ーファミリー版ーよこはまの歴史3

    ーファミリー版ー よこはまの歴史 P3

  参考文献;横浜市「図説・横浜の歴史」 横浜市市民局「横浜市史」 横浜市教育委員会「平成十六年版・横浜の歴史」 学習研究社「図説・世界の歴史」 山川出版社「世界史研究」 あかね書房「世界の歴史」 ほか 関連サイト;かねさはの歴史(縄文時代)

…(U)縄文時代…

 世界の四大文明発祥の地では農耕や牧畜がはじまりました。
 日本では未だ野生の動植物を捕獲、採集しながら人々は集落をつくり土器を発明して竪穴住居に住むよう
になりました。
 横浜でもいくつもの集落跡が見つかっています。 


世 界  で は世界史略年表へ)

よ こ は ま  で は

略年表

 <農耕・牧畜がはじまる> 
 今から1万年前、地球は氷河期が終わって気候
が次第に暖かくなり安定すると、西アジアやア
フリカでは森林が草原に変わっていき、人類も
草原から食用になる野生植物を見つけて栽培
をするようになり、農耕が始まりました。
 やがて穀類や豆類を栽培し飼料とすることに
よって山羊や牛、豚を家畜として牧畜も行なわ
れるになりました。
 農耕や牧畜はメソポタミア地方でも盛んに行
なわれ、人々は一定の土地に集まって住むよう
になり、そこに住みついたシュメール人は神殿
を中心に都市をつくり青銅器を使い、文字を発
明して世界最古の文化を築きました。

 <古代文明の成立> 
 紀元前3000年頃までにはユーラシア、アフリ
カの沿岸や大河地域の肥沃な地帯に農耕や牧
畜が発達、特にナイル川、ティグリス・ユーフラ
テス川、インダス川、黄河地域はよく肥えた土
地に恵まれ文明の発祥地になりました。
                  (世界の文明発祥地はこちら)
−メソポタミア−
 ティグリス川とユーフラティス川に挟まれた
メソポタミアでは農業の発展と生産力の向上
に伴い商業と交易が盛んになり、豊かな経済力
によって村は町に、町は都市になり中心地の神
殿も大きくなっていきました。
 BC3000年頃にはシュメール人はメソポタミ
アに二十あまりの都市国家をつくりました。
 やがて都市国家の間でシュメール全体の支配
をめぐって争いとなり、さらに周辺の山岳民や
遊牧民の侵入を受けて各都市の勢力は衰え、ア
ッカド人のサルゴン一世により征服されまし
た。 
 BC1800年頃になるとセム系遊牧民アムル人
が大挙してメソポタミアに侵入して、バビロン
を都とする古バビロニア王国(バビロン第一
王朝)をつくり第六代の王ハンムラビの時、全
メソポタミアを統一しました。
 ハンムラビ王は運河の大工事を行なって治水
、かんがいを進めハンムラビ法典を制定して領
内の多民族の統一支配を行ないました。
 BC1690年頃ハンムラビ王が死ぬとバビロニ
ア王国では各地に反乱がおこり、王国は急に衰
えていきました。
 BC1595年には小アジア(現在のトルコ周辺)
に勢力をもったヒッタイトがメソポタミアに
侵入して鉄製の武器や戦車で襲撃してバビロ
ニア王国を滅ぼしました。
 一方北東からはカッシートが攻め込んで来
たためヒッタイトは小アジアにもどり、バビロ
ニアはその後約400年にわたってカッシートの
支配下におかれました。

