私家版オタク事典

 オタクにかかわる事象について、メモ程度のコメントをつけて並べています。つまりはコラム以前の雑記、ネタ帳のようなものです。基本的に緩いノリで書いているので、概念の精確な定義、作品の詳細情報等にかんしては、目の前の箱で別に検索してください。

事典項目

 更新記録:「剣豪最強説」「テロリストの孤高」「忍者」を追加。(2014.02.14.)

(あ行)

 オタクは虚構のキャラクターを愛する。しかし、そのキャラは現実に存在してはいない。では、その愛をいかにして表現すればよいのだろうか。しばしば提起される疑問である。私の回答は単純なものだ。妄想することこそが、唯一無二の愛の表現である。虚構の物語のなかにしか存在しないキャラにたいしてできる愛の表現は、さらなる物語を紡いであげること以外にはありえない。妄想し、SSを書いたり読んだりし、イラストを見たり描いたりする。これらがすべてなのだ。それ以外の行為は、グッズを買うのも聖地巡礼するのも、すべて妄想に火種を与えるための手段でしかない、と私は考える。これが、愛という観点からする妄想中心主義の定式化である。

愛は美しい

 『アイドルマスター』が死ぬほど好きな後輩と久しぶりに会って、2011年のアニメ版『アイマス』を面白く観るためにはどのような先行知識をもち、どのような態度をもって臨まねばならないのかを説明してもらった。なかなか勉強になった。それにしても、普段は実に温厚な男なのであるが、私が「『アイマス』のアニメつまんないよね」と話題を振ったら、一瞬修羅の眼になってガチの殺意を飛ばしてきたのにはゾクゾクきた。いいよ。実にいい。お前のそういう眼を私は見たかったのだ。
 さて、その説明であるが、出来の悪い作品の信者が使う定番の台詞、「いろいろある、だがそれがいい」と「いろいろある、でも普通に面白い」が私の予想どおりに頻出したのが興味深かった。茶化しているわけではない。こういった台詞はネットなどで薄っぺらに使われると失笑しか浮かばないのであるが、目の前で深い愛を込めて使われると、なんだか心を動かす力を発揮するのである。
 やはり愛は美しい。

秋葉原

 言い方は悪いが所詮は商店街、すなわちお買い物する場所であって、ここをオタク文化の象徴として捉えるということには違和感がある。それではオタクの本質を消費に置くということにも繋がりかねない。それは間違いであろう。
 ただし、このように消費の要素をオタクの本質から切り落とせるのは、ネット通販が発達して、レアなオタクアイテムを手に入れることに労力、知識、技術が必要とされなくなったからなのかもしれない。レアなアイテムを安価で入手するためには秋葉原などで探さないといけない、そして、目当てのブツを掘り当てるためには一定のスキルが要求される、ということになると、この営みをたんなる消費と片づけることはできなくなる。そう考えると、現在はともかく、「かつての秋葉原」はオタク文化の象徴たりえていたのだろうか。よくわからない。

アート

 「芸術」とすると狭すぎるので「アート」としておこう。オタクとしてのレベル上げに、アートそのものの知識をもつ直接的な必要性はないと思う。ただし、アートの領域には、「目の前の作品についてどのように語るべきか」の倫理やら方法やら技術やらにかんする考察と反省が、美学とか批評理論とかいったかたちで、とんでもない重厚さで蓄積されているわけで、批評や評論をやろうという場合にはこれを利用しない手はない。まあ、メンドクサイし難しいし、一歩間違えるとインテリ気取りのサブカルちゃんになってしまうので、自分の感覚を信じて誠実に語ることが基本なのだが。

アルコール中毒

 私はかなり酒が好きなのであるが、もちろんリアルでは勘弁である。仲間うちに酒との付き合い方間違えて身体壊した人が結構いるしな。だが、虚構においてはアル中には「愛に傷つき友情に裏切られ堕ちるところまで堕ちても己の信念だけは裏切れない固ゆで卵な真の漢」イメージもあるわけで、これがたまらなくかっこいいのも間違いないのだ。この反社会的な燃えイメージを私に強く植えつけた困ったさんの一人がジェイムズ・クラムリーであったのだが、2008年9月、亡くなってしまった…。
 ついでに。スティーヴン・キング『シャイニング』はアル中小説でもあるわけだが、あのマティーニはホントに美味そうだ。ああ、なんだか飲みたくなってきた。

怒り

 ある昔の偉い学者は、立派な人間は、怒るべきときに怒ることができるものだ、とかなんとか主張した。私はこれは正しいと考えている。そういったわけで、最近の漫画やらラノベやらの、いわゆる「優しい少年」には強い違和感がある。彼らは自分に武器を向けた相手、自分を騙した相手、自分を侮辱した相手を、碌な落とし前もつけずに至極簡単に許す。どうやらそれで「心の優しさ」を描写したことになっているようだ。しかし、これは間違いだ。これはたんなる「意気地なし」でしかない。怒るべき相手には怒るのが筋であり、優しさという名目を隠れ蓑に、その筋を曲げることは卑劣な振る舞いである。薄っぺらで惰弱な優しさにはもう飽きた。正しき怒りを描くことなくして燃えはない、ということを強調したい。

 能力のある人が気合いを入れて誠実に書いたオタク的なテキストが読みたい。まだまだ修行中の子が背伸びして書いたテキストでは物足りない。ネットのほとんどを占める、脊髄反射で書き殴られたテキストにはもう飽きた。自己顕示欲と金銭欲がどうにも透けて見える評論家先生やライター先生のテキストは勘弁してほしい。こうなったときに、どうすべきか。古典に向かうべきである。
 九鬼周造『「いき」の構造』は、非処女&玄人&年増属性の萌えポイントについて精緻な分析を行い、同時にその萌えの文化的価値を高めようと試みた、きわめて興味深いテキストである。「粋」を論じた哲学的日本文化論のような偽装をしているので、なにか高級な文章だと騙される人が多いのであるが、やっていることは我々が委員長や眼鏡っ娘や男の娘について語るさいに行っていることと、基本、変わりがない。実にキモい。ただ、自己の主張を正当化することを試みるさいの屁理屈の捏ねかたが異常なまでにハイレベルであるだけである。属性について語ることに興味がある者一般に推奨したい一冊であるが、とくに処女厨、清純派属性もち、ロリ属性もちは一読しておくべきであろう。ネットで流れているようなレベルの処女厨の論理など、九鬼にかかれば「野暮」の一言でバッサリである。

痛さ自慢

 昔は濃いオタクほど痛かった。痛さと濃さが比例していたのだ。そして、そこでの痛さ自慢には、自虐混じりの屈折が含まれていたように思う。しかし現在、痛さ自慢はオタクの芸の一つとして確立してしまった感がある。一部の若い世代にかんしていえば、もはや痛さ自慢に屈折はない。痛さ自慢は、無邪気な、どこまでも肯定的な自己表現になっている。悪いことではないよな。平和だということなのだから。

色っぽい台詞

 いわゆる色っぽい台詞を文字で表記するときに、肝心な部分に中黒を入れ込むことがある。たとえば、「優しくしてね、お・ね・が・い」の「お・ね・が・い」部分や、「ご飯にする、お風呂にする、それとも、わ・た・し?」の「わ・た・し」部分などである。私が問題にしたいのは、これを実際に読むときにどうすべきか、ということである。というのも、この中黒にきちんと対応したかたちで区切って発声するのは不適切であるように私には思われるのである。一語一語きちんと区切って「お」「ね」「が」「い」と読んでしまうと、なんだかやけに台詞が間延びしてしまって、どうにも私は萎えてしまうのだ。これはたぶん、人間の言語能力が「お」「ね」まで聴けば「おねがい」という単語だろうと先取りして認知してしまうので、続く「が」「い」が発せられるのを待つことにストレスを感じてしまうからであろう。たまに杓子定規に区切って失敗している声優さんの演技を耳にするのだが、こういった中黒は、ちょっと調子を効かせてゆっくり囁くように読んでくれ、という指示であって、そのとおり区切れ、ということではないのではないか。いや、もしかしたら私がせっかちなだけなのかもしれないが。

