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☆ しゅんえい かつかわ 勝川 春英浮世絵師名一覧
〔宝暦12年(1762) ~ 文政2年(1819)10月26日・58歳〕
 姓 磯田 名 久次郎 別称 九徳斎  〈生年については明和五年(1768)説もある。文政八年の項、石川雅望の「勝川春英翁略伝」参照〉  ※①〔目録DB〕〔国書DB〕:「日本古典籍総合目録データベース」「国書データベース」〔国文学研究資料館〕   ②〔早稲田〕  :『早稲田大学所蔵合巻集覧稿』〔『近世文芸研究と評論』三五~七〇号に所収〕   ③〔早大集覧〕 :『【早稲田大学所蔵】合巻集覧』〔日本書誌学大系101・棚橋正博編集代表〕   ④〔早大〕   :「古典籍総合データベース」早稲田大学図書館   ⑤〔東大〕   :『【東京大学/所蔵】草雙紙目録』〔日本書誌学体系67・近世文学読書会編〕   ⑥〔書目年表〕 :『【改訂】日本小説書目年表』    〔漆山年表〕 :『日本木版挿絵本年代順目録』  〔狂歌書目〕  :『狂歌書目集成』    〔白倉〕   :『絵入春画艶本目録』      〔日文研・艶本〕:「艶本資料データベース」    「江戸絵本番付データベース」早稲田大学 演劇博物館 デジタル・アーカイブ・コレクション    『黄表紙總覧』棚橋正博著・日本書誌学大系48    『稗史提要』 比志島文軒(漣水散人)編    『洒落本大成』1-29巻・補巻 中央公論社     角書は省略。◎は表示不能文字  ☆ 安永八年(1779)    ◯『黄表紙總覧』後編「刊年未詳・補遺」(天明八年刊)     勝川春英画『虚空蔵とんだ利生記』「勝川春英画」板元不明     〈備考、刊年は伊勢朝熊岳金剛証寺虚空蔵菩薩の開帳に取材したことから、安永八年刊とした〉    ◯「江戸絵本番付データベース」(安永八年刊)    勝川春英画 十一月 森田座「倭歌競当世模様」「勝川春英画」版元不明    ☆ 安永九年(1780)    ◯「江戸絵本番付データベース」(安永九年刊)    勝川春英画 十一月 森田座「時萌於江都初雪」「春英画」版元不明    ☆ 天明二年(1782)    ◯『黄表紙總覧』前編(天明二年刊)    〔 〕は著者未見、或いは他書によるもの、または疑問のあるもの    勝川春英画〔大坂土産大和錦〕〔勝川春英画・万象亭作・板元不明〕    ☆ 天明三年(1783)    △『狂歌師細見』(平秩東作作・天明三年刊)   (巻末「戯作之部」に続いて)   〝画工之部    哥川 豊春    北尾 重政 同 政演 同 政美    勝川 春章 同 春朗 同 春常 同 春卯 同 春英 同 春暁 同 春山    関  清長      うた麿 行麿〟    ◯『黄表紙總覧』前編(天明三年刊)    〔 〕は著者未見、諸書によるもの。角書は省略した    勝川春英画    『教訓不仕候』「春英画」通笑  奥村屋板    『両国の名取』「春英画」ホコ長 江崎屋板     〈備考、刊年は天明四年かとする〉    ◯「日本古典籍総合目録」(天明三年刊)   ◇絵本    勝川春章画『怪談百鬼図会』五冊 勝川春章 勝川春英画(注記「絵本の研究による」)    ☆ 天明四年(1784)    ◯『黄表紙總覧』前編(天明四年刊)    〔 〕は著者未見、或いは他書によるもの、または疑問のあるもの    勝川春英画    〔仮名手本忠臣蔵〕〔勝川春英画 村田屋板〕    『麁相千万豕軽業』「春英画」  通笑 奥村屋板    『忠臣蔵十二段目』「春英画」  通笑 松村板    『江戸桜名画誉』 「勝川春英画」   松村板    『御物好茶臼芸』 「春英画」  通笑 奥村屋板    『骨髄芝居好』  「春英画」  通笑 奥村屋板    『難有御物好』  「春英画」  通笑 奥村屋板    『焼飯由来』   「勝川春英画」通笑 松村板    ◯『狂言絵本年代順目録』(天明四年刊)   ◇絵本番付    十一月 「重重人重小町桜」春英画    ☆ 天明五年(1785)    ◯『稗史提要』p368(天明五年刊)   ◇黄表紙    作者の部 喜三二 通笑 京伝 全交 三和 恋川好町 蓬莱山人帰橋 夢中夢助 二水山人 鳴瀧         録山人信鮒    画工の部 清長 重政 政演 政美 春朗 哥丸 勝川春英 旭光 道麿 千代女 勝花 柳交    ◯『黄表紙總覧』前編(天明五年刊)    〔 〕は著者未見、或いは他書によるもの、または疑問のあるもの    勝川春英画    『拍毬歌古事来暦』〔勝川春英画〕通笑 奥村屋板    『千秋楽下司噺』 〔勝川春英画〕通笑 奥村屋板    『天竺儲之筋』  「春英画」  通笑 奥村屋板    ☆ 天明六年(1786)    ◯『稗史提要』p370(天明六年刊)   ◇黄表紙    作者の部 喜三二 通笑 京伝 全交 杜芳 万象 三和 三蝶 好町 帰橋 琴太 山東鶏告 芝甘交         白雪・道笑・半片・自惚山人・虚空山人    画工の部 清長 重政 政演 政美 春朗 春英 三蝶 好町 蘭徳    ◯『黄表紙總覧』前編(天明六年刊)    〔 〕は著者未見、或いは他書によるもの、または疑問のあるもの    勝川春英画    『太印天上見物』「勝川春英画」「半片作」 松村板    〔教訓持病◎〕   〔勝川春英画・市場通笑作〕板元不明    ☆ 天明八年(1788)    ◯『稗史提要』p373(天明八年刊)   ◇黄表紙    作者の部 喜三二 通笑 京伝 三和 杜芳 春町 石山人 万宝 虚空山人 山東唐洲    画工の部 重政 政演 政美 哥丸 蘭徳 春英 行麿    ◯『黄表紙總覧』前編(天明八年刊)    〔 〕は著者未見、或いは他書によるもの、または疑問のあるもの    勝川春英画    『一谷嫩軍記』「春英画」作者名なし 村田板    『妹退治』  「春英画」新好作   榎本屋〈備考、内新好の黄表紙初作〉    ☆ 寛政元年(1789)    ◯「艶本年表」〔日文研・艶本〕(寛政元年刊)    勝川春英画『御覧男女姿』墨摺 半紙本 三冊 寛政元年          序「夜も昼もとりの年 佐世名斎題」    ☆ 寛政二年(1790)    ◯『黄表紙總覧』中編(寛政二年刊)    〔 〕は著者未見、或いは他書によるもの、または疑問のあるもの    勝川春英画『其返報豊年の貢』〔勝川春英画〕万宝 伊勢治板     〈「日本古典籍総合目録」は寛政四年刊とする〉     <寛政二~三年頃 見世物 曲馬(原田善太郎・立花織江)葺屋町結城座>  ◯「見世物興行年表」(ブログ)   △「大坂下り 曲馬 原田善太郎 立花おりへ 大あたり/\」細判錦絵 「春英画」版元不明    〈この「年表」解説によると、この興行を取材した洒落本『面美多勤身』に刊記はないが、内容面から寛政二三年頃     と推定できるという。