私家版オタク事典

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事典項目

(た行)

対象年齢

 クリスマスが近づくと、忘年会の席で年上の友人や早く結婚した友人などから、子どもへのプレゼントをどうするか、という話をしばしば聞くことになる。(ある程度年をとると周りのいわゆる「リア充」はこんな感じになる。)そこで出るのがポケモン、東映戦隊、仮面ライダーといったものなのだが、ここで興味深いのが対象年齢である。私の知るかぎり、どのご家庭の子どもも必ず「戦隊からライダーへ」という成長過程を経るのである。最近ニチアサに目覚めたという女の子は海賊たちがお気に入り、でもまだリーゼントライダーは難しくてわからない。ちょっと前に烈火大斬刀を振りまわしていた男の子は、今年はアストロスイッチを欲しがっている。このあたりのほんの一、二歳の対象年齢の違いが、大人になって見ている私にはまったく感じ取れない。これは、特撮オタクが「子どもが好むものを大人になっても見る」存在であり、対象年齢についての感受性が低い、ということもあるかもしれない。しかし、もちろん制作者の側はきちんとわかって狙っているわけで、なんとも子ども番組というものは奥が深いなあ、と思わされるのである。

ダメ音感

 「ダメ絶対音感」はたぶん久米田康治が提唱した概念なのだが、「聞いただけでその声を発した声優を同定できる能力」というほどのことである。ただ、私としては、この能力を「ダメ音感」と一般的に呼んでおき、そのうちに、「純粋なダメ絶対音感」と「ダメ相対音感」を区別しておきたい。
 声を聞いたときに直接的に声優の名前が浮かぶことももちろんあるだろう。しかし、そうではない場合もある。声を聞いたあとに、いくつか声優の候補を思い浮かべ、その声優の代表的なキャラクターの声を脳内再生し、それと比較することで正しい答えを導き出す。このような過程を経て、声優を同定していることもあるはずだ。キャライメージを媒介せずに端的に同定しうる場合をダメ絶対音感、キャライメージを必要とする場合をダメ相対音感と呼びたい。
 とはいえ、すぐ気づくことであるが、音楽上の音感と異なり、この分類は緩いものでしかない。声優の声質や演技タイプによって事情が変わってしまうからだ。特徴のある声質の声優は、誰でもダメ絶対音感を発揮できる。堀江由衣とか釘宮理恵とかな。他方、クセのない声をもっていたり、声をいくつか使い分けたりする声優などは、ダメ相対音感を上手く使わないと判別しづらい。また、よく似ている声の声優を区別する場合も、ダメ相対音感に頼ると便利だったりする。逆に、ダメ相対音感で困るのは、キャスティングの交代である。なぜか私はある時期からしばらくの間、門脇舞以をドラマCD版『WORKING!!』の種島ぽぷらを基準にして判定していた。しかし、アニメ版で種島ぽぷら役が阿澄佳奈に変わったため、キャラの声が上書きされて、瞬間的に門脇舞以の声を見失い、上手く脳内再生できなくなってしまった。こういう不都合もあるのだ。

中二病

 中二病概念を最初に提唱したのが伊集院光であり、その意味内実が現行のものからはかなりずれている、ということはよく知られている。では、どこがどうずれてしまったのか。
 現行の「中二病」概念は、ほぼ「邪気眼」と同義語として使用されている。虚構の物語内のキャラクターやその設定に熱情的に自分自身を重ねてしまう傾向性について、それが作品類型としてはファンタジー系に、ヒーロー類型としては学生向けヒーロー(*1)に向かうときにかぎって、「中二病」と呼ぶ、というわけだ。
 さて、この定式化に明らかなように、この「中二病」理解は、「子どもを引きずっている中学生の姿」に注目している。小学生であればありふれたことであるが(*2)、中学生にもなってそれをやるのは恥ずかしいふるまい、これを指しているのであるから。
 しかし、伊集院が注目していたのは、基本的に「大人ぶって背伸びしている中学生の姿」であった。「邦楽なんか聴いていられない」とか「アメリカは汚い」とか言う台詞は、たしかに中学生あたりによく見られる恥ずかしいものである。しかし、その恥ずかしさは、よくわかっていないことについて背伸びをしている恥ずかしさである。これは、邪気眼の恥ずかしさとはまったくベクトルが異なっている。
 そう考えてみると、伊集院の中二病概念が爆発的に普及しなかったのも頷ける。基本的に、世間には伊集院的な意味での中二病患者が、それも、罹患に無自覚な患者が多いのである。よく考えもせず「中二病」「中二病」と騒ぎ立てる態度そのものが、お手軽に上から目線に立ちたい、という、伊集院式中二病の現れそのものではないか。どちらの中二病であれ、現在進行形で罹っている者が、それを自覚するのは難しい。そのため、伊集院式中二病は一部の感受性ある者のみの理解に留まり、現行の中二病のみが広く注目されることになったのである。
*1)「学生向けヒーロー」の規定については、「対象年齢別ヒーロー論」を参照されたい。
*2)それゆえ、かつて私は「オタクにおける二年生病の研究」で、これは「小二病」と呼ぶほうが適切なのではないか、と論じたのである。

つよくげ

 強い公家、あるいは強くて公家っぽいキャラクターのことを指す。中ボスに適していると思われる。特撮ジャンルでは、『マジレンジャー』の魔導神官メーミィ、『シンケンジャー』の筋殻アクマロあたりがイメージ。もちろん典型中の典型は『柳生一族の陰謀』の烏丸少将であるが。慇懃無礼な立ち居振る舞いが、強くてカマっぽい「つよかま」と混同されがちであるが、つよくげは、たんに見かけがナヨっているだけではなく、血筋やら家柄やら階級やらに根拠をもつ高慢さが根っコになければならないところがちょっと違う。実力者でありながら中ボスに甘んじてしまいがちなのは、(悪の)組織のトップに立ってグイグイと皆を引っ張る、という行為が公家っぽくないからであろうか。素で強い癖に、脇に一歩退いて陰険な策を練っているのが似合うのである。

