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七戸城 しちのへじょう

別名
柏葉城
時代
鎌倉時代?~江戸時代
分類
中世平山城
規模
総面積:25ha、比高:約40m
現状
国指定史跡/神明宮、公園、住宅地
場所
青森県上北郡七戸町字七戸
最終訪城日
2011年5月3日

元は蝦夷館だったが、後に七戸南部氏の代々の居城となった。現在は主要部分が神明宮と柏葉公園、他は住宅地となる。

城史

年代 出来事
平安時代頃 蝦夷館(エミシの館)があったと考えられている。
1199年 南部光行の三男が七戸に封ぜられて七戸太郎三郎を称した。 『南部光行伝承』
1334年 工藤右近将監の七戸の所領が没収されて伊達行朝に与えられている。 『南部家文書』
1335年 北畠顕家によって結城七郎左衛門尉の所領となっていた七戸が南部政長に与えられている。 『南部家文書』
1350年頃 南部政長は家督を孫の信光に譲り、信光の弟の政光には七戸を与えた。発掘調査の結果、城としての七戸城はこれ以降に整備されており、政光によって築城されたと考えられている。
1372年 南部信光は病床にあったが、嫡子の長経が幼少すぎるため、弟の政光に家督を譲ったという。信光はその4年後に没した。
1372~76年 南部政光は甲斐国の本領へと移り、1391年には北朝勢を撃退している。この間の七戸の動向は定かではないが、一門の者に任せていたとされる。
1393年頃 南部政光は甲斐国の本領を幕府に返上して陸奥国糠部へと戻るが、家督は甥の長経に譲って出家した。その後、七戸城に隠遁して七戸氏(七戸南部氏)の祖となったという。 『南部家文書』
1456年 「蛎崎蔵人の乱」では七戸へ進軍してきた蛎崎軍を野戦で迎え撃った七戸政慶が討死し、その後に七戸城も陥落している。 『北部御陣日記(東北太平記)』
1591年 「九戸政実の乱」では七戸家国が九戸勢に加担して最終的に九戸城の篭城戦に参加している。この間に奥州仕置き軍の上杉景勝勢によって七戸城は攻め落とされており、出城の矢館からその戦闘の痕跡が発掘されている。
1591年 「九戸政実の乱」の終結後に七戸城は横浜左近に一時預けられ、その後は浅水城の南部直勝に与えられた。この時に城はある程度解体され、堀が埋められたという。
1593年 南部直勝の嫡子の直時が七戸を与えられて七戸城に移り住み、七戸氏を称した。
1648年 南部直時が亡くなったため、南部重信が新たに七戸を与えられて七戸城に移り住んだ。
1664年 南部重信が盛岡南部藩の藩主を継いで盛岡城に移ったため、七戸城には代官が置かれて七戸代官所となった。
1869年 「戊辰戦争」の終結と共に七戸代官所は廃止となる。その後、南部信方が修築して七戸藩の藩庁とした。
1871年 廃藩置県により廃城となった。
1941年 国指定史跡に指定される。
1988年 国指定史跡に追加指定される。
2000年 国指定史跡の追加指定される。

縄張り

台地の東南端部に城は築かれており、台地上は堀や土塁によって8つの郭に区画されている。さらに谷を挟んだ貝ノ口地区等も縄張りの一部とされ、部分的に土塁や堀の遺構が残っている。

【本丸跡(七戸神明宮)】
本丸跡は1881年に月南町から遷宮した七戸神明宮の境内となっているが、遺構としては二の丸との間の土塁が良く残っている。また、この土塁には杉と樅の大木が聳え立っており、なかなか圧倒される光景だった。

【二の丸跡の土塁】
二の丸跡は現在は柏葉公園として整備されており、春には桜が咲き誇る憩いの場所となっている。二の丸も遺構としては土塁が良く残っており、土塁の外側は水堀となっている。ここにはかつて青森県で二番目に大きな栗の木があったが、以前あった火災により今は見るも無残な状態となっている。

【二の丸跡の水堀】
二の丸跡と北の丸跡の間には水堀があるが、沢に近い場所の堀は元々は空堀だったのではと思われる節がある。なお、本丸と二の丸間にも掘があるが、こちらはなぜか下水溝のような中途半端な加工状態になっていた。

【北の丸復元模型】
北の丸跡は現在は空き地となっているが、将来的には発掘調査で判明した建物等を復元する計画があるという。北の丸の道路側にはこの復元予定の建物等を再現した模型が設置されている。

【東門】(復元)
七戸城の貝口地区との間の沢には東門が復元されている。一応、古文書の内容からこの場所に城門があっただろうと判断したそうだが、発掘調査等で門の痕跡を確認したのかどうかは不明。復元された城門は青岩寺の山門を参考にしていると思われる。

【青岩寺山門(七戸城門)】(移築)(町指定有形文化財)
七戸城唯一の現存建造物で、青岩寺に山門として移築されている。ただ、老朽化等で撤去された部分や切り詰められた部分があるため、本来の城門よりも小さくなっていると考えられる。

アクセス

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