HOME -> 城跡データ -> 青森県の城跡一覧 -> 七戸城
元は蝦夷館だったが、後に七戸南部氏の代々の居城となった。現在は主要部分が神明宮と柏葉公園、他は住宅地となる。
年代 | 出来事 |
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平安時代頃 | 蝦夷館(エミシの館)があったと考えられている。 |
1199年 | 南部光行の三男が七戸に封ぜられて七戸太郎三郎を称した。 『南部光行伝承』 |
1334年 | 工藤右近将監の七戸の所領が没収されて伊達行朝に与えられている。 『南部家文書』 |
1335年 | 北畠顕家によって結城七郎左衛門尉の所領となっていた七戸が南部政長に与えられている。 『南部家文書』 |
1350年頃 | 南部政長は家督を孫の信光に譲り、信光の弟の政光には七戸を与えた。発掘調査の結果、城としての七戸城はこれ以降に整備されており、政光によって築城されたと考えられている。 |
1372年 | 南部信光は病床にあったが、嫡子の長経が幼少すぎるため、弟の政光に家督を譲ったという。信光はその4年後に没した。 |
1372~76年 | 南部政光は甲斐国の本領へと移り、1391年には北朝勢を撃退している。この間の七戸の動向は定かではないが、一門の者に任せていたとされる。 |
1393年頃 | 南部政光は甲斐国の本領を幕府に返上して陸奥国糠部へと戻るが、家督は甥の長経に譲って出家した。その後、七戸城に隠遁して七戸氏(七戸南部氏)の祖となったという。 『南部家文書』 |
1456年 | 「蛎崎蔵人の乱」では七戸へ進軍してきた蛎崎軍を野戦で迎え撃った七戸政慶が討死し、その後に七戸城も陥落している。 『北部御陣日記(東北太平記)』 |
1591年 | 「九戸政実の乱」では七戸家国が九戸勢に加担して最終的に九戸城の篭城戦に参加している。この間に奥州仕置き軍の上杉景勝勢によって七戸城は攻め落とされており、出城の矢館からその戦闘の痕跡が発掘されている。 |
1591年 | 「九戸政実の乱」の終結後に七戸城は横浜左近に一時預けられ、その後は浅水城の南部直勝に与えられた。この時に城はある程度解体され、堀が埋められたという。 |
1593年 | 南部直勝の嫡子の直時が七戸を与えられて七戸城に移り住み、七戸氏を称した。 |
1648年 | 南部直時が亡くなったため、南部重信が新たに七戸を与えられて七戸城に移り住んだ。 |
1664年 | 南部重信が盛岡南部藩の藩主を継いで盛岡城に移ったため、七戸城には代官が置かれて七戸代官所となった。 |
1869年 | 「戊辰戦争」の終結と共に七戸代官所は廃止となる。その後、南部信方が修築して七戸藩の藩庁とした。 |
1871年 | 廃藩置県により廃城となった。 |
1941年 | 国指定史跡に指定される。 |
1988年 | 国指定史跡に追加指定される。 |
2000年 | 国指定史跡の追加指定される。 |
台地の東南端部に城は築かれており、台地上は堀や土塁によって8つの郭に区画されている。さらに谷を挟んだ貝ノ口地区等も縄張りの一部とされ、部分的に土塁や堀の遺構が残っている。