猫の髭と白杖と
小野田学
僕は未だに全盲の一人歩きを好くする。否、出かけることが好きだと言うことだ。
もちろん、出かける時はだから白杖は愛すべき友であり、車社会での有り難い用心棒である。
その白杖(白杖などと言市民権を得て居ないような言葉使いは好まない)を持つ時、時にふと僕は猫の髭を思うことがある。
猫の顔の両側にぴんと張った数本ずつの髭はもとより猫のアクセサリーではなく、猫にとっては必要欠くべからざる触覚である。
「猫の髭を切り取ったのは与太郎御前だろう」と言う大家さんの台詞は落語には時々登場するが、髭を取られた猫は鼠を捕らなくなると言うのは本当らしい。
あの太い剛毛の付け根には感覚神経が密集しており、鼠の出そうな暗闇の中でも安心して動き回ることが叶うらしい。僕らが、白杖手にして、道路の様子や階段の有りかを知り、電柱などぶつかる物を避けるのによく似ているとつくづく思わされるのである。
その白杖、長年の間には楽しい話も在るもの。
僕の同級生がその昔、未だ学生だった僕の学生寮に訪ねてきて、古い白杖が欲しいという。東京は講道館の近くの車の賑わう通りを白杖を腕に掛けて悠々と歩いていたら、車が体に触れながら通って行ったと言うのである。
幸い、彼は倒れることもなく、何のけがもなかったので、安心していざ歩み続けようとしたところ、愛用の白杖がない。通行人数人が探してくれたが、道路の隅っこにも落ちていない。
寮内を尋ねて漸く古い白杖を見付けて彼に渡したところ、彼は一安心。「今ごろ白杖を持ったあの盲人用車輛は何所を走っているのだろう」と笑いながら僕の下から下宿へ帰っていったのだった。
同じ頃、法政大へ進学していた同級のひとりと合間見えた時(法学通論の時間におもしろい話を教授がしていた)と言う。
(盲人の持つ白杖は手の延長であり、極めて重要な感覚情報のセンサーである。其れを見たら、車は徐行または停止しなければならないし、万一杖に触れたなら『手に触れた』と同じである」と言うのだそうだ。
法理論上容認された考え方かどうかを聞いていない。
白杖を携帯していたかどうかは裁判では大変な問題になる。
もう20年位も前に、東京は山手線の高田馬場駅でホームから転落して事故に在った盲人が、当時の国鉄を相手取って損害賠償を求めた裁判では、その事が重大な争点になったと聞く。
また、これも東京で交通事故のため盲人には何のけがもなかったが、ヘルパーさんが死亡した事故があったが、その時に彼は白杖を持っていたかどうかが大問題になったと聞く。
ともかく、僕はヘルパーの有る無しを問わずいかなる時にも白杖を携帯することにしている。我が身の安全ばかりでなく、ヘルパーの為にもぜひ持つべきと頑固に言い続けてきている僕である。
やはり、猫の髭も白杖もないとどうにも様にならないようである。