我がまち大口町

近藤貞二

満開の五条川の桜の写真

私が住む丹羽郡大口町は愛知県の北西部に位置しており、北は扶桑町、北東には犬山市、南東には小牧市、そして西には江南市に囲まれて、小さく小さくなっている田舎町です。

大口町の面積は13.58平方キロメートルだそうですので、名古屋盲人情報文化センターがある名古屋市港区の面積、45.67平方キロメートルの3分の1もありません。ちっちゃいでしょ!!そして、やや南北に長い形をしています。

人口はといえば、2006年7月1日現在21325人だそうですので少ないでしょ!!
そして、まだまだ田畑がいっぱい広がっています。ね、いなかでしょ!!

最寄り駅は名鉄犬山線の柏森駅(丹羽郡扶桑町)ですが、住居地によっては江南駅や布袋駅を利用される方も多いと思います。
そんな田舎町でうん十年前に玉のようにかわいい赤ん坊が生まれました。それが今の私!!です。


その大口町のほぼ中央を北から南へちっちゃな五条川が流れており、川の両岸に植えられた桜並木は今では日本の桜の名所100選に選ばれたこともあって、桜の時期には大勢の花見客でにぎわうようになりました。

そりゃそうです、五条川の桜並木は大口町内だけでなく、江南市、岩倉市とずーっとずーっとながーくながーく続いています。岩倉市のどこかでいったん途切れるようですが、清洲城辺りではまた桜並木になっているそうです。その永遠と続く桜並木は圧巻というほかないようです。
その長さは正確には知りませんが、何年か前にNHKテレビで紹介されたとき、名古屋市の南北の長さよりも長いとか言っていました。おそらく20キロ以上あると思いますが、つまり、名古屋市の北のはずれから南のはずれまで、ずーっと桜並木が続いていると思えば、その長さが想像できるのではないでしょうか。

五条川そのものは犬山市の入鹿池(いるかいけ)を水源にして、大口町、江南市、岩倉市、北名古屋市などを経て、甚目寺町で新川に合流して川の名前も新川に変わるようです。そして庄内川に合流して最後には伊勢湾に流れ込みます。

ということで、犬山の入鹿池から新川に合流する所までが五条川ということになると思います。

ちなみに入鹿池は、日本第二位規模の人工のため池だそうです(第一位は、香川県の溝農地)。そして博物館明治村はこの入鹿池のほとりにあります。

明治元年には、連日続いた大雨で入鹿池の堤防が決壊し、大口町はもちろん、周辺地域にも大きな被害があり千人以上の人が亡くなるという大災害があったと伝えられています。
現在では県道158号大口名古屋線の六部橋のたもとに供養碑を残すだけで、その惨劇を想像することはもちろんできませんが、長い歴史の中ではどこにもいろいろなできごとがあるのでしょう。

最近は桜並木で有名になった五条川ですが、私が子どもの頃には川に入ったりしてここは格好な遊び場でした。
そしてそのころから堤防には桜の木が植えられていて、春ともなればきれいにピンクの花を咲かせていたことを覚えています。
これは戦後、町民の手で1本1本丁寧に植えられ育てられたものだそうですが、当時はまだ木が若くてそれほどきれいでなかったのか、それとも花見の習慣が今ほどなかったのか、それともあまり知られていなかったのか、花見をする人はほとんどなかったように思います。

新田橋から見た満開の桜の写真

その後桜の木も成熟し、五条川沿いには尾北自然遊歩道が整備され、昭和57年(1982年)には、大口町の花がサクラに制定されるなど、町も桜をテーマに力を入れ始めたのでしょう。
そのおかげで、現在では桜の名所100選に選ばれるほど見事できれいな桜並木になりました。

桜の名所100選は、平成2年に財団法人日本さくらの会が選定したものだそうですが、愛知県内の桜の名所で、他に名所100選に選ばれている所はどこかと思って調べてみましたら、岡崎公園、山崎川四季の道、鶴舞公園と、五条川の桜を含めて4カ所も選ばれていました!愛知県内だけでも4カ所も選ばれているなんて、結構多いですよね。


