コラム

コラム一覧トップへ戻る

コラム01~05

【No.001】 1998/9 交通安全運動に思う

秋の交通安全運動が今年も始まる。3年前(1995.10.25.)、当時高校生の長女を、歩行中後ろから来た「前方不注視」のワゴン車により即死させられ失った私たちは、文字どおり筆舌に尽くし難い悲しみの毎日を送っている。しかし、いくら辛くとも当の娘の無念さには比べられない。娘の死を無駄にしないために遺された者が何をすべきか何が出来るか、考え行動しようと気を奮い立たせている。

身をもって命の大切さを教えたはずの娘が、天国で悲しんでいるのは、歩行者、自転車、子ども、お年寄りという交通弱者に対する最大の人権侵害である「交通殺人」が一向に減らない事だといつも思う。交通死がまさに日常の出来事とされ、抜本対策がない。交通死をもたらす事故が車輛台数に比例して増加の一途であることを多くの人は知り得ているのだろうか。

交通安全運動の目標がおかしくはないか。「1万人を切ったから」「対前年比減少したから」「都道府県別ワースト1を免れたから」これらの指標が安全運動の成果と見なされるのだろうか。

これらはすべて今の車優先社会を認容する数値としか思えない。例えば北海道新聞の「今年の交通事故死者数○○○(前年同期○○○)」という表し方に何時も違和感を感じる。これでは、ある程度の交通事故仕方ない。昨年より減っているから成果があがっているという人命軽視の心理を助長する。

数を示して警鐘を打ち鳴らすなら、「今年の交通事故死者数○○○、うち、歩行者、自転車利用者が被った「交通殺人」被害は○○○人、戦後の累計○○万○○○○人)」という表現に変えてみたらどうだろう。異常なクルマ社会の一端が浮き彫りにされるのではないか。

コラムの見出し一覧へ

【No.002】 1998/12/30 「交通死減少に」気を緩めないで

98年の道内での交通事故死者数が過去10年の最少ペースという報道がありましたが、はたして、交通事故は沈静化に向かっているのでしょうか。

発生件数はここ20年来増え続けているはずです。98年の減は不況による輸送車輛の減少が要因と言われるように、車の走行距離に比例して事故が頻発している実態に大きな変化はありません。「対前年比減」で事態の深刻さ見失ってはなりません。

心掛けの安全運動から、「歩車分離」など交通環境の抜本的改善に今こそ手をつけるときと思います。

交通事故死者数が、車単独や車対車の事故と、歩行者、自転車利用者が被る事故との区別なしに扱われることも問題です。後者は強大なクルマによる弱者への一方的な人権侵害であり、重大な後遺障害が多いことも考えなくてはなりません。社会で保護すべき子どもたちや、お年寄りが日常的に死傷させられているのに抜本対策がお座なりになっている社会は異常です。

私の長女は3年前、当時高校2年で下校途中、前方不注視の車にひかれ死亡し(原文は「ひき殺され」)ました。娘の犠牲が真に生かされ、安全な社会となることを願って止みません。

(1999年1月14日付 北海道新聞「読者の声」欄掲載)

コラムの見出し一覧へ

【No.003】 2000/1/8  「犯罪白書」にみる交通犯罪の扱いの軽さ

1999年版「犯罪白書」を読んだ。日本社会の人権無視の異常さに慄然とした。一例を挙げる。

○ 刑法犯検挙人員の罪名別構成比(p5)

交通関係業過(「業過」とは業務上過失致死傷及び重過失致死傷のこと)が何と67.8% 刑法犯認知件数でも窃盗に次いで24.4%を占める
しかし、これだけの割合を示していながら、交通関係業過の動向についての記述はない。

○ 第4章第2節「交通犯罪者の処遇」(p199)罪名別起訴・起訴猶予率の項(p478)

起訴率低下の理由を臆面もなく列挙。異常なクルマ優先社会を端的に示すもの。 1989年の39.8%から1998年には12.9%まで激減。寛刑化がここまできている。(二木氏の「交通死」によると1986年ごろまでは70%台であった)
ちなみに1998年の全事犯での起訴率は61.9%。交通関係業過を除く全刑法犯では58.2%である。 
※ 起訴率低下の理由
 「特に傷害の程度が軽微で、かつ過失の態様が悪質でない事案については、
①「国民皆免許時代」、「くるま社会」において、軽微な事件により国民の多数が刑事罰の対象となるような事態となることは、刑罰の在り方として適当ではないこと、
②保険制度が普及し、治療費や修繕費に対する保険による補償が充実してきたこと、
③交通事故の防止は、刑罰のみに頼るべきものではなく、行政上の規制、制裁をはじめ、各種の総合的な対策を講ずることによって達成されるべきものであること、及び
④交通関係業過は、従来から、その多くが略式手続きによって処理され、小額の罰金が科せられていたが、このような事態は、罰金の刑罰としての感銘力を低下させ、刑事司法全体を軽視する風潮を招来するおそれがあること などを理由に、検察庁において自動車等による業務上過失傷害事件の在り方等について見直しがされたことなどがあるものと考えられる。」(p199~200)