定義

 「ある事象について論じること」と「ある言葉を定義すること」との区別がついていない人がたまにいる。たとえば、「オタクという言葉は多義的だから、オタク論はすべて主観的だ」とかいった間違った主張を見たことがある。馬鹿なことを言ってはいけない。
 言葉が多義的だからこそ、まず定義をするのだ。定義することで、扱う事象の範囲をきちんと確定できる。そのうえで、我々は事象そのものについて論じる。その考察や分析については、当然、妥当性や有益性を評価することができる。そして、その妥当性や有益性に照らして、最初の定義もまた評価されることになる。
 ここになにも問題はない。

テロリストの孤高 追加

 アクション映画の定番のシチュエーションのひとつが「周りはすべてテロリストに占拠されている状態で主人公が孤軍奮闘」というものである。さて、ここで問題になるのが、主人公を取り囲んでいる敵たちの置かれた状況である。よく考えてみると、実はテロリストの側も「周りはすべて敵に占拠されている状態で孤軍奮闘」していることが多いのである。『ダイ・ハード』でも、『エアフォース・ワン』でも、『沈黙の戦艦』でも、テロリストは知恵と勇気を奮って国家の圧倒的な権力と暴力にたいして戦っている。主人公とテロリストは、ほぼ同じ状況にあるというわけだ。その違いは、結局のところ、そのふるまいが観客が共感しやすい価値観を体現しているかどうか、という点にしかない。そのため、主人公の体現している価値観を「アメリカは正義の味方だ!」というような田舎くさい感じで処理されてしまうと、私などはどうも少し萎えてしまうのである。

どこでもない街

 ヒーローの愛や正義は普遍性をもたねばならない。管轄外のトラブルには関知しません、という官僚的態度はヒーローらしくないだろう。しかし、普遍性をもたそうとして、世界の平和、地球の未来を守る、としてしまうと、話が大仰になりすぎる。そこで採用される手段のひとつが、「どこでもない街を守る」という設定である。この場合、街が舞台なので、物語は畳めない大風呂敷にまで弛緩する危険性から逃れることができる。さらに、ここで注目すべきは、そういった街が、あくまで架空のもので、どこでもない、ということだ。もちろんモデルはあっていい。しかし、街そのものは、現実には存在しないものであるべきだ。なぜか。現実に存在しないからこそ、物語中のその街は、受け手の各々にとって自らの住む「この街」と容易に重ねられることを許すからである。このことによって、街を守るヒーローは、狭い地域に活動を限定されつつも、普遍性を手に入れることができるようになる。ちなみに、現実の街に縛られた、いわゆる「ご当地ヒーロー」は、どこまでいってもパロディの枠を出ることはない。それは、普遍性を欠いてしまっているからである。

ドリル

 現実世界で使用される「工具としてのドリル」と虚構作品に見られる「武器としてのドリル」との関係を再考してみたい。「武器としてのドリル」は基本的に円錐の形状をしている。しかし、「工具としてのドリル」は基本的に円柱である。リアルドリルには、先っぽと根元の直径が変わらないものが多いのだ。回転して穴を掘る、という機能発揮の様式こそ共通であるが、両者はモノとしてかなり異なるのである。「武器としてのドリル」を「工具としてのドリル」の転用と理解することはもちろん間違いではないのだが、その一方で、敵をグッサリ突き刺す武器という観点からして、槍の変型、進化系として捉える視点も忘れてはならないだろう。「武器としてのドリル」の切っ先は、槍の切っ先なのである。

(な行)

ながら作業

 どうして私がハードロックやHMをあまり聴かなくなってしまったのかというと、若いころはできた「ながら作業」がまったくできなくなったからである。なにをやるにも作業中は無音でないと駄目になってしまった。これでガクンと音楽を聴く量が減った。これは、昔は脳が柔軟でマルチタスクができた、ということなのだろうか。それとも、現在のほうが知的に高度なことをやっているということなのだろうか。自分ではよくわからない。

似合いの論理

 キャラクターが似合っている格好や好みの格好をしているさまは、とてもよいものである。しかし、その似合いかたには、さまざまな位相があることを忘れてはならない。単純に着たさまが可愛いとかエロいとかいったことだけではないのである。たとえば、あるキャラが着ている水着があまり似合っていなかったり、我々の好みではなかったりしたとしよう。しかし、もしも劇中に、「そのキャラが悩みぬいたうえでその水着を選んだ」という描写があったらどうだろうか。その水着は、まさに「そういう水着を選んでしまう」というキャラの奥行きを形成する要素となるだろう。そして、そのうえで我々がそのキャラを愛するのであれば、その水着はやはりある意味で「似合っていた」のである。逆に、いくら一枚絵として似合っている格好をしていたとしても、そこに、読者や視聴者にサービスしようとする制作者側の意図が透けて見えてしまっては、ただの萌え豚でもなければ、萎えるばかりであろう。このあたり、普段着においてはそれほど問題にはならないのであるが、晴れ着や水着など、非日常的なファッションにおいては、とくに注意深い配慮が必要になってくる。

日常系アニメ

 「日常系」も融通無碍に使われすぎている概念の一つであると言えよう。
 『らき☆すた』のBD-BOXを、ちょこちょこと見直してみたのであるが、そうすると、放映当時は気づかなかったことがぽつぽつと見えてくる。この作品、日常系アニメの元祖のような扱いを受けることが多い。放映当時もたしかにそのような扱いを受けていた。しかし、ここ最近のガチな意味で日常描写に特化したアニメと比較してみると、この作品、それほど日常系ではないように思えてくる。上手な表現が思いつかないのであるが、キャラが視聴者を意識して過剰な演技をしている感じがある、とでも言おうか。オタク少女と友人たちのゆるい日常を描く、という体をとりつつ、きちんとエッジの効いたギャグアニメをやっているように見えるのである。
 これはたぶん、四年ほど経つあいだに、日常系というジャンルの文法が練り上げられていったことによるものであろう。当然のことながら、それと同時に「日常系」という語のもつニュアンスも変化していっているはずだ。そのあたりを配慮せずに、あれもこれも「日常系」でくくってしまっては、見えるはずのものも見えなくなってしまうだろう。