ただし錦絵の方は年代及び興行場所を欠いており、刊年は不明のようだ〉     ☆ 寛政三年(1791)    ◯『稗史提要』p378(寛政三年刊)   ◇黄表紙    作者の部 京伝 全交 万宝 慈悲成 新好 夜道久良記 大栄山人 秋収冬蔵 荒金土生    画工の部 重政 政演 政美 柳郊 豊国 蘭徳 文橋 春英 菊亭    ◯『黄表紙總覧』中編(寛政三年刊)    〔 〕は著者未見、或いは他書によるもの、または疑問のあるもの    勝川春英画    『御請合戯作安売』〔勝川春英画〕万宝   伊勢治板     〈備考、豊麿画、豊国画、豊広画説を疑問とし、春英かとする〉     『笑増厄災除講釈』〔勝川春英画〕万宝   伊勢治板     〈備考、挿絵中の屛風絵に「泉小幸筆」の署名あり〉     『鎌倉山料理献立』〔勝川春英画〕万宝   伊勢治板    『為朝が島回』   署名なし  千差万別 西村屋板     〈備考、行麿説あるも疑問とし、春英かとしつつ推定は控えたいとする〉  ◯「国書データベース」(寛政三年刊)   ◇黄表紙    勝川春英画『鎌倉山料理物語』春英画 万宝 板元未詳  ☆ 寛政四年(1792)    ◯『稗史提要』p380(寛政三年刊)   ◇黄表紙    作者の部 京伝 全交 慈悲成 楚満人 万宝 井上勝町 気象天業 信夫䟽彦 黒木    画工の部 重政 政美 豊国 蘭徳 清長 春英 井上勝町    ◯『黄表紙總覧』中編(寛政四年刊)    〔 〕は著者未見、或いは他書によるもの、または疑問のあるもの    勝川春英画    『新春花作者再咲』〔勝川春英画〕万宝 伊勢治板      〈備考、『其返報豊年の貢』の改題再板本とする〉    『仮名手本忠臣蔵』「春英画」     村田屋板     〈備考、安永初年刊・鳥居清経画・村田屋板『仮名手本忠臣蔵』の再板本〉    『変化退治』   〔勝川春英画〕   西村屋板    『怪談話』    〔勝川春英画〕   西村屋板    ◯「浄瑠璃年表」〔義太夫年表〕   ◇義太夫番付(寛政四年刊)    勝川春英画「伊達競阿国戯場」「春英画」正月廿四日より    ☆ 寛政五年(1793)    ◯『黄表紙總覧』中編(寛政五年刊)    〔 〕は著者未見、或いは他書によるもの、または疑問のあるもの    勝川春英画    『日永話御伽古状』〔勝川春英画〕森羅亭万宝  伊勢治板    『御茶漬十二因縁』〔勝川春英画〕馬琴     伊勢治板     『歌化物一寺再興』「春英画」  夢中庵作三  村田屋板    『身為着宝貝洪福』〔勝川春英画〕陽鳴亭鶴成      〈備考、諸書は春英画かとするが躊躇されるとして画工名未記載とする〉    『刈萱染衣日記』        南杣笑楚満人 榎本屋     〈備考、諸書は勝川春英かとするが画風に相違ありとして画工不明とする〉    『出世之門松』  「春英画」         村田屋板    『遊気乃酒夢』  〔勝川春英画〕       村田屋板  ◯「国書データベース」(寛政五年刊)   ◇黄表紙    勝川春英画    『春遊七福曾我』勝川春英画 作者・板元不記載    『二代大中黒』「春英画」  南杣笑楚満人 榎本屋板    『六通半略巻』 勝川春英画 森蘿亭万宝  伊勢治板  ☆ 寛政六年(1794)    ◯『稗史提要』p384(寛政六年刊)   ◇黄表紙    作者の部 京伝 全交 森羅亭 石上 慈悲成 真顔 馬琴 式亭三馬 千差万別 本膳亭坪平          築地善好    画工の部 重政 政美 春朗 春英 豊国    ◯『黄表紙總覧』中編(寛政五年刊)    勝川春英画    『源平布引滝』勝川春英画 村田屋板     〈本作は次条『旭出源氏』の前編にあたるところから春英画とする〉    『旭出源氏』「春英画」  村田屋板    ☆ 寛政七年(1795)    ◯『増訂武江年表』2p11(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (寛政七年)   〝正月九日、谷風梶之助終る。     筠庭云ふ、勝川春英よく谷風、小野川が肖像を書きたり。其の他も多かれども、わきて谷風が肖貌な     らでは、角力らしく思はれぬ程なりき。珍しい力士なりといふべし〟    ☆ 寛政八年(1796)    ◯「絵暦年表」(本HP・Top)(寛政八年)   ⑧「春英画」Ⅵ-30「硯から龍」(文机上に孔雀の羽根・筆・紙・硯から龍が立ち上る)     賛なし〈龍は大の月(漢数字)のくずしからなる〉  ☆ 寛政九年(1797)     ◯「絵本年表」(寛政九年刊)    勝川春英画『美満寿組入』狂歌 一巻 談州楼焉馬作 四方歌垣真顔跋 上総屋利兵衛板〔漆山年表〕      二代目清満門弟鳥居清長・東紫園春潮画・春好左筆・元祖鳥居清信画・二代目鳥居清信      勝九徳斎春英画・邦易祇画賛・嵩琳応求・歌川豊国画    ◯『黄表紙總覧』中編(寛政九年刊)    〔 〕は著者未見、或いは他書によるもの、または疑問のあるもの    勝川春英画    『絵本根元石橋山』「画工春英画」南杣笑楚満人 泉市板    『仮名手本忠臣蔵』「春英画」         村田屋板     〈備考、寛政四年刊の再摺再板本〉    『源平布引滝』  「春英画」         村田屋板     〈備考、寛政六年刊『源平布引瀧』と『旭出幼源氏』とを合わせた再摺再板本〉    ◯「絵入狂歌本年表」〔目録DB〕(寛政九年刊)    勝川春英画『美満寿組入』一冊 烏亭焉馬編 上総屋利兵衛板     「勝九徳斎春英画」(五代目市川蝦蔵肖像)・「春英画」(六代目市川団十郎肖像)     他に、二代目清満門弟鳥居清長画・東紫園春潮画・春好左筆・二代目鳥居清倍画     元祖鳥居清信画・歌川豊国・嵩琳・易祇    ☆ 寛政十一年(1799)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(寛政十一年刊)    勝川春英画    『今日歌百猿一首』狂歌 一巻 立川談洲楼焉馬編 上総屋利兵衛板     国政画 春好左筆 勝春英画 俵屋宗理画    ◯『今日歌白猿一首』(立川焉馬編・寛政十一年刊・〔目録DB〕画像)    挿画「暫」図「篠塚伊賀守貞綱 市川団十郎」「勝春英画」      〈寛政十年十一月、中村座の顔見世興行において、二十一歳の六代目団十郎が初めて座頭を務めることのなった。その     とき、寛政八年の引退以来、成田屋七左衛門と称して隠居していた五代目が、約二年ぶりに舞台に復帰して市川白猿     の名で口上を述べた。これを江戸の人々がこぞって大歓迎し、狂歌を詠んで祝意を表した。この狂歌集はそのとき披     露された口上や白猿自身が詠んだ狂歌、また人々から寄せられた狂歌などを編集してなったもの。勝川春英もまた、     この顔見世で暫を演じた六代目を画くとともに、次のような狂歌を詠んでいた〉     〝絵の事はしろふと形リの口上を 買い手の多ひことぞいさまし 勝川春英〟      〈春英は五代目と六代目と二代にわたる団十郎を祝福したのである。なおこの時狂歌と絵を寄せた浮世絵師は他に、勝     川春好・俵屋宗理(北斎)・歌川国政。狂歌を寄せたのは、左尚堂俊満・歌川豊国・勝川春潮であった〉    ◯『洒落本大成』第十七巻(寛政十一年刊)    勝川春英画『廓節要』「春英画」楽亭馬笑作    〈『洒落本大成』第十七巻の解題によると、挿画に春英画とあるものは「所見十七本中一本のみ」とあり〉    ☆ 寛政年間(1789~1801)      ◯『浮世絵考証』〔南畝〕⑱444(寛政十二年五月以前記)  〝勝川春章 又勝宮川氏とも 弟子 春好                    春英 〟 ◯『古今大和絵浮世絵始系』(笹屋邦教編・寛政十二年五月写)    (本ホームページ・Top「浮世絵類考」の項参照)
