もえあがり一元論

はじめに

 旧拙稿「オタク道」を根本的に改訂することを試みたい。
 「オタク道」は完全に誤っていたわけではない。それなりにオタクの真理を掴み取っていたとは思う。しかし、掴み取った真理を適切に表現できていなかった。そのため、事態の根源がどこに存するのかについて、誤解を招きやすかった。
 オタクという現象は、その根源から明らかにされねばならない。
 というわけで、現時点での私のオタク論を<もえあがり一元論>というかたちで提示してみる。

「オタク道」の主張とその限界

 「オタク道」における私の主張は、以下のような論理に則っていた。
 まず、「オタク」という妄想者が存在する。次いで、そのオタクが、物語のキャラクターについて「妄想」する。そして、その「妄想」の原理が、「萌え」と「燃え」である。
 この立場は、説明の出発点に「オタク」を置いている。しかし、このような説明は、根拠の究極的な在り処を見失っている。生成の順序からすると、「萌え」や「燃え」という概念で指示されていた事態こそが出発点でなければならない。ならば、そこを論理的な出発点として体系を構成すべきであろう。
 そこで、本稿では、「萌え」や「燃え」がまさに成立する根源的な瞬間を、<もえあがり>と名づける。<もえあがり>がすべてに先立つのである。
 この立場の利点を簡単に述べておこう。
 「妄想」をオタクの本質とする説明では、「妄想」の概念内容が拡張されすぎてしまい、日常の用法から乖離するきらいがあった。そこで、これまでの「妄想」の内部構成を分析し、<もえあがり>と<妄想>の複合として位置づけ、前者のほうに重点を置くのである。これにより、<妄想>概念に過度の負荷をかけることもなくなり、オタクという現象についてのより適切な説明ができるようになるのである。

*1 「オタク道」などの旧稿と論点がかぶる場合は本文を簡略にし註をつけた。

根源的瞬間としての<もえあがり>

 <もえあがり>の瞬間が根源である。
 <もえあがり>とはなにか。<オタク>の眼前で、<キャラクター>が<世界>のうちで立ち上がってくること、これである。すなわち、<もえあがり>とは、<オタク>、<キャラクター>、<世界>のある特異な連関が成立することである。
 ただし、ここで注意しなければならないのは、<オタク>、<キャラクター>、<世界>がそれぞれ前もって独立に存在していて、しかる後に関係しあうのではない、ということだ。
 <もえあがり>があってはじめて、その三つの構成要素として<オタク>、<キャラクター>、<世界>が成立するのである。この順序を取り違えてはならない。あくまで出発点は<もえあがり>である。
 <もえあがり>において、<キャラクター>が<キャラクター>として成立する。<もえあがり>において、<キャラクター>の生きる<世界>が開かれる。そして、<もえあがり>の瞬間に立ち会うことで、人は<オタク>になるのだ。

*1 <もえあがり>はその語感から大仰な事態を思わせるかもしれないが、ささやかで繊細な<もえあがり>もありうることを注記しておく。たんに<もえ>でもよいのではというご意見もあろうが、「萌え」概念が人口に膾炙して、その意味を著しく劣化させてしまったので、新しい概念を導入せざるをえなくなってしまったのである。

*2 <世界>という概念について説明しておく。<世界>は、諸々のサブ<キャラクター>、設定、エピソードなどが織り成す集合体である。<もえあがり>の核をなす<キャラクター>以外のすべて、といってもいい。「オタク道改訂・妄想の諸類型」で、「世界観」という概念で論じていたものに近い。

<もえあがり>の成立過程

 もう少し詳しく述べよう。
 漫画でもアニメでもノベルでもゲームでもなんでもいい。あるジャンルの作品を我々が鑑賞したりプレイしたりする場面を考えよう。通常の場合、我々は物語の筋を追いかけたり、ゲームの要求する操作を行ったりして、作品の展開に沿いつつ、娯楽の時間を過ごしている。つまり、ここには<キャラクター>も<世界>もそれとして立ち上がってはいない。つまり、ここには<オタク>も未だ存在していない。
 しかし、ときに我々が手を止め立ちどまる瞬間がある。それを楽しむために漫画やアニメやノベルやゲームが要求する通常の行為がもはやできなくなる瞬間が到来することがある。
 <もえあがり>の瞬間である。
 このとき、我々は作品に登場するある<キャラクター>(複数でもありうる)の存在に心を奪われている。
 そして、これまでその作品の展開において語られてきた物語は、まさにその<キャラクター>と、その<キャラクター>の住まう<世界>を語っていたものとして受け取られる。
 このような<もえあがり>の瞬間に立ち会うことができる者が<オタク>である。つまり、<オタク>は<もえあがり>から定義されるのであり、逆ではない。