−エジプトの統一−
 地中海と砂漠に囲まれたエジプトにも多くの
都市国家がつくられていました。
 BC3000年頃ナイル川上流の上エジプトのメ
ネスが下流の下エジプトを征服して統一国家
をつくりました。
 メネスは統一国家の王(ファラオ)となりメン
フィスを王国の首都にしました。以後エジプ
トは一時的に異民族の襲来や外国の支配を受
けたことはありましたが、BC525年にアケネ
ス王朝ペルシアに征服される迄は比較的安定
した統治が行なわれました。
 この間の繁栄した時代は古王国、中王国、新王
国に分けられます。(古代エジプト図はこちら)
 古王国(BC2686頃〜2181頃)では歴代の王たち
がピラミッドの建設に莫大な富を費やし、その
ために国の財政は苦しくなり王の権力は衰え
各地のノモス(村落)が独立しました。紀元前22
世紀頃テーベにおこった王家が再び全土を統
一して中王国(BC2050頃〜BC1786頃)が始まり
ましたが、BC1670年頃してきた遊牧民の
ヒクソスに征服されました。
 やがてヒクソスを撃退して新王国(BC1567年
頃〜1085年頃)が始まりましたが、この頃エジ
プトは大変栄えてその領土も最大となりまし
た。ツタンカーメンもこの時代の王です。
 BC12世紀頃から異民族や外国勢力の侵入な
どでエジプトの勢いは衰えはじめBC7世紀の
前半にはアッシリア軍が繰り返し攻め入りエ
ジプトを支配下におきました。
 その後第26王朝の下で一時エジプト人の独立
が回復されましたがBC525年にアケメネス朝
ペルシアの攻撃を受け、BC332年にはアレク
サンダー大王により征服されて古代エジプト
の歴史は幕を閉じました。

−オリエント(メソポタミア・エジプト)の統一−
 古くから商業民族として活躍し、鉱物資源を
求めて小アジアに進出していたアッシリア人
はヒッタイト人から鉄製武器と戦車戦争を学
んで大帝国を建設しました。
 バビロニアではBC13世紀にエラムの攻撃に
よりカッシート王朝が滅び動乱が続いていま
したが、周辺の国々を征服したアッシリアはカ
ッシート王朝が治めていたバビロニアを征服
し、更にパレスティナからエジプト迄を手に入
れBC671年頃オリエントの主要部分を統一し
て最初の世界帝国をつくりました。
 しかしその支配があまりにも弾圧的で苛酷で
あったため各地に反乱があいつぎBC612年ア
ッシリアは滅び新バビロニア、エジプト(第26
王朝)、リディア、メディアの四つの国に分裂し
ました。
 四つの国のうち最も勢力があったのは新バビ
ロニアでユダ王国を滅ぼし、ユダ王国の人々を
バビロニアへ移住させました。(バビロンの捕囚)
 分裂した古代オリエント世界の統一を回復し
たのはアケメネス王朝ペルシアです。
 アケメネス王朝ペルシアはBC550年頃メデ
ィアから独立して建国されました。アケメネ
ス家のキュロス二世によって樹立された王国
でBC546年にリディアを、BC538年に新バビロニ
ア、BC525年にエジプトを征服し全オリエント
を統一して、インドのインダス川流域から小ア
ジアにいたる大帝国になりました。
  (アッシリア・四王国・アケメネス王朝はこちら)     