二番目以下の趣味としてのオタク

 ちょっと過去のテキストで上手く思考を整理できていなかったところを整理しておきたい。
 人間は二つ以上の趣味をもつことがある。釣りとドライブ、切手集めとパチンコ、等々、等々。ということは、いちばん好きなことでなくとも、趣味はこれです、と言っていい、ということである。これは、趣味一般に通用してしかるべきことである。
 ところが、オタクという趣味にかんしては事情が異なる。「オタク」という言葉が過去に「それに入れ込んでいて詳しい人」という意味でも使われてきたため、この当然のことが見落とされがちなのである。たとえば、アニメを見ていろいろ語ることが好きな人がいたとすると、この人はそれがいちばん好きなはずだ、と決めつけられがちである。
 しかし、そうとはかぎらない。世間からの風当たりが比較的強く、深い愛とそれなりの覚悟がなければやっていられなかった時代ではもうない。これだけオタク趣味が世間に広まった現在においては、二番目三番目の趣味がオタク、という人が大勢を占め、市場の動向やらネットの言説やらを基本的に方向づけている、と考えるべきなのである。たとえば、ネットの言説の動向を支配してるのは、いまや「オタク趣味がいちばん好きな人」ではなく、上から目線の批評ごっこからヘイトスピーチまで含めた「おしゃべりがいちばん好きな人」になっている、と見るべきであろう。そう考えれば、ネットの多くの領域を占める低レベルなオタク的言説にも、それほど腹が立たなくなってくるのではないか。いちいち反論するもの馬鹿馬鹿しい。連中のほとんどは、この趣味がそれほど好きではないのである。

日本刀

 日本刀最強幻想は根強い。特殊な場面を除けば、遠くから矢を射掛けたり槍でチクチクやったりするほうが明らかに有効なのだが。まあ、戦争もないのに刀差していたお侍さんたちが江戸時代の二百数十年をかけて練り上げていった妄想が、武士道やら時代劇やらといった媒介を経て現在のオタクにも受け継がれている、と考えれば、その根強さも理解できるだろうか。

忍者 追加

 ブラッドレー・ボンド、フィリップ・N・モーゼス『ニンジャスレイヤー』を読んでいて、ふと、自分にとっての最強の忍者は誰だったんだろう、という問いが心に浮かんだ。いろいろ記憶をたどり、最終的に結論が出た。内山まもる『ザ・ウルトラマン』「ゾフィーの危機 ― 対アサシン」に登場する忍者暗殺星人アサシンである。手もとのアクションコミックス版では二巻に入っているエピソード。『ザ・ウルトラマン』、子どものころに死ぬほどハマって繰りかえし読んだ。あらためてさきほど読みかえしたが、ほぼすべてのエピソードについて、コマの配置から台詞までほとんど覚えていた。さて、「ゾフィーの危機」であるが、ノンストップ・アクション・サスペンスとして完成度がきわめて高い一編である。筋立ては単純明快、超絶的な隠密能力と戦闘能力をもつアサシンのゾフィー暗殺を食いとめるべく、ウルトラ兄弟たちが悪戦苦闘するも、どんどん追いつめられていく、ただそれだけ。ただそれだけを異常な緊張感とスピード感で描ききっている。このアサシン、ゴキブリと蜘蛛と忍者を混ぜ合わせたような異形の怪物なのだが、いやもう強すぎて死ぬほどかっこいいのなんの。今思えば、この一編がとくに幼い私の記憶に強く残ったのは、アサシンをどう受けとめたらいいのかが当時の私にはよくわからなかったからなのだろう。子どものころは、悪いキャラのことをかっこいいと思ってはいけない、という変な思いこみがあったので、自分が感じたアサシンの魅力を自分で理解できなかったのだ。今ならはっきりわかる。アサシンは端的にものすごくかっこいいのだ。

ネットコミュニケーションにおける問題行動

 ヌルオタ、ライトオタ、なんでもいいが、そういったレベルの低いオタクの問題行動としてしばしば指摘されるものごとが、オタク特有の現象というよりは、ネットコミュニケーションの特性に由来する現象であったりすることがよくあるように思う。
 たとえば、脊髄反射的な薄っぺらいキャラ萌え表現の連呼とか、排他的な狂信者の振る舞いとか、叩かんがために叩く愉快犯的アンチの振る舞いとか、嫌がらせ以上でも以下でもない売上至上主義的発言とかいったものを思い出していただきたい。
 こういった現象は、ネット一般に見られる子ども、馬鹿、暇人の問題行動のバリエーションの一つにすぎないのではないか。オタクという趣味は、他の趣味よりも、ネットというメディアに依存する比重が大きい。そのため、先に挙げたような問題行動は、オタク固有の問題であるかのように思われがちだ。しかし、実際はそうではない。類似の問題行動が、ネットの他の場面にも頻繁に観察できるのである。
 それゆえ、これら問題行動をもってオタクの本質を論じることには、きわめて問題がある、と私は考える。

