大阪民族博物館の見学日記

永田 敏男

今日は、大阪の民族博物館を見学するために女房と出かけた。金山駅にam8時15分までに集合することになっている。
7時前といえば、いつもならまだ床の中でテレビを見ながら起きる準備をしている時間である。
4月二日の春まだ浅い肌寒さの中を、笠をさして停留所へ向かった。

我々が金山駅に到着したころには、ほとんどの皆さんが時間通りに集まっていた。

今日の行事は、大樹会が主催し、名古屋市の福祉バスをチャーターしての親睦会である。
参加者が乗り込むと、バスは8時半に出発し、一路名神高速道路に入り、11時には現地に到着した。

バスを降りてから、益々雨が激しくなった中を20分くらい歩いて目的の「民族博物館」に着いた。
途中、桜も咲いていたし、いろいろな花も咲き乱れ、樹木も多く、春を演出していたが、雨のためにゆっくり眺めながらの道中とは行かなかった。

この場所は、昭和45年に大阪万博が開かれ、当時のシンボルである太陽の塔も、そのにぎわいをはっきりと留めている。

館内に入って、いろいろな説明をしてくださったのは、ここの職員である広瀬こうじろうさん、全盲でありながら、展示品の説明をするのは、よほどの知識が必要だろうと尊敬はもとよりびっくりした。

ここでは、特別の計らいで陳列品をレプリカで並べられ、ゆっくり触れてみるように配慮されていた。

点字が考案される前の盲人たちが使用した文字が展示されていた。
紙を折って字の形を作ったり、こよりを文字の形に貼り付けたり、蝋で字の形を作ったり、木片に彫ったり、それらに触れて読んでいたようだ。

私は、仏像に触れてみたのは初めてである。手を合わせ、頭に冠のようなものをかぶり、後ろから太陽のような大きな円形のものが添えられ、これが後光かなと思ってみてきた。

神殿も、全く初めてである。藁の屋根、彫刻の施された周りの外観、中もちゃんと階段があり、拝殿に上がるようになっていた。

太陽の塔では、レプリカの上と真ん中あたりに顔があり、左右には腕があげられ、現在から未来にかけての願望を感じたように思う。

聖徳太子は、両側に重臣を従え、刀をさし、杖のようなものも持っていた。冠をかぶり、着物を着て靴を履いていた。

小鳥のカービングでは、まったく上手に彫刻され、親鳥が子供にえさをやっている姿もあった。
口を開いた小鳥が、いかにも「ちー・ちー」と泣き出しそうに思った。カラスも鋭いくちばしをして、一撃されるのではないかと錯覚するほどであった。

外国の椅子もいろいろ展示されていた。
船のような形、お尻のあたるところが、丸く彫ってあったり、さまざまであったが、日本のように素材を生かすより使い勝手を重視する作りではなく、材木の感触を留めた作りであるように思った。

おもしろかったのは、玄関ホールに備えられたオルガンである。
オランダから購入して展示されてあったが、大きな円形のわっぱの一角に持つ手賀つけられ、それを握っておもいっきりまわすと、合奏のようなにぎやかな和音が響く。楽譜は、音符の代わりに穴が明けられているとのことであった。

あっという間に時間が過ぎ、3時40分くらいに博物館を後にして帰路に着いた。