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根城南部氏(遠野南部氏)(八戸氏)

1189年の奥州合戦での戦功により南部光行が陸奥国糠部郡の地頭職を賜り、光行の三男の波木井実長が糠部郡の八戸を受け継いだとされるが、これらは史料的に疑問視されている。八戸の所領と居城が確実に確認できるのは南部師行の頃からで、実質的には師行が根城南部氏(八戸氏)の祖ともされている。

歴代当主

【南部実長】 なんぶ さねなが
 根城南部氏初代。南部光行の三男。甲斐国の波木井郷移り住んで波木井氏の祖となった。定説では根城南部氏の祖とされるが、実長が奥州に下向した痕跡は無い。日蓮上人を身延に招いて保護した人物として有名。
【南部長継】 なんぶ ながつぐ
 根城南部氏3代目。南部実継の嫡男。1327年の「安藤の乱」に工藤貞祐に従って参戦しており、奥州の所領はこの時に得たという説もある。1331年に倒幕に参加して六条河原で処刑された波木井実継に代わって跡を継いだ。
【南部師行】 なんぶ もろゆき
 根城南部氏4代目。南部政行の次男。1332年に陸奥守の北畠顕家に国代に命じられて陸奥国へ下向した。1333年の大光寺合戦などで活躍し、北陸奥において南朝勢を大いに盛り上げたが、1338年の足利尊氏討伐の第二次上洛遠征に軍勢を率いて参加し、阿倍野の戦いで高師直の軍勢と戦って討死した。
【南部政長】 なんぶ まさなが
 根城南部氏5代目。南部政行の三男。兄の師行の跡を継いで根城南部氏の当主となった。この頃には北朝の勢力が拡大しており、南部氏にも足利尊氏から北朝への誘いが着たが、政長は頑として南朝方を貫いている。このため、北朝の曽我氏に根城まで攻め込まれるがこれを撃退している。
【南部信政】 なんぶ のぶまさ
 根城南部氏6代目。南部政長の嫡男。『東北太平記』では信政が護良親王の子の良尹王を1347年に吉野から陸奥国糠部郡の北部へと連れてきたとしているが、『東北太平記』自体が創作を入り混ぜているため、良尹王の下向については疑問視されている。信政は遠征中に亡くなったとされるが、どこで戦死したかは定かではない。
【南部信光】 なんぶ のぶみつ
 根城南部氏7代目。南部信政の嫡男。父・信政が若くして亡くなったため、祖父・政長の後見の元で当主となった。信光もまた奥州にあって南朝を支え続けたが、戦況の変化に対応するためか本拠地の甲斐国波木井郷へと引き揚げている。
【南部政光】 なんぶ まさみつ
 根城南部氏8代目。南部信政の次男。兄・信光の子が幼少だったため家督を継いだ。政光も甲斐国にて北朝勢と戦い抜いていたが、「甲州波木井郷を明け渡し、南朝より頂いた陸奥国糠部郡へと本拠地を変えることで北朝と南朝の両方への面目が立つ」という三戸南部氏の説得により、甲斐国から再び陸奥国へと下向し、これ以後は糠部郡八戸郷が本貫地となった。その後、政光は兄の子の長経に家督を譲り、七戸郷へ移り住んで七戸氏の祖となった。
【南部光経】 なんぶ みつつね
 根城南部氏10代目。南部信光の次男。兄・長経に代わって家督を継いだ。『向鶴伝説』では、光経は戦に出る前に戦勝を祈願しており、その夜に2匹の鶴が舞い、9つの星が降る夢を見たため、この夢のおかげで戦に勝利できたと伝えている。この出来事から、南部家の家紋の一つである「向鶴紋」が生まれたという。
【南部政経】 なんぶ まさつね
 根城南部氏13代目。新田清政の嫡男だが、本家の南部守清の養子となってその跡を継いだ。1457年には「蠣崎蔵人の乱」が起こったため、軍勢を率いて糠部郡の北部へと攻め込み、これを討伐して恩賞として糠部郡の北部の地(現在の下北半島)を得たという。『東北太平記』では北部王家の興亡劇として描かれているが、この当時南部氏は安東氏と争っており、実際は「蛎崎蔵人の乱」もその延長線上の出来事と考えられる。なお、この頃から八戸氏を称したとも言われる。
【南部政栄】 なんぶ まさよし
 根城南部氏18代目。新田行政の嫡男だが、本家の南部勝義の養子となってその跡を継いだ。三戸南部氏の家督争いでは南部信直に加勢し、九戸政実側の軍勢と戦った。1590年の「小田原の役」では、南部信直が豊臣秀吉の元に参陣している間の留守を任されている。ただ、秀吉の所領安堵が出た後は、根城南部氏は三戸南部氏の家臣扱いとなった。
【南部直義】 なんぶ なおよし
 根城南部氏22代目。新田政広の嫡男だが、本家の南部直政の急死により、婿養子に迎えられて跡を継いだ。だが、御家断絶の危機を乗り越えることと引き換えに八戸から遠野へと転封させられることになり、根城南部氏は300年間住み慣れた八戸郷を離れて伊達藩との境界に接する遠野保へと移り住んだ。そして以降は遠野南部氏と呼ばれるようになった。。