   「勝川派系図」    ◯『増訂武江年表』2p18(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (寛政年間記事)   〝浮世絵師 鳥文斎栄之、勝川春好、同春英(九徳斎)、東洲斎写楽、喜多川歌麿、北尾重政、同政演    (京伝)、同政美(蕙斎)、窪俊満(尚左堂と号す、狂歌師なり)葛飾北斎(狂歌の摺物読本等多く画    きて行はる)、歌舞伎堂艶鏡、栄松斎長喜、蘭徳斎春童、田中益信、古川三蝶、堤等琳、金長〟    ☆ 享和元~二年(1801~02)    ◯『一筆斎文調』(「早稲田大学演劇博物館所蔵 芝居絵図録1」・1991年刊)    〈一筆斎文調の七回忌が六月十二日、柳橋の万八楼で行われた。その時の摺物に、当日席書に参加したと思われる絵師     たちの絵が添えられている。絵師は次の通り〉      「豊廣画・堤孫二筆・豊国画・春秀蝶・寿香亭目吉筆・画狂人北斎画・歌麿筆・雪旦・春英画」       〈この摺物には刊年がない。ただ北斎が「画狂人」を名乗っていることから、ある程度推定が可能のようで、『浮世絵     大事典』の項目「一筆斎文調」は「享和元年~二年(1801~02)頃のもの」としている。それに従った。なお摺物の     本文は本HPの「一筆斎文調」か「窪俊満」の項を参照のこと〉    ◯『敵討布施利生記』和泉屋市兵衛板 享和元年刊「酉之春新版目録」   〝絵本勇見袋 彩色入武者 春英画 二冊〟    〈『絵本勇見袋』未確認〉  ☆ 享和二年(1802)       △『稗史億説年代記』(式亭三馬作・享和二年)〔「日本名著全集」『黄表紙二十五種』所収〕   〝草双紙の画工に限らず、一枚絵の名ある画工、新古共に載する。尤も当時の人は直弟(ヂキデシ)又一流あ    るを出して末流(マタデシ)の分はこゝに省く。但、次第不同なり。但し西川祐信は京都の部故、追て後編    に委しくすべし    倭絵巧(やまとゑしの)名尽(なづくし)     昔絵は奥村鈴木富川や湖龍石川鳥居絵まで 清長に北尾勝川歌川と麿に北斎これは当世    勝川旭朗井春章  勝川九徳斎春英  春好  春潮  春常  春鶴  春林  春山  蘭徳斎    (他の絵師は省略)〟
   『稗史億説年代記』 式亭三馬自画作(早稲田大学図書館・古典籍総合データベース)     〝青本 青本大当りを袋入に直す。表紙の白半丁に口のりをつけぬ事起る    画工 春好、続いて似顔絵を書出す。俗にこれを小つぼと称す。但し役者、角力也    同  蘭徳斎春道一たびの姿かはる。春朗同断。此頃の双紙は重政、清長、政よし、政のぶ、春町    同  【政よし、政のぶ】絵の姿一変する。勝春英、役者、角力の似顔絵をかく。    作者 通笑、全交、喜三二、三和、春町、万象、杜芳、いづれも大当りある〟     〝画工名尽【これは来くさざうし/板下を休の部】    鳥居 関 清長  勝川九徳斎春英    喜多川 歌麻呂  北斎 辰政    北尾 政演    蕙斎 政美〟    〈この画工たちは来年(享和三年)出版予定の板下を担当しないというのだろう〉    ☆ 享和三年(1803)     ◯「絵本年表」(享和三年刊)    勝川春英画『戯場訓蒙図彙』八巻 画人九徳斎勝川春英・一陽斎歌川豊国 上総屋忠助板〔漆山年表〕    ◯『黄表紙總覧』後編(享和三年刊)     勝川春英画    『深山草化物新語』「春英画」  夢中庵作二  村田屋板     〈備考、寛政五年刊『歌化物一寺再興』の改題再摺再板本〉    『画解平家物語』 〔勝川春英画・南杣笑楚満人〕榎本屋板   ◯「国書データベース」(享和三年刊)   (黄表紙『敵討安積車』泉市板 巻末「癸亥春新板目録」)   〝絵本小栗一代記 楚満人戯作 勝川春英画 三冊     おくりてるてのものがたりを くはしく御子様方の御かてんのまいるよふにしるす〟    〈〔国書DB〕に同名本の画像があるが、作者は楚満人で同じであるものの、画工名・板元・刊年は不明である〉    ☆ 文化元年(1804)    ◯『伊波伝毛乃記』〔新燕石〕⑥130(無名子(曲亭馬琴)著・文政二年十二月十五日脱稿)   〝文化二年乙丑の春より、絵本太閤記の人物を錦絵にあらはして、是に雑るに遊女を以し、或は草冊子に    作り設けしかば、画師喜多川歌麿は御吟味中入牢、其他の画工歌川豊国事熊右衛門、勝川春英、喜多川    月麿、勝川春亭、草冊子作者一九等数輩は、手鎖五十日にして御免あり、歌麿も出牢せしが、こは其明    年歿したり、至秋一件落着の後、大坂なる絵本太閤記も絶板仰付られたり〟    〈読本『絵本太閤記』は、武内確斎作・岡田玉山画で、寛政九年から享和二年にかけて出版された。この「絵本太閤記」     一件、諸本、文化元年のこととするが、馬琴が文化二年としているのは不審。ともあれ、大坂の玉山画『絵本太閤記』     はこれまで咎められることもなく無事出版できていた。それでおそらくそれに触発されたのであろう。江戸の歌麿、     豊国、春英・月麿・春亭・一九たちも便乗するように「太閤記」ものを出版してみた。ところが案に相違して、摘発     を受け入牢・手鎖に処せられてしまった。しかも累は『絵本太閤記』にまで及び、絶版処分になってしまった。どう     も大坂と江戸では禁制事項にずれがあるらしく、江戸の方がそれを読み違えたのかもしれない〉    ◯『筆禍史』「絵本太閤記及絵草紙」(文化元年・1804)p100(宮武外骨著・明治四十四年刊)   〝是亦同上の理由にて絶版を命ぜられ、且つ著画者も刑罰を受けたり『法制論簒』に曰く     文化の始、太閤記の絶版及び浮世絵師の入獄事件ありき、是より先、宝永年間に近藤清春といふ浮世     絵師、太閤記の所々へ挿絵して開板したるを始にて、寛政の頃難波に法橋玉山といふ画工あり、是も     太閤記の巻々を画き      〔署名〕「法橋玉山画図」〔印刻〕「岡田尚友」(白文方印)「子徳(一字未詳)」(白文方印)     絵本太閤記と題して、一編十二巻づゝを発兌し、重ねて七篇に及ぶ、此書普く海内に流布して、遂に     は院本にも作為するものあり、又江戸にては享和三年嘘空山人著の太々太閤記、十返舎一九作の化物     太閤記など、太閤記と名づくる書多く出来て、後には又勝川春亭、勝川春英、歌川豊国、喜多川歌麿、     喜多川月麿などいふ浮世絵師まで、彼の太閤記の挿画を選び、謂はゆる三枚続きの錦絵に製せしかば、     犬うつ小童にいたるまで、太閤記中の人物を評すること、遠き源平武者の如くなりき、斯くては終に     徳川家の祖および創業の功臣等にも、彼れ是れ批判の波及すらん事を慮り、文化元年五月彼の絵本太     閤記はもとより、草双紙武者絵の類すべて絶版を命ぜられき、当時武者絵の状体を聞くに、二枚続三     枚続は事にもあらず、七枚続などまで昇り、頗る精巧を極めたりとぞ、剰へ喜多川歌麿武者絵の中に、     