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浮世絵文献資料館
浮世絵師総覧
☆ しげのぶ やながわ 柳川 重信
浮世絵師名一覧
〔 ? ~ 天保3年(1832)閏11月28日・46歳〕
(雷斗参照)
〈没年月日は曲亭馬琴の殿村篠斎宛書翰(天保3年12月8日付)による。☆天保三年の項参照〉
※①〔目録DB〕〔国書DB〕:「日本古典籍総合目録」「国書データベース」国文学研究資料館 ②〔早稲田〕 :『早稲田大学所蔵合巻集覧稿』 ⑤〔東大〕 :『【東京大学/所蔵】草雙紙目録』 ⑦〔狂歌書目〕:『狂歌書目集成』 ⑩〔中本型読本〕:「中本型読本書目年表稿」 ⑪〔江戸読本〕:「江戸読本書目年表稿(文化期) ⑮〔漆山年表〕 :『日本木版挿絵本年代順目録』 ⑱〔日文研・艶本〕:「艶本資料データベース」 ⑲〔白倉〕 :『絵入春画艶本目録』 角書は省略。(画像)は画像付データ ◎は表示不能文字
☆ 文化二年(1805)
◯「国書データベース」
(文化二年刊)
柳川重信画
『狂歌五手船』芍薬亭等編 丸屋甚右衛門他板(狩野文庫画像)
〈狩野文庫画像に挿絵は見当たらない。画工名は書誌による〉
☆ 文化九年(1812)
◯「合巻年表」
(文化九年刊)
柳川重信画
『京一番娘羽子板』前・後編「柳川重信画」柳亭種彦作 西与板 ① ☆ 文化十年(1813)
◯「合巻年表」
(文化十年刊)
柳川重信画
『鼻木討誓羽団扇』「柳川重信画」竹塚東子作 西与板 ② 『春霞布袋本地』 「柳川重信画」柳亭種彦作 西与板 ② 『早便梅川物語』 「柳川重信画」山東京伝作 西与板 ⑤ 『錦帯准無間』 「柳川重信画」柳亭種彦作 西与板 ①
◯「読本年表」
(文化十年刊)
柳川重信画
『綟手摺昔木偶』「画人 柳川重信」柳亭種彦作 山崎屋平八他板 ⑪① ◯『馬琴書翰集成』⑥323「文化十年刊作者画工番付断片」(第六巻・書翰番号-来133)
「文化十年刊作者画工番付断片」
〈書き入れによると、三馬がこの番付を入手したのは文化十年如月(二月)のこと〉
☆ 文化十一年(1814)
◯「合巻年表」
(文化十一年刊)
柳川重信画
『梅若丸花の一つ家』「国直画・柳川重信画」東西庵南北作 丸文板 ① 『信夫売対婦理袖』 「柳川重信画」山東京山作 西与板 ⑤ 『堀川歌女猿曳』 「柳川重信画」柳亭種彦作 西与板 ② 『忠臣蔵跡祭』 「柳川重信画」十返舎一九作 鶴喜板 ⑤ 『梅川物語』山東京山作 ①
◯「読本年表」
(文化十一年刊)
柳川重信画
初輯「出像 柳川重信画」曲亭馬琴稿本 山崎平八他板 ①⑪
◯「滑稽本年表」
(文化十一年刊)
柳川重信画
『願懸注文帳』「狂画 柳川重信画」東西庵南北作 山崎平八他板 ①
◯「国書データベース」
(文化十一年刊)
◇教訓
柳川重信画
『勧善懲悪手引草』「柳川重信画」増上寺 蓮池宝珠院編 文化十一甲戌序 ☆ 文化十二年(1815)
◯「合巻年表」
(文化十二年刊)
柳川重信画
『赫奕媛竹節話説』前・後編「柳川重信画」曲亭馬琴作 岩戸板 ①
