Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ とよひろ うたがわ 歌川 豊広浮世絵師名一覧
〔 ? ~ 文政12年(1829)12月21日・享年未詳〕
   〈没年月日は『見ぬ世の友』巻16および『東京掃苔録』の文政12年12月21日による。但し『馬琴日記 第二巻』文政12年   12月21日の記事に「豊広事、昨夜病死いたし候」とあり実際は20日かもしれない。文政12年の項参照〉  ※①〔目録DB〕〔国書DB〕:「日本古典籍総合目録データベース」「国書データベース」〔国文学研究資料館〕   ②〔早稲田〕  :『早稲田大学所蔵合巻集覧稿』〔『近世文芸研究と評論』三五~七〇号に所収〕   ③〔早大集覧〕 :『【早稲田大学所蔵】合巻集覧』〔日本書誌学大系101・棚橋正博編集代表〕   ④〔早大〕   :「古典籍総合データベース」早稲田大学図書館   ⑤〔東大〕   :『【東京大学/所蔵】草雙紙目録』〔日本書誌学体系67・近世文学読書会編〕   ⑥〔書目年表〕 :『【改訂】日本小説書目年表』   ⑦〔中本型読本〕:「中本型読本書目年表稿」   ⑧〔江戸読本〕 :「江戸読本書目年表稿(文化期)」    〔漆山年表〕 :『日本木版挿絵本年代順目録』    〔狂歌書目〕 :『狂歌書目集成』    「江戸絵本番付データベース」早稲田大学演劇博物館「デジタル・アーカイブ・コレクション」    『稗史提要』比志島文軒(漣水散人)編    『黄表紙總覧』棚橋正博著・日本書誌学系48    『江戸小咄辞典』「所収書目解題」武藤禎夫編    『噺本大系』  「所収書目解題」武藤禎夫編     角書は省略。◎は表示不能文字  ☆ 天明七年(1787)    ◯「絵暦年表」(本HP・Top)(天明七年)   ③「豊廣画〔未〕印」(娘道成寺 花子・所化 釣り鐘)2-3/70     賛なし〈釣り鐘に大の月〉  ☆ 天明八年(1788)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(天明八年刊)    歌川豊広画(天明八年、此年北尾重政、遠山龍耆斎、胡燕、歌川豊広等共画の春画絵暦あり)    ☆ 寛政五年(1792)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(寛政五年刊)    歌川豊広画『拾三番狂歌合』一冊 一柳斎歌川豊広画 ふし松嫁々序 高須惣七板    ◯「絵入狂歌本年表」〔目録DB〕(寛政五年刊)    歌川豊広画     『狂歌みちのくの紙』一冊 一柳斎画 待合ひさし編 高須惣七板    『十三番狂歌合』  一冊 歌川豊広画    ☆ 寛政七年(1795)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(寛政七年刊)    歌川豊広画『狂歌三十六歌仙』一冊 歌川豊広画 窓村竹選 高須惣七板    ◯「絵入狂歌本年表」〔狂歌書目〕(寛政七年刊)    歌川豊広画『狂歌三十六歌仙』一冊 歌川豊広画 窓村竹撰 高須総七板    ☆ 寛政十年(1798)    ◯『噺本大系』巻十三「所収書目解題」(寛政十年刊)    歌川豊広画『鶴の毛衣』(署名なし)桜川慈悲成序(板元名なし)     〈歌川豊広作の小咄「物しり顔」一作が入っている〉    ☆ 寛政九年(1797)    ◯「絵暦年表」(本HP・Top)(寛政九年)   ⑧「豊廣画」Ⅳ-17「エンヤコラ」(地固め用の梯子櫓の図)    「ぬけたのはよしに小」〔丁巳大小〕朱印    〈十三ある梯子の桟(横棒)のうちが梯子の幅よりぬけた(出た)桟のところを小の月とする〉  ☆ 寛政十一年(1799)    ◯「絵暦年表」(本HP・Top)(寛政十一年)   ②「豊廣」(菅原道真梅見)1-11/28〈大小表示不明、歳旦の配り物か〉    「酒宴遊興」狂歌賛    ◯『噺本大系』巻十三「所収書目解題」(寛政十一年刊)    歌川豊国・歌川豊広画『腮の掛金』署名「豊国画」「豊広画」桜川慈悲成編(板元名なし)    〈「見立」という小咄が歌川豊広作として入っている〉    ☆ 寛政十二年(1800)  ◯「国書データベース」(寛政十二年刊)   ◇黄表紙    歌川豊広画『旧土産吾妻錦絵』豊広画 猶錦 西宮板    ◯「咄本年表」〔目録DB〕(寛政十二年刊)    歌川豊広画『木の葉猿』歌川豊広画 桜川慈悲成    ☆ 寛政年間(1789~1801)
 ◯『浮世絵考証(浮世絵類考)』〔南畝〕⑱447(寛政十二年五月以前記)  〝豊広 張まぜ、小サキ一枚絵、墨絵などかけり〟    ◯『古今大和絵浮世絵始系』(笹屋邦教編・寛政十二年五月写)    (本ホームページ・Top「浮世絵類考」の項参照)
   「歌川派系図」    ☆ 寛政十三年(享和元年・1801)
 ◯『稗史提要』p396(寛政十三年刊)   ◇黄表紙    作者の部 京伝 楚満人 慈悲成 馬琴 三馬 一九 傀儡子 可候 和樽 竹塚東子 香保留         福亭三笑 玉亭     画工の部 重政 可候 豊国 春亭 子興 歌川豊広  ◯「国書データベース」(享和元年)   ◇黄表紙    歌川豊広画『敵討梅之接』「豊広画」南杣笑楚満人 泉市板    ◯『噺本大系』巻十三「所収書目解題」(寛政十三年刊)    子興画『滑稽好』桜川慈悲成編(歌川豊広名の「女郎」という小咄が入っている)  ☆ 享和元~二年(1801~02)
 ◯『一筆斎文調』(「早稲田大学演劇博物館所蔵 芝居絵図録1」・1991年刊)    〈一筆斎文調の七回忌が六月十二日、柳橋の万八楼で行われた。その時の摺物に、当日席書に参加したと思われる絵師     たちの絵が添えられている。絵師は次の通り〉      「豊廣画・堤孫二筆・豊国画・春秀蝶・寿香亭目吉筆・画狂人北斎画・歌麿筆・雪旦・春英画」       〈この摺物には刊年がない。ただ北斎が「画狂人」を名乗っていることから、ある程度推定が可能のようで、『浮世絵     大事典』の項目「一筆斎文調」は「享和元年~二年(1801~02)頃のもの」としている。それに従った。なお摺物の     本文は本HPの「一筆斎文調」か「窪俊満」の項を参照のこと)    ☆ 享和二年(1802)
 △『稗史億説年代記』(式亭三馬作・享和二年)〔「日本名著全集」『黄表紙二十五種』所収〕   〝草双紙の画工に限らず、一枚絵の名ある画工、新古共に載する。尤も当時の人は直弟(ヂキデシ)又一流あ    るを出して末流(マタデシ)の分はこゝに省く。但、次第不同なり。但し西川祐信は京都の部故、追て後編    に委しくすべし    倭絵巧(やまとゑしの)名尽(なづくし)     昔絵は奥村鈴木富川や湖龍石川鳥居絵まで 清長に北尾勝川歌川と麿に北斎これは当世    歌川一龍斎豊春  豊国  豊広 (他の絵師は省略)〟
   『稗史億説年代記』 式亭三馬自画作 (早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)    ◯『稗史提要』p398(享和二年刊)   ◇黄表紙    作者の部 京伝 楚満人 馬琴 三馬 一九 新好 通笑 馬笑 傀儡子 石上 慈悲成 感和亭鬼武         木芽田楽 一麿    画工の部 重政 豊国 歌丸 豊広 長喜 春喬 菊丸    ◯『黄表紙總覧』後編(享和二年刊)〔 〕は著者未見、或いは他書によるもの、または疑問のあるもの)    歌川豊広画    『虚空太郎武者修行咄』「豊広画」南杣笑楚満人 泉市板    『綿温石奇効報条』  「豊広画」三馬     泉市板    『多羅福長寿伝』   「豊広画」樹下石上   泉市板    『一粒撰噺種本』   「豊広画」慈悲成    西村屋板    『敵討松寄生』    「豊広画」南杣笑楚満人 泉市板    『告子之艶男』    「豊広画」南杣笑楚満人 泉市板    『敵討時雨友』    「豊広画」南杣笑楚満人 西村屋板    〔七福今年咄〕    「豊広画」桜川慈悲成  西村屋板    『文覚一代記』    「豊広画」南杣笑楚満人 榎本屋板    『封鎖心鑰匙』    「豊広画」三馬     西宮板    『舎弟讐討』     「豊広画」南杣笑楚満人 泉市板     〈『虚空太郎武者修業咄』の後編〉    ◯「咄本年表」(享和二年刊)    歌川豊広画    『一粒撰噺種本』桜川慈悲成作(板元名なし)〔小咄〕     『七福今年咄』 歌川豊広画 桜川慈悲成作 ①    ☆ 享和三年(1803)
 ◯『稗史提要』p399   ◇黄表紙(享和三年刊)    作者の部 京伝 楚満人 馬琴 三馬 一九 可候 鬼武 三笑 石上 虚呂利 板本舎邑二         楓亭猶錦 萩庵荻声 徳永素秋 薄川八重成    画工の部 重政 豊国 可候 豊広 長喜 一九 春亭 秀麿 一九門人ゑい女    ◯『黄表紙總覧』後編(享和三年刊)〔 〕は著者未見、或いは他書によるもの、または疑問のあるもの)    歌川豊広画    『五人揃目出度娘』「豊広画」  南杣笑楚満人 泉市板    『福来雀金出来秋』「豊広画」  樹下石上   泉市板    〔◎如来万八縁起 〔歌川豊広画・式亭三馬作・泉市板〕     〈◎は「言+妄」備考、新板目録によるも未刊とする〉    〔紅破皿南京焼継〕〔歌川豊広画・式亭三馬作・泉市板〕     〈備考、新板目録によるも未刊とする〉    『鎌倉街道女敵討』「豊広画」  樹下石上   西宮板    『旧土産吾妻錦絵』「豊広画」  ゆうきん   西宮板     〈前書『報讐四万物語』の後編〉    『酬冦幡州皿屋敷』「豊広画」  徳永素秋   西宮板     『敵討巌間鳳尾艸』「豊広画」  楚満人    西村屋板    『後編巌間之喬木』「豊広画」  南杣笑楚満人 西村屋板      〈前書『敵討巌間鳳尾艸』の後編〉    『報讐四万物語』 「豊広画」  楓亭猶錦   西宮板    『讐討梛葉山』  「豊広画」  南杣笑楚満人 泉市板    『巌窟出世談』  「歌川豊広画」南杣笑楚満人 泉市板    『敵討安積車』  「歌川豊広画」南杣笑楚満人 泉市板    『敵討裡覩錦』  「豊広画」  南杣笑楚満人 泉市板    『敵討桔梗原』  「豊広画」  十返舎一九  村田屋板    『仇敵碪打手』  「豊広画」  南杣笑楚満人 岩戸屋板  ◯「国書データベース」(享和三年)   ◇黄表紙    歌川豊広画    『阴兼阳珍紋図彙』歌川豊広画 曲亭馬琴作 鶴屋板     〈『黄表紙總覧』は北尾重政画とする〉    『果報寝物語』 「豊広画」  福亭三笑作 泉市板    ◯「咄本年表」〔目録DB〕(享和三年刊)    歌川豊広画『遊子戯語』歌川豊広画 桜川慈悲成作    ◯『滝沢家訪問往来人名録』 上p48(曲亭馬琴記・享和三年頃?)   〝当時類焼ニ付 西久保【あたこのうしろ 天とく寺先 光明寺の先】泉光寺門番同居 今芝片門前町    豊広〟    ☆ 享和年間(1801~1804)
