本人一般にとってはサクランボを意味します。その仲間の「ゆすらうめ」という植物もありますが、こちらは、「英桃」、「梅桃」とも書き、江戸初期に大陸から渡来したとの事。

 それなのに、なぜ「ゆすら」と読むのでしょう。接尾辞「ラ」は、「イワラ」、「サワラ」、「クラ」などの例にもあるように、古代九州における聖地を意味すると先生は言っておいででしたが…

B読み方と言えば、「鬼夜」は「オニヨ、又はヨル」でしょうか。「キヤ」でしょうか。このお祭りの最高の中心者「鬼面尊」も、「キメンノミコト」で良いのですか。「キツラ」と読むと、Aの「ゆすら」とも関係が出て参ります。

 更に、このお祭りの開かれる(大善寺)「玉垂宮」も、「たまだれのみや」と読まれているようですが、「ぎょくすい」と音読みにすると、玉を最高位のシンボルとしていた大陸の天子と直結する意味にもなり、九州王朝の宮廷により相応しく思えるのですが…。

 こういう具合で、昔の名前は読み方の難しいものばかりですから、読み方がとにかく判っている場合は、「ゆすらちんりん」のように仮名を振って頂きとう存じます。

 以上、勝手な事を申しましたが、悪しからず。

うっとうしい毎日、皆様、どうかお体をお大切に。

かしこ

 

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事務局だより     高木 博

古田武彦富士講演会は台風10号の暴風雨の中の実施となりましたが、参加者各位におかれましては困難な状況下にも拘らず、ご参加いただきまして感謝にたえません。

皆様の熱意に応えるべく今後とも努めて行きたいと考えております。

 藤沢講演会は前日とはうってかわって酷暑の中となりましたが、多数のご参加をいただきありがとうございました。多くの方の参加は頂きましたが、残念ながら、事務局として期待したご参加の人数よりは下回る結果になりました。まだまだ課題は多いと感じております。今後とも色々な場面で皆様のお力添えをお願いしたいと思います。

 

今号から「明治前期全国小字調査書、筑前国」に記載があります小字の中で、事務局が注目した小字名をご紹介して行きたいと思います。 (全て原文のままです)

 

筑前国那珂郡

・平尾村 水下シ、乙宮、大蛇ケ浦

・屋形原村 日ノ本、卯内尺

・若久村  大屋敷、大戸、住吉、住屋敷

・須玖村  磐石、トウナシ、散使給、知者ケ本、ヒカケ、カミノワケ、

     水汲、大下(ヲヲジヒ)、建出、イカリ、御陵、ハジカミ

・下日佐村  フツワラ

・上日佐村  江戸、御料、大光寺

           

 

 


探訪旅行ご案内

 

60年振りの大戸神社の神幸祭を見に行く旅』

 

 会員の本棒さんの提示による、千葉県佐原市にある大戸神社の60年振りの神幸祭が挙行されます。

大戸神社は天手力雄命を祭神として孝徳天皇白雉元年(650年)に現在地に遷座されたと伝えられております。

 

 鎌倉時代は将軍家の守り神として武将の尊敬厚く、江戸時代までに香取神宮の第一末社(明治になって摂社)。他の末社と違って、神領も香取、大戸と区別され、江戸時代も神主、大禰宜など神官26人と社僧8人が関係していました。

 

 神幸祭は神社にて粉つき神事と餅つきの後、市内近郊を神幸して神社に戻って来ます。

 この神幸祭を見にいきませんか。

 当会では本棒さんをリーダーに調査旅行を企画いたします、大変興味ある神事なので会員各位殿には奮ってご参加いただけますように。

 他に市内の見学予定は拝所、夏至の伝承地(時間の都合にて見学出来ない場合もございます)

月日   :10月26日(日)

集合時間:午前7時(時間厳守)

集合場所:東京駅丸の内北口改札口

       マイクロバス利用

募集: 20名

費用: 6500円(昼食:自弁)

申込: 東京古田会 事務局(高木迄)Fax、郵送にて

  (株)トラベルロード 高木迄  EmailFax、電話、葉書にて申込下さい。

Emailtakagi@travelroad.co.jp

Fax042-599-2054       

電話:042-599-2051

住所:191-003 日野市高幡1000-一  マロニエビル3F

 

定例会議・勉強会

次回幹事会は9月27日(土)堀留町区民館 11:00より

改新の詔を読む会は9月27日(土) 堀留町区民館 13:30より

 

 

編集後記       高柴 昭

 

暑いと文句の一つも言いたくなるくせに、涼しければ涼しいで色々なことが気になります。電力不足と言う事態は避けられたようですが・・。

 

 柳川さんが「岩宿遺跡」を訪ねる旅の報告をしておられます。その時に立寄りました「榛名町歴史民族資料館」で皆さんが一瞬色めきました。本文にあります様に、年表の中に「評」「里」制の制定と廃止に関する記録があるかのような記述があったのです。その後、連絡をとりました範囲では、調べて見ても出典が良く分からないと言うことで、前の館長さんがしきりに恐縮されるので、諦めずに探して頂きたいとお願いはしておきましたが…。

 藤吉さんからは慶州の旅の報告がありました。自然との調和が保たれ、落着いた町並みのいたるところから古墳が見える、「古都」に相応しい佇まいの中に立つと、我国も白砂青松と言われた頃はそれ程昔でもなかったことを思い出してしまいました。

 帰国してから現地で頂いたパンフレットを見ていて思わぬ発見がありました。現地の味を紹介してあるのですが、その中に「?漬け(ひしこづけ)」という物がありました。「東?人」という言葉が頭をかすめました。「かたくちいわし」を原料にした魚油のようですが、現地では目を通していなかったため、詳しいことを聞けなかったのが心残りです。

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