「ヒーローもの」の形式とその展開

はじめに

 よくできたヒーローもの、燃えるヒーローものの条件についてはいろいろと考えてきたのだが、「そもそもヒーローものとはなにか」ということについては明らかにしてこなかった。
 ここいらで「ヒーローものの形式」を考えてみたい。「ヒーローもの」が成立するための基本的な枠組みは、以下のようになっていると私は考えている。ただし、あくまで経験から導き出した整理であることを断っておく。
 ちなみに、以下、実例に古今東西の名作をネタバレを気にせず挙げているので、注意してもらいたい。最後には、Leafの傑作『雫』および『痕』について解釈を行うことになる。

「ヒーローもの」は三つの要素からなる

 「ヒーローもの」は三種類の登場人物を要求する。
 「ヒーロー」、「敵役」、「被害者」である。
 どれを欠いても「ヒーローもの」にはならない。というのは、「ヒーローもの」という物語は、以下のようなプロット形式をもたねばならないからだ。

「ヒーローもの」のプロット形式

(1)「敵役」が無力な「被害者」にある手段で害を与える。 
(2)「ヒーロー」が「被害者」を「敵役」への抵抗行動へと導く。
(3)「敵役」が「被害者」では抵抗しえないような過激な手段に訴える。
(4)「ヒーロー」が「敵役」を打倒する。

典型例

 典型は、映画『シェーン』である。様式美の極致と言えよう。

(1)「悪徳牧場主」が無力な「開拓民」に「悪質な嫌がらせ」で害を与える。 
(2)「シェーン」が「開拓民」を勇気づけ、「悪徳牧場主」への抵抗を支える。
(3)「悪徳牧場主」が「開拓民」では抵抗しえないような「殺し屋」に訴える。
(4)「シェーン」が「殺し屋」を打倒する。

 同様に明快なのがテレビ時代劇だ。シナリオが完全に形式化されている。ほとんどすべての『水戸黄門』は以下に酷似したパターンを採る。(以下は私の創作。)

(1)「悪代官」が無力な「農民」に「不当な年貢」で害を与える。 
(2)「謎の旅の一行」が「農民」を勇気づけ、「悪代官」への抵抗を支える。
(3)「悪代官」が「農民」では抵抗しえないような「殺し屋」に訴える。
(4)「謎の旅の一行」、実は「水戸黄門一行」が「殺し屋」を打倒する。

 少年漫画であれ特撮であれ、他にもいくらでも例は挙げられる。『特攻野郎Aチーム』なんかも毎回これだ。これが「ヒーローもの」の基本なのだ。
 ここで一つ重要な点を指摘しておこう。
 「ヒーローもの」は、物語としては特殊なジャンルである。普通、主人公は物語の内容に深く絡む存在であるはずだ。しかし、「ヒーローもの」においては、「ヒーロー」は物語の本質には絡んでこない。状況を構成するのは「被害者」と「敵役」だけである。主人公たる「ヒーロー」は、状況の外部から来て、「首を突っ込む」存在なのである。
 「ヒーロー」が「流れ者」や「探偵」そして「『九龍妖魔學園紀』の「転校生」論」で論じた「転校生」などに親和するのは、このためだ。
 また、状況の外部にいるがゆえに、「ヒーロー」は「正義」や「愛」といった普遍的な価値観を体現できるとも考えられる。

「ヒーロー」は二つの役割をもつ

 「ヒーロー」がまったく異なる二つの役割をもつことに注意しよう。
 (2)と(4)、すなわち「被害者」の「導き手・支え手」という役割と、「敵役の打倒者」という役割である。
 (4)ばかりがクローズアップされてしまいがちだが、実は(2)が重要だ。
 「敵役」に搾取されるばかりだった「被害者」を抵抗の主体へと導くこと。そして、その抵抗を支えること。これをしないと、「ヒーローもの」にはならない。理由は後述する。
 ちなみに、この二面性がそのまま「ヒーローの変身」に対応しているのは見て取りやすいだろう。「導き手・支え手」と「打倒者」の役割を同時に果たす場合もあるが、二つの役割がストーリーの進行にそくして切り替えられる場合もある。後者の場合、その切り替えの瞬間が「変身」となる。

「敵役」は二つの手段をもつ

 同様に、「敵役」もまた(1)および(3)に対応した二重性をもつ。
 第一に、ヒーローの「導き手・支え手」としての側面を呼びおこすような「悪行」ができなければならない。
 第二に、ヒーローの「打倒者」としての側面を呼びおこすような「悪行」ができなければならない。
 「被害者」を害する手段を一つしかもたない「敵役」は、「ヒーローもの」には向かない。