ウェブログ

 ウェブログだって使いようでしょとよく言われるのだが、やはり表現の形式は盛り込む内容を規制する。「ウェブ」は蜘蛛の巣なのだから、情報が同時的に相互に複層的に関係しあうというのが眼目のはずだ。でも、ウェブログはどうしても時間による順序づけが前に出てしまう。こうなると、情報の価値が「新しさ」中心に量られがちになる。この新しさ重視という価値観に着目すると、ニュースサイトの盛り上がりとウェブログの盛り上がりが底流で連関していると思えてくるのだが、どうだろうか。ただし、妄想を垂れ流す媒体としてはテキストサイトよりも優れているとも思う。それは、まさに妄想がそのつどそのつど垂れ流すものだからである。

鬱展開

 「鬱展開」という言葉は異なった二つの局面で使われている。
 (1)作品そのものが悲劇を描こうとして失敗している場合。カタルシスのない悲劇は、我々をただただ鬱にさせる。文学性やら思想性やらを求めた制作者の背伸びのしすぎが原因であることが多い。「客観的鬱展開」とでも言おうか。
 (2)作品が我々の期待したような展開ではなかった場合。作品そのものの出来がよくても、それが我々の期待を裏切っていた場合には、我々は鬱になる。わかりやすいところでは「物語の都合で殺してしまうなんてヒドい」とか「処女じゃないなんて騙された」とかいった感じか。こちらは「主観的鬱展開」と呼べるだろう。
 このふたつは異なるものである。それは押さえておくべきだ。ただし、娯楽作品が受け手を楽しませることを究極目的とすべきものだとすれば、主観的鬱展開を引き起こした作品もまた、客観的に失敗作であるとされても仕方がないのかもしれない。

売上至上主義

 基本的にはネット上の便利な煽り文句以上でも以下でもないのであるが、たまに本気で主張してしまう人がいるのが困る。
 売上至上主義は、商業作品を制作するプロフェッショナルの心構えとして語られるぶんには、それなりの説得力をもつように思えるかもしれない。いくらよい作品でも売れなければ駄目だ、というように。ただし、その場合でも、これはあくまで修辞的な表現なのであって、文字どおりの意味で通用するわけではない、ということに注意すべきである。オタクを含め、どんな分野であろうと、売り上げがすべてであるはずがない。この世界はそれほど単純にできてはいない。
 さらに言えば、私はオタクが作品の売り上げについて賢しげに語ること自体があまり好きではない。制作者サイドにいるのであればいざしらず、下賤なマーケティング話など、ビジネス雑誌を読んで喜んでいるような連中がやるものなのであり、品位あるオタクにはふさわしくないのである。

オイル臭

 兵器にはオイル臭がしなければならない。そして、太平洋戦争を知っている世代がつくったアニメのメカやロボットには、ときにオイル臭がして、それが素晴らしい。私ではなく、軍事オタを兼ねる第一世代の友人の説である。やっぱりファースト原理主義で、Ζガンダムやキュベレイの美しさを語っても聞きやしねえ。完全に納得はしていないが、「オイル臭」という切り口の見事さにはちょっと痺れた。
 オイル臭のする女の子も可愛いよね。工学系少女萌え。

オタク

 オタクの本質を問うことは難しい。それは、「オタク」という概念が政治的だからである。「オタク」という言葉は、それが誰によって、誰にむかって、誰にかんして発せられたのかという文脈に応じて、さまざまな含みをもつ。たとえば、オタクが、仲間のオタクにむかって、自分自身を「オタクだ」と宣言する場合と、ワイドショーのコメンテイターが、一般視聴者にむかって、犯罪容疑者を「オタクだ」と決めつける場合とでは、含みがまったく異なるのである。この多義性に一定の整理を加えることなしには、オタクの本質について論じる出発点に立つことすらができないだろう。

オタクポップ

 「A-POP」とかいう言葉もあるにはあるようだが、秋葉原でオタクを象徴するセンスは私の感覚からすると「ない」ので、こう呼んでおく。(追記、やはり定着しなかったようだ。)なんとなく購買層としてオタク連中を予想している音楽、というだけのくくりで、別にジャンルとしての共通点があるわけではない。このオタクポップというジャンルに私が基本的に期待していたノリは、「どうせなにをやろうがオタクは買うんだから適当に好きなことやってしまえ」である。そういった無責任な音楽的実験がオタ風味と化合することで、しばしば、一般購買層をターゲットにしたいわゆるJ-POPなどにはない、珍妙な音楽的な楽しさが生じていたように思うのだ。ところが、アニメソングや声優ソングが普通に売れるようになり、こういった雰囲気は薄れていったように感じる。もちろんかつてのノリも残っているが、かつてのJ-POPが見せていたような、良く言えば手堅い、悪く言えば凡庸な作風も目立つようになった。これを残念に思う気もちもないわけではない。しかし、それよりも、オタク趣味が社会において文化的にメジャーな位置を占めるようになってきたことへの感慨のほうが大きい。

オタクポップクラシックス

 アイドルにとって歌はアイドルがアイドルであるための手段である。楽曲そのものは目的にはならない。ファンにとっても基本的にはそうなる。楽曲にたいして、そのアイドルが歌っているから聴く、という向かい方をするということだ。これはこれで一つの文化なのであるが、それにともなって少々残念な現象が生じる。アイドルがアイドルでなくなるとともに、楽曲が使い捨てされることになるのだ。たんなる手段として作られた楽曲が使い捨てられるのだから別にいいではないか、という考え方もあるかもしれない。しかし、音楽というのは不思議なもので、ふとしたはずみで良曲佳曲が生まれたりする。そういったものまで捨ててしまうのは、やはり惜しい。いいものは古典として、それを歌っていたアイドルがアイドルでなくなったあとも聴き続けられ、新しいファンを増やしてほしいのである。
 以上はアイドル一般についてのことだが、同じことが、オタクポップ、とりわけ声優の歌とアニメやらなにやらのキャラクターソングについて言えるように思われる。声優がアイドル的に歌う文化はかなり長く続いているわけで、そのなかでけっこう良曲佳曲が歌われてきている。しかし、それらの楽曲は、その声優がアイドル声優の一線から退いて、なんとかグランプリとかの表紙に載ることもなくなるとともに、一部の懐古趣味の古参オタ(私のような)以外にはまったく聴かれなくなってしまう。また、キャラソンについてはもっと賞味期限がはっきりしていて、アニメが終われば役目も終わり。まったく言及されなくなってしまう。後にそのアニメが語られることがあったとしても、キャラソンは忘れられたままである。これはちょっと勿体ない。たとえば「オタクポップクラシックス」というくくりで、よいものはよいものとしてきちんと語り継いでいくことを意識的にやっていったら面白いのではないか、と私は思うのである。

オタク論

 オタクを論じる前に明確にしておくべき点がいくつかある。(1)問題意識。なぜオタクについて語ろうとするのか。(2)立ち位置。オタクとしてオタクを語るのか。非オタクとしてオタクを語るのか。(3)事実と規範。「オタクとはなにか」について語るのか。「オタクとはなんであるべきか」について語るのか。