◯「滑稽本年表」
(文化十二年刊)
柳川重信画
『願懸注文帳』「狂画 柳川重信画」東西庵南北作 山崎平八他板 ①
◯「絵入狂歌本年表」
(文化十二刊)
柳川重信画
『狂歌水滸伝画像集』柳川画 西来居未仏等撰 ① ☆ 文化十三年(1816)
◯「合巻年表」
(文化十三年刊)
柳川重信画
『吾妻花娘形気』前・後編「柳川重信画」山東京山作 丸甚板 ④ 『女模様稲妻染』前・後編「重信画」 柳亭種彦作 西与板 ① 『紅染女達磨』 前・後編「歌川重信画」東西庵南北作 西与板 ① 『黄金花万宝全書』 「画僕人 柳川重信画」山東京伝作 岩戸板 ①⑤ (十四ウ~十五オ「此処 柳川重政画」)(二十八ウ~二十九オ「門人柳川重政画」)
(⑤備考、文化三年鶴喜板『敵討両輌車』北尾重政画の改題改作本とする)
『花紅葉一対若衆』 「柳川重信画」柳亭種彦作 西与板 ⑤ 『梅桜対権八』 「柳川重信画」東西庵南北作 西宮新 ①
◯「読本年表」
(文化十三年刊)
柳川重信画
『南総里見八犬伝』第二輯「出像 柳川重信絵画」曲亭馬琴作 山崎平八他板 ⑪① ◯『柳亭種彦日記』p166 文化十三年閏八月廿六日 〝夜
柳川
子来ル、
将棊段
画皆出来〟
〈『【山崎余次兵衛将棊段】忠ト孝義理詰物』(種彦作・柳川重信画・文化十四年刊)〉
☆ 文化十四年(1817)
◯「合巻年表」
(文化十四年刊)
柳川重信画
『高野山万年草紙』前・後編「柳川重信画」柳亭種彦作 岩戸板 ② 『忠ト孝義理詰物』前・後編「柳川重信画」柳亭種彦作 西与板 ① 『昔唄猿狂言』 前・後編「画僕人柳川重信」山東京山作 泉市板 ⑤ 『鳴戸越出世嶋鯛』 「柳川重信画」東西庵南北作 西宮新板 ① 『契情畸人伝』 「柳川重信画」式亭三馬作 森治板 ① 『吾妻花娘◎』 「柳川重信画」山東京山作 丸甚板 ②
〈◎は「気+形」読みは「カタギ」舩舩〉
◯「滑稽本年表」
(文化十四年刊)
柳川重信画
『願懸注文帳』「狂画 柳川重信」東西庵南北作 山崎平八他板 ① 『四十八癖』三編 式亭三馬作 鶴屋金助板 ① ☆ 文化年間(1804~1817) ◯『増訂武江年表』(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊) (「文化年間記事」)2p58 〝浮世絵 葛飾戴斗、歌川豊国、同豊広、同国貞、同国丸、蹄斎北馬、鳥居清峯、柳々居辰斎、柳川重信、 泉守一(渾名目吉)、深川斎堤等琳、月麿、菊川英山、勝川春亭、同春扇、喜多川美丸。 筠庭云ふ(中略)重信は至つて後輩なり〟 ☆ 文政元年(文化十五年・1818)
◯「読本年表」
(文政元年刊)
柳川重信画
『犬夷評判記』「柳川重信画」曲亭馬琴答述 山崎平八他板 ①
〈製本体裁は評判記〉
☆ 文政二年(1819)
◯「読本年表」
(文政二年刊)
柳川重信画
『南総里見八犬伝』三輯「出像 柳川重信絵画」曲亭馬琴稿本 山崎平八他板 ①
◯「絵暦年表」
(本HP・Top)(文政二年)
「重信〔柳川〕印」
(兎と金太郎)狂歌賛
〈絵暦、兎図・扇子に小の月を示す紋様〉