*1 <もえあがり>は「オタク道」において「キャラ立て読解」という概念で押さえていたものに近い。参照されたい。

<もえあがり>の特異性

 <もえあがり>を、漫画やアニメやノベルやゲームを普通に楽しむ場合と混同してはならない。
 通常の娯楽の営みにおいては、<オタク>、<キャラクター>、<世界>は分節化されて現出することはない。<キャラクター>も<世界>も作品の展開のなかに織り込まれている。そして、それを楽しむ者は、ただただ作品の展開に没入するのである。ここではすべてが作品の展開を楽しむことのうちに区別なく統一されている。
 しかし、<もえあがり>においてはそうではない。
 まず、<キャラクター>が作品の展開から独立したものとして立ち上がってくる。それに伴い、<キャラクター>の住まう<世界>もまた、作品の展開から独立したものと受け取られる。さらに、<オタク>もまた手を止め立ちどまるのだからして、作品の展開から身を引き離している。
 つまり、通常の娯楽の営みを支配するべき作品の展開が差し止められ、そのうえで<オタク>、<キャラクター>、<世界>が<もえあがり>状態に突入するのである。
 <もえあがり>を通常の娯楽に向かう態度から理解することはできない。<もえあがり>は、通常の娯楽の過程を断ち切るしかたで現出する、<オタク>に固有の現象なのである。

*1 「オタク道」では<妄想>を<オタク>の核に置いていた。本稿では、<もえあがり>を<妄想>に先立つ根源的瞬間としてより重視する。<オタク>の<オタク>性は、<妄想>を俟たずとも<もえあがり>の段階で確保されるのである。

*2 当たり前のことであるが、<オタク>が<もえあがり>において固有性をもつということは、<オタク>が優れているとか劣っているとかいったことを含意しはしない。それは別の問題である。

*3 ちなみに「エロゲーは本当にオタク文化なのか」および「「泣き」要素はオタクの本質をなすか」で論じたように、「エロ」や「泣き」は<もえあがり>なしに成立する。それゆえ、<オタク>固有のものではないのだ。

<萌えあがり>と<燃えあがり>

 <もえあがり>とは、<オタク>の眼前で、<キャラクター>が<世界>のうちで立ち上がってくることである。
 この<もえあがり>には、二種類の典型的な形態が存する。<萌えあがり>と<燃えあがり>である。この二つは、共に<もえあがり>に属するが、<キャラクター>、<世界>、<オタク>の関係の仕方に差異をもつ。
 それぞれについてさらに構造を分析していきたい。
 また、<もえあがり>はそれに引き続いて<オタク>の<妄想>を引き起こす。これも併せて検討する。

*1 以下で、「オタク道補論・妄想の二つの原理」における「萌え」と「燃え」の区別にかんする議論は不十分なものとして退けられる。「萌え」にエロス、「燃え」にヴァイオレンスという対応関係は完全に否定されることになる。<妄想>を規定する段階で、「オタク道改訂・妄想の諸類型」における分類が変形したかたちで組み込まれることにも注意されたい。

*2 つまり、<妄想>は<もえあがり>に基づく現象として位置づけられることになる。ちなみに本稿では強調していないが、私の<妄想>の延長線上に「二次創作」を位置づける立場は変わっていない。「オタク道補論・二次創作の倫理」などを参照。もちろん、すべての「二次創作」が<もえあがり>に基づくわけではない。名作の続編を書くとか、最終回を描くとかいった「二次創作」は、<もえあがり>なき作品愛から出発しても行われるだろう。

*3 <オタク>が他の<オタク>に見せるために行う<妄想>は、しばしばネタとしての性格をもつ。「オタク道」などでは、この点にあまり注意を払っていなかった。以下では、<妄想>を、<もえあがり>だけに由来するものとして理想化して論じる。実際の<妄想>はより錯綜しているので、別にさらに考察する必要があるだろう。

<萌えあがり>の構造

 <萌えあがり>においては、<キャラクター>が作品から立ち上がってくるさいに、<世界>が背景に退く。<キャラクター>が、<オタク>の目から背後の<世界>を覆い隠すように前景に立ち上がってくるのである。
 しかし、もちろん実際には、<キャラクター>は<世界>なくして<キャラクター>たりえない。<世界>は、<オタク>の目から隠されつつも、<キャラクター>の背後でつねに<キャラクター>を支えている。ただ、<もえあがり>においては、<キャラクター>がそのまま立ち上がってくるがゆえに、<世界>が隠されるのである。
 このとき、<オタク>の心にも<萌えあがり>の感情が生じるであろう。