寝取られ

 ずっと「寝取られ」というエロシチュエーションのよさを実感できないでいた。ところが、あるときから一部の寝取られ状況にたいして「これはいい!タギる!」という感情が生まれるようになった。そこでぼんやりと、ああ、これは自分も寝取られ属性に目覚めかけたということなのかな、と思っていたのだが、どうも間違っていたようだ。よく自己分析してみると、興奮しているさい、自分の視点はやはり、寝取られる主人公側にではなく、寝取る側よりに置かれているようなのである。
 そうなのだ。真相は、寝取られの良さが実感できるようになったわけではなく、普通は同一化の対象にはならないような寝取り役のキモいキャラに抵抗なく自分を重ね合わせることができるようになった、ということだったのだ。私自身のありようがソレに近づいてきたこともあるのだが、「卑劣漢」という存在にたいして浪漫を感じるようになってきたことも大きい。かつて「悪者道」というテキストを書いたが、最近、そこで扱ったものよりももっと生理的に嫌らしい感じの悪役の浪漫もわかるようになってきたのである。

(は行)

パチンコ

 パチンコやらないので的外れな感想なのかもしれないが、『仮面ライダー』の権利が射幸産業に売られたことにどうもいまだに納得がいかない。まあ、権利をもっていた連中のなかでは昭和ライダーは「終わっていた」ってことかね。

 と、いうように、私はパチンコはまったくやらないこともあって、これまでは自分の好きだった作品がパチンコの題材になることにあまりいい気もちをもっていなかった。ところが、2011年に『牙狼』の第二期、『牙狼<GARO> 〜MAKAISENKI〜』が始まり、これがなかなかに出来がいいのに困った。『牙狼』シリーズ、パチンコのCMがよく入っていることでわかるように、大々的にパチンコ展開して稼いでいるようなのである。ここまでよくできた作品がパチマネーでつくられているとなると、これは一つの文化として認めざるをえない。私はエゴイストで現実主義者である。よい特撮を見るためならば、ためらいなく節を曲げるのだ。

八極拳

 究極最強の中国武術…ということに日本のオタク業界ではなっている。作中の描写と実態との対応度合いは作品によってまちまち。私見では、描写にいちばん「わかっている感」がするのは、SABE『世界の孫』のロイヤルバレエ成龍門である。

母親役の色香

 ママン属性もちというわけではない。声の話である。少女役をやっていた人が母親役をやるようになったあたりの声がわりと好きなのだ。最初から母親っぽい声が出る人が母親役をやる場合はちょっと違う。少女役をやっていたのだが、声が落ち着いてきて、自然に母親役になる場合がいい。少女声のアニメ用につくったガチャガチャした感じが抜けて、本来の声質の魅力が素直に出てくる気がするのだ。典型はもちろん皆口裕子、最近だと久川綾、根谷美智子といったあたりがいい感じだ。古いような新しいような話だと、2010年になってやっとDVD-BOXが出た『メダロット』で鈴木真仁が主人公の母親役を含めた数キャラを兼ねていて、おお、やるな、いいな、と思った記憶があるな。

腹パンチ

 少しお酒の入った状態で、某作品の某キャラクターの設定やら描きかたやらの欠陥について縷々論じていたら、「それは要するにそのキャラを腹パンしたい、ということでよろしいか」と言われた。違う。そうではない。あなたは私の主張の眼目を取り違えている。私はキャラではなく作品について語っているのであり、殴りたいのはどちらかと言えばキャラではなく制作者である、ととりあえずは答えておいた。
 あらためて考えてみるに、このような腹パン概念の使いかたには一定の機能がある。作品にたいする批判をキャラへと転移させることによって、作品そのものは批判から守られるのである。作品が駄目となればもうそこですべて終わりであるが、問題はそのキャラだけにある、となれば、作品の他の要素については十分に肯定的に語る余地が残るであろう。また、問題のキャラをただただ叩いているように思えて、そこに微妙な救いがあることにも気づくべきである。殴りたくなるキャラは、殴りたくなるほどにはキャラが立っている、という評価は受けているのである。本当に駄目なキャラであれば、そのような感情すら湧かないだろうから。
 腹パンは、一見すると叩きに属するものであるが、実は批評の言語としてはかなり甘い態度に基づくものなのである。

反売上至上主義

 反売上至上主義には、三つの方向がある。ひとつめは、「売れていないが素晴らしい作品がある」と主張していく方向である。これは良い子ちゃんな反売上至上主義と言えよう。これはこれで間違いではないのだが、インパクトやスリリングさに欠ける。ふたつめは、「売れているが出来の悪い作品がある」と主張していく方向である。いわば、悪い子ちゃんな反売上至上主義である。しかし、これもまた面白みに欠ける。結論ありきの粗さがしに終始する、非生産的なアンチ活動と区別がつかなくなってしまうからだ。ここで私は、みっつめの方向を推したい。すなわち、「売れている素晴らしい作品があるが、売れているのは素晴らしいからではない」と主張するのである。これを、ひねくれ者の反売上至上主義とでも呼ぶことができようか。ひねくれ者の反売上至上主義は、たとえば以下のように論を進める。

 「そりゃ○○のBlu-rayは売れたよ。でも買ったヤツラって結局「みんなが買っているから買う」「人気だから買う」のヌルオタでしょ。それか薄っぺらーいキャラ萌えでブヒブヒ言っている豚どもだよ。ヤツラはわかっちゃいないんだよ。いや、もちろん私も買ったよ、Blu-ray。でも、私はちゃんと作品の本質、キャラの深層を理解したうえで、これは欲しい、と思ったんだから。私はヤツラとは違うんです。具体的に言うとね…」
 (文中の○○には『エヴァ破』でも『化物語』でも、お好みの売れた作品を入れていただきたい。)

 売れた作品を叩くことなく、作品の購入者の多数派を叩きにいくという高等戦術である。この方向性を採るためには、作品なりキャラなりについて自分特有のイタキモい読みをもっておく必要がある。そのため、このタイプには、表層的なアンチで終わらない、生産的な語りが期待できるのである。反売上至上主義は、売れない作品を愛するだけではないし、売れる作品を批判するだけもない。売れる作品を独自の視角から愛するところにも成立するのである。