(「鴨川市所蔵 藤沢衛彦コレクション 摺物 江戸の風雅な年賀状」展カタログ 156)
☆ 文政三年(1820)
◯「合巻年表」
(文政三年刊)
柳川重信画
『三人若衆独権八』前・後編「柳川重信画」東西庵南北作 丸甚板 ① 『合三国小女郎狐』前・後編「柳川重信画」柳亭種彦作 丸文板 ① 『南色梅早咲』 前・後編「柳川重信画」柳亭種彦作 鶴金板 ④ 見返「浮世本書 柳亭種彦/今様絵師 柳川重信」 『浅間嶽煙之姿絵』 「柳川重信画」柳亭種彦作 西与板 ①
◯「読本年表」
(文政三年刊)
柳川重信画『南総里見八犬伝』四輯「繍像画工 柳川重信」曲亭馬琴稿本 山崎平八他板 ①
◯「咄本年表」
(文政三年刊)
柳川重信画『生鯖船』玉紅楼一泉作 西与板 ① ☆ 文政四年(1821)
◯「合巻年表」
(文政四年刊)
柳川重信画
『宝寿玉岩井模様』「柳川重信画」表紙 豊国画 東西庵南北作 丸甚板 ④ 『安達原男一軒家』「柳川重信・歌川国直画」 東里山人作 岩戸板 ① 上巻十丁ウラ「口より十丁柳川方にて手間どれ候ニ付応需染筆いたし候 国直画」 ☆ 文政五年(1822)
◯「合巻年表」
(文政五年刊)
柳川重信画
『傾城草履討』「柳川重信画」表紙「国貞・柳川画」東西庵南北 西宮新板 ⑤ ◯『著作堂雑記』246/275(曲亭馬琴・文政五年記) 〝こゝろは直かるべく、かたちは常盤なるべく、行ひは一ふしあるべし、上見ぬ為の笠、ころはぬ先の杖、 唯この君をのみ友とすれば、清風耳にみちて、秀色目にあり【壬午四月二十八日画工
柳川
画】 うち霞む門の柳のけぶりより もゆるともなき庭のくれ竹〟
〈柳川重信画は竹の図か〉
△『増訂浮世絵』p204(藤懸静也著・雄山閣・昭和二十一年(1946)刊) 〝浪花錦絵と柳川重信の系統 北斎の門下で有名な柳川重信が、文政五年頃に長くはなかつたのであるが、大坂に滞在して役者絵の類 を作つた。大坂版で東都柳川重信と署名してゐるものがある。当時は大坂に江戸風の錦絵の流行した時 であつたから、重信の大坂滞在は、浪花錦絵に大きな影響を与へたのである。従つて来り学ぶものがあ つて重春、雪信、国直の如きはその門下と思はれるものであり(云々)〟
「柳川重信の大坂系図」
☆ 文政六年(1823)
◯「読本年表」
(文政六年刊)
柳川重信画
『南総里見八犬伝』五輯「画工 柳川重信/渓斎英泉出像」曲亭馬琴作 山崎平八他板 ①
◯「絵入狂歌本年表」
(文政六年刊)
柳川重信画
『狂歌五十人一首』柳川重信画 紀乎佐丸編 大坂 田家楼 ⑦
〈〔目録DB〕には団字楼蔵。(彫摺工)浪花居(末武朝倉宇八郞門人)谷清好とあり〉
◯『馬琴書翰集成』①136 文政六年正月九日 殿村篠斎宛(第一巻・書翰番号-23) 〝(『南総里見八犬伝』の出版について、版元と彫師にトラブルがあって)人を以板木とり戻し、外へ誂 候へども、昨冬十一月比の事ニ候へバ、諸方ニて受取不申候。埒もなき仁ニほらせ候上、只管ニ急ギ候 ニ付、甚しくほり崩し、一向よめぬ様ニしちらし申候。其上、画工
柳川
