最後に、第9条をはじめとした平和憲法を守るために、私たちに求められていることは何でしょうか。

私は、人々が無関心であるのには、それなりの原因があると考えています。一つは、多くの日本人に共通する傾向(国民性?)という問題です。

その最たるものは、「既成事実に弱い」ということです。周辺事態法ができてしまえば、周辺事態法から議論が出発する。武力攻撃事態対処法ができてしまえば、もうそれでしかたがないと思う。国民保護法制ができてしまえば、それであきらめてしまう。こういう「既成事実に弱い」国民であるということが、一つ大きな根本にある問題だろうと思っています。

もう一つは、保守政治の働きかけ、政治運営が巧みであったということです。

1960年代には、安保闘争に懲りて、国民を高度成長という生活保守の層に引き込む演出をおこないました。1990年代には、軍事的国際貢献論をうたい、国連中心主義ということをいって、「国連に弱い国民」を軍事的な協力を肯定する方向にもっていきました。

そして、そういう「蓄積」の上に、いまや、第9条があったのでは、日本は国際社会が求める貢献はできないのだということにして、2000年からは国会に憲法調査会を設け、憲法「改正」の論点整理をすすめ、今日にいたる憲法「改正」あたりまえの雰囲気づくりに成功してきました。

しかし、そういうふうに保守政治の側に原因をすべて押しつけるというのではなく、私たちの側にも問題があったのではないか、ということを私は考えています。

敗戦後間もなくの間は、広範囲の国民の間に確かに存在していた「反戦平和」の感情に私たちが寄りかかって、あぐらをかいてしまってきたということがあるのではないでしょうか。

刻々と変わる状況、解釈改憲を次々と押しつけてくる政府に対して、私たちはそのつど憲法第9条の原点に立ち戻って有効な反撃をなしえたのか。第9条に関する解釈改憲に対して、ズルズルと相手側の土俵に乗せられてきたという現実があるのではないか。そうしたことについて、反省も含めて、私は私たちの側の対応に足りない面があったのではないかと思っています。

最近の端的な例は、スマトラ沖地震に対する大規模な自衛隊の出動です。それに対してはなんら批判が起こりませんでした。しかしいま明らかになっていることは、これは海外の新聞でははっきり書かれていますが、あれは日米が一体となっておこなった、そしてほかの国々を従えておこなった大規模な軍事演習でもあったということです。そのことは、さきに述べた2005年2月の2+2会議でも、「日米が中心になってほかの国々にも呼びかけた国際的な取り組み」だとはっきり書かれています。自衛隊の1000人近い出動というのは、そういう意味を持っていたのです。要するに、これから起こる戦争に対する予行演習でもあったわけです。そういうことを考えると、人道支援だからいいのだという議論で、私たちが批判力を弱めるというのはとんでもないことである、ということがおわかりになると思います。

それからもう一つは、国家にどう向き合うか、という問題です。国家ということを私が口にすると、もうそれだけでアレルギー反応を示される方が多い現実を、私は何度も経験しています。国家というのはうさんくさい、近寄らせたくない存在であると考える方が、憲法を守りたいと考える人々の間に多いという現実があります。

しかし、90年代以降に私たちが直面した課題は、国際問題に対して日本という国家がどのようにかかわるのかという問いかけだったわけです。そのときに、国家を遠ざけていた私たちの側からは、国際社会の問いかけに対して答えが出せるわけがなかった、ということです。

そうしたときに、古くさい国家観であっても、国家についての考え方を持っていた自民党が軍事的「国際貢献」論を出してきました。そして、そこでもう勝負ありなのです。国民の多くは、国家観の備えがない私たちが出す提案に対しては“現実味がない”として退け、古い国家観に基づくものであるにせよ、現実味のある政策として、軍事的「国際貢献」論を受け入れたということです。

そうであるとすれば、人々が私たちの訴え・呼びかけに冷淡であることにも、それなりの原因があるということを考えざるをえないということになります。

私たちの訴え・呼びかけに人々が積極的に反応するようになるために、私たちは何をすることが必要なのでしょうか。そのためにはまず、私たちの政策力、説得力を格段に強める必要があります。