俺の嫁

 「俺の嫁」という概念を、できうるかぎり文字通りの意味で厳格に使ってみたらどうなるのだろうか。「俺の嫁」であるからして、ポイントは以下の二点となる。
 第一に、誰の嫁か、ということを問われれば、この現実世界に生きる一介のオタクとしての他ならぬ「この俺」の嫁なのだ、ということを明確にする、ということである。
 オタクの妄想において、妄想者自身が妄想に登場しない場合も多い。カップリング妄想などを考えられたい。このようなタイプの妄想に支えられたキャラクター愛は、厳密には「俺の嫁」という表現がそぐわないものと言えるのではないか。また、妄想において妄想者自身が登場するとしても、その妄想者のスペックにかんしてまで妄想が過度になされる場合にもまた、「俺の嫁」という表現は厳密には適切と言えないだろう。自分自身について妄想しすぎると、「この俺」というニュアンスが薄くなってしまうからだ。
 第二に、まさに嫁であるからして、彼女でも愛人でも女王様でも肉奴隷でもない、ということである。嫁にしたい、つまり、結婚したい、という妄想をはっきりと打ち出すわけだ。結婚妄想を強く押し出すことで、独特のイタさキモさを醸し出していきたいものである。
 この二点が明確に示された妄想に基づいたキャラクター愛の表現、これが、厳格な意味での「俺の嫁」ということになるだろう。こういった厳格な意味で「俺の嫁」ないしは「私の婿」にしたいキャラは誰か、と考えてみると、なんだか自分の心の深層にある欲望が垣間見える感じがしてわりと面白い。
 ちなみに私の「俺の嫁」リストには、「生活力があって優しくておっぱいの大きい娘」がズラリと並んだ。自分の欲望が凡庸きわまりないことに苦笑するほかなかった。

(か行)

階級

 軍隊の階級とか会社組織の階級とか王侯貴族の階級とか天使の階級とか、さまざまな階級のそれぞれに一定のイメージがまとわりついている。オタクの場合、本来の意味からではなく、オタク系の虚構作品からイメージを仕入れることが多いので、そのあたりでときに微妙なズレが生じる。とくに軍隊の階級は軍オタのツッコミがあるので、そのズレが目立ちやすいのではないか。『大鉄人17』ブレイン党のキャプテン・ゴメスとチーフ・キッドの「キャプテン」「チーフ」は、それぞれ佐官あたりと尉官あたりを指しているのだろうか。よくわからん。
 『超人機メタルダー』のように完全オリジナルの階級体系は燃えるよね。

カップリング

 単体キャラクターにかんする萌えが「私の嫁」あるいは「私の婿」妄想に繋がるとしよう。燃えが「私が代わりにヒーローになる」妄想に繋がるとしよう。では、カップリング萌えに導かれた妄想においては、妄想の主体はどこに位置しているのだろうか。妄想の主体は妄想内には登場しない、とするのが、一つの考え方である。そうでないとすれば、守護霊的位置にいる、と考えることもできる。自分の萌えるカップルを、一歩後ろの斜め上から生暖かい眼差しで見守って導いているというわけだ。自分が演じるごっこ遊びではなく、お人形を両手にもって役割演技させるままごとなどが、カップリング妄想の原型と考えられるような気がする。

かわいいは、正義

 真とか善とか美とか、さまざまな価値があるなかで、あえて「正義」を選んだセンスが素晴らしい。ここは正義でなければならない。たとえば「かわいいは、善」では台無しだ。
 我々が正義に言及するのは、おもに力の行使を正当化する文脈においてである。つまり、正義には「本当は力の行使などなしに済めばいいのだが、状況が状況だから仕方ないのだ、だから、わたしたちの力の行使を許してあげなさい」という含みがある。
 他方、かわいさを肯定するということは、かわいい存在がうるさかったりちぐはぐだったり失敗もあたりまえだったりすることを、ぜんぶひっくるめて「許してあげる」ということである。「わたしたちを許してあげなさい」(くまのきよみ作詞「いちごコンプリート」)というわけだ。
 かわいさと正義とのこの構造的対応関係が、「かわいいは、正義」というテーゼに示されているのである。

可愛さ

 一言で「萌える」といっても、その基盤にはさまざまな欲望が存しうる。たとえば、「俺の嫁にしたい」とか「俺の愛人にしたい」とか「俺の肉奴隷にしたい」とか「俺の妹にしたい」とか「私の母になってくれるかもしれなかった」とかいった欲望は、それぞれ別種のものであり、そのどれに駆動されるかによって、萌えのありようも変わってくる。
 ここで注目したいのは、上記のものに並んで、とにかく純粋に可愛い、愛でたい、という欲望があるということだ。
 私はこの欲望に弱い。置く場所がないから買わないけど、シルバニアファミリーとか揃えたいよ。『ぽてまよ』は芸術、『瓶詰妖精』は人生、『今日の5の2』は文学、というような私の価値意識はここに基づいている。『あにゃまる探偵キルミンずぅ』もこのラインに入ってきそうだ。
 ところで、私のこの性向を「ロリ属性嗜好である」と言う人がいるのだが、これは誤りであると思われる。先に確認したように、幼女を嫁にしたいという欲望と可愛いものを愛でたいという欲望は種類がまったく違うので、混同してはならない。ここでさらに「そのような反論は、ロリ属性もちと言われたくないがゆえの屁理屈ではないか」という反応が予想されるが、これまた馬鹿を言ってはいけない。こちとらすでに最底辺の糞野郎である。いまさら一つ二つ背負った十字架が増えることを恐れるものか。舐めてはいけない。

鑑賞眼の曇り

 オタクの定義はいろいろありえて、私も自分の意見がないわけではないのだが、それは脇に置いておこう。どんな定義を採用しようが無視することができないオタクの一般的な特徴として、「作品を鑑賞し終わったあとが本番」という態度がある。漫画を読んでいる最中、アニメを見ている最中、ゲームをやっている最中は、もちろんそれはそれで楽しい。しかし、それで終わってしまっては普通の人である。肝心なのはその後だ。妄想したり考証したり関連グッズを漁ったり聖地を巡礼したりネットで感想を言い合ったり同人誌を買ったり売ったり変態プレイでの再攻略に突入したりといった、そのあとの活動にこそ、オタク的な楽しみの醍醐味がある、というわけだ。
 さて、ここから、残念な現象が帰結する。内容の出来がよい作品よりも、鑑賞し終わったあとの楽しみが充実している作品のほうが、高く評価されてしまうというのが、それである。
 たとえば、売り上げ至上主義も、実はここに根の一つをもつ。認知度が高い作品のほうが、他人とそれでコミュニケーションをとる、という楽しみが大きいので、優れたものであるように錯覚されてしまうのである。極端な信者的振る舞いやアンチ的振る舞いも、信者どうしあるいはアンチどうしのコミュニケーションの楽しみのために評価を極端に歪めてしまう、というところが大きいのであろう。
 さらに、つくり手売り手の側が、オタクを当て込んで作品を制作する場合に、このようなオタク的事情を意識的にか無意識的にか考慮に入れてしまうことがある。物語の練り込みは適当にグッズ展開しやすそうなキャラクターを並べてそれで終わり、とか、作品そのものの質を下げてまでネットで話題になるようなネタを入れ込んでしまう、とかいった事態を思い浮かべられたい。ヌルオタの繁殖地もまた、ここから生まれるのである。他にもこれに由来する問題はいろいろと挙げられるであろう。
 つまり、オタクは誰よりも作品を愛する存在であるように見えて、実際には、作品そのものをないがしろにしがちな存在でもあるのだ。それでいいや、と開き直るのもアリといえばアリだが、それではあんまりだ、と思うのであれば、オタクの本性に由来する自らの鑑賞眼の曇りには十分に注意を払うべきであろう。