婦女の艶なる容姿を画き加ふる事を刱め、漸く風俗をも紊すべき虞あるに至れり、例へば太閤の側に     石田三成児髷の美少年にて侍るを、太閤その手を執る、長柄の銚子盃をもてる侍女顔に袖を蔽ひたる     図、或は加藤清正甲冑して、酒宴を催せる側に、挑戦の妓婦蛇皮線を弾する図など也、かゝれば板元     絵師等それ/\糾問の上錦絵は残らず没収、画工歌麿は三日入牢の上手鎖、その外の錦絵かきたるも     の悉く手鎖、板元は十五貫つゝの過料にて此の一件事すみたり云々    又『浮世絵画人伝』には左の如く記せり     喜多川歌麿と同時に、豊国、春亭、春英、月麿及び一九等も吟味を受けて、各五十日の手鎖、版元は     版物没収の上、過料十五貫文宛申付られたり     豊国等の描きしは、太閤記中賤ヶ嶽七本槍の図にして、一九は化物太平記といふをものし、自画を加     へて出版せしによるなり〟    ☆ 文化二年(1805)    ◯『黄表紙總覧』後編(文化二年刊)    勝川春英画『源家武功記』「春英画」南杣笑楚満人 榎本屋板    ☆ 文化三年(1806)    ◯『黄表紙總覧』後編(文化三年刊)   〔 〕は著者未見、或いは他書によるもの、または疑問のあるもの    勝川春英画    『義仲粟津合戦』〔勝川春英画〕  十返舎   岩戸屋板〈前書〔武勇木曾桟〕の改題再板本〉    『義経高館合戦』               岩戸屋板〈前書〔勇壮義経録〕の改題再板本〉    〔勇壮義経録〕 「画図九徳斎春英」十返舎一九 岩戸屋板     〈備考、序に「文化丙寅孟春」とある由。また画工・作者名は文化四年の岩戸屋新刻絵本目録に拠る由。      文化四年及び同九年刊もあるという〉    〔大内家軍談〕 「画図九徳斎春英」十返舎一九 岩戸屋板     〈備考、序に「文化丙寅孟春」とある由。また画工・作者名は文化四年の岩戸屋新刻絵本目録に拠る由。      文化四年に再板あり〉    〔武勇木曾桟〕 〔勝川春英画〕  十返舎   岩戸屋板〈備考、次書の初板の由〉    〔住吉誕生石』 〔勝川春英画・十返舎一九作・岩戸屋板〕     〈備考、文化四年の岩戸屋新刻絵本目録に拠るが、初板は文化三年刊と推定の由〉     ☆ 文化四年(1807)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文化四年刊)    勝川春英画『絵本勇壮義経録』三冊 画図九徳斎春英 十返舎一九作 岩戸屋喜三郎板    ◯「合巻年表」(文化四年刊)     勝川春英画    『敵討稚木花王』「画図九徳斎春英」十返舎一九作 岩戸屋板 ⑤    『筆の山物語』 「勝川春英画」  東里山人作  岩戸屋板 ①    『大内家軍談』  勝川春英画   十返舎一九作 板元未詳 ①    『勇壮義経録』  勝川春英画   十返舎一九作 岩戸屋板 ①    『化物の娶入』  勝川春英画   十返舎一九作 山口屋板 ①    『武徳木曾桟』  勝川春英画   十返舎一九作 板元未詳 ①    『忠孝再生記』  勝川春英画   竹塚東子作  板元未詳 ①    ☆ 文化五年(1808)    ◯「合巻年表」〔目録DB〕(文化五年刊)     勝川春英画    『化物一歳草』「勝川春英画」十返舎一九 山口屋    『三国志』   勝川春英画 十返舎一九 板元未詳(注:日本小説年表による)  ◯「国書データベース」(文化五年)   ◇黄表紙    勝川春英画『質流人の行末』勝川春英画「十返舎一九著」    (注:『質流思外幸』の改作)〈『質流思外幸』は一九自作自画・岩戸屋板・享和元年刊〉    ☆ 文化六年    ◯「朝寝坊夢羅久落話会披露之摺物」   (『落話会刷画帖』式亭三馬収集・文化十二年八月序・『日本庶民文化史集成』第八巻所収)   〝文化六年己巳八月廿八日、開莚於柳橋大のし富八楼〟    〈夢羅久(夢楽)最初の落語会、この摺物に、春英・豊国・北馬・拙亭翠・泉目吉が絵を添えた。以下は三馬のコメント〉   〝勝川九徳斎 春英ハ旭朗井春章の門人、当時大坂町に住す〟    〈三馬のいう「当時」とは、泉目吉の記事に「当時本郷に住す」と「文化十一年秋物故」とあることからすると、この     画帖が仕立てられた文化十二年ではなくて、この落語会のあった文化六年なのであろう〉      ☆ 文化八年(1811)    ◯「絵入狂歌本年表」〔目録DB画像〕(文化八年刊)    勝川春英画『瀬川仙女追善集』一冊 遠桜山人(蜀山人)序・四方歌垣跋     (菊図) 豊国・鳥居清長・栄之・辰斎・北馬・秋艃・曻亭北寿・五清・春亭・春英・北斎等画     (追善詠)三馬・飯盛・馬琴・京伝・京山・焉馬等     〈〔目録DB〕は成立年を文化七年とするが、三代目瀬川菊之丞は文化七年十二月五日没、この追善集は一周忌のも      のである。すると刊年は文化八年ではなかろうか〉    ◯『式亭雑記』〔続燕石〕①85(文化八年四月廿一日)   〝(勝川春亭、春徳共に)勝川春英の門人也、【春英は大さか町に住す】〟    ☆ 文化十年(1813)    ◯『馬琴書翰集成』⑥323 文化十年(1813)「文化十年刊作者画工番付断片」(第六巻・書翰番号-来133)
   「文化十年刊作者画工番付断片」    〈書き入れによると、三馬がこの番付を入手したのは文化十年如月(二月)のこと〉    ☆ 文化十四年~十五年(1817~18)    ◯『【諸家人名】江戸方角分』(瀬川富三郎著・文化十四年~十五年成立)   「堺町 画家」〝春英 号九徳斎 新泉町 久治郎〟    ◯「集古会」第七十二回 明治四十二年三月 於青柳亭(『集古会誌』己酉巻三 明治42年9月刊)   〝林若樹(出品者)式亭三馬旧蔵 本箱蓋 七枚    十二月之内二枚     表 春英筆 柿樹図    裏 三馬自筆 文化十四年丁丑秋造 式亭所蔵とあり     表 同筆  雪中賃餅図  裏 同自筆  文化十四年丁丑秋造 式亭三馬所蔵     蓋に画く所の十二月の図は勝川九徳斎春英老人の筆なり    十二支の内二枚     表 春英筆 玉蜀黍に鼠図 裏 同自筆  文化十五年戊寅夏造 式亭所蔵    新一 十二支之内 勝川九徳斎春英筆     表 同筆 ウラ 同自筆 文化十五年戊寅夏造 式亭所蔵〟    〈愛蔵本を収納する本箱の蓋に揮毫を依頼するのだから、三馬は春英の画業を高く評価していたのであろう。なお作画     を依頼したのはもうひとりいて、香蝶楼国貞が担当している〉  ☆ 文政二年(1819)(十月二十六日没・五十八歳)〈文政八年「勝川春英翁略伝」参照〉    ◯『増訂武江年表』2p64(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (文政二年)   〝七月二十六日、浮世絵師勝川春英死す(五十八歳、号九徳斎。東本願寺中善照寺に葬す。牛島長命寺に    碑あり。六樹園の文也)。     筠庭云ふ、勝川春英は春章につゞきたる上手なり。操芝居看板はいつも春英が書きたり。見物ほめざ     るはなかりき。又其の頃三芝居茶屋より、暑中に得意に贈りものとする団扇の画、おかしき思ひ付を     筆かろく書けるは、他の画師及ぶものあるべからず。又三馬が作芝居の楽屋中の事を書けるもの、大     本にてあり、其の絵春英なり。