蛮人最強説

 創元が原典に忠実な新訂版コナン全集を出している。2009年11月現在、あと一冊で完結だ。私も昔はファンタジーというと、痩身の美青年が大剣を背負って、というパターンを好んでいたのだが、いつしか「蛮人こそが最強」という価値観に傾いてきた。コナンというヒーローは実にいい。文明人ヒーローというのは、結局のところ、現代を生きる我々の日常的な価値観の延長線上に位置しているにすぎない。文明人ヒーローのもつ正義やら愛やら勇気やらは、その量こそ偉大ではあるが、質や方向性については俗衆の正義や愛や勇気と変わらないのだ。つまり、価値観を引っくり返すような燃えはここにはない。しかし、蛮人ヒーローは違う。我々とは隔絶した、もっと野蛮で高貴な価値観のもとで奴らは行動する。デスオアグローリー、キルウィズパワーだ。剣と魔法モノの燃えの最大の醍醐味は、世界の捉え方を根底からひっくりかえす、蛮人の燃えにあるのだ。

パンチ

(1) 一般に、そのものに親しんでいない人が描いた絵はどこかおかしくなってしまうものである。バイク、銃器、楽器などがわかりやすいだろうか。それらと並んで地味に誤描写が多いのがパンチするときの拳である。殴り方を知らない人は、たいてい指の第二関節を突き出した拳でキャラクターにパンチさせてしまうのだ。拳を握りこんで指の付け根の関節を拳頭にきちんと据えることは意外に難しい。空手などで初心者に教えてもなかなか上手くできず、どうしても第二関節が飛びだしてしまったりする。そのため、格闘技などにあまり興味のない人が資料を見ないで自分で拳をつくって描くと、この点、間違いやすいのである。

(2) ロボットがパンチするのが好きだ。飛び道具とか武器とか使わないで、文字通りの鉄拳で敵を粉砕する。これがいい。ただ、ここには微妙な事情がある。人間が効くパンチを打つときには、肘や肩の関節を回すだけでは駄目で、それに加えて少なくとも肩甲骨が前後するとか胸が閉じたり開いたりするとかいった動作をしないといけないはずだ。ところが、構造上こういった動作ができそうなロボットはあまりいないのである。まあ、レッドバロンとかジャイアントロボとかがギクシャクギクシャクしながら繰り出す鉄拳の説得力が、まさにそのギクシャクギクシャクしている動きにあることを思うならば、人間のパンチとロボットの鉄拳を比較することからして間違っているのかもしれない。

反美少女宣言

 英語で最上級に定冠詞がつくのは、最上級なものは一つだからだ。これと同じことで、「絶世の美少女」のような最上級的な描写をされるキャラクターは、どれもこれも同じようになり、個性を失いがちだ。アニメや漫画だと絵で描かれるのでそれでも個性が出るのであるが、ラノベは酷い。作者の筆力が足りないと、美少女属性が言葉だけで空回りしてしまう。 そんなわけで、私が今注目しているのは、「美少女ではないけど愛嬌はあるよね」属性である。この属性こそが、立体感のあるキャラクター、奥行きのある萌えの鍵となるのではないか。具体的には、くせっ毛、太眉、糸目、八重歯、丸顔、そばかす、高身長、ぽっちゃり、等々の属性に注目したい。貧乳属性や眼鏡属性も入るかもしれないが、これらは固有の領域を形成しているので扱いが難しい。また、濃い目のハンディ属性およびホントの不細工属性は少々別の考察を必要とするので、ここには含めていない。
 美少女キャラに飽きて脇キャラ萌えに走ったおっさんが開き直った、と解釈していただいてもいっこうにかまわないですよ。

美少年

 最近、二次でも三次でも、美少年の可愛さを素直に愛でられるようになってきた。とくに三次が面白い。ただ、ショタエロ好きや同性愛的な観点がわかったわけでもない。説明すると以下のようになる。
 昔は三次のかっこいい男の子にたいして「このモテ野郎め」という妬みのキモチがあった。ところが、それなりにオッサンになるとそれが薄れる。もうまったく別の生き物になってしまったので、彼らと価値を巡って競合しているという意識がなくなるようなのだ。そうすると、純粋に男の子の可愛さかっこよさを観賞することができるようになる。
 この「純粋に可愛さを観賞する」ってのが面白い。女の子の可愛さの観賞には、どこかにエロ心が入ってしまう。ハァハァしちゃうのだ。ところが、私は男の子にエロ心をまったく感じないので、その可愛さに心静かに集中することができる。鼻息を荒くせずに、ブランデーグラスを揺らしながらゆったりと可愛さを愛でることができるのだ。この感覚が、なかなかに興味深いのである。

微分と積分

 与えられた物語を手がかりにしてキャラクターの属性を構成する、ということは、我々オタクがよくやることである。こういった手続きには、たいして問題はない。ところが、逆は真ならず。つまり、キャラクターとその属性のみが与えられているときに、そこからそのキャラに適した物語を再構成することができるか、というと、これは難しいように思われるのだ。どのような物語を捻りだしたとしても、やはり、どこかで元に与えられた属性を踏み越えてしまうであろう。つまり、属性が豊かになって、キャラが本質的に変わってしまうであろう。この洞察を教訓として言い換えるならば、まず属性だけ与えられたキャラにあとから物語を与えようとするときには、キャラの本質を大幅に変化させてしまうことを恐れてはならない、ということになるだろうか。
 たとえば、2011年のアニメ版『アイドルマスター』には、どうやらこの覚悟が足りていないようだ。既存の属性のラインを外さずに、なんとか物語をひねり出そうと悪戦苦闘してしまっている。しかし、それでは駄目なのだ。そういった間違った努力こそが、この作品があまり面白くならない原因の一つであるように私には思われるのである。そうなってしまう事情は理解できるのであるが、ね。

表紙買い

 表紙買い、ジャケ買い、パケ買いの能力というものは本当に存在するのだろうか。背後の多数の地雷を踏んだ経験を忘却し、たまの成功体験に目を奪われてしまう人間心理が生み出した錯覚ではないのか。合理的に考えればそうなるのかもしれない。でも、なんかそれだけじゃない気もするんだよな。私がもっているとすれば、漫画の表紙買い能力だけだ。