完璧な殺し屋のディレンマ

 少し前に読んだトム・ウッド『パーフェクト・ハンター』(熊谷千寿訳、早川文庫、2012年)で気づいた。
 本作の主人公ヴィクターは超一流最強の殺し屋なのであるが、その設定および描写に一つの問題が生じているように私には思われた。殺し屋として超一流であることを丁寧に描こうとすればするほど、アクションの主人公として魅力を欠いてしまうのである。
 このヴィクター、想定されるさまざまな突発的事態に備え、セキュリティ万全の部屋をあつらえたり、整形をくりかえしたり、どんな異性にも心を許さなかったりと、パーフェクトなふるまいをしている。しかし、問題は、このあたりの神経過敏な対処の積み重ねが、どうにも怯えた小動物を思い起こさせてしまう、ということだ。頭ではこれこそがクールでニヒルなプロのあるべき姿だとわかるのだが、ぶっちゃけなんかセコセコしていてカッコ悪いと感じられてしまうのである。主人公はもっと器が大きくなければならないのだ。
 どうやら、アクションものの主人公は、プロアマ問わず、戦闘スキルに卓越していてもよいが、生存スキルには穴があったほうがいいようだ。生存スキルに秀でているということが、小物臭を醸し出してしまうからだ。もちろん、主人公は生存スキルに難があっても説得力をもって生き残らなければならないし、この点の無能さがカッコ悪さに結びついてしまったらなにをやっているのかわからなくなってしまう。ここにはかなり無理矢理な工夫が必要となってくるのである。
 これが、完璧な殺し屋を主人公にするさいのディレンマである。殺し屋であればあるほど、主人公としての魅力は失われてしまう。主人公であればあるほど、殺し屋としては無能に見えてしまう。どちらにしても駄目、というわけだ。
 一つのよくある処理法を指摘しておこう。デューク東郷もスティーヴン・セガールも範馬勇次郎も、生き延びるための細かいスキルには無頓着のように見える。目立ちすぎるよお前、こっそり襲撃されたらどうするんだ、というようなふるまいを平気でしてしまう。これは、基本的には物語のつくりが適当だということ以上でも以下でもないのであるが、しかし、その無頓着さが圧倒的な自信の表れのように見えるので、逆にこれらのキャラクターを破格に強く見せることに繋がっている。ちゃんと描くよりも適当に描いたほうが成功するというわけで、このあたり、面白いところである。

基礎教養

  「最近オタク領域に興味をもったんだけれども、初心者になにがお奨めですか」と訊かれることがある。でも、難しいんだよね。これとこれ、という仕方で挙げにくいのだ。結局のところ、こう言うほかないようだ。(1)狂ったように量をこなせ。(2)そのさい古典への目配りを忘れるな。理系分野なんかだと定評のある教科書を一冊読めば用が足りる場合もあるのかもしれないが、人文、芸術、趣味の領域では、出発点から量の詰め込みが必須である。それはオタクも同様なのだ。

キモさ自慢

 「痛さ」の自慢は、オタクの立ち居振る舞いにかかわる。それにたいして、「キモさ」の自慢は妄想の内容にかかわる。大雑把にではあるが。
 浅薄なテンプレ妄想はいくら過激を気取っても、イタいだけで、どこかきもちわるさに欠けるものだ。魂のこもった妄想にたいする「きもちわるい」という評価は、オタク練度にたいする褒め言葉なのである。
 このような認識のうえに、自らの妄想のキモさを競い合うオタクのコミュニケーションが成立する。たとえば、南家三姉妹の誰を嫁にしたいかの話をしているときに、「ああ、私はもう嫁とかいうのはいいんだ、私はみんなのお父さんになって、三人におこづかいをあげたいんだ」って言ってみるとかいった事例が挙げられるだろうか。いや自分ではよくわからないのだが、「なるほどきもちわるいですね」と感心されたんだよ。

キャラクターの摩耗現象

 アニメなどの萌え系の作品で描かれるエピソードには二つの機能がある。一つめは、キャラクターを描いて立てていくという機能であり、二つめは、キャラを転がして視聴者を萌やすという機能である。これらは独立の機能であり、また、どちらも必要なものだ。キャラを描いて立てる、ということをある程度やっておかないと、そもそも萌えもなにもない。しかし、こういった情報量の多い描写を続けすぎると、今度はキャラにかんする情報を視聴者が処理するのに負担がかかりすぎて、のんべんだらりと萌えることができなくなってしまう。ヌルい萌えを提供するためには、キャラを立てるためのエピソードとは別に、「キャラについての情報を増やすことのない、既知のキャラを転がすだけのエピソード」を供給しなければならない。これこそが萌え豚たちの主食なのであるから。
 ここで興味深いのが、アニメ『けいおん!』および『けいおん!!』である。
 第一期『けいおん!』は、第一期であるがゆえに、まずキャラを造形しなければならない、ということで、キャラを立てる機能を頑張ったエピソードを盛り込もうとした。そこで、いささか消化不良をおこしてしまった。
 一方、第二期『けいおん!!』前半部は、第一期の蓄積があったので、最初から、キャラを転がすだけ系のエピソードを並べることができた。そういうわけで、この作品、前半部は萌え豚の餌としてそれなりに成功した。しかし、二クールめ後半部に至って、一つ興味深い問題が生じてきた。どうやら、たんに転がしてばかりでは、キャラはいわば摩耗してしまうようなのだ。エピソードを重ねているのに、キャラの造形がいっこうに掘り下げられていかないため、結果、キャラの存在感自体が薄っぺらく思えてしまうようになるのである。『けいおん!!』後半部は、この問題ゆえに、「人造豚の毒餌」から「仔豚の離乳食」へとレベルダウンしていくことになる。

教養

 知らないことを恥ずかしいと思うところから始まる。そのうち知ることが楽しくなる。知っていることをひけらかすことの下品さに気がつくと、まあ一人前だろうか。道は遠い。

巨大感の出しかた

 『STAR DRIVER 輝きのタクト』にはとても楽しませてもらったのであるが、微妙に気になった点があるので、メモしておく。この作品、私にはあまり巨大ロボットものという感じがしなかった。端的に言って、サイバディの巨大感が足りなかったのだ。では、巨大感はどのように生じるのか。これは、怪獣映画を思い浮かべれば容易に理解できる。怪獣映画においては、基本的に、怪獣どうしがプロレスをやっているだけでは駄目で、そのプロレスの過程で街が破壊されなければならない。つまり、我々が日常的に慣れ親しんだ建造物や乗り物がいとも易々と破壊される、という描写をつうじてはじめて、怪獣の巨大さのニュアンスは生まれるのである。それがなければ、いくら言葉で「これは巨大な怪獣です」と言っても、我々はそれを実感できないだろう。この理屈は巨大怪獣だけでなく、巨大ロボットにかんしても当てはまる。つまり、巨大ロボットも、視聴者にその巨大さや重さ、力強さを実感してもらうためには、基本的に戦闘の過程で街を破壊しなければならないのである。ところが、本作は言うまでもなく「ゼロ時間」という設定があるため、サイバディが日常的な風景を破壊する、という事態が描けなかった。その設定が外れた対キング・ザメク戦もいきなり宇宙へ出てしまった。このような戦闘の場面設定のしかたが、巨大ロボットものとしてのなんとはなしの押しの弱さに繋がってしまったのではないか。設定が設定なので、どうすればよいのか私も思いつかないのであるが、「吹っ飛んだサイバディがビルを押しつぶす絵」が全二十五話のどこかに一枚入るだけで、ぐっと全体の味が引き締まったのではないか、と思うのである。
 ここから教訓を一つ導くとすれば、「日常のウラに非日常があって、そこでバトルが起こる」という設定と、巨大ロボットもの、という設定と、これら二つは相性が悪い、というものであろうか。すでに述べたように、バトルで日常を破壊することでこそ、巨大さの説得力は生じるからだ。『少女革命ウテナ』のように生身でチャンパラバトルやるのであれば、日常のウラを舞台にしてもよいのだが、巨大ロボットものはそうではないのである。