名所100選に選ばれてるだけあって、どこもさすがによく耳にする所ばかりですが、でも私、本当のところ花より何とかで、五条川の桜以外は見たことがありません。
五条川だって近いから行くぐらいで、桜の花をぜひ見たいからということでもありません。
岡崎公園や鶴舞公園にも行ったことはありますが、お花見はしたことはありません。山崎川は桜どころか行ったこともありません。

それにはもうひとつ理由があって、桜の花が満開になるころには、私の鼻も満開になるのです!そう、その時期は花粉症のために桜どころではないのです!!

それにしても、「桜の木の下には死体が埋まっている」と言ったのは誰だったでしょうか?
そんなこと聞いちゃったら、夜空にぽっかり浮かび上がる満開の桜を見ると、ちょっと怖い気がしませんか?桜の花にはそれほどに人の心を引きつけるような何かの力があるということなのでしょうか。
満開の桜に人が集まるとき、ふとそんなことを考えてしまいます。

大口町の名所としてもう一つ紹介します。
それは「堀尾邸跡(ほりおていせき)」です。

ここは裁断橋の話しで有名な堀尾金助(ほりおきんすけ)の生まれた場所でもあります。
平成8年(1996年)には堀尾跡公園として五条川を挟んで整備が行われ、裁断橋もこの地に復元されました。
その橋にまつわる裁断橋物語は子をおもう母の情をこめた橋で、擬宝珠(ぎぼし)に彫り込まれた文章は、「成尋阿闇梨母の集」「ジャガタラ文のお春の消息」と並んで、日本三大女性銘文だそうです。
また、裁断橋物語は小学校の国語の教科書にも紹介されているとか。

その裁断橋物語のあらましはこうです。

むかしむかし、どれっくらい昔かと言いますと、天正18年(1590年)と言いますので400年以上も昔の話です。その年の2月、堀尾金助は豊臣秀吉の北条攻めの時、病気の父に代わって従兄の堀尾吉晴に従い小田原征伐に加わりました。そのとき金助は18歳で初陣でした。
金助の母は祈願をかねて、当時名古屋市の熱田神宮付近にあった裁断橋まで見送りましたが、その願いもむなしく同じ年の6月、金助は大口町へ再び帰ることなく戦病死してしまいました。
夫も病気で亡くし天涯孤独となった母は、金助との別れの場となった裁断橋が古くなっていたことを思い出し、私財をなげうってその改修をしました。それが亡くなった金助の供養にもなると考えたのでしょう。
母はその後金助の33回忌を記に2回目の改修工事に取り組みましたが、その完成を見ることなく亡くなってしまいました。

金助の母は亡くなりましたが、擬宝珠(らんかんの柱の頭につけるねぎの花のような形の飾り)に以下の銘文を刻んだのでした。

天正十八年二月十八日に、小田原への御陣、堀尾金助と申す十八になりたる子をたたせてよ、 又二目とも見ざる悲しみのあまりに、 いまこの橋を架けるなり。
母の身には落涙ともなり、即身成仏し給え。
逸岩世俊(堀尾金助の戒名)と、後の世のまた後まで、 この書き付けを見る人は、 念仏申し給えや。
三十三年の供養なり。

その後、裁断橋がかけられていた精進川の埋め立てにともなって橋は取り壊されてしまいました。
本物の裁断橋は取り壊されてしまいましたが、平成8年(1996年)、堀尾跡公園が整備されると同時に、金助の母が2回目に建立した裁断橋も、400年近くも経た現在、母子の出生地である大口町の堀尾跡公園に忠実に復元されたのです。

ちなみに、実物の擬宝珠は、現在名古屋市博物館に保管されているそうです。

皆さんも桜の時期には、復元された裁断橋から五条川の桜並木を見て、金助とその母に思いをはせてみられてはいかがでしょうか。