 ◯『増訂武江年表』2p27(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (「享和年間記事」)   〝江戸浮世絵師は、葛飾北斎辰政(始め春朗、宗理、群馬亭、後北斎戴斗、又為一と改む)、歌川豊国、    同豊広、蹄斎北馬、雷洲(蘭画をよくす)、盈斎北岱、閑閑楼北嵩(後柳居)、北寿(浮絵上手)、    葵岡北渓〟    ☆ 文化元年(享和四年・1804)     ◯「絵本年表」(文化元年刊)    歌川豊広画〔漆山年表〕    『福鼠尻尾太棹』二冊 歌川豊広画 桜川慈悲成著〈〔目録DB〕は黄表紙とする〉    『播州舞子濱』 二冊 画図東武歌川豊広 十返舎一九著 近江屋与兵衛他板〈〔目録DB〕は読本とする〉    歌川豊広画①    『絵本東わらは』二冊 歌川豊広画 南仙笑楚満人戯言 和泉屋市兵衛板    『絵本東物詣』 二冊 歌川豊広画 南仙笑楚満人戯言    ◯『稗史提要』p401   ◇黄表紙(享和四年刊)    作者の部 京伝 楚満人 石上 馬琴 一九 東子 赤城山家女 待名斎今也    画工の部 重政 豊国 春亭 豊広 長喜 月麿 北岱    ◯『黄表紙總覧』後編(享和四年刊)    歌川豊広画    『妻の復冦千疋牛』「豊広画」    南杣笑楚満人 西宮板    『前編敵討桔梗原』「豊広画」    十返舎一九  村田屋板    『後編敵討桔梗原』「豊広画」    十返舎一九  村田屋板    『小夜中山霽啼碑』「豊広画」    曲亭馬琴   鶴屋板     〔名代のあぶらや〕「哥川豊広画」  三馬作    虎屋板    〔敵討名誉一文字〕「豊広画」    竹塚東子   板元不明    〔酒餅論◎度茶話〕〔歌川豊広画・南杣笑楚満人〕  泉市板    『敵討長太郎柳』 「豊広画」    南杣笑楚満人 西村屋板    『蓮の若葉前編』 「豊広画」    十返舎一九  西村屋板    『仇敵意写絵』  「豊広画」    南杣笑楚満人 泉市板    『敵討春手枕』  「豊広画」    待名斎今成  泉市板     『犀崕緑之林』  「豊広画」    十返舎一九  西村屋板    〔敵討松吹嵐』  〔歌川豊広画・南杣笑楚満人〕  西村屋板     〈備考、新板目録より豊広画・楚満人作とする〉    『敵討思藤笠』  「豊広画」    南杣笑楚満人 松安板    『敵討情日傘』  「ゑし歌川豊広画」南杣笑楚満人 松安板     〈前書『敵討思藤笠』の後編〉    『仇撃錦誰袖』  「豊広画」    樹下石上   西宮板    『敵討思乱菊』  「豊広画」    面徳斎夫成  榎本屋板    『乱菊思敵討』  「豊広画」    面徳斎夫成  榎本屋板    『冬雪物語』   「豊広画」    南杣笑楚満人 泉市板    『宝蔵開』    「豊広画」    樹下石上   泉市板  ◯「国書データベース」(文化元年・享和四年)   ◇黄表紙    歌川豊広画『敵討親子塚』「豊広画」戯作南杣笑楚満人 泉市板    ◯「読本年表」〔目録DB〕(文化元年刊)    歌川豊広画    『兵太郎仇討話』歌川豊広画 十返舎一九作〈分類は「実録」〉    『播州舞子浜』 歌川豊広画 十返舎一九作    ◯『享保以後 江戸出版書目 新訂版』p371(朝倉治彦、大和博幸編・平成五年刊)   〝享和四年甲子正月    絵本播州舞子浜 彩色摺 全二冊 重田重兵衛(ママ)作 歌川豊春(ママ)画 板元売出し 近江屋与兵衛    同二十一丁    右之書文化元年五月十八日、北番所ニおゐて彩色板絶板被仰付、已来墨摺斗ニ而商売可致旨被仰渡候〟    〈「享和四年甲子正月」とは売り出し年月。「重田重兵衛」は十返舎一九とあるべきところ。一九が重兵衛と称した     ことがあるのだろうか。また歌川豊春も豊広が正しい。北町奉行所は彩色摺を贅沢として絶板にしたのである。国     文学研究資料館の「日本古典籍総合目録」は十返舎一九作・歌川豊広画の読本『播州舞子浜』とする〉    ◯「読本年表」〔目録DB〕(享和四年刊)    歌川豊広画    『兵太郎仇討話』歌川豊広画 十返舎一九作〈分類は「実録」〉    『播州舞子浜』 歌川豊広画 十返舎一九作    ☆ 文化二年(1805)
 ◯『稗史提要』p403(文化二年刊)   ◇黄表紙    作者の部 京伝 楚満人 石上 馬琴 三馬 一九 素速斎 東紫 新好 鬼武 萩声 赤城山人          面徳斎夫成    画工の部 重政 豊国 豊広 月麿 石上    ◯『黄表紙總覧』後編(文化二年刊)〔 〕は著者未見、或いは他書によるもの、または疑問のあるもの)    歌川豊広画    『敵討嵓手の梅香』前編 「豊広画」  竹塚東子   西宮板    『敵討嵓手の梅香』後編 「豊広画」  竹塚東子   西宮板    『金剛力士武道礎』前編 「豊広画」  守信亭    西宮板     『金剛力士武道礎』後編 「豊広画」  守信亭    西宮板    『悟迷惑心之鬼武』   「豊広画」  感和亭鬼武  榎本屋板    『敵討金糸之詰縫』前編 「歌川豊広画」面徳斎夫成  榎本屋板    『後編金糸之詰縫』後編 「豊広画」  面徳斎夫成  榎本屋板    『五風十雨狐娶入』   「豊広画」         西村屋板    『復讐阿姑射之松』前編 「豊国画」  曲亭主人   鶴屋板    『復讐阿姑射之松』後編 「豊国画」  曲亭馬琴   鶴屋板    『茶漬原御膳合戦』   「豊広画」  萩庵荻声   岩戸屋板    『龍田山女白浪』 前編 「豊広画」  楚満人    西村屋板    『龍田山女白浪』 後編 「豊広画」  南杣笑楚満人 西村屋板    『嬲訓歌字尽』 「一柳斎歌川豊広」  三馬     泉市板    『三組盃初編』  初編 「豊広画」  南杣笑楚満人 泉市板    『中編三組盃』  中編 「豊広画」  南杣笑楚満人 泉市板    『三編三組盃』  三編 「豊広画」  南杣笑楚満人 泉市板    『篠川鵆前編』  前編 「豊広画」  南杣笑楚満人 泉市板    『篠川鵆後編』  後編 「豊広画」  南杣笑楚満人 泉市板    『都印籠前編』  前編 「豊広画」  南杣笑楚満人 泉市板    『後編都印籠』  後編 「豊広画」  南杣笑楚満人 泉市板    『親讐胯膏薬』     「豊広画」  三馬     西宮板    『敵討梅与桜』     「豊広画」  南杣笑楚満人 西村屋板  ◯「国書データベース」(文化二年)   ◇黄表紙    歌川豊広画『早替平気之景清』歌川豊広画 魚堂主人新好作 岩戸屋板  ☆ 文化三年(1806)    ◯「絵暦年表」(本HP・Top)(文化三年)   ⑧「豊廣画」墨摺 Ⅴ-12「和藤内」(虎退治の場面)    「下手工匠」狂歌賛〈著者によると和藤内が掲げた「大神宮」の中に大の月がある由〉   ⑧「豊廣画」錦絵 Ⅴ-13「和藤内」(大首役者絵)標題「文化三人で丙寅拳を打図」    「桜川甚幸戯作」戯文〈戯文中に大の月を織り込んでいる〉  ◯『稗史提要』p404   ◇黄表紙(文化三年刊)    作者の部 京伝 楚満人 馬琴 一九 石上 鬼武 慈悲成    画工の部 重政 豊国 豊広 国長 春亭 国丸 北馬    ◯『黄表紙總覧』後編(文化三年刊)〔 〕は著者未見、或いは他書によるもの、または疑問のあるもの)    歌川豊広画    『敵討姥捨山前編』前編「豊広画」   南杣笑楚満人 泉市板    『後編敵討姥捨山』後編「豊広画」   南杣笑楚満人 泉市板    『復讐岐枝川前編』前編「豊広画」   南杣笑楚満人 泉市板    『後編復讐岐枝川』後編「一柳斎豊広画」南杣笑楚満人 泉市板    『敵討鴬酒屋前編』前編「豊広画」   南杣笑楚満人 泉市板    『後編敵討鴬酒屋』後編「豊広画」   南杣笑楚満人 泉市板    『敵討讃誠囊前編』前編「豊広画」   南杣笑    泉市板    『後編敵討讃誠囊』後編「一柳斎豊広画」南杣笑楚満人 泉市板    『昔話姑獲鳥仇討』  「豊広画」   南杣笑楚満人 西村屋板    『武者修行木斎伝』前編「豊広画」   曲亭馬琴   鶴屋板    『武者修行木斎伝』後編「一柳斎豊広画」曲亭馬琴   鶴屋板    『敵討安達太良山』  「一柳斎豊広画」式亭三馬   西宮板    『敵討孫太郎虫』 前編「豊広画」   山東京伝著  鶴屋板    『敵討孫太郎虫』 後編「豊広画」   山東京伝著  鶴屋板    『法誓輪廻仇討』   「豊広画」   十返舎一九  岩戸屋板    『復讐両士孝行』   「画図一柳斎豊広」十返舎一九 紀伊国屋利助板     〈備考、翌文化四年に本書の改刻改題再板本の『敵討大悲誓』前三冊、後二冊の村田屋板あり〉    『親讐撃山魅』  前編「豊広画」   南杣笑楚満人 西村屋板    『後編撃山魅』  後編「一柳斎豊広画」南杣笑楚満人 西村屋板    『仇報妹背扇』  前編「豊広画」   南杣笑楚満人 西村屋板    『後編妹背扇』  後編「一柳斎豊広画」南杣笑楚満人 西村屋板    『嵐山花仇討』  前編「豊広画」   十返舎一九  岩戸屋板    『嵐山花仇討』  後編「豊広画」   十返舎一九  岩戸屋板    『敵討三人姥』  前編「豊広画」   南杣笑楚満人 榎本屋    『敵討三人姥』  後編「豊広画」   南杣笑楚満人 榎本屋    〔虎屋景物〕     「一柳斎豊広画」山東京伝   虎屋宗三郎板(景物本)    ◯「読本年表」(文化三年刊)    歌川豊広画①    『敵討女夫似我蜂』歌川豊広画 南杣笑楚満人作    『絵本西遊全伝』初・二編 大原東野・歌川豊広画 口木山人訳    歌川豊広画⑦    『盆石皿山記』  前編 一柳齋豊廣画 曲亭馬琴作  ◯『戯場粋言幕の外』巻之上(式亭三馬作)   〝桜川、杣人、塞翁子町の甚幸に活邑の幣辞、といふ舞台で豊広がチヨボぢやア結構茶番だ〟    〈桜川慈悲成、南仙笑杣人と桜川甚幸、それに豊広の義太夫と揃えば立派な茶番狂言になるというのだろう。