携帯ゲーム機の人間工学

 携帯ゲーム機を長時間操作すると、寝違えたみたいに首の筋がひどく痛くなって、これがかなり辛い。昔は自分の姿勢が悪いからだと思っていたが、どうもそうではないようだ。同様の症状を訴える人が多いようなのだ。改めて考えてみれば、携帯ゲーム機では、必然的に操作ボタンと画面が近いところに配置されることになる。手を不自然に高く掲げるのでなければ、首を不自然に俯かせた姿勢にならざるをえない。つまり、現行の携帯ゲーム機は、どれも人間工学的に不健康を生むデザインになってしまっているのだ。これでは、長時間プレイして、身体がおかしくならないわけがない。以前には、友人のカイロプラクターにこの「変な姿勢でゲームをやると出る痛」の対処法を訊いてみたこともあるのだが、「変な姿勢でゲームやらなきゃいいのです」とバッサリ一言で斬られてしまった。私が期待していたのは骨をパキってやって魔法のように痛みをとるワザだったのだが、甘えるな、ということらしい。やはり、そもそも痛みが出ないような携帯ゲーム機のデザインを誰かに考えていただくしかないようだ。

喧嘩

 古典的西部劇の喧嘩の作法には、拳闘至上主義の印象がある。漢と漢の勝負はあくまで拳のみの勝負であって、殴りかかってきた相手を蹴ることなどをはしたないとするわけだ。ジョン・ウェインにもチャールズ・ブロンソンにもなんとなくハイキックは似合わない。しかし、文化が変わると作法も変わる。チャック・ノリスやスティーヴン・セガールならば、躊躇なく相手の膝とか金的とかを蹴り砕きそうだ。爽やか喧嘩と殺伐喧嘩、どちらもよいものだ。
 いわゆるオタク向け作品の場合は喧嘩がすぐに大仰なバトルになってしまうので、こういう微妙な味わいどころがないんだよね。

剣豪最強説 追加

 設定上、サムライとニンジャはどちらが強くあるべきなのか。しょせん侍は普通の勤め人、裏稼業専門の忍者には勝てない、というのがまずは基本の考えかたであろう。しかし、問題は剣術の達人の扱いである。達人までもが優れた忍者には子ども扱いされてしまう、というのもアリといえばアリである。しかし、本当の達人には忍者は勝てない、剣豪こそ純化された戦闘技術の体現者、忍者は諜報員であって戦闘員ではない、という設定で話を進めるのもまた魅力的である。私は個人的には、「剣豪>忍者>一般侍」派である。

現実逃避

 人がオタクになり、オタクでありつづける動機のすべてがこれである、とは言わない。しかし、オタク的な生を営むことの眼目のひとつに、たしかにこの契機はある。これを必要以上に非難する人は、人生の真実に鈍感であるか、たんに幼くて世間知らずであるか、どちらかである場合が多い。ただし、ここで「現実」と呼ばれていることがらの内実は人により多様なので、注意が必要である。

考古学

 理系分野をのぞくと、オタク系の作品にもっとも多く登場する学問ではないか。インディアナ・ジョーンズ由来の浪漫のかほりに加えて、物語に非日常を導入しやすいとか、親の不在を辛気臭くないかたちで設定できるとかいった効果があるのだろう。『同級生2』『カードキャプターさくら』『ラブひな』等々を想起されたい。『ぽてまよ』の民俗学も似たようなものだろう。「絵にならない」学問、たとえば18世紀フランス文学研究とか民事訴訟法研究とかは、なかなか娯楽作品において重要な役割を担わせてもらえない。

購買意欲の心理学

 なぜよいアニメの円盤が売れないのか。不思議といえば不思議である。しかし、よく考えてみると、私自身がよいアニメをきちんと買っているわけではないことに気づいた。それほど駄アニメに金をつぎこんでいるわけではないが、これは素晴らしい作品である、と思いつつも買ってないことが多いのである。なぜそうなのか、自分を振り返って考えてみるに、どうも以下のようなことになっているようだ。
 そもそもアニメの円盤は高価である。少なくとも私は、こんな高いものを冷静な状態ではなかなか買えない。燃えたぎる欲望に、ある程度狂乱状態になっていないと駄目である。ところが、よいアニメをよいと判定するときには、私の精神状態は落ち着いてしまっている。無理矢理落ち着かせている、と言ってもよい。趣味の目利きをしているわけだから、興奮状態では適切な判定などできるわけがない。本当によい作品というものは、醒めた状態で見てもよいものでなければならない。だから、本当のよさを語るときには、必然的に醒めていなければならない、というわけだ。この落ち着きが曲者だ。判定を精確にする一方で、購買へ向かう衝動を消しもしてしまう。たとえば、これはよくできているなあ、と思いつつも、この作品を買ったら同じくらいよくできているあの作品その作品も買わなければ辻褄が合わない、そうするとさすがに散財がすぎるのではないか、とか、もう現状の部屋には置くところがない、とかなんとか、要らないところまで頭が回ってしまって、購買意欲が減退してしまうのである。そういうわけで、私はきちんとしたよいアニメを買いそびれてしまうのである。
 これは私個人の事情なので、他人にも当てはまるかどうかはわからない。

古典の位置づけ

 趣味のコミュニケーションが成立するためにどのような知識が必要とされるのか、という点にかんして、ハイカルチャーとサブカルチャーを対比することができる。ハイカルチャーは、そのジャンルでなにが古典とされているのか、の知識を要求するだろう。モーツァルトを聴いたことがなければ、クラシックにかんするつっこんだ会話はほぼ不可能である。
 しかるに、サブカルチャーは、そのジャンルで今まさになにが流行しているのか、の知識をまず要求する。オタクがサブカルチャーに分類されるとすれば、オタクがオタクであるために第一に必要とされることは、古典に触れることではなく、流行を追うこととなるわけだ。これはオタクの実情とも合致する。1stガンダムやエヴァを観たことがなくとも、現在放映中のアニメを観まくっていれば、それなりのオタク的対話能力は身につくのだ。
 こういったわけで、オタクには知識が必要である、という主張は、必ずしも古典至上主義を帰結しない。古典への誘いは、別の論理をもってすべきである。私としては、古典への眼差しをオタクライフをより豊かにしてくれるものと位置づけたい。

コミュニケーション

(1) 趣味一般、とりわけ文化系の趣味の特徴として、その趣味を共有する人間たちの共同体においてのみ成立するコミュニケーションがある、という点が挙げられる。「その趣味をもつ人」同士では通じるが「興味がない人」とでは通じない話があるのが、趣味なのだ。
 さて、オタク趣味にかんして特徴的なのは、コミュニケーションの場が大きく二極に分かれていることである。ひとつが、顔の見える状況でのオタクな友人との対話であり、もうひとつが、ネットにおける不特定多数のオタクとの対話である。この二つのコミュニケーションのありかたは、やはりどこか異なるだろう。
 ここで問うべきは、人がオタクになるときに、この両者がそれぞれどのように機能するのか、である。リアルなオタ友があまりいないオタクと、ネットをあまり見ないオタクでは、なんらかのオタクとしての活動様態の違いがあるのだろうか。このあたり、きちんとフィールドワークをやって調べたら面白そうなのだが。

(2) オタクが抱く欲望は多種多様であるわけだが、ここにある誤解が生まれがちのように思う。それは、抱く欲望が異なるオタクどうしにはコミュニケーションが成立しえないのではないか、というものだ。これは間違いだ。そうではない。我々は、他者の欲望に共感できなくとも、それを理解することはできるのである。この「共感できないが理解できる」というところが、オタコミュニケーションの面白さの重要なポイントの一つなのだ。
 たとえば、私は「ビッチキャラ萌え」という欲望をもったことがない。つまり、他のオタクの「あのキャラは本編には描かれていないけれども絶対に男がいるんすよ!ビッチなんすよ!でもそこがいいんすよ!」という妄想まみれのキモイ語りにたいして共感することはできない。しかし、私は、彼がなにを主張したいのかを少なくとも頭で理解することはできる。これが重要だ。この理解によって、これまであまり考えたことのなかった「脳内認定ビッチキャラ萌え」という切り口がこの世に存在する、ということを私は知ったわけだ。これでもって、私のオタクライフはちょっとだけ豊かになったのだ。
 共感できるのは、自分がすでにもっている欲望にたいしてだけだ。そこに変化はない、つまりは成長もない。他者の「共感できないが理解できる欲望」に触れることで、オタクは今とは異なる自分に変わる可能性を手に入れるのである。