ハ、当春より上京ニて、四の巻 より末は、いまだ画も出来不申候。去冬十月に及び、画工英泉に画せ、絵ハ早速出来致候得ども、板木 之方、右之仕合故、画も甚しくほり崩し申候〟
〈これは「八犬伝」の五輯のトラブル。挿絵は柳川重信他に渓斎英泉が担当した。重信の上京は文政五年春〉
☆ 文政七年(1824)
◯「読本年表」
(文政七年刊)
柳川重信画
『絵本雙忠録』十冊「画工 東武 柳川重信」東籬斎編 河内屋茂兵衛他板 ① 『名月夜話』 「出像 柳川重信画」畠山保躬稿本 河内屋茂兵衛板 甲申春序 ① ☆ 文政八年(1825)
◯「読本年表」
(文政八年刊)
柳川重信画
『月桂新話』前編「柳川重信画」栗杖亭鬼卵作 丸屋善兵衛他板 ① ☆ 文政九年(1826)
◯「艶本年表」
(文政九年刊)
柳川重信画
『からくり十二段』小錦 十二枚組物 ⑲
(白倉注「名所巡り。大木戸、たかなわ、王子、浅草、不忍、飛鳥山、あたご、双か岡、両国、潮浜、他二図」
☆ 文政十年(1827)
◯「読本年表」
(文政八年刊)
柳川重信画
『南総里見八犬伝』六輯「柳川重信/渓斎英泉」曲亭馬琴作 河内屋太助他板 ①
(口絵は合作。挿絵は重信が巻一~四 英泉は巻五上下)
◯「絵入狂歌本年表」
(文政十年刊)
柳川重信画
『狂歌百人一首』「柳川重信画」 西来居未仏撰 ① 『狂歌怜野集』 「画工柳川重信」琴樹園二喜編 ① 『狂歌人物誌』 「柳川重信画」芍薬亭撰 菅原連他 文政十年春序 ①⑮ 『文政歌集』 西来居未仏編 ① ◯『狂歌人物誌』(柳川重信画 芍薬亭撰 菅原連他 文政十年序) 「人物誌撰者肖像」(国書データベース) 〝画すがたの立もすわるも我が筆の行くまゝにこそうつし出つれ 柳川重信 鈴木氏 根岸に住す〟
〈六樹園飯盛・芍薬亭長根・塵外楼清澄・柳川重信などと共に名を連ねる〉
◯「文政十年丁亥日記」①208 十月廿三日(『馬琴日記』第一巻) 〝美濃屋甚三郎来ル。八犬伝五之巻画割、被為成御渡候。
柳川
方ぇ持参致旨、依申也。無程、帰去〟
〈美濃屋甚三郎は『南総里見八犬伝』の板元。柳川重信が挿画を担当していた〉
☆ 文政十一年(1828) ◯「文政十一年戊子日記」①419 十月十日(『馬琴日記』巻一) 〝松前老侯御使太田九吉来ル。予、対面。此節元古地ニて、牧士并ニ蝦夷馬上炮打ならひ、専熊ヲ捕候ニ 付、右之図
柳川
ニ画せ、かけ物出来、予、見せ候様被申付候趣、被伝之〟
〈松前老侯は松前道広。長子宗伯は同藩出入の医師。松前老侯と交際はその縁によるもの。柳川は柳川重信。蝦夷地で の熊捕獲図を掛け軸にしたものらしい。しかし十月十二日の記事には
〝北馬画松前ウズ牧士と蝦夷と騎炮ニて熊ヲ打 図〟
とあり、こちらは北馬がとなっている。いずれが是か非か〉
☆ 文政十二年(1829)
◯「人情本年表」
(文政十二年刊)
柳川重信画
『寝覚繰言』三編 柳川重信画 為永春水作 ⑬
〈文政八年刊の初二編は渓斎英泉画〉
◯「絵入狂歌本年表」
(文政十二年刊)
柳川重信画