「ヒーロー」に二重性がない場合

 では、「ヒーロー」の二重性がないとどうなるのか。
 「ヒーロー」が「打倒者」にならない場合には、たとえば、「被害者」の成長物語ができると思われる。
 わかりやすいのが、映画『ベストキッド』だろうか。「ヒーロー」であるミヤギさん(懐かしい)は、「敵役」を倒さず、ただただ「被害者」である少年の「導き手・支え手」に徹する。
 それに連動して、「敵役」のほうも、「ヒーロー」にではなく、抵抗の主体へと成長した「被害者」にそのまま倒されることになる。
 これは少年漫画系武術ものに多い形態である。松田隆智、藤原芳秀『拳児』や、松江名俊『戦え!梁山泊史上最強の弟子』などは、この形式に則っている。
 これらの作品において、往々にして主人公よりも師匠がキャラ的に濃くなってしまうのは、師匠こそが「ヒーロー」の位置にあるからだ。

「敵役」に二重性がない場合

 今度は「敵役」に二重性がない場合を考えてみよう。
 「敵役」が最初から「被害者」にはどうにもならないような「悪行」を炸裂させたらどうなるか。
 いくつか展開の可能性があるが、基本的には凄惨な殺し合いに帰着するようだ。
 まずは、平野耕太『HELLSING』である。「被害者」は片っ端から殺戮され、「ヒーロー」はそれを脇目にただただ「敵役」の打倒だけに邁進する。ただただ戦争が大好きなので殺したり殺されたりするのだ。結局「ヒーロー」と「敵役」の区別の意味がなくなり、「ヒーローもの」というより、痛快きわまりないおバカ漫画になる。
 また、こういう場合もある。映画『男たちの挽歌2』では、「敵役」の苛烈な「悪行」のゆえに「被害者」は救われないまま死んでしまう。こちらは痛快というよりは悲壮感溢れる壮絶な殴り込みの皆殺しに突入することになる。

「被害者」は抵抗する

 さて、次に注目したいのは、「被害者」もまた「敵役」に抵抗しなければならない、という点である。その抵抗を「ヒーロー」が支えることになる。
 また、物語の出発点において「被害者」が「被害者」の地位に甘んじている場合には、「被害者」は「ヒーロー」に導かれ、必ず人間的に成長しなければならない。
 「被害者」が、ただ「打倒者」としての「ヒーロー」に守ってもらうだけでは、「ヒーローもの」は成立しない。いくら力は弱くとも、「ヒーロー」の側に立って戦う意志を見せねばならないのだ。
 当然、これは「被害者」の位置に「ヒロイン」がいる場合あっても変わりない。それゆえ、ある種の「ヒーローもの」においては、「萌えは戦闘力に比例する」ことにもなる。(ニトロプラスの法則。)

「被害者」が抵抗しない場合

 助けられる「被害者」が「敵役」に抵抗しないときには、「ヒーローもの」はどうなるのか。これは、「ヒーロー」が「導き手・支え手」としての役割を失うことを意味する。
 「ヒーロー」がもつ「導き手・支え手」としての役割は、実は「ヒーロー」自身の正当性を保証するものである。これを失うと、「ヒーロー」は剥き出しのヴァイオレンスの担い手としか見なされなくなってしまう。
 つまり、「ヒーロー」ではなくなってしまうのだ。
 ここから由来するもっとも悲惨な結末を描いたのが、横山光輝『マーズ』であろう。「被害者」が「被害者」に甘んじて成長しなかったために、最後にとてつもない破滅が引き起こされる。
 ご存知、映画『七人の侍』においては、「被害者」が変わらなかったことに「ヒーロー」がなんともいえない感慨のこもった一言を漏らすのが、ラストシーンになっている。
 映画『荒野の用心棒』では、「ヒーロー」は最初から最後まで「導き手・支え手」としての役割を完全に放棄している。それゆえ、クリント・イーストウッドはピカレスク・ヒーローとなる。
 よくある童話、『白雪姫』や『シンデレラ』でも、「被害者」たる白雪姫やシンデレラはまったく成長しない。だから童話の王子様はあくまで能天気な権力の担い手であり、「ヒーロー」にはなりえない。藤子・F・不二雄『ドラえもん』でも、野比のび太が成長しないかぎり、ドラえもんは能天気な科学力の担い手にとどまる。
 ちなみに、『仮面ライダー』の多くのシナリオにおいては、「被害者」は成長しない。しかし、ほとんどの「被害者」が家族であり、ショッカーによって引き裂かれた家族の絆を結びなおす、というのがライダーの役目になっている。
 家族の絆を守る、というテーマは、それだけで「ヒーロー」の正当性を保証するに十分である。それゆえ、『仮面ライダー』は「被害者」が成長しなくても「ヒーローもの」として成立しているのである。