*1 <萌えあがり>は、その字のごとく、草木の萌えあがりに比することができる。まさに草木が大地を覆って生い茂るがごとくに、<キャラクター>は<世界>を覆い隠しつつ立ち上がるのである。しかし、草木が大地なくして萌えないように、<キャラクター>は<世界>に根ざさねばならないのだ。

*2 <オタク>を<もえあがり>よりも先立つものと考えたために、「萌えの主観説」は極端な主観主義に陥っている。根拠が転倒していたのだ。主観主義は、心理学的説明を呼び込みがちであることからも避けられるべきである。<オタク>にかんする心理学的説明は、事態の本質を捉え損ねるであろう。

<萌えあがり>と<妄想>

 <萌えあがり>に引き続いて<妄想>が起きることがある。
 <萌えあがり>に基づく<妄想>は<キャラクター>の居場所の置き移しを核心とする。<オタク>が<キャラクター>を、元の<世界>の別の場所ないしは別の<世界>へと置き移すのである。この置き移しにおいて、<キャラクター>はさらに明確に輪郭づけられたものとして<オタク>の目の前に立ち上がる。そして、ここで、<オタク>の<萌えあがり>の感情はさらなる高まりを獲得するのである。
 <萌えあがり>においては、<キャラクター>は<世界>を隠蔽しつつ立ち上がるのであった。つまり、<キャラクター>の元来の居場所は、<オタク>の視界から外れることになる。このことを、<世界>内あるいは<世界>間での置き移しは、さらに強調していく。それにより、<キャラクター>はさらなる<萌えあがり>のうちに置かれるのだ。

*1 <萌えあがり>の<妄想>の最も原初的な形態は、「<オタク>が<キャラクター>を<世界>から置き移して自分の隣に立たせること」であるだろう。たとえば「嫁にする」である。ここで、<萌えあがり>と<妄想>が段階として区別されることから、「萌えるのはかがみんだが嫁にしたいのはこなた」などといった錯綜した態度の位置づけが可能になることに注意されたい。これはすなわち、私の理論からすると、「これは俺の嫁だ」という命題を「これは萌えるキャラだ」と翻訳することは誤りであることを意味する。

*2 ちなみに、<妄想>の構造が上記のようなものであるので、<萌えあがり>にかんしては受け手の感情移入の契機は重要ではない。作品中に受け手が同一化できる<キャラクター>が存在しなくとも、<萌えあがり>とその<妄想>は十分に成立しうるのである。

<萌えあがり>の堕落

 さて、<萌えあがり>における<妄想>は<オタク>に快楽を与えるが、堕落の原因にもなりうる。
 <萌えあがり>において、<キャラクター>はたしかに置き移しが可能である。しかし、それは<世界>なしに<キャラクター>が存在しうることを意味しない。大地に根づいていない草木が力を失うように、<世界>に根ざしていない<キャラクター>は力を失う。
 しかし、<萌えあがり>の<妄想>は、ときに<オタク>に<世界>の重要性を忘却させる。<キャラクター>が<世界>なしに存在しうるかのように思えてしまうのだ。このとき、<キャラクター>は、たんなる出来合いの「属性」の束としてしか理解されなくなってしまう。このとき、<オタク>は堕落した状態にある。
 また、そのような堕落した<オタク>に合わせて、作品もまた堕落する。つまり、最初から記号化された擬似<キャラクター>を組み込んだ作品が、堕落した<オタク>の消費向けに大量生産されるようになるのだ。
 かくして、<世界>が見失われたとき、そこに残るのは、造花のような生気なき<キャラクター>と、それをもてはやす浅薄な<オタク>ということになるだろう。この地獄絵図が、<萌えあがり>の陥る堕落状態である。