「活邑     (うへむら)の幣辞(へいじ)」は未詳〉  ☆ 文化四年(1807)    ◯「合巻年表」(文化四年刊)    歌川豊広画    『敵討三重忠孝貞』「豊広画」絵題簽「歌川豊広画」南杣笑楚満人作 泉市板 ⑤    『安積沼後日仇討』「一柳斎豊広画」山東京伝作   鶴喜板  ②    『仁王坂英雄二木』「豊広画」   感和亭鬼武作  岩戸屋板 ①    『箱根霊験蹇仇討』「豊広画」   式亭三馬作   西宮新板 ①    『島村蟹水門仇討』「豊広画」   曲亭馬琴作   鶴喜板  ⑤    『天報正宗熊腹帯』「豊広画」   山東京山作   蔦重板  ①    『敵討稚木花王』 「一柳斎豊広画」南杣笑楚満人作 上村江見屋板 ①⑤    『敵討轆轤首娘』 「一柳斎豊広画」南杣笑楚満人作 西与板  ①    『敵討吉野龍田』  歌川豊広画  南杣笑楚満人作 西与板(注:日本小説年表による)①    『島村蟹湊仇撃』  歌川豊広画  曲亭馬琴作   鶴喜板  ①〈板元は文化4年新版目録〉    『敵討皷瀑布』  「豊広画」絵題簽「歌川豊広画」曲亭馬琴作 鶴喜板 ②    『手打新蕎麦』  「豊広画」   南杣笑楚満人作 泉市板  ①    『敵討遠森渡』  「豊広画」   南杣笑楚満人作 泉市板  ①    『敵討大悲誓』  「豊広画」   十返舎一九作  村田屋板(文化三年『敵討両士孝行』の改題本)⑤    ◯「読本年表」(文化四年刊)    歌川豊広画    『括頭巾縮緬紙衣』歌川豊広画 曲亭馬琴作  〔目録DB〕    『盆石皿山記』後編 一柳齋豊廣画 曲亭馬琴作〔中本型読本〕    ◯『無可有郷』〔百花苑〕⑦397(詩瀑山人(鈴木桃野)著・天保期成立)  (文化四年頃)  〝其歳(鈴木桃野、九歳頃)より稗史の合巻といふもの初れり【文化四年なり。お六櫛合巻の初なり。其   明年は双蝶々、吃又平等数種出る。爰におゐて、楚満人豊廣の輩漸々おとろへて、三馬、京山、国貞、   春亭、興子、京伝、馬琴、豊国は元の如し】〟    △『物之本江戸作者部類』p152(曲亭馬琴著・天保五年成立)   (「読本作者部第一」「山東京伝」の項)   〝(文化三年の頃、貸本屋住吉屋政五郎、京伝に読本原稿を依頼する。京伝遅筆にて稿ならず、翌年さら    にもう一年に及ぶ。京伝、政五郎の督促に)胸苦しくやありけん。趣向は未だ首尾せざれとも、先つ出    像より稿を創めて、一二張つゝ政五郎に渡し、出像は豊広に画せたまへ、この板下の寫本を画き終る比    には、稿本をわたすへしとおふに、政五郎欣びてかたのことくにしたり。かくて豊広の画写本はいで来    ても、作者の稿本いまだならす。先つこれを剞劂にわたして鏤せ給へとて、又次の画稿を政五郎に取ら    せて、豊広に画かせなどしつゝ纔に板元を慰めけり。既にして政五郎は只このことのみにかゝつらひて、    貸本も手につかねば、所藏の貸本はみな沽却して、活業を勤めず。月には幾回か京伝許赴きて、稿本の    成るをうかゞふの外他事もなく、思はずも三とせを経て、四年といふ春の比、稍発行することを得たる    その書は浮牡丹是なり【四卷】本の形なども、作者の好みに任して、半紙本ながら唐本の如く横幅を狭    くしたれば、紙に裁落の費多かり。表(ウワのルビ)袋も唐本の帙のごとくしたり。出像も細密なりければ、    彫刻にも本銭を容たること尠からず。なれども、此書を印行せば三とせの費用をとり復さんこと易かる    べしと思ひしかば、先九百部製本して発兌せしに、板元の命禄退廃すべき折にやありけん。価例より貴    しとて貸本屋等敢(て)買ず。纔に五十部ばかり売てその餘八百五十部は一部もいでずなりしかば、政五    郎驚き憂ひて後悔の外なかりけり。(以下、政五郎零落記事、略)〟    〈京伝作・豊広画の読本『浮牡丹全伝』は文化六年の刊行。住吉屋の没落は京伝の遅筆が主な原因であったようだが、     細密な豊広画の彫刻代もまた負担が重かったようである〉      ◯『馬琴書翰集成』年不詳三月二十二日 馬琴宛・歌川豊広(第六巻・書翰番号-来51)⑥272   (文化四年と推定される)   〝(貼紙「歌川豊広【豊春門人。芝片門前住居】」)〟      〝以手証啓進仕候。追日暖気相成候。いらい御清節之段、奉賀候。然ば、先達も上候青本之義、御承知可    被下、難有奉存候。泉市も早速参上可仕候処、いろ/\とりこミ、御遅引仕候。何卒先々私方相願くれ    候様申候。私参上可仕処、此節いろ/\多用ニ御座候。乍失礼、先々以手証申上候。何卒青本六冊御く    り合、御認可被下候様相願候。いづれ此間は参上いたし度、此段よろしく相願候。以上      三月廿ニ日       馬琴先生                       豊広    〈「青本六冊」とあるから合巻であろう。この書翰は原稿の催促である。豊広画、板元泉市で出版の約束が既になさ     れていたようだ。国文学研究資料館の「日本古典籍総合目録」によると、馬琴作・豊広画・泉市板の合巻は『【加     田建械長介海鰌】敵討白鳥関 』前編三巻後編三巻。文化五年(1808)刊とあるから、この書翰は前年の文化四年と考     えられる〉    ◯「日本古典籍総合目録」(文化四年刊)   ◇読本    歌川豊広画『括頭巾縮緬紙衣』歌川豊広画 曲亭馬琴作    ☆ 文化五年(1808)    ◯「合巻年表」(文化五年刊)    歌川豊広画〔目録DB〕    『万福長者栄花物語』「歌川豊広画」 山東京伝作  西与板  ③    『桑名屋徳蔵廻船噺』 歌川豊広画  十返舎一九作 近江屋板 ①    『天橋立名歌仇討』  歌川豊広画  司馬全交作  岩戸屋板(注:日本小説年表による)    〈板元は文化5年新版目録〉    『復讎談御菩薩池』  歌川豊広画  南杣笑楚満人(前編) 面徳斎夫成(後編)作 泉市板 ①     (注:日本小説年表による)    『御堂詣未刻太鼓』 「豊広画」   式亭三馬作  西宮板  ⑤    『孝行娘妹背仇討』 「豊広画」   関亭伝笑作  泉市板  ⑤    『多羅福注文帳』  「豊広画」   十返舎一九作 榎本屋板 ①    『幽霊村仇討』   「一柳斎豊広画」十返舎一九作 鶴喜板  ⑤    『忠信老嫗餅』前編  歌川豊広画  十返舎一九作 村田屋板 ①    『春霞女廻国』    歌川豊広画  十返舎一九作 岩戸屋板 ①〈板元は文化五年新版目録〉    『女諸礼亀鑑』   「歌川豊広画」 十返舎一九作 榎本屋板 ①    『復讐熊腹帯』   「豊広画」見返し「歌川豊広画」山東京山作 蔦重板 ③    『敵討白鳥関』   「豊広画」見返し「歌川豊広画」曲亭馬琴作 泉市板 ②    『敵討葛松原』   「豊広画」   十返舎一九作 泉市板  ①    『蛇淵仇討』     歌川豊広画  山東京山作  板元未詳(注:日本小説年表による)①    ◯「読本年表」(文化五年刊)    歌川豊広画〔江戸読本〕    『椀久松山柳巷話説括頭巾縮緬帋衣』歌川豊廣画 曲亭馬琴作    『松浦佐用媛石魂録』前編 歌川豊廣画 曲亭馬琴作〈後編は文政十一年(1828)刊〉    『阿旬殿兵衞實實記』前・後編 歌川豊廣画 曲亭馬琴作    『俊寛僧都嶋物語』 前・後編 歌川豊廣画 曲亭馬琴作    『雲妙間雨夜月』  歌川豊廣画 曲亭馬琴作    歌川豊広画〔中本型読本〕    『觀音利生孤舘記傳敵討枕石夜話』 歌川齋豊廣画 曲亭馬琴作    『復讐快事駅路春鈴菜物語』俵屋宗理・歌川豊広画 節亭琴驢〈琴驢は岡山鳥〉    『巷談坡隄庵』   一柳齋豊廣画 曲亭馬琴作    歌川豊広画〔目録DB〕    『復讐奇談七里浜』歌川豊広画 一渓庵市井作    『浮牡丹全伝』  歌川豊広画 山東京伝作    『敵討舞子浜』  歌川豊広画 十返舎一九作    ◯「日本古典籍総合目録」(文化五年刊)   ◇読本    歌川豊広画    『柳巷話説』歌川豊広画 曲亭馬琴作    〈「日本古典籍総合目録」は一勇斎国芳画とするが、高木元氏の『江戸読本の研究』「第一章 江戸読本の形成」「第三節     江戸読本書目年表稿」によると、文化五年の項目に『椀久松山柳巷話説括頭巾縮緬帋衣』曲亭馬琴作・歌川豊廣画と     ある。さらに、文政十四年(ママ・天保二年(1831)か)の再版本として『碗久松山柳巷話説』をあげ、一勇斎国芳画と     している〉    ◯『浮世絵師之考』(石川雅望編・文化五年(1808)補記)   〔「浮世絵類考論究10」北小路健著『萌春』207号所収〕   〝同(歌川)豊広【一柳斎、芝片門前町住】    張交画【墨絵なり】を作る、小き一枚絵などかけり〟    〈大田南畝の『浮世絵考証』に号と住所を加筆〉    ☆ 文化六年(1809)  ◯『山東京伝書簡集』(歌川豊広宛・文化六年六月十八日付)   (『近世の学芸』p403 肥田晧三記・三古会編・八木書店・昭和51年刊)   〝甚暑之節御座候へとも、益御康健御座被成恭喜奉存候、然者、木挽町にて尾上松介 浮牡丹の内 牡丹    燈篭を狂言にとりくみ候二付、私共明十九日見物に参り候、もし思召も御座候はゞ、明日はやく木挽町    勘弥芝居北となり茶屋 高しまや五助方迄 御出可被下候、明日之連は、まき町、いがや、京山、わた    くし、右之通に御座候間,少しも御気あつかひ無御座候、少しの御用は御さしくり、御出可被下候、ま    き町も御伝言御座候、以上      六月十八日      京伝     豊広様〟    〈この狂言は、正月に出版された京伝作の読本『小説浮牡丹全伝』(豊広画・文化六年刊)を取り込んだもので、同年六     月十一日より木挽町森田座において「尾上松助夏狂言一世一代」と銘打って上演された「阿国御前化粧鏡」。