叔母の散った日

永田敏男


昨年平成25年11月の下旬に叔母の訃報を受け取った。
急に寒さが厳しく感じられるようになり、しかも紅葉が真っ盛りの田舎の初冬に。

私の親父の妹にあたる叔母は、私の小さいころ良く遊びにきていた。なんのお土産だったかは思い出せないが、いつも何かを手に渡して話しかけてくれたことを思い出す。
叔母と私の実家はおそらく8キロか10キロくらいは離れていたが、昔はすべて歩いて行き来したものだった。今年96歳の生涯を終わるまで2年くらいは寝たり起きたりの日常であったようであるが、それまでは畑で野菜を作って元気に活躍していたようだ。

現在の私の家から叔母の家までは車手1時間弱の距離である。
弟の軽トラで同乗させてもらった。途中で姉さんや従兄弟たちと合流し、現地に向かった。

叔母の家まで行って、迎えに来ていた葬儀場のバスに乗り換え1時間近く走った。
バスの中は久しぶりに会った人たちで、大声で近況を話す人、冗談をいって大笑いする人、叔母の最近の様子を話す人、96歳でご逝去された叔母の天寿を祝うかのようなにぎやかさであった。
葬儀場は、紅葉で有名な足助の奥で、行く先々でモミジの紅葉が皆さんの感激的な表現の中に鮮やかに私にも想像できた。弟は紅葉は7割くらいかなと言った。
紅葉狩りの車や人の中を葬儀場に向かうことはなかなかスムーズには逝かず、葬儀時間ぎりぎりに到着した。お悔やみの挨拶もそこそこに葬儀は始まった。

浄土宗独特の楽器で、にぎやかな読経ではあったが、中でも歌謡調で歌い上げる旋律は悲しみをじーんと胸にこみ上げさせるに十分な調べでした。
そして霊柩車を先頭に火葬場に向かったのですが、今度はまともに紅葉狩の観光客とともに道を走行するために激しい渋滞に会い、かなりの時間がかかり火葬場につきました。

良く電車に乗ってremに出席するとき、若い人たちの楽しそうな笑い声や話し声を聞きながらライトハウスへ向かうのですが、いつも思うのは、彼らが後100年も経つともうこの世にはいないと思うと、無常とはこういうことかなと思います。

火葬の前のお参りをして火葬の窯に入っていきました。
窯から出た骨を私も一つ拾わせてもらいました。触ってみると、焼け焦げた骨は異様な匂いを放ちながら最終の姿を消してしまいました。

燃えるようなモミジの美しさの中で散って行った叔母の一生でした。いずれ遠からず後を追うものとして、どう生きようかと考えさせられた日でした。

逝く叔母に もゅるモミジを ささげたし