*1 「妄想の弁証法」で問題にした<キャラクター>の記号化は、<萌えあがり>における<世界>の見失いに原因をもつのである。

*2 一部のオタク論者は、このような堕落した<オタク>を本来のものと取り違えているので、どうしようもなく失敗するのである。

<燃えあがり>の構造

 <燃えあがり>においては、<キャラクター>は<世界>との対抗関係において作品から立ち上がってくる。<世界>との対峙なくしては<キャラクター>の<燃えあがり>はない。つまり、<萌えあがり>とは異なり、<世界>が<オタク>の目から隠蔽されるということはない。それどころか、<世界>の<燃えあがり>が前景に立ち上がってくるのである。
 つまり、<オタク>の眼前にはまずもって<世界>の<燃えあがり>があり、そこから翻って<オタク>は、その<燃えあがり>の中心としての<キャラクター>の立ち上がりを感じるのである。<キャラクター>の<燃えあがり>は、隠蔽の構造ではなく、屈折の構造をもつのだ。
 このとき、<オタク>の心には<燃えあがり>の感情が生じるであろう。

*1 <燃えあがり>は、その字のごとく、炎の燃えあがりに比することができる。まさに炎が周囲の事物を燃やすことで燃えあがるがごとくに、<キャラクター>は<世界>を燃やすことで立ち上がるのである。そして、周囲に燃やすものがない炎が消えてしまうように、<世界>から切り離された<キャラクター>の<燃えあがり>はありえない。

*2 「オタク道補論・妄想の二つの原理」で示した「キャラ「燃え」には、必ず作品「燃え」が随伴する」という主張の述べなおしである。

<燃えあがり>と<妄想>

 <燃えあがり>に引き続いても<妄想>が起きる。
 <燃えあがり>の<妄想>は<キャラクター>の投げ入れを核心とする。<オタク>が<世界>のなかの<キャラクター>の代わりに、ないしは傍らに、別の<キャラクター>を投げ入れるのである。
 <燃えあがり>において、<キャラクター>は<世界>のあり方から屈折して立ち上がってくる。つまり、<燃えあがり>は、まずもって<世界>の<燃えあがり>である。
 ここで、<燃えあがり>の中心部分に新しい<キャラクター>を投げ入れ、焚きつけることで、<世界>の<燃えあがり>をさらに激しくすること、ここに<燃えあがり>の<妄想>は快楽を見出すのである。

*1 <燃えあがり>の<妄想>の定式化は、「オタク道補論・妄想の二つの原理」などからかなり変化しているので注意されたい。「オタク道改訂・妄想の諸類型」における「世界観共有妄想」に近いものである。すなわち、<燃えあがり>の<妄想>においては、<キャラクター>ではなく<世界>が保存される、というのが現在の私の立場である。たとえば『仮面ライダー』にかんして<燃えあがり>の<妄想>をする場合、本郷猛を別の<世界>に置き移すのではなく、『仮面ライダー』の<世界>に、本郷の代わりに、もしくは本郷の傍らに「俺ライダー」を投げ入れるのが基本となる。本郷猛に<燃えあがり>を覚えた<オタク>は、それにもかかわらず、いや、それだからこそ、<妄想>においては本郷猛を消去する方向に向かう。それが<燃えあがり>の<妄想>の特徴なのだ。これは、一見奇妙な事態に思えるが、感情移入の極みで同一化してしまう場面を考えればとくにおかしなことではない。

*2 <燃えあがり>の<妄想>の最も原初的な形態は、「<オタク>が自分自身を<世界>に投げ入れて<キャラクター>の隣に立たせること」である。ちなみに、「嫁にしたい」という<妄想>は、機械的に「萌え」に分類されがちであるが、自分自身を<世界>に投げ入れて婿入りする場合は、<燃えあがり>に属すると解釈すべきことになる。逆に、ヒーローにたいする憧憬は機械的に「燃え」に分類されがちであるが、<妄想>においてヒーローたる<キャラクター>が保存される場合には、その<妄想>は<萌えあがり>から理解すべきことになる。

<燃えあがり>の堕落

 さて、<燃えあがり>にも堕落は生じうる。
 <萌えあがり>と異なり<世界>が隠蔽されるどころか前面に出てくるがゆえに、<世界>を見失って<キャラクター>のみが強調されるという事態は、<燃えあがり>には起きにくい。しかし、<燃えあがり>には別の落とし穴がある。<キャラクター>の<燃えあがり>は<世界>の<燃えあがり>から屈折的に獲得されねばならないのであった。このとき、<世界>の擬似的な<燃えあがり>に目を奪われて、<オタク>が<キャラクター>の<燃えあがり>を誤認する場合が起こりうる。
 本来の<燃えあがり>においては、<オタク>と<世界>は対抗関係にある。本来、<燃えあがり>は、この対抗関係の動態において成立するものだ。しかし、この関係が記号化されてしまうことがある。このとき、<燃えあがり>は見かけのものにとどまるであろう。
 これが行き着く先が、<世界>のご都合主義化である。ご都合主義的に構成された<世界>は、その中心にある<キャラクター>にかんして<燃えあがり>を偽装する。本来それに値しない魅力に欠けた<キャラクター>が、ご都合主義的な<世界>のおかげであたかも英雄的な存在であるかのように提示される。しかし、そこには動態的な対抗関係が、つまりは<燃えあがり>が実は欠けてしまっているのだ。
 ところが、一部の浅薄な<オタク>はこれに騙される。ご都合主義的な作品やご都合主義的な<妄想>に<燃えあがり>を錯覚し、騒いでしまうのである。これは堕落であろう。