烏亭焉馬の     『江戸芝居年代記』によると、尾上松助と同栄三郞の評判がよく大当たりの由で、八月五日まで興行を続けたとある。     上掲書簡は京伝から豊広宛に出された急ぎの手紙で、内容は、明日十九日早朝、芝居茶屋(高島屋)で、まき町(槇町)     すなわち豊国(初代)と地本問屋のいがや(伊賀屋勘右衛門)および実弟・京山とで待っているから、是非来てほしいと     いうもの。豊広がこの誘いに応じたかどうかは分からない。ただ参考までにいえば、この芝居の役者絵、豊国落款の     錦絵は見掛けるが、豊広のものはないようだ。それもそのはず、渓斎英泉の『無名翁随筆』(天保四年の項)に「生涯     役者絵ヲカゝズ」とある、したがってたとえ見物したとしても画くことはなかったのである。この書簡は、雑誌『浮世     絵』第八号(大正5年1月刊)において、村上静人が「京伝から広重へ」というタイトル文の中で紹介している。なお同     席の伊賀屋は文脈からすると『小説浮牡丹全伝』の出版元のように思えるが、そうではなく西村宗七・住吉屋政五郎     の相板。どのような関係で伊賀屋が同席しているのかは不明〉  ◯「国書データベース」(文化六年)   ◇黄表紙    歌川豊広画『奉加助太刀』「豊広画」 曲亭馬琴著 泉市板    ◯「合巻年表」(文化六年刊)    歌川豊広画    『万福長者栄華談』「歌川豊広画」絵題簽「歌川豊広画」山東京伝作 西与板 ②    『都春仇襠衣』前編「豊広画」  山東京山  岩戸屋板 ⑤           後編「歌川豊広画」山東京山  岩戸屋板 ⑤    『千本桜祇園守護』「歌川豊広画」山東京山作 丸甚板  ①    『敵討裏見滝』   歌川豊広画 松下井三和(唐来三和)作 板元未詳(注:日本小説年表による)①     『座頭宮由来』  「一柳斎豊広画」十返舎一九作 西与板 ①    『福鼠子宝噺』   歌川豊広画  桜川慈悲成作 森治板 ①〈文化6年新刊目録による〉    『奉加助太刀』  「歌川豊広画」 曲亭馬琴作  泉市板 ①    ◯「読本年表」(文化六年刊)    歌川豊広画〔目録DB〕    『夢想兵衛胡蝶物語』前編 一柳斎豊広画 曲亭馬琴作    『俊寛僧都嶋物語』 前編 歌川豊広画  曲亭馬琴作    『桃花流水』    歌川豊広画 山東京伝作    歌川豊広画⑧    『松染情史秋七草』 歌川豊廣画 曲亭馬琴作〈〔目録DB〕は豊国画とする〉    『小説浮牡丹全傳』 歌川豊廣画 山東京傳編    ◯「絵入狂歌本年表」〔狂歌書目〕(文化六年刊)    柳々居辰斎画『四方戯歌名尽』一冊 辰斎・豊広画 芝の屋山陽編 山陽堂板     〈〔目録DB〕は四方歌垣真顔著〉    ◯『街談文々集要』p133(石塚豊芥子編・文化年間記事・万延元年(1860)序)   (「文化六年(1809)」記事「時世為変化」)   〝(加藤曳尾庵の随筆『我衣』からの引用記事)    寛政の末ニ、山東京伝子著せし忠臣水滸伝といへる、五冊物、絵入読本ニ、通俗水滸伝の如く口絵とい    ふ物を附て、世ニ流布せしより、近来五冊ものゝ大ニ行れて、初春を待兼て、来ル年の冬の初より争ひ    求て視る事はやる。作者は馬琴【滝沢清右衛門】一九【重田】振鷺亭【猪苅】焉馬【大和屋和助】芍薬    亭【本あミ】真顔【北川嘉右衛門】六樹園【ぬりや七兵へ/宿や飯もり】鬼武・小枝繁・三馬・種彦・    京山其外猶あるべし、或ハ中本・小本夥しく、画ハ名におふ豊国・北斎・豊広・国貞、是等其英傑成ル    ものなり。(中略)    (正月十九日、曳尾庵、年賀のため、山東京伝宅を訪問する)    正月十九日、年の嘉儀ニ罷たる折ふし、此本の画をなしたる豊広【名与四郎/芝口門前】其座にあり、    京伝子喩して曰ク、今流行する読本、口絵多きをよしとす、見る人の飽ざる為なり、高上なる事を五分、    下賤なる事を五分とせる事、作意なり、是は上中下共ニト網にし、悦ばしめんためなり、尤撰に彫刻を    精密にす、漢字杜撰ニ仮名をふる事宜しからずと云へり、凡此本の仕立、奇々妙々にして、其画又他の    本に比すべからず、画面の趣向、文面のあやどり、余人の作と同日の談ニあらず、予も甚だ感称してか    へりし、後来見る人、心を止めずんばあるべからず〟    〈「此本」とあるのは山東京伝作・歌川豊広画の読本『浮牡丹全伝』で、この文化六年に刊行された〉     ☆ 文化七年(1810)    ◯「合巻年表」(文化七年刊)    歌川豊広画    『一対男時花歌川』後編「初日 歌川豊国画/後日 歌川豊広画」式亭三馬作 伊賀屋板 ②     〈前編を歌川豊国、後編を歌川豊広が作画を担当した〉    『通俗大雑書』「一柳斎豊広画」十返舎一九作 西与板 ②    『花緑女敵討』 歌川豊広画  山東京伝作 板元未詳(注:日本小説年表による)     〈〔書目年表〕の注記に「六枚は美丸画」とある〉    ◯「読本年表」〔江戸読本〕(文化七年刊)    歌川豊広画    『夢想兵衞胡蝶物語』前編 歌川豊廣画  曲亭馬琴作    『夢想兵衞胡蝶物語』後編 一柳齋豊廣画 曲亭馬琴作    『鷲談傳奇桃花流水』歌川豊廣画 山東京山作    ◯「咄本年表」(文化七年頃刊)    歌川豊広画    『太平楽』桜川慈悲成作〔小咄〕〈解題、寛政十一年刊『腮の掛金』の板木使用の由〉     『滑稽好』桜川慈悲成作〔目録DB〕〈享和元年刊『滑稽好』の三版本〉    ◯『一対男時花歌川』(式亭三馬作・前編 歌川豊国画、後編 歌川豊広画・文化七年刊)   (三馬口上)   〝当年も何がなめづらしきしゆかう(趣向)をと、かんがへまする所に歌川豊国のぞミにしたがひ、せわ    狂言のせかいにて、かぶき芝居二日かハりのしうちになぞらへ、豊広豊国画工兄弟よりあひがきのさう    し、しかも急作につづりあはせ、御らんにいれ奉りまする。     (中略)    此所にてわけて申上まするハ、御ひいき思召あつき豊ひろ豊くに、おの/\さまがたへ御礼の口上、め    い/\に申上たうハぞんじますれども、こみあひましてかき入レの所もござりませねバ、しばらく御用    捨を希奉りまする。扨又、これにひかへましたる小せがれハ豊広せがれ歌川金蔵、つぎにひかへをりま    するハ豊国門人文治改歌川国丸、安治郎改歌川国安、これにひかへしかわいらしいふりそでは私門人益    亭三友、いづれもじやくはい(若輩)ものどもにござりますれバ、御とり立をもつて、すゑ/\大たて    ものとなりまするやう、豊ひろ豊くに私にいたるまで、ひとへに/\希奉ります、まづハ此所二日がハ    りのしん板はやり、うた川両人がつれぶしの御ひやうばん、おそれおほくも大日本国中のすミからすミ    までずいとこひねがひ奉ります。    豊国豊広口上    御礼のため、式亭歌川の惣連中御め見へいたさせまする。御ひいき御とり立御れいの口上ハ、私ども両    人ニなりかハりまして、式亭三馬口上をもつて申上奉ります。(後略)〟    〈この出版の経緯は下出「一対男時花歌川」『戯作六家撰』に出ている。(本HP「浮世絵事典」の項「一対男時花歌     川(イッツイオトコハヤリウタガワ)」参照)もともと刎頸の交わりとでも称すべき間柄であった両者が絶交状態に陥ったのは、豊     国が三馬の挿絵を後回しにしたことが発端のようだ。みかねた板元・伊賀屋が間に入って仲裁した。この出版は和睦     のしるしである。下出の挿絵は口上の場面、肩衣に「馬」の字は三馬の門人、肩衣に「年玉印」は歌川門の人々。い     わば一門あげての和解である。豊国が中央、左右に豊広と三馬がいて、背後に双方の弟子たちが控える。名を列記す     ると、三馬側は益者三友・徳亭三孝・楽亭馬笑・古今亭三鳥。歌川派は豊広の脇に倅の金蔵、そして国貞・国丸・国     安・国長・国満が控える。ただ、国貞はなぜか一人だけ離れて、三馬の門人側に座っている。この挿絵は豊国が画い     たのだろうが、この配置に何か意味があるのだろうか。そして挿絵の上部にやはり連中の名の入った提灯が下がって     いる。右から馬笑・三馬・三孝・三鳥・三友・豊広・金蔵・年玉印だけのもの・国貞・国安・国政・豊国・国長・国     満・国丸・国久・国房と並んでいる)         『一対男時花歌川』前編・口上 豊国画   「一対男時花歌川」(『戯作六家撰』)    (早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)    ◯「日本古典籍総合目録」(文化七年刊)   ◇咄本    歌川豊広画『滑稽好』〈享和元年刊『滑稽好』の三板本〉    ☆ 文化八年(1811)    ◯「合巻年表」(文化八年刊)    歌川豊広画    『武者順礼捨松噺』「一柳斎豊広画」十返舎一九作 村田屋板 ⑤    『忠信老嫗餅』後編「歌川豊広画  十返舎一九作 村田屋板 ①    『生姜一草創』  「豊広画」   関亭伝笑作  泉市板  ②    『懐児夜編笠』  「歌川豊広画」 山東京山作  蔦重板  ①  ☆ 文化九年(1812)    ◯「読本年表」〔江戸読本〕(文化九年刊)    歌川豊広画『絲櫻春蝶竒縁』一柳斎豊廣画・歌川豊清画 曲亭馬琴作     〈豊清は豊広の忰・金蔵、父子で画工を担当した〉    ☆ 文化十年(1813)    ◯『馬琴書翰集成』⑥323 文化十年(1813)「文化十年刊作者画工番付断片」(第六巻・書翰番号-来133)