「ヒーロー」と「被害者」が同一である場合

 こんどは「ヒーロー」「敵役」「被害者」の三要素のいくつかを重ねる変形を考えてみよう。
 「ヒーロー」と「被害者」が同一であったとしたら、どうなるか。
 これは「被害者」が、先輩「ヒーロー」の導きなしに、「ヒーロー」へと成長しなければならない、ということを意味する。
 特殊なタイプの成長物語である。
 映画『リベリオン』などがこれにあたる。脚本が秀逸なタイプの作品ではないが、この点にかんする基本は押さえていて参考になる。
 このタイプの物語においては、多くの場合、「ヒーロー」=「被害者」は、他の「被害者」を救い損ねる。最初は「ヒーロー」として未熟だからだ。
 加えて面白いのは、救われなかった「被害者」が、そのことによって、「導き手・支え手」の役割を担いうる、ということだ。「被害者」が「ヒーロー」に変わるきっかけとして説得力をもつエピソードが必要になるわけだが、「救い損ね」は、それに最適なエピソードなのだ。『リベリオン』におけるヒロインのメアリーの役割はまさにこれだ。教科書どおりである。
 『仮面ライダー』第一話「怪奇くも男」もそうだ。本郷猛は歴史上最初の仮面ライダーなのだが、出発点は「被害者」であった。彼が「ヒーロー」になるためには、緑川博士の犠牲が必要だったのだ。
 『新世紀エヴァンゲリオン』は興味深い。「被害者」碇シンジの周囲には、まともな「導き手・支え手」たる「ヒーロー」がいない。父親を筆頭として、半人前の大人ばかりである。それゆえ、彼は自ら「ヒーロー」に成長することを求められる。さて、シンジは他の「被害者」をことごとく救い損ねていくわけだが、残念ながら、そのことを自らの成長のための導きの糸として消化することができない。結果、彼はヘタレの道を転落することになる。
 今反省すれば、拙稿「成長のドラマとヒーローの論理」は、この場合の「燃え」のあり方について考察を行ったものであった。

「敵役」と「被害者」が同一である場合

 これも面白い変形だ。
 ジャンプ系のバトル漫画などがこれにあたる。
 たとえば宮下あきら『魁!!男塾』は、「被害者」不在のまま、ただただ「ヒーロー」と「敵役」のバトルを描く。
 しかし、「ヒーロー」と「敵役」のバトルだけを描いても、その戦いの意義もなにも見えてこない。そのため、「敵役」は実は「被害者」でした、というオチをつけることになる。
 「ヒーロー」の戦いは、「敵役」の打倒であると同時に、「敵役」=「被害者」の解放ないしは成長を促すものでもあったのだ、とするわけだ。これで、「ヒーロー」に「導き手・支え手」としての役割を伴わせ、「ヒーロー」の暴力性を正当化するのである。こういうわけで、負けた「敵役」はどんどん「ヒーロー」の仲間になっていく。出発点における「被害者」の不在が、このような結果を引き起こすのだ。
 ワンパターンにも背後に理由があるのだ。

「ヒーロー」と「敵役」が同一である場合

 「ヒーロー」と「敵役」が同一である場合はどうか。この構成では、「ヒーロー」と「敵役」が刺し違えて、そのキャラは自滅してしまうだろう。無理筋のような気もする。しかし、これを上手く使った作品がある。
 Leaf初期の傑作、『雫』と『痕』である。
 ただし、この二作品においては、「ヒーロー」と「敵役」が同一であるだけでなく、「被害者」とも同一であるところがポイントになっている。ということで、節を改めて論じてみたい。

「ヒーロー」と「敵役」と「被害者」が同一である場合

 『雫』とりわけ「月島瑠璃子」シナリオは興味深い。
 冒頭で「狂気」が提示される。これが「敵役」なのだが、最初はもちろん謎のままだ。
 依頼されて、長瀬祐介はこの「狂気」の探求へと向かうことになるのだが、彼そのものが心の奥底に鬱屈した「狂気」の萌芽を抱えている。すなわち、この段階では、彼は自らの「狂気」ゆえに、「敵役」としての「狂気」に魅かれている。ここでは「ヒーロー」が「敵役」に同一化してしまっているのだ。
 さて、ここに月島瑠璃子が登場する。「狂気」の縁にある壊れかけた少女に長瀬祐介は決定的な衝撃を受ける。
 そして、あの夕暮れのシーンを経て、満月のもとでの問いかけがなされる。ここが転換点だ。