品格

 「オタクにも品格があろうによ!」(久米田康治『さよなら絶望先生』第六集、講談社、2006年、29頁)。品格の他者への押しつけはそれ自体品格に欠けるとか、市場原理の前では個人的な倫理を強調しても無意味だとか、各人がなにを面白いと思うかのセンスは尊重すべきだ、とか、わかるのだ、わかっているのだ、でも、どうしても言いたくなってしまうときがあるのだ、「オタクにも品格があろうによ!」と。

不殺

 殺しがアリの世界観において不殺を信条とするキャラクターは、造形や描写に失敗すると「ケッ、しゃらくせえ」という反感を招きがちだ。内藤泰弘『TRIGUN』『TRIGUN MAXIMUM』のヴァッシュ・ザ・スタンピードが成功したのは、彼の不殺の信条が自分のためのものではなく、徹頭徹尾他者のためであること、つまり、「自分の手を汚したくない」ではなく「目の前のこの人間に生きていてほしい」であることがそれなりにきちんと描けていたからであろう。
 それにしても長かった。ウルフウッド死んでからの盛り上がりはいまひとつだったかも。

武道・武術・格闘技

 自己紹介めいた話になる。オタクやらなにやらと並ぶ私の趣味が武術である。某ジャンル某流派の門を叩いてから早や十と幾年。別ジャンルに転向してさらにまた別流派に転向して、と、紆余曲折はあったが、こちらもかなり年季の入ったものになってしまった。しかし、そうであるにもかかわらず、私は、武道、武術、格闘技を扱った虚構の物語があまり得意ではない。完全にトンデモ志向の作品ならばいいのだが、リアル志向なものは本当に苦手だ。リアル志向が強ければ強いほど、面白さがわからなくなる。それには、以下のような私の個人的な理由がある。
 そもそも、私はずっと仮面ライダーになりたかったのだ。しかし、この現実世界で超人的な正義のヒーローになることはできない、と、いつしか私は悟ってしまった。そう、私は、仮面ライダーになれないので、仕方なく武術を始めたのである。私にとっては武術は代償でしかないのだ。
 ところが、リアル志向の作品は、現実の武道や武術や格闘技そのものに魅力があるから題材にしよう、という出発点に立っている。私には、これがわからない。武術など、仮面ライダーになれなかった心の穴を埋めるための代用品でしかない。せっかく虚構の物語を紡いでいるのに、なぜわざわざ代用品なんぞを題材にするのだ。もっとブッ飛んだトンデモバトルを描け。こう思ってしまうのである。あまり共感を得られないであろうことはわかっているのだが、仕方がない、これが私の嗜好なのだ。ちなみに、同様の理由で、格闘技観戦も、ボクシングを唯一の例外として、あまり好きではない。昔は相撲もけっこう好きだったのだが、ね。

棒読み

 アニメにかんする短絡的批評ゴッコに頻出する概念の代表が「作画崩壊」とこの「棒読み」であろう。どちらについても自分の素朴な印象がそのまま批評として通用するだろう、という甘い思い込みが背後に透けて見える。「私の側に主観的な違和感があるからには、作品の側に客観的な欠陥が対応しているはずだ」と思ってしまっているわけだ。実際のところは、その人の狭い経験からこしらえた「典型的アニメ演出」「典型的アニメ声」から外れているだけで、批判は筋違い、という場合が少なくない。「典型的アニメ声」の演技の拙さがスルーされがちなことがこのことを示している。
 ……ということを踏まえたうえでのことなのだが、若い男の子のオタクが新人女性声優を「棒読みだ」と攻撃するさまには、どこか微笑ましいところがある。「気になるあの子に振り向いてもらいたいがどうしたらいいかわからないのでついつい攻撃的な態度をとってしまう」という小学生ちっくなメンタリティが丸見えだったりするのだ。自戒を込めて書いておく。ある程度年取ると見苦しくなるから気をつけたほうがいいぞ。

ポストモダン

 現代思想ブームからかなり時間が経って、「ポストモダン」として括られてきた諸言説の評価もそれなりに定まってきた。玉に石が大量に混ざるからのブームなのだが、そういった玉石混交のなかから玉と石がより分けられてきたわけだ。
 さて、現在でも、ポストモダンっぽいオタク論をやる人をちらほら見かける。あんまり勢力もないみたいなので悪口を言うのも可哀想な気もするのだが、私としては、連中についてちょっと気になる点がある。連中が依存するポストモダン的言説が、すでに大方の共通了解では「石」に分類された、ダメ議論クズ議論である場合が非常に多いのだ。
 バブルの雰囲気に浮かれた薄っぺらい消費至上主義(今思い返せばどうしてこんなものを多くの人間が信じられたのか不思議なくらいだ)を、オタクの虚構愛にきわめて安易な仕方で重ねたりするようなオタク論とかね。学問的にダメな議論を、学問的にダメな仕方で流用しているわけだ。ダメの二乗の恥ずかしい「サブカル知識人ごっこ」である。
 そういえば、永野護『ファイブスター物語』の一巻だかの帯の煽り文句が「モーターヘッドはポストモダン」だったような記憶がある。ああ、恥ずかしい恥ずかしい。

母性至上主義イデオロギー

 『おジャ魔女どれみ』がライトノベルで復活したついでに、アニメ版『どれみ』シリーズについて少しだけ。私の評価では、無印『どれみ』が別格、という感じである。というのも、続編『♯』になってハナちゃんを育てだした展開に、「女性であれば誰でも母性が豊かであるべきだ」という私の少々苦手なイデオロギーが透けて見えてしまって、どうにも乗りきれなかったのである。無印では実に個性豊かに魔女見習いたちが描かれていたわけで、その多様性を愛していた私にとっては、女性は誰でも一律に母たりうる、それが女性の本質である、という凡庸で画一的な価値観が、作品のこれまでの長所を台無しにしてしまったように思えた、というわけだ。あまり政治的な正しさ云々でアニメを語ることは好きではないのであるが、ここはどうにも引っかかってしまった。