   「文化十年刊作者画工番付断片」    〈書き入れによると、三馬がこの番付を入手したのは文化十年如月(二月)のこと。ただ不思議なのは、なぜ豊広が行司    格なのかだ〉    ☆ 文化十二年(1815)    ◯「読本年表」〔江戸読本〕(文化十二年刊)    歌川豊広画『朝夷巡嶋記全伝』一柳斎豊廣画 曲亭馬琴作    ☆ 文化十三年(1816)    ◯『骨董集 上編下巻』〔大成Ⅰ〕⑮514(山東京伝著・文化十二刊)   (「比丘尼女(ルビひふくめ)図」の項)(図あり)   〝これは古画にあらず三国伝記の文のおもむきをしらさんとて今あらたにつくりいでたる図なり〟   〝一柳斎筆〟    〈この「一柳斎」を豊広と見た〉    ☆ 文化十四年(1817)    ◯「読本年表」〔江戸読本〕(文化十四年刊)    歌川豊広画『朝夷巡嶋記全伝』二編 一柳斎豊廣画 曲亭馬琴作    ☆ 文化年間(1804~1817)    ◯『増訂武江年表』2p58(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (「文化年間記事」)   〝浮世絵 葛飾戴斗、歌川豊国、同豊広、同国貞、同国丸、蹄斎北馬、鳥居清峯、柳々居辰斎、柳川重信、    泉守一(渾名目吉)、深川斎堤等琳、月麿、菊川英山、勝川春亭、同春扇、喜多川美丸〟    ☆ 文化~文政期(1804-1829)  ◯「双六年表」〔本HP・Top〕   「楚満人哥舞式敵討開運大双六」「画師歌川豊広」山田屋三四郎 刊年未詳(都立)   〈豊広の没年文政12年から推定した〉  ☆ 文政元年(文化十五年・1818)    ◯『【諸家人名】江戸方角分』(瀬川富三郎著・文化十四年~十五年成立)   「芝 浮世画」〝豊広 歌川 号一柳斎 増上寺片門前(姓名空欄)〟    ◯『江戸小咄辞典』「所収書目改題」(武藤禎夫編・昭和五二年・一二版)   ◇咄本(文化十五年刊)    歌川豊広画『咄の親玉』曼亭鬼武序    ☆ 文政二年(1819)    ◯「絵暦年表」(本HP・Top)(文政二年)   「豊広画」(兎形の目貫の入った桐箱・帛紗・鍔)(都立中央図書館)    賛なし 〈帛紗に大の月、畳紙に小の月〉    ◯「読本年表」〔目録DB〕(文政二年刊)    歌川豊広画『朝夷巡島記』三編 歌川豊広画 曲亭馬琴作    ☆ 文政三年(1820)    <二月 貝細工 浅草奧山・麦藁細工 浅草奧山>  ◯「見世物興行年表」(ブログ)    「浅草観音 奧山貝細工」錦絵二枚続 署名「豊廣」    ☆ 文政四年(1821)    ◯「読本年表」〔目録DB〕(文政四年刊)    歌川豊広画『朝夷巡島記』四編 歌川豊広画 曲亭馬琴作    ◯『浮世絵類考』(式亭三馬按記・文政元年~四年)    (本ホームページ・Top「浮世絵類考」の項参照)       〝三馬按、豊広号一柳斎、俗称藤次郎、当時芝増上寺片門前ニ住ス。寛政ノ末ヨリ草双紙ヲ画ク。当時ニ    至ルマデ読本ノ挿絵数多画ケリ。伝ハ別記ニ譲ル〟    〈寛政七年の『敵討義女英』(豊国画)以来、「敵討ち」の草双紙で一時代を築いた南杣笑楚満人にかげりが見え、ま     た楚満人と組むことも多かった豊広にも一時の勢いがなくなったというのだろう。『浮世絵師歌川列伝』に「寛政七     年板楚満人作、敵討義女英(三冊)を画きて大に行わる。これ豊広が名の、世に出でたる始めにして、これより敵討の     草紙年々行われて、作は楚満人、画は豊広にあらざれば、世人の意に適わざるに至れり」とある。『敵討義女英』の     絵師は豊広ではないが、楚満人作・豊広画の敵討ち物という評判は定着していたのであろう。歌川豊国の項参照〉    ☆ 文政五年(1822)    ◯「読本年表」〔目録DB〕(文政五年刊)    歌川豊広画『朝夷巡島記』五編 歌川豊広画 曲亭馬琴作    ☆ 文政六年(1823)    ◯「絵暦年表」(本HP・Top)(文政六年)   ③「豊廣画」(衝立に鯉の滝登り 三宝に松・海老の正月飾り)1-5/23    「老眼略暦 文政六己未 大 正三七九十一十二」    「桜川甚孝」狂歌賛  ☆ 文政九年(1826)    ◯「絵暦年表」(本HP・Top)(文政九年)   ⑧「豊廣画」Ⅱ-7「恵比寿講の笹」(注連縄・蓬莱飾り・犬張子・笹に烏帽子、小槌、鯛の図)    「桜川甚孝」狂歌賛〈小槌に小の月〉  ◯「文政九年丙戌日記抄」①14 文政九年(1826)六月六日(『馬琴日記』第一巻)   〝芝片門前豊広方より使札。巡島記六編三の巻さし絵三丁出来、被差越。但、義秀義盛に対面の処、短刀    を太刀に画き候故、右之処直しの為、この一丁はかへし遣す。并に、四の巻さし絵画稿三丁、返書共、    遣之〟    〈「巡島記」は馬琴作の読本『朝夷巡島記』。歌川豊広は文化十二年刊の初編から文政十年刊の六編まで担当した。な     お、馬琴作・豊広画の初出は享和三年刊の黄表紙『阴兼阳珍紋図彙』〉    ☆ 文政十年(1827)      ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文政十年刊)    歌川豊広画    『道外百図』狂歌 一冊 豊広画 司馬の屋嘉門    『ひゝな草』狂歌 一冊 豊広画 司馬の屋嘉門    ◯「読本年表」〔目録DB〕(文政十年刊)    歌川豊広画『朝夷巡島記』六編 歌川豊広画 曲亭馬琴作    ◯「絵入狂歌本年表」〔目録DB〕(文政十年刊)    歌川豊広画『狂歌ひゝな草』一冊 豊広画(注記「文政10年司馬の屋嘉門の序」)    ◯「文政十年丁亥日記」①39 文政十年(1827)正月廿七日(『馬琴日記』第一巻)    〝日本橋名張や竹芳・尾張町英泉・芝神明前泉市、片門前豊広・かゞ町ミのや甚三郎・すきやがし真顔方    へ、為年始祝儀として(ママ)罷越候処、甚三郎・真顔は他行のよし、泉市も同断、(以下略)〟    〈この日、年始と祝儀のために廻ったのは、浮世絵師の渓斎英泉・歌川豊広、狂歌師の鹿津部真顔、板元の和泉屋市兵     衛、美濃屋甚三郎。名張屋竹芳は未詳。馬琴はこの春、読本『南総里見八見伝』六輯(板元・美濃屋)と合巻『金毘     羅船利生纜』四編(板元・泉市)を英泉の挿画で、読本『朝夷巡島記』六編(板元・須原屋茂兵衛)を豊広画で出版     していた〉     ☆ 文政十二年(1829)(十二月二十一日没・享年未詳)
 ◯「文政十二己丑日記」②57 文政十二年三月十七日(『馬琴日記』巻二)   〝芝片門前画工豊広来ル。四月十一日、両国大のしニて書画会興行のよし。右会ぶれちらし印刻、持参。    予、対面〟    〈蜀山人の狂歌、「板東三津五郎・岩井半四郎、大のしやと書たる傘をさして出しわざおぎに」〝浄るりの幕は大いり     大のしの相合傘のやまと大和屋〟(『あやめ草』文化七年(1810)詠)「両国橋のほとり大のし屋にて夢らく子のはな     しの会ありときゝて」〝大鵬のはなしの会の大のしのつばさを空にたるゝむら雲〟〝両国のはしのたもとの唐錦たゝ     まくをしき咄をぞきく〟(『紅梅集』文政二年(1819)詠)両国の大のし屋は書画会や落語の会などに使われた〉    ◯「文政十二己丑日記」②262 文政十二年十二月廿一日(『馬琴日記』第二巻)   〝芝片門前画工歌川豊広家内より、使を以、豊広事、昨夜病死いたし候ニ付、明廿二日昼九時送葬のよし、    しらせ来ル。相応之挨拶いたし遣ス。とり次おみち也。但、此節無人、且、病人有之時分がら、遠方故、    速に弔しがたかるべし〟    〈歌川豊広は外出嫌いな馬琴が年始回りをする数少ない一人であったが、家を空けることが出来ず、会葬に立ち会えな     かった。結局、二十六日、娘婿の清右衛門を遣わして弔意を表すことになった〉    ☆ 刊年未詳    ◯「艶本年表」〔目録DB〕(刊年未詳)    歌川豊広画『絵本密須佳賀美』一冊 歌川豊広画(注記「艶本目録による」)  ☆ 文政~天保  ◯「【江戸】戯作画工【次第不同】新作者附」東邑閣 辰正月〈文政3年・天保3年か〉   (東京都立図書館デジタルアーカイブ 番付)   (番付上段 西方)    〝新画工作者之部      作者 ◎◎◎   同  関東米   同  振鷺亭   ゑし うた川豊喜     作者 虹々斎三也 ゑし 十斎北九  さく 東西菴口上 ゑし 北川友吉  はんきし 桜木劂氏     画工 歌川豊広  作者 吉文舎   ゑし うた川豊久 作者 六樹園〟    〈刊年等については本HP・Topの「浮世絵師番付」参照のこと〉    ☆ 没後資料  ☆ 天保四年(1833)   ◯『無名翁随筆』〔燕石〕(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)   ◇「歌川豊春」の項 ③303
   「歌川豊春系譜」〝豊春門人 芝片門前ニ住ス、門人アリ、別ニシルス〟      ◇「歌川豊広」の項 ③304   〝歌川豊広【寛政ノ末ヨリ文政十一年ノ頃歿ス】     俗称藤次郎、居芝片門前町、号一竜斎、江戸の産也    始め、豊春門人なり、常に義太夫節を好て、三味線を楽む、尤妙手なり、後一家の画風をなし、筆意、    雪舟或は明画の趣あれども、元より、土佐、狩野の画風を学ぶ、草画の墨絵を板行して張交画とす、尤    も妙也、草双紙、敵討続物、此人より始り、初代  南仙笑楚満人作也、世に行る読本数十部を画く、    画の筆力奇巧は、近来同時の画工に並ぶ者なし、彩色画も妙手なり、門人多し、
   「歌川豊広系譜」〝歌川豊広【生涯役者絵ヲカゝズ、浮世絵ト云ベシ、彩色摺江戸名所福茶番】〟    ☆ 天保六年(1835)
 ◯『後の為の記』(曲亭馬琴著・天保六年自序・国会図書館デジタルコレクション所収)   〝歌川豊広は独子豊清あり、其画世評宜しかりしが、親に先だちて没しぬ、只豊清の姉の子あるのみ〟    ☆ 弘化元年(天保十五年・1744)    ◯『増補浮世絵類考』(ケンブリッジ本)(斎藤月岑編・天保十五年(1844)序)   (( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち)      ◇「歌川豊春」の項
