諏訪の森法律事務所 Lawyer SHIGENORI NAKAGAWA

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日本のエイズ・ポリシーとホモフォビア

1994年8月

第10回エイズ国際会議 アブストラクト・セッション 口頭発表原稿(原文英文)

私は、日本のエイズ政策におけるホモフォビアについて報告したいと思います。


1.日本の同性愛者の置かれた状況

日本には、同性どうしの性交渉を特別に禁止する法律は無い。しかし、日本の同性愛者たちは、社会的な偏見や誤った固定観念に苦しめられてきた。
自分が同性に対して性的にひかれるという事実に気づいた同性愛者の若者たちが、手にする辞書や百科事典には、「異常性欲」という言葉が書かれているのである。心理学や精神医学の教科書にしても、ほとんど全てが、同性愛は性的異常であるということを述べている。
文部省は、同性愛を性的逸脱あるいは性非行の一つとみなし、医学的な治療を促す記述を含む、教師用指導資料を刊行した。
テレビでは、常に「ホモ」は間違った固定観念に基づいて描かれ、嘲笑や侮蔑の対象となる。
日本の社会には、今まで、目に見える形での同性愛者の活動が無かった。同性愛者の若者には、自らを肯定的に捉えるチャンスが全く無かったのである。


2.「第一号患者」

そして、エイズ問題がやってきた。最初、エイズは、アメリカの同性愛者の奇妙な病気として紹介された。その後、血友病患者たちの感染が大きなスキャンダルになりかけた。しかし、そうならなかった。理由は以下のとおりである。

1985年の3月、アメリカ在住の日本人同性愛者が、厚生省のエイズ・サーベイランス委員会によって最初のエイズ患者と認定された。

しかし、この人物は、本当は第一号患者ではなかった。と言うのは、1984年9月には帝京大学病院の23人の血友病患者がHIV陽性と判明したし、厚生省も他の血友病患者の陽性の事実を既に確認していた。

同性愛者のケースは、厚生省によっておそろしい薬害の事実、日本の血友病患者の実に4割が非加熱血液製剤によってHIVに感染したという事実を隠蔽するために利用されたのである。


3.

この第一号患者のニュースは、社会に存在していたエイズに対する誤った理解を一層増大させることになった。すなわち、「エイズは、日本でも、同性愛者の病気であり、エイズの蔓延は同性愛者のせいだ」というのである。「同性愛者の病気」ということは、大部分の日本人にとってみれば、不道徳な行動による自業自得ということを意味し、人々は自分には感染危険は無いと考えた。「蔓延に責任がある」ということは、同性愛者はふしだらであるのみならず危険であること、公衆衛生上の重大な脅威であるといことを意味した。1988年5月、厚生省は、同性愛者をはじめとするいわゆる「ハイリスク・グループ」に対する大規模な疫学調査を計画した。日本赤十字社は、新たな問診票を導入した。この問診票は献血に先立って全ての献血者に渡されるものであるが、新しい問診票には、「同性愛者や両性愛者」の献血はお断りするということが書かれていた。

このようにして、エイズ問題の登場によって、日本の同性愛者たちは、未曾有の社会からの敵意に直面することとなった。


4.エイズパニックとエイズ予防法

1987年3月、厚生省は、エイズ予防法案を提案した。これは、日本じゅうを巻き込んだ「エイズ・パニック」の直後のことであった。神戸では、ひとりの人物がエイズで死亡した際、厚生省のエイズ・サーベイランス委員会によってプライバシーが必要以上に公表された。報道関係者が神戸に殺到し、彼女の名前を割り出し、実家の前にカメラの砲列を作った。そしてとうとう数人の記者は葬式にまで押し入り、彼女の顔写真がいくつかの週刊誌に掲載されてしまった。

提案された法律は、当局に対し、一定の条件のもとで陽性と判明した者の身許に関する情報を得る権限を与え、また、質問、指導、そして刑罰によって感染者を管理することを許すものであった。反面、この法律には、患者・感染者を支援する実効的な手段を何ら提供するものではなかった。そして、感染者であって他の者に感染させるおそれのある者については上陸を禁止することも提案された。