ポルノグラフィ

 規制がらみでなんやかやと発言する人が増えたけれども、規制したい派はともかく、規制されたくない派にも勉強不足の人が多くて、どちらにどうツッこんだらいいのかわからん。アカデミズム系のオタク論者たちにはこういうときにこそ政治的に有効な指針を示していただきたいものなのだが、あんまり役に立たねえんだアイツら。
 一般的に言えば、ポルノ表現をどれくらい容認するかが、その社会の成熟の度合いを測るいちばん明快な基準である。つまるところ、我々のこの社会の程度は所詮「こんなもん」ということなのかもしれない。

(ま行)

宮ア勤にかんする報道

 オタク論の文脈では、これがオタクバッシングの出発点として語られることが多い。しかし、象徴として語られすぎて実像が見失われてしまった感もある。事件からもう二十年がたとうとしている。オタク論の観点からの、当時の事情および現在への影響の総括的な捉え返しが必要な時期がきている。私にはその能力も意欲もないが…。

メガミマガジン的なるもの

 私のオタク論では、妄想は基本的にオタクが自ら行うものであった。他者の妄想を楽しむことは、オタク相互のコミュニケーションの一環として位置づけられていた。私にとっては、妄想は、「誰が妄想しているのか」という観点、つまりは妄想主体たるオタクの人格と切り離せないものだったのだ。しかし、現実は一歩先に行ってしまったようだ。業者が妄想を大量生産して売り出し、オタクがそれを購入して消費するような制度も可能であったのだ。そのような制度の一例が、言うまでもなく、メガミマガジンのピンナップである。
 このサイトでグダグダ語りはじめてからそれなりの時間が経ったが、当初から掲げてきた妄想中心主義に基づくオタク論の構想については、基本的にあまり修正の必要を感じていない。手前味噌であるが、それなりに上手いことオタクの核心を捉えているのではないか、と思っている。しかし、時代につれて「これまでになかったオタクのありよう」が登場してきていることもまた確かだ。妄想がここまであっけらかんと売買の対象になるとは、私は想定していなかったのである。この事態をどのように価値評価すべきかは、まだ私の中で考えが定まっていない。
 ちなみにメガミマガジン、自分で買ったことはないのだが、友人にどうしようもない萌えオタがいて、彼が愛読者なので、飲んでいるときに借りてパラパラ眺めたりしている。こういったわけで、他にも類する雑誌はあるのだが、これに代表させておく。

目的としてのスーパーロボット

 この項での「ロボット」はすべて巨大スーパー戦闘ロボットを指すものとする。
 結論から述べよう。TVシリーズのロボットアニメは必ず毎週主役ロボットを活躍させなければならない。主役ロボットが登場しない回があったら、どんな事情があろうが、その時点で減点である。
 そんな制約を課してしまえばいろいろと無理が生じて作品の完成度が下がってしまうではないか、と思われるかもしれない。しかし、その反論は筋違いだ。味噌汁をつくってくれ、と頼まれたとしよう。その味噌汁には、とにかく味噌が入っていなければならない。この具材には味噌は合わないから代わりにコンソメを入れよう、という発想は、いくら美味しい料理がそれで出来たとしても、間違いである。それはもう味噌汁ではないからだ。具材がどうしても味噌に合わない場合には、具材のほうを変えるべきだ。味噌を外してはならんのである。
 ロボットアニメで毎週主役ロボットを出す、というのも同じことだ。それによってやりにくくなる展開や表現ももちろんあるだろう。しかし、そういったときには、この要素はロボットアニメには合わないのだな、と、やろうと試みた展開や表現のほうを捨てるべきだ。主役ロボットの毎回の登場は、ロボットアニメの本質であり、必然的制約なのである。
 もちろんこれは極論である。しかし、そこまでいかなくとも、ロボットアニメ制作者は、なるべく頑張って多くの回にロボットを活躍させねばならないし、せめてその努力を惜しんではならない、とは言える。なぜか。それは、ロボットが作品のたんなる手段ではありえず、必ず目的でなければならないからだ。
 そもそもロボットというのは、現実からとてつもなく遊離した馬鹿馬鹿しい道具立てである。そのため、まともな物語であればあるほど、そこにロボットが登場する必然性はなくなっていく。すなわち、ロボットは物語を語るための適切な手段にはなりえないのである。たんなる手段になったとたん、別にこれ戦車でも戦闘機でもよかったのでは、というツッコミができてしまうからだ。そして、作品にこういう緩みがひとたび出てしまうと、そのあとで、いくら物語を紡いでも、どこか盛り上がりに欠けてしまうだろう。
 だから、ロボットアニメはつねに、その主役ロボットを魅せることそのものが作品の目的そのものになっていなければならない。とにかくロボットをかっこよく描く、というモチーフが作品の背骨にガッチリと通っていなければならない。ロボットを中心に作品を構成する、という強い意識がないと、ロボットアニメは高い確率で駄目になるのである。
 これが必要条件の話であって十分条件の話ではないことに注意されたい。ロボットを毎回出したからといって、よい作品になるわけではもちろんない。そんな駄作はいくらでもある。私の主張は、ロボットを毎回出さないと作品が微妙になる危険性が高くなる、というものである。
 おまけのような本題を最後に一言。『輪廻のラクランジェ』が微妙になった原因の一つ(他にもあるが)はこれである。この作品には、ロボットアニメというジャンルに真摯に向き合う覚悟が足りなかったのである。

(や行)