−地中海文明の成立と盛衰−
 (エーゲ海文明)
 メソポタミア、エジプトの文明をあわせてオ
リエント文明といいますが、オリエント文明の
影響を受けてギリシァ周辺の地中海地域にク
レタ文明やミケーネ文明などのエーゲ海文明
が起こりました。
 BC2000年頃ギリシァの南、東地中海に浮か
ぶクレタ島の人々はエーゲ海の島々を支配し、
地中海沿岸の国々との交易で栄えクノッソス
宮殿や巨大な神殿、三〜四階建て住宅や水道設
備を持つクレタ文明を作りました。
 BC1600頃ギリシァ半島南部ではアカイア人
が小王国をつくりクレタ文明を滅ぼしミケー
ネ文明を作りました。ミケーネ文明が最盛期
を迎えたBC1200年頃北部からドーリア人が
攻め入りクレタ島をはじめエーゲ海の島々を
占領、王国を追われた人々は部族的な小グルー
プをつくって移動し、各地に混乱が続きました
 (ポリスの成立)
 BC800年頃からギリシァは各地にポリスと
呼ばれる都市国家が作られました。ギリシァ
の都市国家はギリシァ本土に百数十、植民市を
加えると千以上あったとされています。
 ポリスは独立した国家で普通数百から数千人
の市民を数える程度でしたがスパルタ(ドーリ
ア人がアカイア人を征服して作ったポリス)や
アテネ(貴族が中心となって作ったポリス)は
数万人の人々がいました。
 ポリスの発展はエーゲ文明を吸収してすぐれ
たギリシァ文化を生み出しました。
                       (コラム・古代ギリシァ文化)
 (ペルシャ戦争)
 アケメネス王朝ペルシャはリディア王国を滅
ぼした後、更に西へ進出して、小アジアのイオ
ニア都市国家を支配するようになりました。
 BC500年頃ペルシャの圧制にたいして民主
的なポリスを守ろうとの意識を高めたアテネ
がイオニアに援軍を送ったためペルシャはギ
リシャに侵入、トラキア、マケドニアを征服し
マラトンに上陸しました。アテネ軍はこれを破
り更にBC490年にはサラミス湾の戦いでもペ
ルシャ軍を破りイオニア都市国家も独立を回
復しました。(コラム・マラソン競技の由来)
 (アテネの民主制)
 ペルシャ戦争で勝利を収めたアテネでは武器
を買ってポリスのために戦ったり、サラミスの
海戦で軍艦のこぎ手となって活躍した市民の
発言力が高まり、民主派の指導者となったペリ
クレスの下で民主化が進められました。
 民衆の議決機関である民会が政治の最高機関
となり、アテネの18歳以上の全自由民男子が出
席しましたが女性や奴隷には選挙権が与えら
れていませんでした。
 ペリクレスはまた15年の歳月をかけてパルテ
ノン神殿を完成、アテネの黄金時代を築きまし
た。
 (ペロポネソス戦争)(合戦図はこちら)
 アテネとスパルタはギリシャ世界を二分する
大勢力となり対立を深めていきましたが、BC
431年両者の間でペロポネソス戦争が始まりま
した。アテネではペストの影響で全人口の四
分の一が死んでペリクレスも病死、戦いはスパ
ルタ側の勝利に終わりましたがスパルタも他
のポリスを支配できずペルシャやテーベとの
争いで衰え、ギリシャのポリスも次第に衰退し
ていきました。

−中国の古代文化−
 (黄河文明)
 BC6000〜5000年頃から黄河の中下流域の住
民は農耕を始めて穀物を栽培し、家畜を飼い黄
河文明を作りました。黄河文明はBC5000〜40
00年頃の彩陶文化とBC3000〜2500年頃の黒
陶文化に分けられます。
 (殷王朝)
 黒陶文化時代の後期になると黄河の中、下流
に邑(ゆう)と呼ばれる集落が広く形成される
ようになりました。
 邑は次第に発展して強力な邑の首長は弱小
な邑を支配する王となります。
 BC1600年ころ最古の王朝「殷朝」が成立しま
した(史記によれば「殷」の前に「夏」があったと
されていますが確認されていません)。
 殷の代々の王は占いによって神の意志を聞き
それによって万事を決定する政治を行ないま
した。甲骨文字はこの占いの内容を記したもの
です。
 殷代後期には青銅器が高度に発達して祭具や
武器として使われましたが、これらは殷王の権
力と財力の大きさを示しています。紀元前11世
紀、殷に暴君として名高い紂王が現れ、東方に
遠征を重ねるなどして国政が混乱、人々の信頼
を失いBC1027年周の武王に敗れ、殷は滅亡し
ました。
 (周王朝)
 周王朝は都を鎬京(こうけい、現在の西安付近
)におき、諸侯(王の一族や戦さに功績のあった
者)に領地を与えて世襲させ各地を統治させま
した。
 やがて北西から遊牧民の犬戎の侵入を受け、
周は都を洛邑(現在の洛陽)にうつし東周の時
代になりましたが、地方の諸侯は土着の勢力と
結びつき自立する傾向を強め、中原(黄河中下
流の平野部)に割拠して互いに争う乱世=春
秋時代となりました。
 (春秋時代)
 春秋時代ははじめ斉、宋、晋、などの中原の諸
侯と南方の強国、楚が対立していましたが長江
の下流に呉や越が勢力を増すと楚はかっての
勢いを失います。
 (戦国時代)(地図はこちら)
 BC403年、中原の強国だった晋は家臣によっ
て国を奪われ韓、魏、趙の三国に分割されまし
た。戦乱は一層激化し弱肉強食の争いの結果弱
体化した東周と斉、楚、秦、燕、韓、魏、趙の七国
が残りました。
 春秋時代から戦国時代にかけて、各国君主が
混乱した時代を乗り切る為の方策を求め、一方
国内では活力のある空気が生まれ>諸子百家と
呼ばれる多くの思想家や学派が生まれ、その
後の中国文化に大きな影響を与えました。