5.反撃

様々な分野の多数の専門家がこの法案に反対し、日本の同性愛者たちのいくつかのグループも、公然と集会を催し、国会議員に働きかけ、法案に反対する意見広告を掲載した。私が現在ともに活動している「アカー」というグループの数人のメンパーは、テレビに出て堂々と反対意見を述べた。


6.訴訟

1991年、アカーは東京都を相手に裁判を提起した。この裁判は、「東京都教育委員会が、アカーがある公共施設に宿泊することを禁止したのは違法・違憲」とするものであった。これは、日本で最初の同性愛者の市民権を問う裁判であった。 裁判をおこした当初は、アカーの中でも、家族に自分が同性愛者であることをカム・アウトしている者はごくわずかだった。

しかし、裁判が進む中で、アカーは辞書や百科事典の誤った記述を訂正させることに取り組み、1991年には、日本でもっとも有名な出版社の一つである岩波書店を含むいくつかの出版者に、同性愛のまちがった解釈を訂正させることができた。また、日本赤十字社は、問診票のなかの前述の表現を削除することとなった。


7.

アカーは、他の人々とともに、エイズ政策におけるホモ・フォビアにも取り組んでいる。
同性愛者嫌悪、偏見、あやまった理解はエイズ問題の専門家の間にも広く行き渡っている。専門家でも多く人が、性的指向と性行動との区別がはっきりつけられないのである。エイズサーベイランス委員会は、長い間、感染原因を示す際に同性愛という性的指向を表す日本語を用いてきた。異性愛者については、異性間の性的交渉を表す日本語を用いていたにもかからわず。そして、これは、昨年、委員会がアカーからの「同性間性的接触」という言葉を採用するようにという要求を受け入れるまで続いていたことである。東京都は、昨年の世界エイズデーの展示が行われた際、アカーがグループの正式名称を使うことを拒絶した。理由は、正式の名称には「ゲイ」「レズビアン」という言葉が含まれているからということであった。

しかし、最も根本的で深刻な問題は、日本の政府が同性愛者たちを感染やエイズの進行から守るうえで全く何もしてこなかったし、しようともしていないということである。異性愛者の間での感染が増加するにつれて、政府はエイズ問題について新たなスタンスをとるようになりより多くの金を予防活動のために使うようになった。しかし、そのほとんど全てが、一般向けのものである。つまり、異性愛者向けのものなのである。

アカーは、1986年のグループ結成以来、日本の同性愛者の盛り場である新宿で、アウトリーチ活動を行ってきた。1991年からは、毎年、「セーファー・セックス・キャンペーン」を行っている。それは、 1アウトリーチ活動、 2拡大TEL相談、 3イベント企画からなっている。

1994年について言えば、アカーのメンバーたちは、この地域にある同性愛者のためのバー全てを訪問し、マスターに対してコンドームの入った「セーファー・セックス・カード」を客に渡してほしい、「セーファー・セックス・コースター」を店で使ってほしい、店にポスターをはらしてほしい等といって歩いた。メンパーの大部分は20代前半であるが、彼らは勇敢にマスターやバーの客に話しかけるのである。彼らが催したパーティーでは、セーファー・セックス・ミュージカルが行われる。

アカーは、この一連のキャンペーンに対して、日本エイズストップ基金から財政的援助を受けることに成功した。


8.

日本のエイズ問題の歴史は以下のことを私たちに教えている。即ち、この分野におけるホモ・フォビアが日本のエイズ政策・施策の全体を遅らせ、歪ませ、ねじれたものにしてしまっている、ということである。

しかし、現在では、私たちは、この日本にもゲイ・ライツ・ムーブメント(同性愛者の市民権獲得をめざす運動)を持っている。自分の性的指向に誇りを持った同性愛者たちは、必ずや、他の様々な社会的少数者と力を合わせて、ホモ・フォビアや外国人嫌悪、セックス・ワーカー嫌悪(偏見)などなどを無くすために活動してゆくだろう。

私は、彼らの友人であること、そして彼らとともに闘っていることをとても誇りに思っている。



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