 虚構において槍という武器を魅力的に描くのは難しい。それは、槍にとってもっとも基本的であるところの「突き」「扎」という動作が絵的に映えないからであろう。刀剣の突きはまだそれなりに動きが見えやすいのだが、槍はそのものが長いので、突いてもいまひとつ絵が変化しないのだ。それゆえ、虚構の槍は、多くの場合に、走って身体ごと突っ込んでいく、という馬上槍的な仕方で描かれてしまうことになるのである。

弓矢

 なんとなくフェミニンな武器というイメージがするのは私だけではあるまい。もちろん現実は筋肉野郎が引いたほうが殺傷力があるわけだが、華奢なキャラクターにもたせてもなぜか絵的に説得力ができるのが不思議である。たぶんこのあたり、アーチェリーや弓道といった競技が実際の戦闘とはかけ離れたかたちで成立したことと対応しているのであろう。そういった一般的なイメージがクッションになっての、洋弓はエルフのお嬢さん、和弓は袴姿の女学生、というわけだ。古参の腐女子は『サムライトルーパー』などを思い出すのであろうか。好きなゲームなどでも印象は変わりそうである。

夢原のぞみイズム

 ヒーローが悪と戦う、ということになると、その戦いは非日常の論理に支配されることになる。非日常、非常事態なのだから、普段ならばやってはいけないことをやってもよくなる、ということだ。たとえば、悪人を裁判にかけずにブッ殺したりとか、無能な上官の命令を待たずに敵に攻撃を仕掛けたりとかいったことが挙げられようか。そのような場でこそヒーローはヒーローたりうる、という事情が一方に存する。
 しかし、他方で、非日常の論理に支配されっぱなしでも駄目であろう。たとえば、この手の論理が現実の政治的社会的状況に適用されて、対テロ戦争だから拷問もアリだよね、とか、子どもを守るためだから表現の自由の侵害もアリだよね、とかいった哀しいまでに愚かな行動や言説に繋がっていったことは、我々の記憶に新しい。そのため、たとえ虚構であっても、まともな判断力をもった人間は、非日常の論理の全肯定にたいしては素直に燃えることができない。非常事態である、ということをダシにして、やってはならないことを正当化しようとするのは典型的なインチキなのである。
 ではどうすればいいのか。ヒーローの戦いが非日常の論理に支配される、というのはいい。これは基本である。しかし、それだけではないのだ。この非日常の論理のなかにもう一度日常の論理を捻じ込んでくる、というさらなる一手が必要なのである。最終的には、やはり非日常の論理はおかしい、とされなければならない、ということだ。ぼくたちわたしたちの日常の論理を守るためにこそ戦うのがヒーローなのだから、日常の論理の価値は状況がどこまで極限的なものになっても否定されきってはならないのである。
 この日常と非日常の錯綜した構造を的確に押さえていたヒーロー(ヒロイン)が、『Yes!プリキュア5』の夢原のぞみである。非日常の論理に支配された戦場で、その非日常の論理に丸々乗っかった暴力を行使する相手が目の前にいる。しかし、彼女はその非日常の論理を、ごくごく単純明快な倫理観にもとづいて、真っ向から「そんなことない!」の一言でぶった切る。あるべきヒーローの姿のひとつがここにある。

(ら行)

リアリティ

 オタク界隈で「リアリティがない」という非難はよく見かけるが、「リアリティがある」という賛辞はあまり見かけない。私が思うに、このことは、本当にリアリティのなさが問題になっている場合が実はあまりない、ということを意味している。「リアリティがない」という言葉は、ある作品を気に入らなかったのだが、その気に入らない理由を上手く分析し表現できないときに使われる、あまり内容のない罵倒語なのだ。オタク系の作品であれば、だいたいどこかに「リアリティがない」ところがあるので、たんなる感想を根拠と論理をもった批評に見せかけることが容易にできるというわけだ。これに釣られて「リアリティ」とか「リアル」とかいった言葉を振り回し始めても、あまり面白い話は出てこないと思われるので、注意すべきだろう。

録画技術

 家庭用ビデオデッキの出現は、ある映像作品を視聴者個人が好むように、反復して、コマ送りで、一時停止して視聴することを可能にした。このことは、オタクのアニメの視聴様式を大きく変えた。さらには、反復して、コマ送りで、一時停止して視聴されることを前提にしたネタも、アニメ作品に組み込まれるようになっている。これは実は革命的な変化ではないか。

ロリータ・コンプレックス

 性表現規制反対云々の話は面白くならないので脇に置こう。
 属性に二種類を区別できる。現実と虚構が近いものと、そうでないものだ。エロ属性には、後者、すなわち虚構限定で受容されるものが目立つ。近親相姦やら汚物愛好やらがわかりやすい。どちらもさまざまなジャンルの虚構のエロ作品において定番になっているが、それを実際に試みる人はほとんどいない。妄想ならいいが現実では勘弁、という人が多いのだ。
 さて、幼女性愛も虚構限定で受容されることが多いように思われる。オタクには二次ロリを理解し愛好できる者がかなり多くいる。しかし、そのほとんどが、三次ロリ嗜好はもっていないと思われる。二次ロリ表現はオタク的作品の歴史のなかで独自に練り上げられてきたものであって、三次ロリ嗜好とは論理をかなり異にする。そのため、二次ロリ嗜好をもっていたとしても、三次ロリ嗜好がきちんと理解できるとはかぎらないだろうし、また、三次ロリ嗜好をもつ者が二次ロリ表現を代償として好むためにも、別途オタクリテラシーを修得する必要があるだろう。二つの嗜好は文化的に異なる領域に属するのである。
 ところで、ネットでたまに、たかが二次ロリ漫画やら二次ロリエロゲーやらを好きなくらいで自分はマイノリティだとか業を抱えているだとか大仰に主張する人を見かける。私には、普通じゃないのがかっこいい、という中二病にしか思えない。あなたはごくごく凡庸なオタクにすぎない。性的マイノリティの問題はそんなに軽いものではない。

(わ行)

(その他)

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