−インドの古代文明−
 (インダス文明)
 BC2500年頃インドのインダス川流域には都
市文明がおこりました。
 インダス川中流域のハラッパーと下流域のモ
ヘンジョ=ダロが代表的な都市遺跡ですが都市
は碁盤の目のように大小の道路が通じており、
その一角には宗教的な儀式に利用された巨大
な浴場もありました。都市の住民たちは大麦、
小麦なやいろいろな果物、綿などを栽培してい
ました。
 BC1700年頃高度な文明を誇った都市は衰え
廃墟となってしまいました。その原因はインダ
ス川の洪水や急激な地殻変動などとされてい
ますが正確なことは分かっていません。
 (アーリア人の侵入)(地図はこちら)
 BC1500年頃インダス川流域に中央アジアの
遊牧民アーリア人が侵入してきました。アー
リア人の部族集団は次々と北部インドに移住
して先住民を征服しながら定着していきまし
た。この過程でできたのがカースト制です。
 アーリア人の一部はBC1000年頃から東方へ
の移動を開始して、肥沃なガンジス川流域の各
地に村落をつくり農耕生活をして定着しまし
た。BC800年頃鉄器の使用がはじまるとガン
ジス川中流域の森林地帯の開拓が進み、アーリ
ア人の活動の中心はガンジス川中下流地域へ
と移ります。部族制がくずれ王制による小国家
がガンジス川流域に広がり、紀元前六世紀頃に
は北インドに主要十六大国といわれる国々が
出来ました。
 やがてその中のマガタ王国が勢力を強め、強
国コーサラを破ってガンジス川中下流地域を
治めました。
 (釈尊の出現)
 ガンジス川中下流の新興都市で活動していた
人々の間にはアーリア人によってもたらされ
たバラモン教に反発して、新しい宗教を待ち望
む人も多く、このような時に現れたのがジャイ
ナ教を説いたヴァルダマーナと仏教を説いた
ガウタマ=シッダールタです。 仏教はその後数
百年を経て世界各国に広まりました。
        (詳細は神社仏閣ミニ辞典・仏教の部へ)




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 地球の気候もおよそ2万年前をピークに次第
に暖かくなり、それと共に日本列島の自然も
大きく変わりました。海面の上昇により数多
くの入り江が出来、森林の様子も現在に近い
ものになります。