居城

城名 概略
中山構館 1332年に奥州へ下向した南部師行がまず始めに居住した場所と伝わるが、ここに居たのは短期間で、後に八戸郷の工藤氏の館(後の根城)を改築して移り住んだとされている。
根城 1332年に4代目の南部師行が築いたとされるが、実際は元々あった工藤氏の城を師行が増改築して利用したと考証されている。22代目直義の頃まで根城南部氏代々の居城となる。
鍋倉城 遠野移封を命じられた南部直義が阿曽沼氏の山城を利用して整備し、以後は遠野南部氏代々の居城となった。ただ、当主は南部藩の家老という立場上、盛岡に居ることが多かった。

一門衆・家臣団

居城 概略
新田氏
(新井田氏)
新田城
鍋倉城
一門衆。南部政長の次男の政持が新井田郷を領して新田氏を称したのが始まり。根城南部氏の一族の筆頭であり、本家に跡取りが居ない場合は新田氏から養子を迎えるのが常だった。
中館氏 中館
鍋倉城
一門衆。南部政長の三男の信助が中館を領して中館氏を称したのが始まり。
七戸氏
(七戸南部氏)
七戸城 一門衆。兄の子へ根城南部氏の家督を譲って七戸郷へ隠居した南部政光が始まりで、政光の子孫は七戸氏を称した。
沢里氏 根城
鍋倉城
一門衆。元は工藤氏一族の横溝氏の傍流とされ、後に南部長安の三男の信治の子孫が養子に入り、根城南部氏の一族となったという。
岡前氏 根城 一門衆。南部長安の三男の信治の子孫。
蛎崎氏
(武田氏)
蛎崎城 一門衆。南部氏一族の武田信義が蛎崎に移り住み蛎崎氏を称したのが始まり。1448年には蛎崎信純が「蛎崎蔵人の乱」を起こして南部政経に討伐され、一族郎党を連れて蝦夷島へと逃れた。南部氏は同族の甲斐武田氏としているが、松前氏の資料では若狭武田氏の一族だとしている。
田中氏 一門衆。南部光経の庶子の光清が田中氏を称したのが始まりとされる。田中光親は「蛎崎蔵人の乱」の平定で活躍したという。。
赤星氏 田名部館 南部氏家臣。田名部の領主。赤星五郎は南部師行の命により田名部を領したという。1448年の「蛎崎蔵人の乱」では、蛎崎蔵人によって赤星修理が謀殺されている。。
西沢氏 南部氏家臣。1367年に波木井の南部氏居城で行われた祝宴で西沢平馬は年男を勤めたが、宴の最中に敵襲を受け、平馬は年男の衣装鎧のまま出陣して敵を撃退したという。西沢氏は代々根城南部家の重臣を勤め、1411年の秋田征伐や1456年の「蠣崎蔵人の乱」の平定などで活躍している。
工藤氏 尻内館 南部氏家臣。北条氏の被官として糠部郡の郷里へ地頭代として派遣された工藤祐経の子孫と一族で、南部氏以前の八戸の領主だったとも伝わる。1321年の「安藤の乱」が発生した頃の惣領は工藤貞祐で、糠部郡各地の工藤氏一族や縁者(南部氏など)を率いて乱を平定した。鎌倉幕府の滅亡後に所領を没収され、南北朝時代に根城南部氏が台頭するとその家臣となったという。
福田氏 福田館 南部氏家臣。福田の領主。工藤氏一門で、南北朝時代に南部氏の家臣となったという。
葛巻氏 是川上館 南部氏家臣。葛巻の領主。工藤氏一門で、南北朝時代に南部氏の家臣となったという。
三上氏 南部氏家臣。南部氏祖の光行の代から使える南部四天王の三上氏一族で、三上長冨の庶子が南部師行に従い奥州へ移り住んだのが始まりという。一族は代々根城南部家の重臣を勤め、1411年の秋田征伐などで活躍している。『東北太平記』には三上筑前が登場するが、損な役回りが多い。
福士氏
(富士氏)
鍋倉城 南部氏家臣。甲斐国福士郷、または浅間神社神官の富士氏を発祥とする。福士長忠の庶子が南部師行に従って甲斐国から奥州へ移り住んだのが始まりという。三管領(三家老)の一人。1448年の「蛎崎蔵人の乱」では福士長高が南部政経の軍師を務め、江戸時代に子孫の福士長俊がこの時記録を元にして軍記物語の『東北太平記』を創ったという。
類家氏 類家館 南部氏家臣。類家の領主。一族は代々根城南部家の重臣を勤め、1411年の秋田征伐などで活躍している。
楢館氏 楢館 南部氏家臣。楢館の領主。楢館左衛門の名が伝わる。子孫には楢山氏もいる。