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蛎崎城 かきざきじょう

別名
錦帯城
時代
鎌倉時代~室町時代
分類
中世平山城
規模
現状
旧蛎崎小学校・山林
場所
青森県むつ市川内町蛎崎
最終訪城日
2009年8月5日

武田信義によって築かれ、以後は武田氏(蛎崎氏)の代々の居城となった。現在は廃校と畑と山林となっている。

城史

年代 出来事
1334年頃 陸奥国代となった南部師行は、宇曾利郷の安東元親殺しの謀反人の新井常安を討伐し、武田修理と赤星五郎を宇曾利郷の目代に任じて管理させた。この時、武田修理信義は蛎崎に城を築いて居城としたという。
1348年 護良親王の遺児の良尹王が南部信政の招きで宇曾利郷へと下向し、順法寺城を修繕して居城としたという。この時、武田氏は赤星氏と共に良尹王の家臣扱いとなったという。
1448年 義純王は家臣の蛎崎蔵人に招かれた船の上での宴で溺死し、宇曾利郷は蛎崎蔵人によって支配された。この事件以降の南部氏と蛎崎氏の戦いは「蛎崎蔵人の乱」と呼ばれることになる。
1455年 「蛎崎蔵人の乱」は当初南部氏が諸所の事情で兵を動かせなかったことが災いし、蛎崎軍とそれに味方する諸勢力に七戸まで攻め込まれる事態に陥ったが、南部政経は準備を整えて反撃に転じ、ついに蛎崎城を攻め落として乱を平定した。落城した蛎崎城は廃城となったとされる。

縄張り

城は男川右岸の段丘上とその背後の山を利用して築かれており、段丘上の廃校舎がある場所が本殿跡で、公園となっている山が見張曲輪跡とされている。公園の東西と北の山も縄張りの内で、山の斜面に郭が展開している。

【主殿跡】
旧蛎崎小学校の廃校舎がある場所が蛎崎城の主殿があった場所とされる。しかし、校舎が出来たときにある程度破壊されているとも考えられており、今までの部分的な発掘調査では明確な遺構・遺物は発掘されていない。

【見張曲輪】
「錦帯城公園」となっている山の部分は見張曲輪跡とされており、頂上部分には蛎崎氏の石碑が立てられている。頂上の郭の他に腰郭も確認できるが、基本的に斜面は自然地形のままで切岸ではない。

【見張曲輪西下段の平場と堀切跡】
見張曲輪と西曲輪との間には堀切があったとされるが、現在は林道が通って大きく削られている。堀切跡の手前には比較的広い平場がある。

【詰曲輪】
見張曲輪から北に見える山の山頂が詰曲輪とされる場所で、蛎崎城の最高所にして北端部分とされている。山頂の平場の周辺には竪堀があるらしいが、確認していない。

アクセス

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