<土器と弓矢の出現>
 こういった自然の変化に対応して人々は土
器をつくり、弓矢を発明しました。
 現在日本で最も古いと考えられている土器
は隆線文土器(丸底の単純な深鉢)ですが横浜
では鶴見川上流の緑区内で五ヶ所の遺跡から
隆線文土器が発見されています。
隆線文土器(緑区・花見山遺跡)
緑区の花見山遺跡からは矢の先につけたと 思われる三角形の石鏃が出土、旧石器時代の 槍から弓矢への交代のあとが見られます。 <貝 塚ができる> 氷河期に低下していた海面はその後気候の 温暖化とともに次第に上昇して縄文時代前 期(約6000年前)には現在より3〜4メートも 高くなりました。(縄文海進) この結果市内の各河川の河口部は奥深く迄 海が浸入し古鶴見湾、古帷子湾、古大岡湾、古 磯子湾などが誕生しました。 そしてこれらの海を望む台地では入り江で 貝や魚を取って暮らす人々が生活して、貝塚 がつくられました。
<集落=ムラの成立> 旧石器時代以来の転々と移動するくらしが 縄文時代には次第に一定の場所に留まるよ うになり生活の拠点としてのムラが誕生し ます。 ムラには竪穴式住居をはじめ、共同作業場 や倉庫などが建ち中央には広場や墓地など がつくられました。 集落は縄文時代中期(約5000年前)には最盛 期を迎え、その規模も拡大します。緑区池辺 町の三の丸遺跡には270戸あまりの竪穴住居 跡のほか20棟以上の掘立柱建物跡も発見さ れましたが、この中には柱が二重になった長 さ16メートルもある巨大なものがあり、ムラ の集会所や作業所、あるいは倉庫などに使わ れたものと考えられています。
縄文時代の集落(緑区・小丸遺跡)
<縄文人の食生活> この時代の日本はまだ農耕や牧畜による生 産がなく狩猟や漁労、木の実等の採集によっ て食料を得ていましたが獲物や木の実など の種類は多くバラエテイに富んだ食生活を していたようです。 −採集− 縄文時代の遺跡からは石皿、たたき石、磨石 などが多く出土しています。この時代の人々 はドングリやトチ、クリ、クルミなどの実を 砕いて粉にして、それをだんごにして煮たり 焼いたりして食べていました。 横浜では港北区東方町向原遺跡でクルミの 殻、緑区池辺町小丸遺跡ではクヌギやトチの 実などが炭化して貯蔵穴などに残っている のが見つかっています。
縄文の木の実(港北区・古梅谷遺跡)
−漁労− はじめは釣ったり突いたりして魚をとって いた人々もやがて魚網をつくり一度に多く の魚をとるようになります。この時代に魚 網が使われたことは縄文土器の文様に細い 縄目が使われていたことや、一緒に水に浮く 軽石でつくった浮子(うきこ)や錘(おもり) がまとまって出土していることからもわか ります。磯子区の三殿台遺跡や南区の清水ヶ 遺跡からは浮子が、緑区の大熊仲町遺跡や三 の丸遺跡、港南区の港南台遺跡からも石や土 器の破片でつくられた錘が見つかっていま す。
1〜4は石錘、5.6は管状土錘、 7〜9は土器片錘
−狩猟− 貝塚に残された動物の骨から縄文人の狩の 獲物を知ることができますが、最も多いのは シカとイノシシで、外にノウサギ、タヌキ、ア ナグマやキツネをはじめガン、カモ、キジな どの鳥類も含めてその種類は多かったよう です。 これらは食料としてはもちろん、毛皮や骨、 角などが生活用品やその材料として利用さ れました。 狩猟には弓矢とともに猟犬も利用されてい たようで港北区の菊名貝塚からは二十数頭 分の犬の骨が出土しています。 また縄文時代早期の終わり頃(約7000年前) には落とし穴も作られ緑区や旭区など多摩 丘陵を中心として一つの台地に多いところ では100個以上も設けられイノシシやシカな どを捕らえていたと思われます。
落とし穴(港北区・権田原遺跡)
穴の底には2〜3個の孔があり獲物が逃げないように 木か竹の尖らせたものを立てたものと考えられてい ます。


BC9000年頃
 弓矢や土器
が使用される
   (花見山)

BC7000年頃
 竪穴住居の
ムラや貝塚が
形成される
     (大塚)




BC4000年頃
 海進が始ま
り多数の貝塚
集落が古鶴見
海岸に成立す
る (南掘西ノ
    谷貝塚)


BC2500年頃
 大規模な定
型集落が完成
する(三の丸)

BC2000年頃
 外洋性漁労
が盛んになる
(称名寺貝塚)

BC1500年頃
 湿地に木道
が出来る
   (古梅谷)
 定型的集団
は減り呪術品
が増える
   (華蔵台)

BC500年頃
 集落が激減
し東北、中部
地方の影響が
強まる(杉田、
      桂台)