*1 この論点はこれまであまり強調していなかった。ご都合主義批判の萌芽がみられるのは「「ヒーローになる」とはどういうことか」などか。ちなみに「「ヒーローもの」の形式とその展開」などで「燃え」が一定の形式をもつことを強調してきたが、一定の形式をもつことと、記号化の果てのご都合主義に堕することとはまったく別の事態であることに注意されたい。

<オタク>とはなにか

 ここで改めて<オタク>とはなにかを定式化しておきたい。
 <萌えあがり>であれ<燃えあがり>であれ、なんからの<もえあがり>の瞬間に立ち会い、そこから<妄想>を展開する存在こそが、<オタク>と呼ばれるべきものである。
 いくら見かけがそれらしくとも、いくら知識を振りかざそうとも、<もえあがり>を知らない者はオタクにはなれない。また、堕落した<もえあがり>に耽溺してしまう者は、ヌルオタと呼ばれるであろう。逆に、<萌えあがり>を一律に<キャラクター>の記号化として、<燃えあがり>を一律に<世界>のご都合主義化として捉えてしまう者なども、<もえあがり>の瞬間を掴みとり我がものとする能力に劣るヌルオタである。
 また、せっかく立ち会えた<もえあがり>を忘却し、非本質的なものごとを追求してしまうこともあるだろう。これもひとつの<オタク>の堕落である。
 付け加えるならば、非オタクの論者によるオタク論が本質を見失い迷走するのは、論者らが<もえあがり>の瞬間に触れたことがないからである。<オタク>の根源を知らずして<オタク>を理解できるはずもないのだ。

*1 「オタク道補論・趣味としてのオタク」などで論じた<オタク>の濃さの問題をここから考えていきたい。また、「オタク道補論・オタクにおける「二年生病」の研究」で示した四つの「オタク性二年生病」は、<もえあがり>の忘却を引き起こすものとして位置づけられるだろう。

*2 以上は原則論であり、<オタク>の「ヌルさやイタさを一周してあえて楽しむ態度」などは、また別に考察されるべきであろう。

*3 ここで現時点での私のヌルオタ論を簡単に整理しておく。一般に、人が間違ってしまうときには(1)そもそも真理を知っていない場合 (2)本来わかっているはずの真理を見失う場合の二種類があると思われる。そして、オタクの「ヌルさ」「わかってなさ」にかんしても、これが当てはまる。すなわち、問題のヌルさをどちらの方向から批判すべきかが場合によって異なることになる。(1)の場合は、「しっかり勉強すべきだ」系の教養主義的主張になり、(2)の場合は、「愛をもって誠実に語れ」系の直感主義的主張になるわけだ。どちらを強調すべきかは、問題のヌルさの性質に依存するであろう。ちなみにこの註は掲示板でのgenpicya氏のコメントに多くを負っている。ありがとうございました。

おわりに

 以上が<もえあがり一元論>の素描である。
 具体例を極力省いて構造だけを示したので抽象的にすぎるかもしれないが、そのあたり、註に記したリンク先の旧拙稿を参照していただければと思う。論理の構成はかなり変わっているが、基本的な道具立てはほぼ共通である。
 まあ、実際のところ、ここまで根っコにまで遡って考えねばならない場合というのはほとんどないので、これからも普段は「オタクの本質は妄想にある」というテーゼを使用していきたい。ただし、それは、あくまで<もえあがり一元論>の不正確な省略表現としてである、ということには注意を願いたい。
 ここ最近なんとはなしに、自分の理論が自分のオタク生活を完全に説明しきれていない、という思いがどうにも晴れなくて困っていた。自分でもどうかと思うが、理論への信頼がないと安んじてオタクでいられないのだ、私は。仕方がないので、出発点にまで戻って全面的に組みなおしてみた。
 これでなんとかしばらくはオタク生活の具体的実践に専念できそうかなあと思うのだが、どうなることやら。

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