   「歌川豊春系譜」〝豊春門人 豊広 芝片門前に住す 門人あり別にしるす〟   ◇「歌川豊広の項」   〝歌川豊広  寛政の末より文政十一年の頃歿す     俗称 藤次郎  居 芝片門前町  号 一柳斎  江戸の産也    豊春の門人なり、後、一家の画風をなし。草筆の墨絵を板行して張交画とす。草双紙敵討の続物、此人    より始れり(初代南仙笑楚満人作也)世に行る読本数十部を画り。門人多し(常に儀太夫節を好んで、    三味線を引くを楽とす、尤妙手也)
   「歌川豊広系譜」       豊広筆絵本枚挙して尽るにあらず。依て読本のみ左に一二を記せり。      俊寛僧都島物語  十冊  馬琴作      旬伝実々記    十冊  馬琴作      松染情史     六冊  同 作      松浦佐用姫石魂録 三冊  同 作      浮牡丹全伝    四冊  京伝作      朝比奈巡島記       馬琴作      括〈ククリ〉頭巾縮緬紙衣   馬琴作      雲妙間雨夜月   六冊  馬琴作      鷲ノ談      五冊  京山作      夢想兵衛胡蝶物語 十冊  馬琴作      糸桜春蝶奇縁   八巻  馬琴作 豊清合筆 復讐御伽物語(空白)冊      絵本西遊記    二編(初編は東野の筆にて尤よし、二編いたくおとれり)〟    ☆ 嘉永三年(1850)
 ◯『古画備考』三十一「浮世絵師伝」中p1398(朝岡興禎編・嘉永三年四月十七日起筆)   〝(歌川豊春)門人 豊広【張交を小キ一枚摺画、墨画ナド書リ】    (補)[署名]歌川豊広画[印章]「一柳斎」(朱文方印)美人画絹立〟
   「歌川豊春系譜」    ☆ 慶応四年(明治元年・1868)    ◯『新増補浮世絵類考』〔大成Ⅱ〕(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   ◇「歌川氏系譜」の項 ⑪189
   「歌川豊春系譜」〝(歌川豊春門人)豊広〟(門人系譜あり)
  ◇「歌川豊広」の項 ⑪223   〝歌川豊広    号一柳斎、称藤次郎、江戸の産なり。芝片門前町に住す。のち一家をなし、草筆の墨絵を板行して張交 絵とす。草双紙敵討の続き物此人より始れり〔割註 初代南仙笑楚満人作也〕。生涯役者絵を画かず。 常の義太夫節を好んで三味線をひくを楽とす。尤も妙手なり。豊広筆絵本枚挙して尽るにあらず。依て 読本のみ記す。     俊寛島物語    馬琴作  句伝実々記   同         松浦佐用姫石魂六  同     夢惣兵衛胡蝶物語 同    括頭巾縮緬紙衣 同         朝比奈巡島記    同     雲妙間雨夜月   同    糸桜春蝶奇縁  同         松染情史秋七種   同     浮牡丹全伝    京伝作  絵本西遊記  二編初編は東野作なり 復讐医御伽物語     鷲の談      京山作  播州舞子浜  一九作着色摺〟    ☆ 明治年間(1868~1911)    ◯『古今名家書画景況一覧』番付(大阪 広瀬藤助編 真部武助出版 明治二十一年一月刊)   (東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)   ※( )はグループを代表する絵師。◎は判読できなかった文字   (番付冒頭に「無論時代 不判優劣」とあり)   〝大日本絵師     (西川祐信)勝川春章 菱川師房  西村重長 鈴木春信  勝川春好 竹原春朝 菱川友房 古山師重     宮川春水 勝川薪水 石川豊信  窪俊満    (葛飾北斎 川枝豊信 角田国貞  歌川豊広 五渡亭国政 菱川師永 古山師政 倉橋豊国 北川歌麿     勝川春水 宮川長春 磯田湖龍斎 富川房信    (菱川師宣)〟  ☆ 明治二十二年(1889)   ◯『古今名家新撰書画一覧』番付(大阪 吉川重俊編集・出版 明治二十二年二月刊)   (東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)   ※( )はグループの左右筆頭   〝日本絵師    (葛飾北斎)西川祐信 勝川春章 菱川師房 西村重長 鈴木春信 川枝豊信  角田国貞 勝川春好     竹原春朝 歌川豊広 倉橋豊国 石川豊信 勝川薪水 古山師重 五渡亭国政 菱川師永(菱川師宣)  ◯『近古浮世絵師小伝便覧』(谷口正太郎著・明治二十二年刊)   〝文化 歌川豊広    一柳斎と号、豊春の門人、風俗名所真景等を善くす。門人広重有り〟    ☆ 明治二十三年(1890)  ◯『明治廿三年美術展覧会出品目録』3-5号 松井忠兵衛・志村政則編 明治23年4-6月刊   (日本美術協会美術展覧会 3月25日~5月31日 日本美術協会)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝歌川豊広 人物図 絹本 一幅(出品者)南利一郎〟  ☆ 明治二十五年(1892)  ◯『日本美術画家人名詳伝』下p301(樋口文山編・赤志忠雅堂・明治二十五年刊)   〝哥川豊広    藤次郎ト称シ、一龍斎ト号ス、家名ハ哥川、始メ豊春ノ門人ナリ、常ニ儀太夫節ヲ好ミ三味線ヲ楽シム、    尤妙手ナリ、後一家ノ画風ヲナシ、筆意雪舟或ハ明画ノ趣アレドモ、元ヨリ土佐狩野ノ画風ヲ学ブ、草    案ノ墨画ヲ板行シテ張交画トス、尤モ妙手ナリ、草双紙敵討続物、此人ヨリ始ル、初代南仙笑楚満人作    ナリ、世ニ行ハル、読本数十部ヲ画ク、画ノ筆力奇巧ハ恐ラク同時ノ画工ニ並ブモノナシ、殊ニ彩色ニ    妙ナリ、門人多シ、哥川豊広【生涯役者絵ヲカヽズ浮世画師ト云ベシ】豊清【俗称ハ金蔵、画ヲ善ス、    早世ス、惜シムベシ、錦画草双紙読本一二アリ】広昌【駿州沼津宿、太平某、錦画二三種アリ】広重【    八代洲河岸住、武士近藤徳三郎、文政ノ末ヨリ天保迄、専ハラ画ク錦画双紙多シ】広恒、広政等最モ著    ハル、寛政ノ末ヨリ文政十一年ノ頃マデ行ハル、江戸ノ人ナリ(燕石十種)〟    ☆ 明治二十六年(1893)  ◯『古代浮世絵買入必携』(酒井松之助編・明治二十六年刊)   ◇「歌川豊広」の項 p11   〝歌川豊広    本名 藤次郎   号 一柳斎   師匠の名 豊春    年代 凡七十年前より百年迄    女絵髪の結ひ方 第八図・第九図 第十一図 (国立国会図書館・近代デジタルライブラリー)    絵の種類 並判、中判、小判、浮絵、細絵、長絵、絵本、肉筆    備考   墨摺又は淡彩色の小さき版物あれども何程にもならざる故買入れざるを良しとす〟
  ◇「図柄」の項 p21   〝墨絵にて豊広、豊丸等、凡て百年以後のものは買い入れざるを良しとす。最も菱川師宣、奥村政信、鳥    居清信等の百四五十年前後のものは墨摺にても高価なり〟  ◯『浮世絵師便覧』p208(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年(1893)刊)   〝豊広(ヒロ)      歌川、◯豊春門人、一柳斎と号す、俗称藤次郎、文化九年死〟  ☆ 明治二十七年(1894)    ◯『名人忌辰録』下巻p2(関根只誠著・明治二十七年刊)   〝歌川豊広 一柳斎    俗称藤次郎、豊春門弟、江戸の人、芝片門前に住し、生涯役者を画かず。又草双紙合巻の長篇類を画き    しは豊広に始る。文政十一年子五月廿三日歿す、歳五十六。(著作堂雑記には六月廿日歿す、廿二日葬    送、年六十余とあり)〟    ◯『浮世絵師歌川列伝』(飯島虚心著・明治二十七年、新聞「小日本」に寄稿)   ◇「歌川豊春伝」p80   〝豊春の没するや、門人等ふかくこれを悼み、亡師が嘗て信仰せし押上春慶寺の普賢堂の傍らに、一碑を    建てて記念となし、永く追慕の情を伝う。碑面に、花は根に名は桜木に普賢象、のりのうてなも妙法の    声、正面文化十一年戌春、二代目歌川豊春、行年八十、元祖歌川昌樹、歌川妙歌、歌川貢、大野規行、    歌川豊秀、歌川豊国、歌川豊広と刻してあり〟
  ◇「歌川豊広伝」p109
   「歌川豊広伝」     ◇「歌川国芳伝」p209   〝歌川家の画法における、元祖豊春以来西洋の画法により、写真を主とし刻出し、寸法を専とせしが、其    弊終(ツイ)に筆意を顧ざるに至り、かの人物の骨相、衣服の模様、及び彩色の配合等の如きは、頗る精巧    の域に至るといえ共、筆軟弱にして生気甚乏しき所あるが如し。嘗歌川家画く所の板下画を見るに、屡    (シバシバ)削り屡補いて恰(アタカモ)笊底の反古の如し。筆意のある所を知らざる也。又嘗人物を絹本に画    くを見るに、屡塗抹して屡これを補理す。恰かの油画を画きし者の屡塗て屡改め画くと一般にして、常    に筆意を顧ざるものの如し。是豈(アニ)絵画の本色ならんや。〈中略〉唯豊広、広重、国芳、三人は超然、    歌川の門牆をこえて、普く諸流を伺い、専ら筆尖の運動に、注目せるものの如し〟