○ 未成年者・60歳以上の者の死傷者数、発生件数(p243)

いわゆる「交通弱者」の被害がどれだけなのか、わからない統計である。
少なく見積もっても子ども、お年寄りが毎年20万人以上傷つけられ、5000人以上も殺されている。

○ 罪名・死傷者別犯罪被害者数に「交通関係業過」が含まれていない。(p522)

一体、何が特別で含まれないのか。最近「被害者対策」などとよく言われるが、交通事故については、数にも入れていないのであるから、実際は「対策」など無しということだろう。

○ 交通事故の発生件数、死傷者数、事故率の推移(p243 およびp516)

数字は深刻な事態の進行、人権侵害の恐ろしい実態を如実に語っている。決して「沈静化」などしていない。

コラムの見出し一覧へ

【No.004】 2000/2/5  小学生殺害事件と「交通死」(3.9.加筆)

1999年12月に京都の小学校校庭で起きた中村俊希君(小学2年)殺害事件の容疑者が、任意同行を求めた捜査員を振り切り、団地の13階から飛び降り自殺した事が大々的に報じられた。中村さんの自宅には「事件から日も浅く、心の整理がついておりませんので、取材は断ります。」旨のメモが門柱に貼ってあったという。

時間が経っても、犯人が確定しようとも、ご両親にとって心の整理などつくはずはないと推察される。かけがえのない愛し子を理不尽に殺された親がどうして気持の整理などできるでしょう。私の娘も同じように理不尽に殺され、非業の死を遂げた。しかし、世の多くの人は、娘を殺した「交通犯罪」について、犯罪とは別次元の「事故」という見方をする。この「交通犯罪容認」の異常さを世に訴えているのが、自身大学生の娘さんをクルマによって奪われた二木雄策さんの「交通死」(岩波新書)である。(とりわけp215~)

例えば、1995年6月25日の朝日新聞の記事を紹介して、「(松本サリン事件で)大学生の子どもを失った父親がその手記に『交通事故のように原因がはっきりしていれば、それなりに心の整理ができる』と書き、また26歳の子息を奪われた父親が、『交通事故で死んだのなら、あきらめもつく』と語っているのを読むと『それは違う』と叫びたい衝動に駆られる。」などと述べているが、全く同感である。

二木氏は、こうした交通犯罪にあまりに寛大な社会の異常さの原因を次のように述べている。
①我々の社会がモノの生産を中心に動いてきたため、効率や利便性を重視するあまり、人間の生命を軽視する風潮を醸し出し、人間の生命にカネを支払うことで交通犯罪の処理を完結させてしまうという大勢に結びついた。それが、多発する交通犯罪を異常とは感じず、「事故」を機械的、事務的に処理することで日常の中に埋没させてしまうという我々の社会の異常さに連なった。
②このクルマ社会では、誰もが加害者になる可能性をもつから、クルマの事故を異常とは認識しないし、犯罪だとも思わない。それは、人は誰しも自分自身は正常であり、犯罪者ではないと考える性向をもっているからである。

私は、交通事故を「車対車」の場合と「人対クルマ」の場合とに明確に分けて考えるべきではないかと強く思っている。ある意味互いに対等で加害者・被害者の関係が微妙な場合も含む「車対車」の事故と、一方は被害者にしかなり得ない「歩行者対クルマ」ではその性質を全く異にするからである。これをごっちゃにして論じるので、現在の人権無視、人命軽視の「クルマ中心社会」の異常さが浮き彫りにされず、利便さと経済効率のみに目を奪われて、交通犯罪にどこまでも寛容な風潮が醸成される。

交通犯罪の多くは、刑法の「罪を犯す意思がない行為は罰しない」(刑法38条)を援用して業務上過失致死傷罪として軽く扱われる。
しかし、第一義的に安全運転の義務を負っている(注1)運転者が重大な死傷事件を起こした場合、単なる不注意で済まされるべきではなく「未必の故意」(注2)を適用すべきである。
そうした意味も含めて「交通死」と一括りにするのでなく、歩行者被害は「交通殺人」と呼ぶなどしなければ事態の本質や深刻さは伝わらない。