『狂歌水滸画伝集』琴樹園二喜編 六樹園・文政一二年序 ① (巻末広告)「狂歌水滸画伝集 全 六樹園先生序 芍薬亭先生跋 柳川画」 『狂歌水滸伝集』 芍薬亭長根編 ① 『狂歌続怜野集』 臥竜園梅麿選 ① ☆ 文政年間(1818~1829)
◯「絵入狂歌本年表」
(文政年間刊)
柳川重信画
『狂歌人名録』後編「柳川重信画」西来居未仏編 ①(画像) 『狂歌美人集』 重信画 芍薬亭編 琴樹園 ⑦ 『狂歌水滸画像集』 秋長堂撰 ① 『美人歌僊集』 ① ☆ 天保元年(文政十三年・1830)
◯「読本年表」
(天保元年刊)
柳川重信画
『南総里見八犬伝』七輯「渓斎英泉画/柳川重宣(ママ)画」曲亭馬琴作 丁字屋平兵衛他板 ①
(英泉 巻一-四・重信 巻五-七)
◯「絵入狂歌本年表」
(天保元年刊)
柳川重信画
『狂歌水滸画伝集』琴樹園二喜 文政十三年秋、芍薬亭跋 ①
(巻末広告「狂歌水滸画伝集 全 六樹園先生序 芍薬亭先生抜(ママ) 柳川画」とあり)
『狂歌百千鳥』 臥竜園編 琴樹園 ①⑮
◯「人情本年表」
(天保元年刊)
柳川重信画
『寝覚繰言』四編 柳川重信画 為永春水作 ⑬
◯「百人一首年表」
(本HP・Top)(天保元年刊)
柳川重信
『狂歌百千鳥』画帖 色摺美人画 柳川重信画 芍薬亭序 巻末「文政十三年庚寅正月発行 琴寿園蔵版」〔跡見1927〕 (〔目録DB〕の識語「文政十三年春新刻・撰臥竜園・画柳川重信・江戸琴樹園蔵」)
〈尾崎久弥の識語〉
◯『俗曲挿絵本目録』
(漆山又四郎著)
柳川重信画?
『第二番目九変化』(常盤津)重信風画 勝俵蔵・松本幸二作 伊賀屋板
〔文政13/03/11〕
〈漆山又四郎は「重信風」と保留している。
〔~〕
は立命館大学アート・リサーチセンター「歌舞伎・浄瑠璃興行年表」 の上演データ〉
◯「艶本年表」
(天保元年刊)
柳川重信画
『天野浮橋』色摺 大本 三冊 「一開斎好信画」2冊2図⑱ 序「大門口より見わたせば寅の年なり 出多羅坊 運突著」 序「応好席上 艶本大道具の元祖 猿猴坊月成」 ☆ 天保二年(1831)
◯「絵本年表」
(天保二年刊)
柳川重信画
『玉撰狂歌集』一冊 柳川重信画 鶴廼や・泥田坊撰 北窓藏板 ⑮
◯「合巻年表」
(天保二年刊)
柳川重信画
『敵討湊の曙』「柳川重信/歌川国丸画」表紙 豊国画 為永春水作 大阪屋板 ① ◯「天保二年辛卯日記」②420 八月十八日(『馬琴日記』第二巻) 〝丁子屋平兵衛同道にて、画工
柳川
来ル(中略)右八犬伝八編、近々稿にとりかゝり候ニ付、右さし絵、 此度は柳川一人に画せ度よし。過日、平兵衛申といへ共、先年不落着のいたし方、度々有之候ニ付、一 応面談にて、ともかくも可致旨、丁平へ申聞置候間、今日同道のよし也。依之、右の趣かけ合に及び、 無滞画き可申旨、うけ合候に付、其趣に治定し畢〟
〈『南総里見八犬伝』七輯の画工は柳川重信と渓斎英泉が担当。八輯は柳川重信が単独で当たる。英泉がはずされたの は板元丁子屋平兵衛の意向のようだが、どんな事情があったのであろうか。もっとも、重信の方にも問題があった、 板元同道の上で遅滞無く画くことを約束しているところをみると、「不落着のいたし方」とは、遅筆による一悶着で もあったのかもしれない〉
