南北朝正閏論


 古くから南北朝時代に関して南朝と北朝のどちらかが正統の朝廷かという議論がありました。

 北畠親房の「神皇正統記」や小島法師の「太平記」は後醍醐天皇の南朝の立場に立ち、梅松論(作者不詳)は北朝の立場で書かれましたが、江戸時代には儒教の大義名分論に基づき「君徳ある天子にこそ正統が伝わる」という理念から徳川光圀の「大日本史」や頼山陽の「日本外史」は南朝が正当であるとしました。
 
 幕末には南朝正統論は反幕府的なものとなり、1863(文久3)年には足利尊氏・義詮・義満三代の木像の首が賀茂の三条河原に捨てられるという「足利氏木像梟首事件」が起きました。

 
 1911(明治44)年当時の小学校の国定教科書に「南北朝時代」と書かれ南朝と北朝が同等に扱われていたのが議会で取り上げられ論議の末、明治天皇の決済により南朝が正統とされ教科書は「吉野朝時代」になりました。

 昭和になって軍部の台頭につれて足利氏は逆賊とされるようになりましたが、戦後はどちらかが正当ということはなく、二つの朝廷があったとして扱われています。


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