「交通戦争」は

同じ視点から「交通戦争」という言葉もカテゴリーが広すぎ、使い分けをしなければならない。「車対車」の場合はそのままあてはまるかもしれないが、交通弱者が一方的に殺される場合には不適切である。互いに武器を持って対峙する戦闘場面と、歩行者や子ども、お年よりがとクルマが相対する状況は全く違うのに、これを混同して使うと、やはり本質を隠してしまう。

年間5000人以上の犠牲者を出している後者は、戦争の中でも民間人を一方的に殺す「虐殺」(戦争犯罪)にあたるので、「交通虐殺」「交通ジェノサイド(genocide:集団殺戮)」などと正確に言わなくてはならない。

「交通戦争」は、二木氏が指摘するように「人間の死を日常の中に取り込んでしまい、それを異常だと認識しない(あるいはさせない)ことに戦争の真の異常さがあるとすれば、現在の日本はまさに交通戦争の真っ只中にあると言わざるを得ない。また自分が殺されると同時に他人を殺さなければならないという「殺し合い」の中に戦争の非人間性があるのだとすれば、交通事故の被害者になる可能性とともに、加害者になる可能性を常にもっている我々はやはり戦争の中に生きている」(p220)という意味でとらえたい。いずれにしても、交通犯罪にどこまでも寛容な今の社会の異常さを告発するにふさわしいタームはないのだろうか。

注1:道路交通法第70条(安全運転の義務)
「車両等の運転者は、当該車両等のハンドル、ブレーキその他の装置を確実に操作し、かつ、道路及び当該車両等の状況に応じ、他人に危害を及ぼさないような速度と方法で運転しなければならない。」

注2:未必の故意
「行為者が、罪となる事実の発生を積極的に意図ないし希望したわけではないが、自己の行為から、ある事実が発生するかもしれないと思いながら、発生しても仕方がないと認めて、あえてその危険をおかして行為する心理状態。故意の一種」(「広辞苑」)

コラムの見出し一覧へ

【No.005】 2000/7/15 ある判決

昨日、7月14日、札幌地裁での斉藤良夫さん(「北海道交通事故被害者の会」会員の斉藤千穂さんのお父様 当時76歳)を轢き殺した加害者に対する刑事裁判の判決公判を傍聴した。判決は「禁固1年」の実刑。奥様はじめご家族の方は、執行猶予がつかない実刑であったことで、ほんの少しお父様の無念を晴らせたと、ほっとしたような表情。判決前には、もし執行猶予がついたら控訴するよう検事にお願いしたいと話していた。

この事件は1999年10月29日、青信号で横断歩道を歩行中の斉藤さんが、安全確認を怠り漫然20キロで右折走行した普通貨物車にひかれ亡くなったという事犯である。

判決文をもとに、詳しい分析が必要だが、現在の「クルマ優先社会」の交通犯罪に寛容な司法制度の中では、比較的良識が反映した重い量刑の判決と思われる。もちろん、「未必の故意」による殺人であるから、死刑か無期懲役が至当なのだが。

同じように青信号横断中に息子さんを失った長谷智喜さんの書かれた「分離信号」(生活思想社)に紹介されている数件の「青信号横断中の右左折加害車両による犯罪」では、重い量刑でも禁固10ヶ月であった。中には禁固1年6ヶ月に、全く理由にならない「情状酌量」で5年の執行猶予がついたものもある。「理不尽な交通犯罪を許さない。加害者には実刑を」と、ここまでたたかってきた千穂さんとお母様をはじめご家族の方のお父様への思いが通じたのだと思う。
しかし、加害者が刑務所に入ろうとも、尊い命は戻らない。改めて斉藤良夫様のご冥福を祈るとともに、 私たちの今後のたたかいの決意を固めたい。

私にもいろいろな感懐が頭をよぎった。娘の死を無にしないため、クルマ優先社会と交通犯罪を告発してきたささやかなとりくみの一つの成果なのかと。娘は父の活動を少しは認めてくれるだろうかと。そして、改めて私の娘を殺めた加害者が従前どおりの仕事や生活をしていることの理不尽さ、娘の不憫さを思い胸が張り裂けそうになった。せめて刑務所に入ってほしかった。・・・。
私は刑事裁判で厳罰を望む陳述の機会も得られなかったし、検事との関係においても、お礼の言葉をかけるような終わり方も出来なかった。悔しい。

しかし、「被害者の会」もでき、裁判支援を具体的に進めるようになりつつある。弁護士とのネットワークももう少し。ここまできた。娘もこれからの私たちの取り組みを見守ってくれていると思う。尊い犠牲を無にしないために、個々の事件を決して過去のものにしない。不条理に決して泣き寝入りをしない。娘の仏前で再び誓った。

コラムの見出し一覧へ

コラム一覧へ戻る

top