まず第1に、国家観、私たちの国家観を身につけることです。

保守勢力の国家観とは、これまでにも時にふれてきたことですが、「国家を個人の上におく」国家観です。人権・民主主義も、国益や国家の安全のためには服従させるという国家観に基づいて改憲することを私たちに押しつけようとしています。

しかし、私たちが身につけるべき国家観は、「個人を国家の上におく」国家観です。「国家が私たちを規制する」のではなくて、「私たちが国家を規制する」のです。動かすのです。そういう国家観を持てば、私たちは何も国家を遠ざける必要はありません。そうした国家観に基づいて、国際関係の多くのことに、軍事ではなくて非軍事の面から日本をかかわらせていくことにすれば、いくらでも国民が納得する政策を提起することができるのです。

日本は今や大国であります。国家を考えるのも嫌ならば、大国などといったらなおのこと考えたくない、という人が多いのですけれども、大国であるということは、大国意識を吹かせるということではありません。日本がまぎれもない世界第2位の大国であるということを、事実として承認することから出発しなければならないということです。

国際関係の多くのことでは、大国はほかの中小国にはない大きな責任を負っています。ただ、責任の負い方が今までは暴力に訴える傾向が多かったために、大国というのはろくな存在ではないという受け止め方が強かったのです。

けれども、日本が平和憲法に基づいて、絶対に軍事力には訴えない、非軍事の分野で国際社会に貢献していくのだとなれば、そういう大国は国際社会に歓迎されるに決まっています。そういう大国観を私たちは持つ必要があります。

第2は、揺るぎない平和観を確立することです。

揺るぎない平和観とは、自衛隊は合憲であるとか、軍事的国際貢献もありとか、そういう平和観ではありません。現状肯定的な9条改憲反対派の人たちの平和観ではなくて、あくまでも9条の原点に返った、「力によらない」平和観を身につける必要があるということです。

そういう平和観を私たちが確立すれば、国際社会では「力による」平和観を代表するアメリカと、「力によらない」平和観を代表する日本が相対峙するという、すごい局面が現れます。「そんなこと、かなうわけはないではないか」と皆さんは心の中でつぶやかれるかもしれませんけれども、そうではありません。今の日本には、その気になればそれだけの力があるのです。アメリカでさえも一目も二目も置かざるをえない日本であるということを、私たちはもっと確信を持つ必要があると思います。

このようなことを話すと、アメリカとの間に対立軸を形成したら経済はどうなるかという質問が出されます。その質問に答える上でのいい例は、最近のアメリカとドイツの関係、アメリカとフランスの関係、アメリカとスペインの関係です。

フランス、ドイツ、スペインは、日本に比べれば一国としての経済力がもっと弱い国です。しかし彼らは、アメリカのやることに対して異議申し立てを敢然と行っています。そして、現実に何が起こったかといえば、第2期ブッシュ政権の第一の外交課題が西欧諸国との関係回復なのです。

ここに示されるように、日本が「力によらない」平和観でアメリカの「力による」平和観に対する対立軸を提起することは、国際社会に対してなんら騒動をもたらすものではありません。国際社会に対する異議申し立てではないのです。アメリカにとっては“メンツ丸つぶれ”ということになるでしょうが、それはそれだけであって、アメリカの経済にとってどうこうという問題ではないはずなのです。日本がそういうことをやったからといって、日米経済関係が、短期的にはともかく、本質的に険悪化することはないということは、私は確信を持っていえます。

世界はそれぐらいに国際的な経済相互依存関係が深まっていて、アメリカが日本をたたいたら、アメリカ自身も返り血を浴びるという状況になってしまっているということです。そういうことについては、確信を持っていいのではないかと思います。

当面の最重点課題である改憲阻止の闘いのためには、的を絞った多数派工作に全力をあげる必要があると思います。2つのことを提起します。

1つは、善意の改憲賛成派に的を絞るということです。善意の改憲賛成派とは、新しい人権やプライバシー権、環境権などを憲法に盛り込むならば、憲法改正には賛成だという人たちです。