(さ行)

(1) いわゆるオタク系の作品はたいていティーン向けに設定されるので、酒の描写がどことなく現実離れすることが多い。とくに大酒飲みの描写がファンタジックになりがちだ。昔話の絵本の「なんとか村のおおざけのみ」チックだったり、大学入学したての若者が抱く「酒が強いのカッコいいぜ」イメージに寄っていたり。それはそれでいいのだが、ライトノベルとか読んでいると、たまに「この世界で「酒」と呼ばれている飲料は、もしかしたら現実世界とはまったく異なるものなのかもしれない」という、奇妙な感覚に襲われるときがある。

(2) 酒というのは嗜好品であり文化である。すなわち、酒は、それ単独ではなく、それにまつわる歴史や物語とともに賞味されるべきなのだ。まあ、普通の正しい酒好きは歴史のほうを大事にするわけだが、オタ酒飲みである私にとっては物語のほうもかなり重い。「あの物語であのキャラがあの酒を飲んでいた」ということに思いを馳せると三倍は美味く飲めるのである。発泡酒とか第三のビールとか、伝統文化への冒涜であり、あんな工場製合成液を飲むくらいなら素面でいるほうがマシだと思っているが、小道具につかったクールな小説とか映画とかがあったら飲んじゃうかもしれない。

殺人

 ライトノベルの主人公はあまり人を殺さない。殺してもいいところでも殺さないので、話の流れや締りが悪くなることすらしばしばあるほどだ。これは、ラノベというジャンルにおいては、一般的に殺人行為にたいする倫理的なハードルが高く設定されている、ということの表れであろう。殺人を経験している、という属性を付与することが、そのキャラがきわめて特別な存在である、ということを必然的に含意してしまうので、このカードが切りにくいのだ。
 ページをめくるごと、シーンが変わるごとに気楽に人を殺しまくる話が好きな私にとっては、このへんのヌルさが少々物足りなかったりする。ハリウッドのアクション映画や時代劇では、ヒーローは悪人を殺しまくったすえに、平気な顔で職場や家庭といった日常へと帰還する。悪い奴であれば、ぶっ殺しても倫理的な葛藤を抱く必要はないし、周囲もその行為を別段特別視する必要はない、というわけだ。このあたりの感覚はラノベには存在しえないものであろう。ラノベにも「殺す主人公」がいないわけではないが、そういったキャラは、多くの場合、現代日本の日常にとって異質な存在として描かれざるをえなくなる。簡単に言えば、学園モノに馴染めなくなってしまうのである。やはり、学園などが舞台のキャッキャウフフのラブコメを織り成すキャラには、性行為にかんしてだけでなく殺人にかんしても童貞処女が相応しい、ということだろうか。ヤったり殺ったりすると、キャラがどこかオトナになってしまって、制服が似合わなくなってしまうのだ。

仕事

 暇がなくて困る。それなりに仕事も大事なので愚痴らないように心がけてはいるのだが。

事実誤認

 オタク系のウェブログに「なになにという事実があるのだが、それはなぜか分析してみた」という形式のテキストをよく目にする。この手のテキストは、「なになにという事実があるのだが」というところで事実誤認をしていると、当然、その時点で全体として無価値なものになる。自分の事実にかんする信念をきちんと検証する作業が不可欠なのである。「オタクはすべて〜」とか「最近のアニメはすべて〜」とか「ライトノベルはすべて〜」とかいった議論をするときは要注意だ。

蛇文字さん

 駄目人間として共感してしまうのはカズフサではなくジャモジさんだなあ。どうしてもお好み焼きにカブトムシ入れたくなってやっちゃう、というのは馬鹿馬鹿しく見えるが、よく考えるといつも私が仕事でやってしまっていることではないか。そうか、だからオレはダメなんだ。(田丸浩史『ラブやん』第9巻、講談社、2008年、第65話「アメリカ」)。

シャワールームの仕切り

 全年齢対象の作品においては仕切りは小さくなり、十八禁の作品においては仕切りは大きくなる、という傾向があるのではないか。前者においては「仕切り越しの会話」というシチュエーションが、後者においては「と、隣に人がいるのにっ」というシチュエーションがあるからだろうか。同じ「仕切り」という小道具が、いろいろな機能を果たしうるのであり、また、期待される機能に応じて現実との異なり方の方向性が変わってくるのである。同様の事態は他の小道具大道具についても指摘できるだろう。一般的に道具は我々をある型にはまった行為へと促すものなのであるが、虚構においてもキャラをあるベタなシチュエーションに導いたりするのである。

銃器

 オタク系にかぎらず一般に、日本の作品での銃器の扱いは拳銃に偏りすぎではないか。自分から殴り込みをするんなら拳銃ではなくサブマシンガンを準備すればいいのに、とか思ってしまうことがあるのだ。まあ、このへんは素晴らしいことに日本の日常に銃がほぼ存在しない、ということの反映だから、文句を言うべきことではないのかもしれない。
 チャールズ・ブロンソンがショットガンを使うさまが興味深い。まったく「武器を使っている」という感じがしない。女子高生が携帯電話を使いオタクがマウスを使うのと同じノリ、つまり、日常の延長でごく自然にひょいと掴みあげて使う。銃が「いつもそこらへんに転がっているありふれた道具」なのだ。ブロンソンはカッコいいけれども、同時に、アメリカって怖い国だなあ、とも思ってしまう。

十四歳

 いわゆるオタク系の作品には中学校高校あたりを舞台にしたものが多い。そのさい、先輩も後輩もいるので人間関係のネットワークをつくりやすいから、三年生だと受験があるし一年生だと場に馴染んでいないから、などの理由で、二年生が主人公の属する学年として選ばれることが多い。ともあれ、 十四歳(中二)と十七歳(高二)が鍵となる年齢となっているのである。そういうわけで私もほんのり加齢臭を漂わせつつも心は、心だけは「永遠の十四歳」に留め置き、そこにキモチワルイ姉萌えやらなにやらを根付かせていたりする。姉弟姉妹のカップリングで妄想が行われる場合には「心の十四歳」である必要はないが、やはりそれでは物足りないのだ。僕のお姉ちゃんが欲しいのだ。
 ちょいと昔、当時は堅気だった後輩(年喰ってから目覚めて現在はタチの悪い萌えオタ)に「涼宮ハルヒとかって高校生でしょう、ずっと年下じゃないですか、ロリコンということですか」と言われて、お前はなにを言っているんだ、私の魂は永遠に十四歳なのだからハルヒくらいの娘は私にとっては素ではお姉さんなんだ、と懇々と真理を説いたことがあった。すっかり忘れていたのだが、最近言われて思い出した。

主観的感想

 ネット上のオタク系言説には「これは主観的感想です」との断り書きをしてあるものが多い。しかし、たんなる主観的感想を公共空間に発表する意味などあるはずもない。そんなもの、部屋でチラシの裏に書けばいいだけのものだ。この台詞は、基本的には、粗探しをして騒ぎ立てる愚かな閲覧者から身を守るための方便である。「このゲームには十八歳未満の女の子はいないよ」と同じなのだ。とくに若い子には、この文言を本気にとって「主観的でいいんだ」と思ってはいけないよ、と言いたい。

熟成期間

 仕事で書く文章には上司のチェックが入る。出版される文章には編集のチェックが入る。学問的な文章には同業研究者のチェックが入る。文章というものは、本番前に他者のチェックが入るのが普通である。ネットのテキストにトラブルが多いのは、他者のチェックなしに公共に発信されてしまうからであろう。日記など、リアルタイムな反応の熱気を残したい文章以外は、一晩くらい寝かせて読み直したほうがいいような気もする。恋文と同じように。

