怪我の功名

小野田 学

あれからもう7年が過ぎた。初夏の良く晴れ渡った1日だった。
 将棋の指し手を1手1手郵便に託し、1局を1年近くも掛って漸く勝負が着くという、気の遠くなりそうなやり方で将棋を楽しむ仲間に僕は加わっていた。

当時全国で80名余りも会員を有した(点字通信将棋会)の 組織に加わって、僕は将棋を楽しんでいたものだった。

勝利の女神とか言う女性に振られ続けていたのも物ともせず、10人くらいの敵を相手に通信を楽しむ。
 1週間近くも掛って(次の指し手)が送り届けられるのが頻りに待たれるような毎日だった。

ポストまでの往復に20分近く。途中、通貨車輌の多い横断歩道2箇所。農業用排水路沿いの立派な農道。
 その頃までには漸く排水路に沿った道路わきにガードレールが設置されたものの、所々ガードレールが切れて、3メートル近くも開いた隙間。
 トラクターが排水溝を越えた彼方の田畑に出入りするためにはやむをえない切れ目である。

そこには、もちろんコンクリートの橋が設置されてはあるものの、欄干とか手すりなどはなし。
 うっかりそこへ迷い込んでしまうと、橋の淵から排水溝に落ちる心配大有りの危険地帯。

僕は、すでにその危険区域も詳しく承知していたつもりで居たのだった。
その日も将棋の指し手を記した便り3,4通を持ってポストまで。
 投函して帰宅する途中そのガードレールの切れ目へうっかり入り込んでしまったのだ。
 そして、排水路へ転落。
 簡単に橋の上へ飛び上がったものの、頭に怪我を負ったらしい。

道路の側溝も排水溝も今はコンクリートで固められており、転落した時にその淵で怪我をしたもの。(お前の白杖の使い方が下手だったからだ)、正におっしゃるとおり。
 とたんに、近所の農家から2,3人飛び出てきて、更に道路をバイクで走っていた何かの外交員まで一緒になって、救急車を呼ぶやら出血の手当てをしてくれるやら。
 頭の怪我は出血が多いものとは承知していたものの、自分たちではどうすることもならず。救急車で病院へ辿り着くまで僕はほとんど痛みもなく、救急隊員とお喋りをしていたほどだった。

病院では、早速頭の皮膚の7,8針の縫合処置。
 それで一見落着と言うことになったものの、(貧血が目立つから暫く入院)との判決。
 結局、以後七日間も入院する破目とは成ってしまった。

やはり、農家の人は有り難い。僕が救急車に乗った後、僕の親戚へ。そして、息子たちの勤め先へ電話連絡。
 入院1時間後くらいには親戚の叔母たち、息子の嫁さんなどが駆けつけてくれたのだった。
 (あの道路は危険だから、ポストなどへは行かないように)と叔母たちの親切な(?)助言。

将棋ばかりでなく、母校岡崎盲学校の同窓会の役員も仰せつかっていて、手紙や文書の往復も多い身では、そんな訳にも行かず。
 然りとて、ポストまでの往復に叔母を頼むことなどなお叶わぬこと。
 叔母たちの親切な助言などに従うこともとうてい叶わぬこと。

僕が眼が不自由と言うことで、病棟看護師がずいぶん戸惑ったらしい。
 家から着替えなどを届けてくれたときに、(着替えは私たちで手伝うから大丈夫)との言葉に、「爺ちゃんは家に居ても洗濯物を取り込んで届けると、自分で収納し、適当に着替えているから」との家人の言葉に「分かりました」との看護師の言葉。
 夜になって、夕食を運んでくれた看護師が「食べさせてあげますよ」との言葉に、「食べさせて貰うなど、せっかくの料理の味が悪くなる」とも言えず(これでも「正直をむねとすべし」との教育をしっかり受けてきたはずの僕です)。
 トイレも洗面所も1度教わったのみ。
 苦痛と言うほどのことも無く、家から運んでもらった点字書の何冊かを大いに乱読した明け暮れ。八日間の入院で貧血もある程度癒えたとのことで、退院が許されたのだった。

その日は平成13年6月八日。大阪府下池田市の教育大付属小学校に暴漢が乱入、児童8人が凶刃に倒れ、他に10人余が受傷・入院したと言う痛ましい事件発生。
 病棟全体がそのテレビニュウスに騒然。
 「なんと痛ましいことか!」、「何だって小学校などへ!」病棟が大騒ぎになっていたときだった。
 名古屋盲学校の酒井先生のお孫さんがその凶刃に倒れた一人だったとの悲報を聞いたのはずいぶん後になってからのことだった。

退院翌日だったか翌々日だったかには僕はもうポスト行き。
 途中、僕が受傷した所ですでにコンクリートの橋にごく簡単な手すりの設置工事が行われていたほど。
 やがて2ヶ月くらいも経たぬ内に、排水溝全部にコンクリートの蓋が設置され、ガードレールの内側も平気で歩けるようになったのだった。

僕の受傷した同じ日、この町の老人クラブ連合会では毎年の恒例行事であるバス9台を連ねて、その年は秋田県方面への2泊三日の旅行が出発した日であり、しかも、町が共催だったようで、最初の1泊だけを町長が同行されたとのこと。
 僕の受傷を親戚に通知されたのと同時に、何方が知らせてくれたのか、この旅行団にも通知されたとのこと(僕もれっきとしたクラブ員ですぞ)。
 地元集落のクラブ員仲間の話題が町長の耳に入ったらしい。
 町長は早速その席から町役場へ電話連絡。
 早急にまずは落ちないような手すりの工事を、との指示。
 続いて、急ぎその排水溝に全面蓋をするようにとの追加指示。
「予算が乏しい」との土木課の返報に「予算など何とかするから」との町長の指示だったとは、後日聞こえてきたことだった。

排水溝全面に立派なコンクリート蓋が設置された直後、眼ずらし物好きの僕は早速歩き回りに出かけ、帰宅後役場の町長室宛お礼の電話。
 町長は東京への出張中で不在。秘書室へ鄭重なお礼の言葉を伝えておいたのだった。

その夜、遅くなって突然町長からの電話。
 否、驚きました。
「お礼とは真に忝い」との町長の言葉だった。

今では小学校の通学団もそのガードレールの内側排水溝の上を登下校の予定路線にしているとか。
 町役場の行政端一筋に町長にまで昇進されたその人も世間の人気が乏しかったのか、1期だけで終わったが、僕には農村の郊外にこれほどの英断を下された町長は真に有り難い事業執行者だった。

怪我の功名とでも言うのだろうか?