太刀打ちたての処、人物裸に書きたる活動、いとよく書きなしたり〟    〈「三馬が作芝居の楽屋中の事を書けるもの」とは『戯場訓蒙図彙』ことと思われる。初板は享和三年正月の刊行。作     画は八巻中、七巻を除いて勝川春英。七巻には市川五代目蝦蔵(白猿)以下四十七名の役者似顔絵が色摺りで収録さ     れているが、ここだけは歌川豊国が担当している。また、板下の筆者は栄松斎長喜である。国立劇場・芸能調査室編     〈歌舞伎の文献・3〉『戯場訓蒙図彙』参照。牛島長命寺の碑文は下出『増補浮世絵類考』にあり〉      ☆ 刊年未詳    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇絵本・絵画(刊年未詳)    勝川春英画『国姓爺合戦』二冊 春英画    ☆ 没後資料  ☆ 文政八年(1825)  ◯「勝川春英翁略伝」石川雅望撰 文政八年十月建立(牛島長命寺)   (斎藤月岑著『増補浮世絵類考』より)   〝勝川春英翁略伝    久徳斎春英翁大〈イ武〉江いづみ町の人なり。世に聞へたる絵師なる事は人の知るところなればいはず。    父は磯田次郎兵衛といひ、母は某氏とか。はやう勝川春章が弟子と成て、それが氏を継ぬ。子二人あり。    女子さきだちてうせぬ。男子斧二今世にあり。翁、明和五年戊子にうまれて、文政二年己卯七月二十六    日、とし五十八にてみまかりぬ。浅草本願寺なる善照寺に墓あり。翁、本性すなほにて、飾ることをい    とひて、いづこへもみぐるしげの服のまゝにて出ぬ。かくては見ぐるし、かさねてはうるはしき衣きて    来給へと、あそびがいふをきゝて、後の日、又かしこに至りぬ。出あへるものゝうちたふれて笑ふ事か    ぎりなし。翁、さるがくの女の装束、ことにきら/\しきをうちきて、まめだちをりて、みづからはを    かしとおもはぬげにてぞ有ける。ある時、日ころを過して家にかへりきて、とのかたに立ゐて、いかに    春英のやどりはこれか、とたかやかにいふを、妻おどろきて戸ひきあけていれつ、なにとていまのほど、    きは/\しくのたまへる、といへば、日をへて帰りきたれば、もし此家の、あだし人の物にやなりぬら    ん、さては案内せではあしからんと思ひて、さはいひたるなりといらへき。すべて翁のしはざ、顧長康    の風あり とみな人はいひけり。おほかた江戸絵ととなへて、木にゑりてすりたるもの、翁の右にいづ    るものなしとぞ、北尾なにがしはいひたる。翁なくなりて、ことし七とせに成ぬとて、まなびをうけた    る人々かたらひあはせて、かくさまの石をたてゝ、おのれをして聊なるつたへごとをしるさせつ。あは    れかゝる人のむそぢにもたらで、をはりをとりぬる、かへす/\をしみてもをしむべきことなりかし     文政八年乙酉十月  石川雅望於六樹園書〟    〈吉原通いの挿話でもって春英の一風変わった性格を表現している。顧長康は「画聖」とも呼ばれた東晋の顧愷之。北     尾何某は当時の浮世絵界の重鎮・北尾重政(文政三年没・82歳)。画聖の風ありとし、重鎮の賛辞を引いて、石川雅望     (六樹園・宿屋飯盛)は春英の人柄とその画業を大いに称えたのである。ところで生年についてだが、この碑文には     明和五年(1768)とある。あるいは遺児の斧二なる者から聞いたものとも思われるが、文政二年(1819)没で享年五十八     だとすると、明らかにこれでは計算が合わない。生年・享年いずれが真か知るよしもないが、上掲斎藤月岑の『武江     年表』記事では「五十八」と報じているから、巷間では享年の方が通用したのだろう。春英の生年、通説では宝暦十     二年(1762)とされる。これは享年に信をおいて逆算したのである。粗服から能装束に着替えた挿話と、帰宅して妻に     他人行儀らしく振る舞ったという挿話は、明治になると、次のように脚色されて伝えられた〉    画人逸話(吉山圭三編 明治42年刊)〉  ☆ 文政十二年(1829)    ◯『神事行燈』二編(歌川国芳画・文政十二年刊)   (花笠文京序)   〝安永のむかし/\、狂句の種を蒔しより、以来川柳(かはやなぎ)の一株、世々の風になびき、年々に    繁茂する事夥し、前に浪華のあし国それが図を造りて狂画とよぶ、今また江戸の国よし句意を採て筆    を揮ふ、故(ふる)くは鳥羽僧正の写意を和げて色を含ませ、近くは九徳斎が草画に准(なら)ひて、当    世ぶりを穿つもの也、読むにあく事なく、笑はずといふ事なし、所謂戯場(しばゐ)の道化師の類にし    て、無声の物真似、有声の滑稽、句中の可笑(をかしみ)、筆意の働き、人情世態を尽すに至りては、    腹筋を不◎(よらざる)はなかるべし、噫狂句の手強(てづよき)に余情を画くあは、龍に翼を添へたる    に斉(ひと)し、予其席に在て速に蛇足の緒言を加ふ〟   ◯『三升屋二三治戯場書留』〔燕石〕③21(伊勢屋宗三郎著・天保末成立) (「浮世絵師」の項)   〝勝川春章といふ、門人春英九徳斎は、近来役者似顔、浮世絵師に名高く、又後、歌川豊国一陽門人、国    安、国芳抔、当時の役者、女絵の銘人にして、訳て中にも、香蝶楼国貞は似顔の上手、むかしより此絵    師に及ぶ錦繪はさらになし〟    ☆ 天保四年(1833)   ◯『無名翁随筆』〔燕石〕③298(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)   〝勝川春英【(空白)年中歿す】     俗称(空白)、居新和泉町新道、号九徳斎    始春章門人なり、後一家をなせり、武者絵に妙を得たり、寛政、享和の比、専ら錦絵多く発市せり、操    芝居の看板画をかけり、世に知る処なり、自然一家の筆意をあらはせしに、画道の妙を得たり、一蝶、    嵩谷に比観すべし、土佐、狩野の筆意に傚て、其妙処を天然に書き出せり、生涯浮世絵に終るはおしむ    べき者也、一流の筆意を顕せし狂画をかけり、九徳風と云彩色摺画本、武者絵手本、絵草紙数種あり、    枚挙すべからず、近世の名人也、春章、歌麿も不及処多し、初代豊国は此画風を学びたり、      絵本弓袋    忠臣蔵十一段続の屏風、火事場火消はたらきの画巻物、其他人の画かざるものを多くかけり、     因云、九徳斎は、義太夫をよく語り、三味線に妙なり、麹町なる山田某に逗留して、屏風、絵巻物を     画けり、奇絶とする事多し、委くは別に記す、画法に奇巧ありし人にて、古きをたづねて新き図を工     むの名手なり、又義太夫節をよく語り、三味線をもよくひけり、
   「勝川春英系譜」    ☆ 弘化元年(天保十五年・1844)     ◯『増補浮世絵類考』(ケンブリッジ本)(斎藤月岑編・天保十五年序)   (( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち)   ◇「勝川春章」の項(春章門人)