修羅場

 二股からの修羅場という展開そのものが好きなわけではない。とりわけ、刺したり刺されたり、というのは勘弁だ。ただ、「仲の良かった女の子たちがギクシャクする」というシチュエーションにはなんだかキュンとくるものがある。このへんの嗜好を私に植えつけたのは、懐かしの名作『下級生』の南里愛と飯島美雪であろうか。
 で、この感覚を若い人たちにもわかるようにしようと考えたのが以下の例である。『けいおん!』で澪と律の同時攻略ルートをある程度進めるわけだ。するとそのうち双方が二股かけられていることに気づいて、バンドの雰囲気が微妙になるわけだ。まずはここでの「リズム隊がギクシャクしている」という構図を味わいたい。かてて加えて、空気が読めない唯が天然に「なんで音合わないんだろうね、なんでだろうね」というようなことを言ってしまい、なんとなく事情を察していた紬がどうフォローしていいかわからなくてオロオロするとか。そういう感じの良さ、わかってもらえるだろうか。

ジュヴナイル

 私の個人的な言語感覚の話である。言葉の意味からすれば「青少年向けの読みもの」ということになるはずなのに、どうもライトノベルをジュヴナイルと呼ぶことに違和感がある。それは、ジュヴナイルということに、大人が青少年に与えるもの、という上から目線の含みがどこか含まれているからであろう。ラノベにはそのような含みがあまりない。いや、このような含みを消すことで、ラノベはラノベらしくなる、と言ったほうが正確か。そのため、実際のところはラノベ作家たちは大人なのであるが、ラノベ読者の青少年たちは、あたかも自分たちと同格の仲間がこれを書いているかのように作品を受容することになる。読者が「これなら自分でも書けるのでは」と錯覚しがちなのはこのためであろう。また、中二病患者が好む作品を書いているだけなのに、作者自身が中二病患者であるかのように錯覚されたりするのも、このためであろう。

純文学

 この言葉がアカデミックな文学研究で使われることは基本的にない。「純文学」は、胡散臭いにもかかわらず流通してしまっている概念の代表格である。
 なにかを特徴づけるときに、対比の項として「純文学」なるものを立てる論者がいるために、実体があるかのように錯覚されてしまうのだろう。たとえば「SFVS純文学」とか「大衆文学VS純文学」とか「売れる文学VS純文学」とか。文脈によって対比軸が変われば「純文学」の内実も変わる。そして、このような場当たり的な対比を離れて「純文学」概念が機能するところはない。「純文学」の意味はいつまで経っても曖昧なままだ。
 いんちき批評に多いこの手の駄目議論を見習うべきではない。オタク論における「ライトノベルVS純文学」も同じ穴の狢になりがちなので、注意すべきだろう。
 ここまで実は前置き。こういった事情ゆえに、COCO『今日の早川さん』において言動にいちばん隙が大きいのは、実は岩波さんだったりする。可愛いなあ。

処女厨

 以前、「処女厨」と呼ばれる態度について考察したことがある(「処女属性をめぐって」)。その補足である。
 一般的に、処女厨は処女属性をもつキャラを非合理なまでに愛好する態度によって特徴づけられる。しかし、実情はもう少し複雑であるように思われる。ポイントは、「未規定性」というところにある。虚構のキャラクターには未規定の性質があってよい。たとえば桃太郎が納豆を食べた経験があるかないかは、お話のなかに書いていないのだから、未規定であり、それで問題はないであろう。そして、多くの虚構の物語において、あるキャラが処女か非処女かは、未規定のままになっていて、それで問題がないことが多いのである。こう考えると、処女厨的態度のうちに複数の要素を確認することができる。(1)未規定でいいはずの作品でも、処女か非処女かの二者択一を決定したくなってしまう。(2)そのうえで、未規定である場合にも、好きなキャラには処女属性を期待してしまう。(3)処女か非処女かが規定されたときに、前者を好み後者を嫌う。これらの三つは、同じようにイタキモイ処女厨的態度なのであるが、微妙に異なる。上に述べたように(3)が注目されることが多いが、先立つ(1)(2)にも注意を向けることが、適切な分析のためには必要なのではないか。
 ところで、最近の萌え系作品は、処女厨にとってストレスフルな未規定状態を解消するために、「この娘は処女ですよ、安心してね」という記号的な表現や台詞を早い段階で盛り込むことが多いように思われる。男の子の上半身の裸を見るだけでうろたえてしまう、とか、家族以外の異性とは手さえ繋いだことがない、とか。このような記号的表現を私は「未通女サイン」と名付けることを提案したい。さまざまなオボコサインの収集と分類は、やってみるとちょっと面白そうだ。

捨てられないもの

 CDとかDVDとかBlu-rayとかのパッケージのビニールにシールが張ってあることがある。「初回版封入特典ポストカード&設定資料集」とか書いてある、直径四センチくらいの円だったり、それよりちょっと大きい長方形だったりするアレだ。私はアレがなぜか捨てられない。ハサミでそこだけチョキチョキ切って、しまっておくのである。先日、発作的に欲しくなって某アニメの中古DVDを全巻まとめて購入したのだが、それぞれのケースを開けてみると、私がやっているのと同じように切りぬいたシールがブックレットに挟んで入っていた。私と似た習性をもつ人が他にもいるようだ。

スパッツ

 ブルマより好きです。本来エロとは無縁のものをエロい目で見るからよりエロいのだ。ブルマはそのものとしてエロすぎて逆にエロくないんだよ。現実世界で廃絶されてから、ブルマはたんなるエロ衣装に成り下がっちゃった感があるので、なおさらだ。

聖地巡礼

 この行為の面白さが私にはよくわからない。苦手だ。私の個人的な感覚として、作品どうしのあいだの引用関係には興味をもてるのだが、作品と現実との対応関係にはなぜか興味が向かないのである。また、理論としても、私の妄想中心主義ではこの快楽をあまり上手く位置づけることができない。そういったわけで、少し世代の下の連中がこのシーンはあそこのこれで、あのシーンはあそこのあれで、といった話で盛り上がっていると、取り残された感じがして少し寂しくなってしまったりするのである。

制服

 いわゆるオタク向け作品に登場する学校、学園、軍隊等々の制度的集団を眺めてみると、女子向け男子向けを問わず、珍妙怪奇な制服が無数に見つかる。可愛くしよう個性的にしようとフリルをつけリボンをつけ配色を派手にし、とやっていった結果なのだろう。しかし、その一方で、近年では、デザイン配色ともに地味め大人しめの制服も増えてきたように思う。私にとっては望ましい傾向である。二次キャラの場合、基本的に可愛いのだから、どちらかというと野暮ったい制服を着せたほうがずっとそそるものがあるのではないか。個々人が頑張って着崩したりする描写もしやすくて面白いし、エロさの点でも、制服が野暮ったいほど半脱ぎの味わいが増すであろう。ちなみに、地味なブレザーにスカート長めの半脱ぎが私の最近の好物である。モノにもよるが、セーラー服は記号としての力が強すぎて、ちょっと苦手なのである。
 三次元はまた話が違う。リアルで野暮ったい子が野暮ったい制服を野暮ったく着ているのを見ると、ちょっと可哀相に思えてしまう。まあ、向こうも同情されたくはないだろうが。