  ◇「浮世絵師歌川雑記」p215   〝一対男時花歌川の稗史は、式亭三馬、歌川豊国が喧嘩和解の媒として出板せしものなり。前篇を初日と    し、後篇を後日とし、初日は豊国画にして、後日は豊広画なり。画様細密にして彫刻甚だ美なり。当時    大に行われしこと、戯作者略伝に詳らかなり。    初日【井屋茨城全盛合巻】一対男時花歌川、文化七年庚午孟春の発市にして、伊賀屋勘左衛門板なり。    序の代りに、豊国、豊広、および三馬の門人等の像をかかげて俳優貌見世の体に倣う。三馬門人は馬笑、    三孝、三鳥、三友、等を載せ、豊広、豊国、の門人は、金蔵、国貞、国安、国政、国長、国満、国丸、    国久、国房、等を載す。三馬の口上あり。    (前略)此所にてわけて申上まするは御ひいき御思召あつき、豊広、豊国、おのおのさま方へ、御礼の     口上、めいめいに申上とうはぞんじますれども、こみあいましてかき入の所もござりませねば、しば     らく御用捨を希い奉りまする。またこれにひかえましたる小倅は、豊広せがれ歌川金蔵、次にひかえ     まするは豊国門人文治改歌川国丸、安次郎改歌川国安、これにひかえしあいらしいふり袖は、私門人     益亭三友、いずれも若輩のもの共にござりますれば、御取立をもって、末々大だてものとなりまする     よう、豊広、豊国、私にいたるまで、偏に偏に希い奉ります。まずは此所二日がわりのしん板、はや     り歌川両人が、つれぶしの御評判、おそれ多くも大日本国中の、すみからすみまでずいと、こいねが     い奉ります。まずはそのため口上さよう〟  ☆ 明治二十八年(1895)  ◯『時代品展覧会出品目録』第一~六 大沢敬之編 村上勘兵衛(明治二十八年六~九月)京都版   (国立国会図書館デジタルコレクション)〈「時代品展覧会」3月25日~7月17日 御苑内博覧会館〉   〝「第三」徳川時代浮世画派(158/310コマ)    一 貴賤風俗図 一幅 歌川豊広筆 上野光君蔵 東京市麹町区     紙本着色ニシテ大内ニ仕フル女房ヨリ武家ノ仕女 市井ノ婦人 花街ノ遊女ニ居ル迄 徳川治世 天     保頃ノ風俗ヲ写セシモノニシテ 当時婦女ノ服飾ノ一班ヲ知ルニ足ルベキモノナリ。歌川豊広ハ岡島     藤次郎ト称ス。江戸ニ住シ 画ヲ歌川豊春ニ学ベリ。年代凡六十年余〟   〝「第四」徳川時代浮世画派(182/310コマ)    一 美人図   一幅 歌川豊広筆 上野光君蔵 東京市麹町区〟  ☆ 明治二十九年(1896)  ◯『名家画譜』上中下 金港堂(12月)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝上巻 目録 故歌川豊広「天女」〟  ◯『浮世画人伝』(関根黙庵著・明治三十二年(1899)刊)   ◇「歌川豊春系譜」p78
   「歌川豊春系譜」〝豊広 豊春門人 一柳斎〟     ◇「歌川豊広」の項 p79   〝 歌川豊広(ルビうたがわとよひろ)    歌川豊広、通称は藤次郎と云ひ、一柳斎と号しき。江戸の人にして芝片門前町に住せり、豊春の門人な    り。豊広、生涯俳優の似顔を画かず、初代南仙笑楚満人作の復讐物語等の草双紙合巻物の挿画を物せり、    此類の挿画を作るは豊広に創る、山東京伝、曲亭馬琴等が著作に豊広の挿画多し。豊広また草筆の墨画    をよくして張交(ハリマゼ)画の板行少なからず、画業の余暇に義太夫節の浄瑠璃を稽古し、また三絃に巧    にして聞くものをして両つながら、其妙を感ぜしめしと云ふ、素人をして寄席に出でしむるの端(ハシ)を    開きしは豊広なりしとぞ、但其当時は席料は一切受けざりしと云ふ、豊広は文政十一年五月廿三日歿し、    享年五十六歳なりき〟  ☆ 明治三十年(1898)  ◯『読売新聞』1月20日記事   (小林文七主催「浮世絵歴史展覧会」1月18日-2月10日)   〝陳列中優逸にして 一幅百円以上三百余円の品    (第百廿三番)歌川豊広筆 待美人の図〟〈「番」は陳列番号〉  ☆ 明治三十一年(1898)  ◯『浮世絵備考』(梅本塵山編 東陽堂 明治三十一年六月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(43/103コマ)   〝歌川豊広【寛政元年~十二年 1789-1800】    一柳斎と号す、通称藤次郞、江戸の人にて、豊春の門弟となり、後に一家の画風を起して、草筆の墨画    を板行し、また読本数十部の挿絵を画けり、常に義太夫節を好み、三絃を弾くことを楽として、頗る妙    手なりき、芝片門前町に住みしが、文政十一年没す、一説い文化九年に没すとも云ふ    (版本リスト十五作、書名省略)〟  ☆ 明治三十二年(1899)  ◯『新撰日本書画人名辞書』下 画家門(青蓋居士編 松栄堂 明治三十二年三月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)137/218コマ   〝歌川豊広    通称藤次郞といふ 一柳斎と号す 江戸芝片門前町に住す 豊春に師事して画法を研究し浮世絵の名工    と称せらる 寛政年中の人なり(扶桑画人伝 燕石十種)〟  ◯『浮世画人伝』(関根黙庵著・明治三十二年五月刊)   ◇「歌川豊春系譜」p78
   「歌川豊春系譜」〝豊広 豊春門人 一柳斎〟     ◇「歌川豊広」の項 p79   〝歌川豊広(ルビうたがわとよひろ)    歌川豊広、通称は藤次郎と云ひ、一柳斎と号しき。江戸の人にして芝片門前町に住せり、豊春の門人な    り。豊広、生涯俳優の似顔を画かず、初代南仙笑楚満人作の復讐物語等の草双紙合巻物の挿画を物せり、    此類の挿画を作るは豊広に創る、山東京伝、曲亭馬琴等が著作に豊広の挿画多し。豊広また草筆の墨画    をよくして張交(ハリマゼ)画の板行少なからず、画業の余暇に義太夫節の浄瑠璃を稽古し、また三絃に巧    にして聞くものをして両つながら、其妙を感ぜしめしと云ふ、素人をして寄席に出でしむるの端(ハシ)を    開きしは豊広なりしとぞ、但其当時は席料は一切受けざりしと云ふ、豊広は文政十一年五月廿三日歿し、    享年五十六歳なりき〟  ☆ 明治三十四年(1901)  ◯『日本帝国美術略史稿』(帝国博物館編 農商務省 明治三十四年七月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝第三章 徳川氏幕政時代 第三節 絵画 浮世絵派(169/225コマ)    歌川豊広    一柳斎と号す。一家の画風を為し、草筆の墨書を上梓して俗に張交書と称す。又豊広一代の絵本頗る多    し。文政十一年頃に没す〟  ◯『見ぬ世の友』巻十五(東都掃墓会 明治三十四年十一月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(巻14-21 16/76コマ)   〝詞林 名家辞世 其六 上杉多尾       歌川豊広 文政十一年五月廿三日 花(ママ)西応寺墓石     死んで行く地獄の沙汰は兎に角も跡の始末ぞ金次第なる〟    〈忌日及び西応寺の地名は下掲巻十六記事で同年12月21日及び「芝西応寺」に訂正される〉  ◯『見ぬ世の友』巻十六(東都掃墓会 明治三十四年十二月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(巻14-21 27/76コマ)   〝歌川豊広の忌日及墓地    前編上杉多尾編録の名家辞世歌川豊広の項に「文政十一年五月廿三日 芝西応寺墓石不明」とあるも、    豊広の墓地は芝西久保真宗◎取山専光寺にして、没年は文政十一年十二月廿一日、法名は影(ママ)秀信士    といふ〟    〈上杉多尾の「名家 辞世」とは上掲巻十五記事。法名正しくは「釈顕秀信士」〉    ☆ 明治四十一年(1908)  ◯「集古会」第六十六回 明治四十一年一月(『集古会誌』戊申巻二 明治41年10月刊)   〝村田幸吉(出品者)歌川豊広画 敵討開運双六 楚満人作〟  ☆ 明治四十四年(1911)  ◯『浮世絵画集』第一~三輯(田中増蔵編 聚精堂 明治44年~大正2年(1913)刊)   「徳川時代婦人風俗及服飾器具展覧会」目録〔4月3日~4月30日 東京帝室博物館〕   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇『浮世絵画集』第一輯(明治四十四年七月刊)    (絵師)   (画題)   (制作年代) (所蔵者)    〝歌川豊広  「婦女図」   文化頃    九鬼周造     歌川豊広  「摘草図」   文化頃    高嶺俊夫〟   ◇『浮世絵画集』第二輯(明治四十五年(1912)五月刊)    〝歌川豊広  「夕涼」    文化頃    高嶺俊夫〟   ◇『浮世絵画集』第三輯(大正二年(1913)五月刊)     歌川豊広  「花観」    文化頃    渡辺定吾〟  ☆ 大正年間(1912~1925)  ◯「集古会」第八十七回 明治四十五(1912)年三月(『集古会誌』壬子巻三 大正2年9月刊)   〝清水晴風(出品者)歌川豊広木像 一躯〟〈木像の制作者不明〉  ◯「集古会」第九十一回 大正二年(1813)一月(『集古会志』癸丑之二 大正3年5月刊)   〝有田兎毛三(出品者)豊広筆 高輪図・愛宕図 狂歌摺物 各一枚〟  ◯「集古会」第九十七回 大正三年(1914)三月(『集古会志』甲寅三 大正4年10月刊)   〝三村清三郞(出品者)豊広画 魚尽 狂歌摺物 二枚〟  ◯『罹災美術品目録』(大正十二年(1923)九月一日の関東大地震に滅亡したる美術品の記録)   (国華倶楽部遍 吉川忠志 昭和八年八月刊)   ◇小林亮一所蔵 歌川豊広「女万歳図」〈小林文七嗣子〉  ◯「集古会」第百四十六回 大正十三年(1924)五月(『集古』甲子第四号 大正13年8月刊)   〝星野朝陽(出品者)豊広横画 上野晩鐘 江戸八景の一 一葉〟  ☆ 昭和年間