再び2004年5月1日付の朝日新聞の世論調査の結果を検討してみましょう。

憲法全体をみて「改正する必要がある」に賛成が53%(対前回調査比+6%)でした。そして、憲法第9条を「変えない方がよい」に賛成が60%(対前回調査比-14%)です。

憲法全体をみて「改正する必要がある」とする53%を対象にして、「それはどうしてですか」という設問に対し、「第9条に問題があるから」は僅か7%で、「新しい権利や制度を盛り込むべき」が26%(回答者全体の13%強)という結果でした。新しい人権を憲法に盛り込むことに賛成の人たちが、「第9条を変えない方がよい」に加わっているために60%という数字になっていることが推察できます。

私たちがそういう人たちに説かなければならないことは、新しい人権が憲法に盛り込まれても、改憲派がつくる憲法は、新しい人権も含めたあらゆる人権を「国家の下に置く」ことを考えていますから、憲法に規定されてもなんの意味もないということです。そういうことがわかれば、今の憲法の下で新しい人権を憲法判例でいくらでも確立しているわけですから、改憲する必要はないという側に善意の改憲賛成派の人たちの議論を集約していくことは可能です。

そうすれば、この53%と60%という矛盾を解いて、53%の改憲賛成派が過半数を割り込む状況にもっていく手がかりがあるということです。

新しい人権とか環境権、プライバシー権を重視して運動しているNPOやNGOは、皆さんの周りにもたくさんあると思います。むしろ重なっている部分も多くあると思います。そういう人たちは、改憲問題に対してはとかく無関心であるという状況が多いと思うのです。ですから、ある意味では私たちの身の周りに、話しかける対象がかなり多数存在しているということです。

私たちは、とかくメディアの影響力とかそういうことに打ちひしがれてしまうのですけれども、そうではなくて、自分たちの身の周りにいる善意の改憲賛成派の人たちに話しかけていく。私たちも新しい人権を重視する点においては人後に落ちないわけですから、そういう私たちが憲法改悪のトリックというか、欺瞞性を説いていくという課題が大きく存在しているということを、考えていただきたいと思います。

もう1つは、核廃絶運動のエネルギーを改憲反対のエネルギーに結びつけましょうということです。

私は、2005年4月から広島平和研究所に赴任するので、前から内々思っていたことを最近突き詰めて考えるようになっています。それは、日本の核廃絶運動は、改憲阻止という問題を視野に入れた運動になっていない、という事実です。現に、広島県は被爆県であるにもかかわらず、改憲反対派の国会議員が一人もおりません。改憲賛成派が国会議員のすべてを占めています。これがまさに日本の核廃絶運動の矛盾を端的に示していると思うのです。

しかし、日本の核廃絶運動がなぜ国際的な運動のリーダーシップの役割をとることができたのかといえば、それは国際社会が「日本は憲法第9条を持った戦争をしない国」であると認めているからです。戦争をしない国である日本が核廃絶運動を強力に展開しているということに対する敬意なのです。その日本が戦争する国になってしまい、憲法第9条をなくしてしまったとき、その日本が引き続き国際的な核廃絶運動のリーダーシップをとるなどということは、夢のまた夢になるでしょう。そういう核廃絶運動と第9条との因果関係を、私たちはしっかり胸に刻み込むべきではないでしょうか。

核廃絶を唱える人は平和憲法を守る人でなければならない。そういう関係を痛切に自覚するようにならなければならないと思います。核廃絶のエネルギーは国民的に非常に規模が大きいですから、そういう人たちが改憲問題について立場を明確にするということは、とりもなおさず、改憲阻止に非常に大きな勢力となってなだれ込んでくることを期待できるということです。

私たちは、以上のようなことを保守勢力が改憲をねらう2007年までの間になんとかやり遂げ、改憲を阻止するに十分な国民的なエネルギーを蓄えなければなりません。

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