 「瑠璃子さん、誰が君をこんなにしたの?どうして君はこんなになったの?」「誰かが君を傷つけた…。そうだろう?」

 そして、長瀬祐介は涙の雫をこぼすのである。
 ここだ。ここで初めて、「ヒーロー」は「被害者」を見出し、「狂気」を自らが対抗すべき「敵役」として認知したわけだ。綺麗な「ヒーローもの」の三項関係がピタッと整理されたことになる。
 さらに面白いのは、これが長瀬祐介自身の「狂気」からの救済をも意味するところである。

 「私が助けてあげる。長瀬ちゃんを助けてあげるよ」
 「…瑠璃子さん。僕を助けてよ。僕も、君を助けてあげるから…」

 「助けてよ」と言いつつ、実質的にはもう彼は瑠璃子さんの膝枕で救われている。自らも「被害者」であったことを自覚することにより、たんなる受身の「被害者」から「ヒーロー」へと成長する、という契機もあるわけだ。
 かくして、物語冒頭で突きつけられた混沌が鮮やかに整理された。あとはクライマックスに転がっていくだけだ。
 『雫』は驚異的である。ホラー、ミステリー、ジュヴナイルな成長物語といった様々な雰囲気を漂わせると同時に、きっちりと「ヒーローもの」の面白さをも展開しえている。劇中で絡み合った三要素を整理してみせる、という難度の高い曲芸に成功したからこそ、これが可能となったのだ。

 『痕』「柏木千鶴」シナリオも似たギミックを使っている。
 シナリオのラスト直前まで、柏木耕一は、「ヒーロー」であり、かつ、「敵役」であり、かつ、「被害者」である。
 彼は自らの内なる「暴力的な獣性の謎」を敵とする。つまり、「敵役」は自分自身である。また、それに苦しみ、救済を求めるのだから、彼は同時に「被害者」である。そして、自らその謎を解こうと行動していくのだから、「ヒーロー」でもある。
 つまり、「柏木千鶴」シナリオの基本骨格は、柏木耕一という主人公の内部だけで完結しているのだ。ここまでの物語は、自己探求型のミステリーということになる。
 さて、『痕』の面白さは、ラストのクライマックスで一気にこれを解体するところにある。
 クライマックスで、柏木耕一は気づくのだ。
 「敵役」は本当は自分とは別に外部の他者として存在していたことに。
 本当に苦しんでいた「被害者」は、愛する柏木千鶴だということに。そして、自分はこれまで彼女を「救い損ねていた」ことに。
 それは、自らに要求されているのは、ただただ眼前の「暴力的な獣性」を打倒し「愛する女性」を支え守護する「ヒーロー」の役割なのだ、ということに気づくことでもある。
 ここで、「ヒーロー」「敵役」「被害者」は、完全に別個のキャラによって分担されることになる。馬鹿馬鹿しいまでに痛快きわまりない典型的「ヒーローもの」状況が、ラストのラストでいきなり出現してしまうのだ。
 このカタルシスこそが「柏木千鶴」シナリオの最大のポイントである。
 「ヒーロー」が勝利するカタルシスではない。そんなありふれたものではない。そもそも「ヒーローもの」ではなかった物語が、一気に「ヒーローもの」に雪崩れ込むカタルシス。これこそが肝なのだ。

 さらに付け加えるならば、ニトロプラスの傑作『Phantom of Inferno』も上記の三要素を重ね合わせ、入れ替え、組み直すことで、ドラマをつくっている。当然のことながら、凡庸なライターがこんなことをやったら物語の統一は容易に崩れてしまうだろう。しかし、『Phantom』のように、コントロールが成功すれば、役割の入れ替わりは素晴らしい効果を挙げることになる。

おわりに

 「ヒーローもの」の形式を整理してみた。最初に述べたように、以上の形式とその展開は、あくまで私の経験から導き出したものである。反例はいろいろあるだろう。また、別のもっと説得力のある説明もあるかもしれない。
 ただ、そうであるにしろ、いろいろな「ヒーローもの」を読み解いて楽しんでいくためのそこそこ有効な一仮説くらいにはなりうるのでは、と思っているのだが、どうだろうか。

ページ上部へ