   「勝川春章系譜」     〝後一家をなす沢(ママ)にしるせり〟     ◇「勝川春英」の項   〝勝川春英    年中歿す     俗称     居 新和泉町新道     号 九徳斎    春章門人也。後一家をなす。武者絵をよくす。寛政享和の頃、役者似㒵絵、其外錦絵多く発市せり。操    芝居の看板を画り。自然一家の筆意をあらはし、又狂画をかきて、世に九徳風と云、彩色摺画本、武者    画手本、絵双紙数種あり。春章、歌麿も不及所ありて、初代豊国も此画風を学びたり。     絵本弓袋     同〈芝居訓蒙図彙 三馬編〉     因に曰、九徳斎は義太夫節浄瑠璃をよく語り、三味線に妙なり。麹町なる山田某に逗留して、屏風絵    巻物を画けり、奇絶とする事多し。    (忠臣蔵十一段続の屏風、火事場火消はたらきの画巻物、其他、人の画かざるものを多くかけり。深川    八幡宮額堂にかゝげたる素盞鳴尊大蛇退治の図は春英の筆なり)
   「勝川春英系譜」    (石川雅望月の「勝川春英翁略伝」あり。上掲文政八年の項参照)    ☆ 弘化二年(1845)    △『戯作者考補遺』p(木村黙老編・弘化二年序)   〝九徳斎 春英 新和泉丁 家主久次郎〟    ☆ 嘉永三年(1850)    ◯『古画備考』三十一「浮世絵師伝」中p1386(朝岡興禎編・嘉永三年四月十七日起筆)   〝春英 号九徳斎    文政二年七月廿六日死、五十八歳    東本願寺中善照寺ニ葬、牛島長命寺ニ碑アリ、六樹園ノ文也、武江年表
   「宮川長春系譜」    ☆ 安政六年(1859)     ◯「絵本年表」   ◇絵本(安政六年刊)    春英画    『本化高祖累歳録』五冊 法眼雪旦 堤等舟筆 蘭泉画 鄰松画 山本春重画 長谷川雪堤                北尾政演 東牛斎蘭香行年七十歳画 長谷川雪瑛 春英画 法橋関月                寛政甲寅原版歟 深見要言輯 広岡屋幸助求版〔漆山年表〕    〈寛政甲寅は寛政六年。〔目録DB〕は寛政五年刊とする。但し画工名はなし〉    ☆ 明治元年(慶応四年・1868)    ◯『新増補浮世絵類考』〔大成Ⅱ〕⑪213(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   ◇「宮川氏系譜」の項 ⑪188
   「宮川長春系譜」     ◇「勝川春英」の項 ⑪213   〝勝川春英    号九徳斎、新和泉町新道に住して後一家をなす。寛政、享和の頃役者似顔絵其外錦絵多く発市せり。自    然一家の筆意をあらはし、狂画をかきて世に九徳風と云。彩色画手本。武者画手本、絵双紙数種あり。    春章歌麿も及ばざる所ありて、初代豊国も此画風を学びたり。又義太夫節浄るりをよく語り、三味線に    妙あり。麹町なる山田某に逗留して屏風絵巻物を画り。忠臣蔵十一段続の屏風、火事場火消の働きの絵    巻物、其外人の画かざるもの多くかけり。文政二年己卯七月廿六日歿す。五十八歳。浅草本願寺中善照    寺に葬る。     絵本弓袋    芝居訓蒙図彙 式亭三馬作〟    ☆ 明治以降    ◯『近古浮世絵師小伝便覧』(谷口正太郎著・明治二十二年(1889)刊)   〝享和 勝川春英    九徳斎と号す、春章門人。文政二、歿す、年五十八。東京牛島に碑あり〟    ◯「読売新聞」(明治23年(1890)3月26日付)   〝西京黼黻(ほふつ)生に答ふ    勝川春英の伝    磯田氏治郎兵衛の男 明和五年某の月某の日を以て新和泉町新道の家に生る 天資後素の事を好み 勝    川春章の門に入りて浮世絵を学び 傍ら狩野土佐に出入して 竟に一家の旗幟を立たり 其晩年の筆作    に至りては 殆ど師春章も企て及ばざるところなりといふ 寛政享和の頃より役者似顔絵其他絵本錦絵    を多く出し 又操り芝居の看板を描きて 自然一流の筆意を残し 猶一種の狂画を書きて 世に九徳風    と称せられたり 九徳は英(ママ)の別号九徳斎に因みて呼しなり 英又北斎と同じく画才に長じ 他人の    描き能はざるもの 古来未だ嘗て在らざる奇図を作るに巧(たくみ)を究めし人にて 忠臣蔵十一段続の    屏風或は火事場にて火消人足の働く絵巻物を造りしなど 実に結構の奇、意匠の妙、見る者をして驚か    しめたりとぞ 今英の事につき一の奇話あり 其事文政八年石川雅望が撰べる同人の伝 牛島長命寺の    碑に委しければ左に掲げぬ    (前略)翁(春英を指す)本性すなほにて、飾ることをいみきらひて、いづこへゆくも、けのふくのま     ゝにて出ぬ、かくてはみぐるし、かさねては麗しき衣きて来玉へと、あそびがいふをきゝ、後の日ま     たかしこに至りぬ、出あへるものうゝ(ママ)ちたふれて笑ふことかぎりなし、翁さるがくの女の装束、     ことにきら/\しきを打きて、まめだちおりて、みづからはおかしとも思はぬげにてぞありける、或     時日頃をすぐして家に帰り来て、とのかたに立ゐて、いかに春英のやどりはこれかと高やかにいふを、     妻おどろきて戸ひきあけて入れつ、何とて今の程きは/\しくはのたまへるといへば、日を経て帰り     きたれば 若し此家あだし人ものにやなりぬらん、さては案内せではあしからんと思ひて、左はいひ     たるなりといらへき。すべて翁のしはざ顧長康の風ありと皆人はいひけり(以下略す)〟  ◯『浮世絵編年史』(関場忠武著 明治二十四年(1891)刊)   「勝川春英翁略伝」(長命寺建立碑 石川雅望撰 文政八年十月)   (国立国会図書館デジタルコレクション画像)50/74コマ    〈イ〉は異本、ここでは斎藤月岑の『増補浮世絵類考』「勝川春英翁略伝」を引く   〝勝川春英翁略伝    久徳斎春英翁は大江戸和泉町の人なり。世々聞へたる絵師なることは人の知る所なりければいわず。父〈イ武江〉    は磯田次郎兵衛といひ、母は某氏とか。はやう勝川春章子が弟子となりて、それが氏を継ぬ。子二人あ    り。女子は先だちてうせぬ。男子は斧二、今世にあり。翁、明和五年戊子に生れて、文政二年己卯十月    廿六日、年五十八にて身まかりぬ。浅草本願寺なる善照寺に墓あり。翁、本性すなをにて、飾ることを    いみきらひて、いづこへ行にもけの服のまゝにて出でぬ。かくてはみぐるし、かさねてはうるはしき 〈イもみぐるしげ〉    衣きて来り玉へ、とあそびがいふをきゝて、後の日、又かしこに至りぬ。出あへるものぞうちたふれて〈イの〉    笑ふことかぎりなし。翁、さるがくの女の装束、ことにきら/\しきをうち着て、まめだちをりて、み    づからはをかしとも思はぬけにてぞ有ける。ある時、ころを過して家に帰りきて、とのかたにたちゐて、〈イ日ころ〉    いかに春英のやどりは是れか、とたかやかにいふを、妻おどろきて戸ひきあけていれつ、何とて今のほ    ど、きは/\しくのたまひそ、といへば、日をへて帰りきたれば、もし此家あだし人の物にやなりぬら〈イへる〉    ん、さては案内せではあしからんと思ひてさは云たるなりと、すべて翁のしわざ、顧長康の風ありと、〈イといらへき。〉    皆人はいひけり。おほかた江戸絵ととなへて、木にゑりてすりたるものは、翁の右に出るものなしとぞ、    北尾何某はいひけり。翁なくなりて七とせになりぬとて、まなびをうけたる人々かたらいあはせて、か    くさまの石を立てゝ、おのれをして聊なるつたへごとをしるさせつ。