 ◯『狂歌人名辞書』p154(狩野快庵編・昭和三年(1828)刊)   〝歌川豊広、一柳斎と号す、通称岡島藤次郎、東都芝片門前に住す、豊春門人、初代豊国と共に歌川派の    双璧と称せらる、文政十一年五月廿三日歿す、年六十〟    ◯『浮世絵師伝』p(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝豊広    【生】安永二年(1773) 【歿】文政十一年(1828)五月廿三日-五十六    【画系】豊春門人    【作画期】天明~文政    歌川を称す、岡島氏、俗称藤次郎、一柳斎と号す、居所芝片門前町。彼と豊国とは、豊春門下の双壁に    して、両者一長一短殆ど伯仲の間にありしと雖も、習技の質実と画品の高尚なるとに於て、彼は豊国よ    りも稍優れたりしが如し。これ恐らくは、豊国の世才に長けて、頻りに時好に迎合し、所謂派手を競へ    るを見て慊らずとなしゝ結果、自然豊国と反対の方面に向つて、自己の特長を把持せしものならむと思    はる。彼の初期時代に画きしものゝ中に、「小佐川常世(二代)のおさん、沢村宗十郎(三代)の茂兵    衛」を図したる細絵あり、これ天明七年秋、中村座に出演せし両人の舞台姿にして、所伝の年齢に誤り    なくんば、即ち彼が十五歳の筆なり。其の後若干年の間、彼の版画の世に出でしもの多からざりしは、    按ふに、狩野派などの画風を習得し、やがて一家を成すの準備に余念なかりしが爲めにはあらざりしか。    寛政の半ば頃よりは、年々連続的に版画を発表し、且つ肉筆画にも優秀の作あり、そのうち、寛政末頃    に画きし大判竪二枚つぎ(掛物絵)に数図あり、中にも「河岸舟美人」の図(口絵第五十一図参照)は    最も傑れたり、尚ほ三枚続のものにも相当の優品あり。また黄表紙・合巻本・読本等の挿画を夥しく描    きしが中に、文化七年版の合巻本『一対男時花歌川』は、式亭三馬の作にして、前編は豊国、後編は彼    の画く所たり、蓋し、故ありて長人の確執久しかりしを、三馬それが爲めに融和を図らむとして、特に    此の書を綴り、斯くは両人に挿画を分担せしめしものなる由、恰も其の年(文化七)には、彼が一子金    藏(後に豊清)を豊国の許に入門せしめたる事実もあり、爾後両者間の関係親密となりしは疑ふべから    ざるが如し。彼の作品は、美人画に於ても風景画に於ても、一種もの静かなる詩想を有し、時には多少    の哀調をさへ帯びたり、それ等の点は、やがて門人広重にも感化を与へしものと察せらる。彼の歿年月    及び年齢に就て二三の異説あれども、姑く『名人忌辰録』に従ふことゝせり、菩提所は芝西久保専光寺    にして、法名は釈顕秀信士と云ふ。明治二十年四月、彼が六十囘忌に際し、三代広重の発起にて一碑を    向島長命寺に建てたり、碑面に辞世の狂歌を刻す、曰く「死んで行く地獄の沙汰は兎も角も跡の始末は    金次第なり」〟   〈豊広の辞世、専光寺の墓石は「跡の始末ぞ金次第なる」(明治34年『見ぬ世の友』巻15-16参照)、対して明治20年建立の長    命寺の石碑は「跡の始末は金次第なり」。微妙な違いがあるが、おそらく60回忌の折に係り結びを外したのだろう〉    ◯『浮世絵年表』(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)   ◇「寛政七年 乙卯」(1795)p158   〝正月、歌川豊広の画ける『狂歌三十六歌仙』出版〟
  ◇「享和三年 癸亥」(1803)p169   〝正月、歌川豊広・歌川豊国両人の画に成れる『御伽かのこ』出版〟
  ◇「文化元年(二月十九日改元)甲子」(1804)p171   〝正月、歌川豊広の『絵本東物語』出版〟
  ◇「文化六年 己巳」(1809)p178   〝正月、歌川豊広の挿画にて、山東京伝作の『浮牡丹全伝』前編三巻四冊出版せり。版元は四谷伝馬町の    住吉屋政五郎なり。此書の挿画精密、彫刻も亦精巧(彫刻師は小泉新八)なりしなれば、従って出版費    も多大なるに、如何したりけん、売れゆき僅に九十部にして、為に版元微禄し、政五郎の妻女はそれを    気病みして死去せりといふ。此書の売れざりし所以は、世人浸くにして馬琴の文章にあこがれ、流石京    伝の趣向のよきも、豊広の挿画も顧みざるに至りし為か〟
  ◇「文化一二年 乙亥」(1815)p187   〝此年、一柳斎豊広の画ける馬琴の『朝夷巡島記』初輯出版〟
  ◇「文政一一年 戊子」(1828)p205   〝五月二十三日、歌川豊広歿す。歳六十四歳。(豊広は歌川豊春の門人として豊国と共にその高弟たり。    芝片門前町に住し、通称岡島藤次郎、一柳斎と号せり。俳優似顔を画かずして美人画を善くせり。豊国    は市井の美人を善くするに反し、豊広は士分の美人を画くに巧みなりき、豊国とは同門なれども共に常    に中違勝ちなりしを、式亭三馬嘗て『一対男時花歌川』といへる合巻物を作し、豊広と豊国とに挿絵を    画かせて仲直りの労を取りし事あり。書名の一対男は即ち歌川派の画工としてその流行といひ豊広と豊    国とが一対の男なりといふ意なり。豊国は門人に国貞と国芳を出だせるに豊広は広重を出だせり。又子    息に豊清ありしも早世せり)〟    ◯『集古』戊寅第五号 昭和十三年十一月刊)   〝林若樹所蔵の草稿 歌川豊広 朝夷巡島記挿絵草稿〟    〈『朝夷巡島記』馬琴作・豊広画 初-六編文化12‐文政10刊〉  ◯「集古会」第二百二十八回 昭和十五年十一月(『集古』辛巳第一号 昭和16年1月刊)   〝中沢澄男(出品者)豊広画 忠信草津老嫗伝 前編五冊分一冊 文化五年             黄表紙より合巻への過渡期のもの〟  △『東京掃苔録』(藤浪和子著・昭和十五年序)   「芝区」専光寺(神谷町一四)真宗大谷派   〝歌川豊広(画家)通称藤次郎、一柳斎と号し、豊春の門人なり。山東京伝、曲亭馬琴の作に多く挿画を    描く。文政十二年十二月二十一日歿。年五十六。釈顯秀信士〟    〈明治期の飯島虚心著『浮世絵師歌川列伝』は享年を六十五とし、同じ虚心の『浮世絵師便覧』は享年を記さず、没年     を文化九年とするなど一定していなかった。『東京掃苔録』は享年五十六としたのだが〉    ◯『浮世絵師歌川列伝』付録「歌川系図」(玉林晴朗編・昭和十六年(1941)刊)   〝豊春門人〟
    「歌川系図」  △『増訂浮世絵』p248(藤懸静也著・雄山閣・昭和二十一年(1946)刊)   〝歌川豊広は俗称岡島藤次郎、江戸の人。芝片門前町に住し、豊春に学びて、一柳斎と号す。専ら、美人    画を作る。これ同門の豊国が役者絵に、名声を擅にしたからである。従つて両者の間が円満でなかつた。    式亭三馬が両者の間に和解の労を執つたこともある。豊広は寛容にして余り小事には関係しなかつた。    義太夫節が好きで、三味線をよくし、時々戯に寄席に出て演じたこともあつたといふ。    豊広の画技 豊広はその名声に於ては豊国に及ばなかつたけれども、伎倆がそれ程劣つて居たといふの    ではない。豊広の美人画には、肉筆版画の両方面に見るべきものが少くない。その美人はどこまでも、    しとやかな、相貌のやゝ長く、身の長け稍高く、すらりとした形にである。描線も流麗で、拮崛な所は    なく、美人画としては、そのあらはし方は巧みなものといはなければならぬ。豊国も若い時には美人画    によいものがあつたけれども、後には固くなつて面白くない。寧ろ豊広の方が美人画に於ては優れて居    るといふべきである。豊広は折々美人納凉図を画いたが、腰掛に憩ひながら、団扇を動かして居るもの    ゝ如きは、如何にも品のある美人画が写せて居る。挿絵がその令例である。豊国は濫作をするし、豊広    は真面目にこれに対抗しやうとしたので、作品に価値があるのであらう。    版画に於ても主として美人を画いた。挿図の紅の衣を着た美人が坐して、けんを打つ二枚続の図がある    が、紅を主として摺刷したもので、版画として面白い作である。また半身に茶屋の女を写したものに面    白いものがある。豊国と共同で作つた両画十二候の如きは、豊広の作の方に優れたものがあり、豊国が    豊広の風に化せられたとさへいはれて居る位である。生花の図もよい作品の一つで、黒い着物を主色に    したので版画としての効果が著しい。また柱絵などの作もあるが、美人が屋根船に乗らんとする図は、    中でもよいものである。    なほ粗画を墨摺して交張絵を作つた。豊広は狩野流を学び、筆が達者であつたから、かやうなものを画    いたのであつたが、世には余り歓迎されなかつた。この種類のもので柱絵に墨摺に藍墨を薄く用ひたも    のに、梅に鷹を画いたものがあり、また竹に虎などをかいたのもある。    豊広はまた書物の挿絵に筆を執つたが、その画いた草双紙は主として敵討物の合巻並びに読本の類であ    る。寛政享和の頃から画き初めて、文化の終頃までに、百数十部を画いて居るが、一時流行した楚満人    の作には、殆ど一手に引き受けて、画いた程であつた。    以上述ぶる所によつて、豊広は色々の方面に、筆の執れる人で、その伎倆も中々優れて居たことがわか    る。    豊広の死 さて豊広は文政十一年五月に死んだ。年五十六、西久保専光寺に葬り、法諡を釈顕秀信士と    いふ。辞世の狂歌がある。      死んでゆく地獄の沙汰はともかくも 跡の始末は金次第なる    明治二十年四月、豊広の六十年忌に、三世広重が発起して、その碑を墨堤長命寺に建て、豊広の辞世の    歌を刻した    歌川豊清     豊広の男、俗称金蔵、父及び豊国に学ぶ。文化七年十四歳にして、東西庵南北の著、筆始日出松三冊を    画いて名を得た。惜むらくは幾もなくて早世した    豊広の門人    男豊清の早く死んだのは、惜むべきで、娘が他へ嫁して生れた豊熊といふのを絵師にしたが上手ではな    い。門人には広重を始めとして、広演、広兼、広昌、広政、広近、広恒などがあつて、唯一人広重が大    名を馳せた。広重を門弟にしたことは、豊広の大なる誇であらねばならぬ〟     ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   〔歌川豊広画版本〕     作品数:156点(「作品数」は必ずしも「分類」や「成立年」の点数合計と一致するとは限りません)    画号他:豊広・歌川豊広・一柳斎・一柳斎豊広    分 類:黄表紙75・合巻40・読本19・咄本9・狂歌6・絵本3・艶本1・随筆1・実録1    成立年:寛政5・7・11~12年 (6点)        享和1~4年       (34点)        文化1~10・12・14年(109点)        文政2・4~6・10年  (2点)    〈豊広は、文化十二年(1815)から文政十年(1827)まで、曲亭馬琴作の読本『朝夷巡島記』(初編から六編)の画工を担     当した〉   (一柳斎名の作品)    作品数:5    画号他:一柳斎豊広    分 類:読本2・合巻2・黄表紙1    成立年:文化3~4・6~7年(5点)