声優スキャンダルへの過剰反応

 女性アイドル声優が男と付き合っているらしい、という情報にたいしてきわめて過敏に反応する人々がいるようだ。そのうちには悪ふざけで騒いでいる連中もかなりの割合で混じっているのであろうが、なかには真剣に怒ったり悲しんだりしている人もいるのだろう。そのような怒りや悲しみの気持ちはわからなくもないのだが、それにしても騒ぎすぎのようにも思われる。そういった人たちは、こういったどうでもいい事柄にたいして、なぜああも過剰な反応をみせてしまうのであろうか。
 こう考えてきて、ふと思い至った。まさに私などが、声優のスキャンダル(とされている事件)にたいして、「どうでもいい事柄だなあ」と思うこと、そのことそのものが、あれらの人々をおかしな行動に走らせているのではないか。
 いわゆる普通のアイドルの場合、スキャンダラスな情報が出回ると、なんとなく、謝罪したり謹慎したり、といった儀式が行われる。つまり、そういった事柄が「どうでもいいこと」ではない、という了解が、業界的に共有されて存在しているわけだ。
 ところが、声優アイドルの場合は事情が違う。一部の熱狂的なファンをのぞけば、多くの人々が、さらには、仲間であるはずのオタクについてもそのほとんどが、スキャンダラスな情報について「そんなことどうでもいい」と思ってしまっているのである。
 そこで取り残されてしまうのが、スキャンダラスな情報に傷ついてしまった人々である。そういった人々は、自らの痛みが、オタクという仲間うちでさえ同情も理解もされないものだということに、二度傷ついてしまうのではないか。そこで連中は、その傷を公衆に認知させるべく、自ら叫び声をあげなければならない、という思いを募らせてしまうのではないか。そういうわけで、一部声優オタの行動は、たんなる怒りや悲しみの表出を超えた、妙ちきりんなものへと過激化していくのである。

セクシャル・ハラスメント

 一部の会社ものの漫画とかで、ときにひどく軽々しくネタにされているのにちょっと違和感を覚える。当事者になったことこそないが、相談に乗ったり愚痴を聞いたりした経験はあるので。ただ、なかなか難しいところもある。「それがギャグで済むと思っている」漫画家が間違っているとも言えるが、「別業種の性差別の現実はもっと酷くてそれくらいはギャグの範疇なのだ」ということをわかっていない私のほうが世間知らずなのだとも言えるだろうからな。

世代

 オタクを分類する切り口としての世代は、現在ほとんど有効性を失ったように思われる。私の理解では、世代の違いに実感を与えていたのは、萌えにかんする態度の違いであった。驚くべきことに、第一世代にはまったく萌えがわからないオタクがいた。これは、明らかな断絶であった。しかし、現在の現役のオタクたちには、このような世代に対応した本質のレベルでの決定的な差異はないと思われる。
 ただし、個々のオタクの自己理解や自己規定は、その時代の仲間うちの雰囲気や世間でのオタク報道、流行っていたオタク論などによって、かなりの影響を受けるので、現象的なレベルでは世代をそれなりに有意味に語る余地があるような感じもする。しかし、このあたりの事情を整理するのは、「オタク」論ではなく、「オタク論」論の課題となろう。
 どうでもいいが、今の若いオタクにとっては、第一世代は年上の友人というよりも親の世代になるのだろうか。泉家みたいに。

想起

 流行にあわせて与えられた新作をテンプレの反応で消費するばかりの状態からどうやって脱出できるのか。自分なりのセンスをいかにして磨くことができるのか。一つの鍵は、想起にあると考える。過去に好きだった作品を、好きだったキャラを、今、思い出して再び語ること。この行為が、流行の絶え間ない流れに亀裂を生じさせる。その亀裂からオタクの個性も芽生えてくる。なにを思い出すかは、きわめて個人的なことがらだから。ただし、流行つまり公共性への目配りをまったく欠いた自分語りもまた、非生産的である。難しいなあ。

創作能力

 我々オタクは基本的に受け手の立場にいるので、さまざまな作品を比較することで、その良し悪しを判定することになる。それはそれでいいのだが、相対的な評価ばかりしていて絶対的な評価をしそこなわないようにしたいものである。
 三割三十本を打つ選手に比べれば、二割五分しか打てないプロ野球選手はいまひとつかもしれない。世界チャンピオンに比べれば、全日本ランクに入るか入らないかくらいのボクサーはいまひとつかもしれない。しかし、よく考えれば、一軍のプロ野球選手である、というだけで、もの凄いことなのだ。プロボクシングのリングで何度か勝ったことがある、というだけで、もの凄いことなのだ。
 この点、とくにライトノベルにかんして注意が必要であろう。ありがちな設定にありがちなキャラを置いて、そこそこの文章でまとめられたラノベを、我々はときに過小評価しがちだ。なんとなく、もうちょっとの才能と運がありさえすれば、いつか自分でも書けるような気がしてしまうのだ。しかし、これはきわめて恥ずかしい錯覚にすぎない。商業ベースに乗る一冊のオリジナル作品を書くことができるのは、やはり限られた人だけなのであり、そこには多くの場合、それだけの凄さがあるのだ。凡作を凡作と評することは当然なのだが、一般人にはない創作能力をもつことにかんする基本的なリスペクトを欠くことは、やはり間違いであると私は思う。
 ところで、そういった創作能力の構成要素のうち、もっとも基礎にあり、そのため、もっと看過されやすいのが、とりあえず書き始めることができる能力と、とりあえず最後まで書きあげる能力であると思われる。我々の多くには、いや、私には、これらの才能が根本的に欠けている。

想像力

 オタク的趣味にとって重要な能力の一つが想像力の豊かさなのであるが、これは、ものごとのあいだに突拍子もないさまざまな繋がりを自ら新たにつくりだすことができる、ということであって、誰かから貰ってきた出来合いの観念を強く信じ込んでしまうこととはまったく逆の方向のことである。与えられた観念に固着する、というのは、他の可能性を見失ってしまっている、という意味で、想像力の貧困の現れなのである。
 ところで、人間誰しも恐怖に囚われるとデマやらなにやらに心を動かされてしまいがちになる。この状態、想像力あるいは妄想力が強くなっているように見えるが、実は、上のような意味において、想像力が貧困になっている状態なのだよね。これはオタ的心情とあまり相性のいいものではない。一般大衆ならいざしらず、いやしくもオタクを名乗るものであれば、難局にあっても想像力の豊かさを失わないでいたいものである。

属性愛

 これまでいくつかのテキストで述べておいた私の立場を簡潔にまとめておく。属性愛の発現の仕方には一見相反する二つの方向がある。
 (1)その属性を備えているキャラクターを好きになるハードルが下がる。自分の好みであるための条件をクリアしているのだから、当然そのキャラを好きになりやすい、というわけだ。
 (2)その属性を備えているキャラクターを好きになるハードルが上がる。その属性にかんして目が肥えているので、造形の凡庸さや設定の粗に目が行きやすい、ということである。
 一般に、属性愛は(1)の方向性で語られることが多い。しかし、たとえば私の眼鏡っ娘属性にたいする態度は(2)への傾きが色濃い。(1)を突き詰めていけば自然に(2)に至るはずで、(2)の感覚なしで属性愛を語っているヤツラはまだまだヌルいのではないか、と、私としては思わないでもない。

ゾンビものは二時間まで

 ゾンビものには特有の難しさがある。そもそも、ゾンビはゾンビであるかぎり、個性をもってはいけない。人間であったときには個性豊かであったものが、 ゾンビになるとみんな一律に「ウボアー」ってなってしまうのがゾンビの醍醐味なのであるから。(もちろんこのあたりを逆手にとった意欲作もあるが。)さて、ゾンビに個性が欠けてしまっているために、ゾンビものは、物語が一定以上の長さになると、受け手がゾンビなるものに慣れてしまって、ホラーとしてのインパクトを急速に失っていきがちだ。つまり、ゾンビものは、映画にして二時間くらいの長さ以上に緊張感をもって続けるのが難しいのである。
 たとえば佐藤大輔、佐藤ショウジ『学園黙示録 Highschool of The Dead』などは、なかなかよく出来てはいるのだが、やはり物語を長く続けすぎてしまっているように私には思われる。もはやゾンビが作品世界中の日常になってしまって、読者にとって緊張感を喚起する道具立てではなくなってしまっているのだ。原作者がどのような着地点を考えているのか、はたまたそもそもなにも考えていないのか、私にはわからないが、やはりこの作品も、映画にして二時間くらいの長さにまとめるべきではなかったか。

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