あわれかゝる人のむそぢにもたら    で、をわりをとりぬる、かへす/\おしみてもをしむべきことなりかし     文政八年已酉十月  六樹園石川雅望撰 〈已酉は乙酉の誤り〉    (背面)   〝春徳  春童  英斎  英章  春幸  春景  春陽  春勢  春柳  春馬    春雄  春和  馬場氏        梅屋野史曰、右勝川春英が略伝を刻める碑は向島長命寺にあり、碑面上横に勝川春英翁略伝の七字を刻    み、その下に文を刻めり、また碑背に春徳以下の名を彫りたり、伝文にまなびをうけたる人々かたらひ    あわせて石を立とあれば、皆春英門人なるべし〟   〈この碑文『増補浮世絵類考』の文面とほぼ同じ。ただ翻刻者が異なるのと、背面に弟子の名前があるので、参考のために収録    した。梅屋野史は『浮世絵編年史』の著者・関場忠武。(内題下に「関場梅屋編輯」とある)〉  ◯『日本美術画家人名詳伝』上p217(樋口文山編・赤志忠雅堂・明治二十五年(1892)刊)   〝勝川春英    九徳ト号ス、江戸ノ人、役者ノ似顔ヲ画ケリ、後チ狂画ヲ画テ一流九徳流ト称セリ、文政二年歿ス、年    五十八(燕石十種)〟  ◯『古代浮世絵買入必携』p6(酒井松之助編・明治二十六年(1893)刊)   〝勝川春英    本名〔空欄〕   号 九徳斎   師匠の名 春章    年代 凡百年前より百二十年迄    女絵髪の結ひ方 第七図(国立国会図書館・近代デジタルライブラリー)    絵の種類 大判、並判、中判、小判、細絵、長絵、絵本、肉筆    備考   角力及武者絵多きも価は廉なり〟    ◯『浮世絵師便覧』p234(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年(1893)刊)   〝勝川春章門人、磯田氏、九徳斎と号す、俗称久次郎、文政二年死〟    ◯『浮世絵師歌川列伝』(飯島虚心著・明治二十七年(1894)新聞「小日本」に寄稿)   ◇「一世歌川豊国伝」p83   〝春英は江戸の人、磯田氏、九徳斎と号す、勝川春章も門人狂画に名あり。これを九徳風という。文政二    年没、年五十八、類考春英の條に、初代豊国も此風を学びたりといえり〟     ◇「歌川国芳伝」p194   〝勝川春英は九徳斎と号す。磯田氏、俗称久次郎、勝川春章の門人なり。武者絵に長じ、又一家の筆意を    もて、狂画を画く。これを九徳風という。山東京伝曰く、板刻の絵は当時春英の右に出ずるものなしと。    文政二年七月歿す。年五十八〟    ◯『浮世絵備考』(梅本塵山編 東陽堂 明治三十一年(1898)六月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(41/103コマ)   〝勝川春英【寛政元年~十二年 1789-1800】    磯田氏、通称久次郞、九徳斎と号す、明和五年、新和泉町新道に生る、天資絵画を好みて、春章の門弟    となり、錦絵、似顔絵をおほく画き、また狂画を善くして、自ら一家を為せり、世にこれを九徳風と云    ふ、傍ら義太夫節の浄瑠璃を語りて、三絃をよく弾きけり、文政二年己卯七月廿六日没す、享年五十八、    浅草本願寺中善照寺に葬る、春英の伝は石川雅望の撰べる牛島長命寺の碑に委し〟  ◯『浮世画人伝』p58(関根黙庵著・明治三十二年(1899)刊)   〝勝川春英(ルビかつかわしゆんえい)    春英は勝川春章の高弟にて、九徳斎と号しき、本姓磯田氏、通称を久次郎といひ、新和泉町に住せり。    始武者を画きしも、享和の頃には俳優の似顔を描き、ほと/\春章に亞(ツギ)たる出来なりとて世に鳴    たり。又操(アヤツリ)芝居の看板を画きて、自然一流の筆意を残し。且(カツ)狂画をも巧にし世に九徳風と    いへり。其頃三芝居の茶屋にて暑中見舞に配る団扇に狂体を描る、筆意の軽妙なること、なか/\他流    の、企(*クワダテ)及ばざる所なりしと、加之(*シカノミナラズ)意表の奇図(キズ)を作りて人を驚かしむなかに    も、忠臣蔵十一段続の屏風及び、大火消防の絵巻物など精妙にして賞歎するに余あるものならん。一時    は春章歌麿をも凌げり。故に初代の豊国も春英の画を慕へるとなん。春英常に浄瑠璃を好みて、三弦の    妙手にてありしが、性来放縦にして家を出れば帰らざること数日なりき、あるとき我門前にて、春英が    家は此所(ココ)なるや如何(イカン)と、大声(タイセイ)にて呼はるにぞ、妻女立出て戸を開き見れば、其人なる    に驚きて、事の由を問ふに、数日の留守中、家も売却せしならんと推量し、濫(ミダリ)に入て礼を失はざ    らん為に、斯(*カ)くは用心せりといひしとぞ。磊々(ライライ)落々なること、此の一事を以ても、其気風    の大方は想像するに足りぬべし。文政二年七月廿六日、年五十八歳にして歿せり。浅草本願寺地中善性    寺に葬られぬ、尚墨水牛島の長命寺に碑あり、斯(コ)は翁の友人六樹園雅望の撰文にして、門人等が打    寄りて、七周忌の追善に建しものなりとぞ〟
   「勝川春章系譜」  ◯『日本帝国美術略史稿』(帝国博物館編 農商務省 明治三十四年(1901)七月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝第三章 徳川氏幕政時代 第三節 絵画 浮世絵派(169/225コマ)    勝川春英    勝川春章の画風を学び、寛政享和中多く錦絵並びに俳優の肖像を画きて発行せり。自然一家の筆意を顕    はす、称して九徳風と云ふ。彩色の画帖等数種世に行はる。第一世豊国亦此の人の画風を慕へり〟  ◯「集古会」第七十三回 明治四十二年(1909)五月(『集古会誌』己酉巻四 明治43年6月刊)   〝林若樹(出品者)春英筆 細絵 忠臣蔵五段目図 一枚〟  ◯「集古会」第九十六回 大正三年(1914)一月(『集古会志』甲寅二 大正4年10月刊)   〝池田金太郎(出品者)勝川春英 同上 和藤内 半双〟  ☆ 昭和以降(1926~)    ◯「集古会」第百五十五回 大正十五年(1926)三月(『集古』丙寅第三号 大正15年5月刊)   〝林若樹(出品者)勝川春英筆 細絵 助六図 一枚 /同 役者絵 一枚〟  ◯『狂歌人名辞書』p94(狩野快庵編・昭和三年(1828)刊)   〝勝川春英、通称磯田久次郎、九徳斎と号す、浮世絵師、初代春章門人、錦絵を多く画き又狂画に長ず、    文政二年七月廿六日歿す、年五十八〟    ◯「日本小説作家人名辞書」p719(山崎麓編『日本小説書目年表』所収 昭和四年(1929)刊)   〝勝川春英    通称は磯田久次郎、九徳斎と号す、江戸の浮世絵師勝川春章の門人、文政二年七月二十六日歿。年五十    八〟    ◯『浮世絵師伝』p87(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春英    【生】宝暦十二年  【歿】文政二年十月廿六日-五十八    【画系】春章門人  【作画期】天明~文化    勝川を称す、磯田氏、俗称久次郎、九徳斎と号す、各人物画に長じ、就中役者絵、角力絵等を最も得意    とす、其の画風質実にして筆力凡ならず、よく大家の風格を具へたり、蓋し春章門下中の第一人者と称    するに足るべし。    彼は新和泉町に住して家主たりしが、資性木衲、常に超俗の行ひありし事は、向島長命寺境内に現存す    る「勝川春英翁略伝」の碑文(文政八年十月石川雅望撰)に記されたり、其が文中「翁明和五年戊子に    うまれて文政二年己卯十月二十六日とし五十八にてみまかりぬ」とせる明和五年は宝暦十二年の誤算な    り。    彼の作品は、既に天明初年頃より世に発表せしかど、其の技の円熟大成したる時期は寛政二三年より同    五六年頃までとす。其の間彼に親炙して最も多く影響を受けし者は豊国なり、豊国の役者絵に於ける発    達は春英に啓発せられし所尠しとせず、猶ほ写楽の如きすら、暗に春英の特長に学ぶ所ありしは、両者    の作品によつて窺ふことを得べし。彼は役者絵を得意とすれども美人画家の春潮と懇意なりし如し(口    絵第三十八図参照)彼の美人画はあまり多く見ざれど、寛政六年頃の作「おし絵形」と題する錦絵(美    人踊の図)若干図は、彼が傑作として殊に出色のものなり。蓋し彼は常に観劇を好み、義太夫節を嗜み、    自から三絃の技にも長じたりしと云へれば、恐らくは舞踊に対して一隻眼を有せしことゝ思はる。    例の碑文に拠れば「子二人あり女子はさきだちてうせぬ男子斧二今世にあり」と見ゆ、然れども彼の画    系は継がず、門人数多ありしが中に、春亭・春扇・春紅・春和等最も著はれき。法名釈春英、墓は浅草    本願寺中善照寺にあり〟    ◯『浮世絵年表』(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)   ◇「天明二年(壬寅)」(1782)p138   〝此年、勝川春英の画としての処女作『大阪土産大和錦』、       勝川春山の画ける青本『擲討鼻は上野』出版〟    〈『大坂土産大和錦』は森羅万象(桂川甫粲・森島中良・竹杖為軽)作の黄表紙〉     ◇「寛政九年 丁巳」(1797)p161   〝正月、鳥居清長・勝川春潮・同春好・同春英・歌川豊国等の挿画に成れる『美満寿組入』出版〟    〈『美満寿組入』は烏亭焉馬編〉     ◇「寛政一一年 己未」(1799)p164   〝正月、国政・春好・春英・俵屋宗理の挿画ある『今日歌白猿一首』出版〟             ◇「享和三年 癸亥」(1803)p169   〝此年、芝居に関する絵本数多出版せり。    一月、勝川春英・歌川豊国両人の画にて式亭三馬の著作なる『戯場訓網図彙』八巻五冊出版〟      ◇「文化元年(二月十九日改元)甲子」(1804)p171   〝五月、江戸の浮世絵師勝川春英・同春亭・歌川豊国・喜多川歌麿・同月麿等作画により手鎖五十日の    刑に処せらる〟          ◇「文化四年 丁卯」(1807)p176   〝正月、勝川春英の『絵本勇壮義経』出版〟     ◇「文政二年 己卯」(1819)p192   〝十月二十六日、勝川春英歿す。享年五十八歳。(春英は、春章の高弟にして俳優の似顔を能くし又武者    を能くせり。本姓磯田、通称久次郎、九徳斎と号せり)    正月、勝川春亭の画ける『戯場百人一首』出版〟    △『増訂浮世絵』p135(藤懸静也著・雄山閣・昭和二十一年(1946)刊)   〝勝川春英    春英は数多い春章門人中に、頭角をあらはしたものである。氏を磯田といひ、通称は久次郎、九徳斎と    号した。明和五年、江戸に生れ、春章の高弟として名声頻に高く、当時の画壇に影響を与へたことも少    くない。寛政の頃がその盛時である。春英は特に、役者絵に秀でゝ、その作る所も少くない。版画では    細絵判の錦絵が最も多く、間錦とて間判の錦絵の形式を用ひたものも可なりにある。間錦には、舞台の    所作を写したものが多く、また扇面形に役者の半身像を画いたものもある。よく役者の個性をあらはし    て居る。なほ春英は色々の版画を作つて、団扇絵もあり、摺物絵もある。また絵本や、黄表紙の類をも、    多く画いて、世の賞賛を博した。文化元年五月には、春英の作画に、壊俗敗教の弊があるとて、春亭、    豊国、歌麿、月麿などゝ共に、手錠五十日の刑に処せられた。    春英は文政二年七月二十六日に没し、年は五十八である。浅草東本願寺中、善照寺に葬つた。その八年    十月七回忌の法会の時に、門人等が、紀恩碑を向島牛島の長命寺境内に建て、六樹園石川雅望が撰文し    た。その碑の裏にかゝれた門人の名は春徳、春童、英斎、英章、春幸、春景、春陽、春勢、春柳、春馬、    春雄、春和、馬場氏等である。    春英の遺作には、肉筆画は少いけれども、中々達腕の技をもつて居る。あまり人の筆にしないものを画    いたものと見え、忠臣蔵十二段続の屏風や、火消の活動する絵巻物を作つた。これ等は手腕の優れたも    のでなければ、なか/\画きこなせるものではない。また遊女が膝を立てゝ柱に倚りかゝつてゐるのを    側面から写し、或は禿をつれた遊女が酔ひてあられもない姿をして漫歩する様を写したものもある。画    才に富み、肉筆画にも手腕をもつてゐたことがわかる。    然しその特色は、無論版画で、役者絵にある。春章は写実上の手腕に優れて居たから、舞台に於ける役    者の緊張振を巧に画いた。春英も亦好んで役者を写して居るが、その描写の態度に稍特色を異にして居    る点がある。それは春英の筆には、役者の個性を画かんとして居たことである。この企が更に進んで、    成功の域に達したものは、東洲斎写楽であるといへる。豊国の如きは春英の感化を受くることは多いの    である。春英の雲母摺の大首の絵の如きは、写楽と密接な関係をもつものである。なほ半身像の、初代    坂東八十助、二代松本幸四郎などを写したものも、注意すべき作例である。細絵の役者絵になると、可    なり面白いものが数多くある。然しそれ等は春章の風を祖述したものと見るべきである。    春英の役者絵中、特に吾人の興味を惹くものとしては、(帝室博物館所蔵)高師直である、大錦版で珍    物であり、搆図もよく、春英の傑作とすべきものである。また挿絵に一人立の役者絵も、顔面の表情と    姿態との上に、春英の特色をよくあらはしてゐる。    なほ春英は武者絵もかくし、相撲の絵も画いて居る。渡辺綱、坂田金時、土蜘蛛退治、富士まき狩等の    種類が少くない。また相撲の全身を画いたものもあり、谷風、瀧音、鴻峯、荒馬、荒岩、大綱など少く    なく、四賀峯の土俵入は、藍つぶしで、可なり面白い。なほ勧進大相撲興行図三枚続のやうな例もある〟    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   〔勝川春英画版本〕     作品数:52点(「作品数」は必ずしも「分類」や「成立年」の点数合計と一致するとは限りません)    画号他:勝川春英・春英・九徳斎春英・九徳斎    分 類:黄表紙35・合巻7・絵本4・洒落本1・滑稽本1・絵画1・絵本番附1・歌舞伎1    成立年:天明2~6・8年   (19点)        寛政3・5~6・11年(14点)        享和3年       (2点)        文化2・4~5年年  (9点)          〈寛政年間の作品数は十四点であるが、そのうち十点が寛政五年である〉    (九徳斎名の作品)    作品数:1点    画号他:九徳斎春英    分 類:合巻1    成立年:文化5年