◯「天保二年辛卯日記」②440 九月十三日(『馬琴日記』第二巻) 〝(『近世説美少年録』)三之巻さし画の内、稿本とぢかひ以前、五郎書写候処有之、当書林年番、北し ま長四郎、かれ是やかましく申ニ付、入木直し致させ可哉之旨、申之。その意ニ任せ、右之処斗入木い たし候様、示談。画かき直しの注文、図之直シ、今夕持参の三之巻、右の画の処へ朱を入レ、丁平(丁 子屋平兵衛)ニわたし遣ス。画工、
北渓
にては埒明かね可申候間、
柳川
ニ画き直させ候つもり、示談〟
〈結局、柳川重信の起用はなく全て北渓が担当した〉
◯「天保二年辛卯日記」②447 九月廿二日(『馬琴日記』第二巻) 〝画工
柳川重信
来ル。
俠客伝
表紙板下、墨がき致し、持参、見せらる。いろさし等相談之上、丁子やへ持 参、平兵衛ニのみこませ、今夕、大坂ぇ登せ可然旨、并に、
俠客伝
一の巻出来候間、今夕、人差越候様、 伝言たのミ遣ス。右用談畢て、帰去。
柳川
、手みやげ、被贈之〟
〈『開巻驚奇俠客伝』の挿画、柳川重信の担当は第二輯。初輯(天保三年正月刊)は渓斎英泉が担当した〉
◯「天保二年辛卯日記」②496 十二月二日(『馬琴日記』巻二巻) 〝画工
柳川重信
来ル。予、対面。八犬伝八輯一の巻さし画二丁出来、持参〟 ◯「天保二年辛卯日記」②499 十二月七日(『馬琴日記』巻二巻) 〝画工
柳川重信
来ル。予、対面。八犬伝八輯壱・弐の巻の内、さし画弐丁出来、見せらる。丁字やぇ持参 のよしニ付、稿本差置、見本はわたし遣ス。寒中見舞として、手拭二、被贈〟 ☆ 天保三年(1832)
(閏十一月廿八日没・四十六歳)
〈忌日は『馬琴書翰集成』②265 天保3年12月8日 殿村篠斎宛(第二巻・書翰番号-63)参照〉
◯「絵本年表」
(天保三年刊)
柳川重信画
『今様源氏狂歌合』柳川重信画 千種庵諸持序 臥竜園跋 ⑮ 『狂歌劇場百首』 柳川重信画 芍薬亭撰 菅原連蔵板 ⑮ 『狂歌花街百首』 柳川重信画 芍薬亭撰 菅原連蔵板 ⑮
◯「読本年表」
(天保三年刊)
柳川重信画
『南総里見八犬伝』八輯上「出像画工 柳川重信画」曲亭馬琴作 丁字屋平兵衛他板 ①
◯「人情本年表」
(天保三年刊)
柳川重信画
『春色梅暦』初・二編「柳川重信画」教訓亭主人作 大嶋屋伝右衛門他板 ①
◯「絵入狂歌本年表」
(天保三年刊)
柳川重信画
『俳諧歌古新集』重信画 俳諧堂撰 国字垣社中 ⑦ 『狂歌今様源氏』重信画 青雲亭撰 ⑦ 『兼題恋百首』 重信画 芍薬亭撰 菅原連 ⑦ 『狂歌広陵集』 重信? 芍薬亭詠 菅原連 ⑦ 『狂歌花街百首』芍薬亭長根編 菅原連蔵「天保三壬辰睦月」①(画像) 『狂歌戯場百首』芍薬亭・琴樹園編 ①
◯「百人一首年表」
(本HP・Top)(天保三年刊)
柳川重信画
『狂歌劇場百首』色摺挿絵 柳川重信画 芍薬亭長根序・撰 ①〔跡見222〕 奥付「于時天保三壬辰仲秋 菅原連蔵/輯者 琴樹園二喜」
〈画工名未確認。〔跡見〕は書誌のみで、重信のほかに英泉画とする〉
◯「艶本年表」
(天保三年刊)
柳川重信画
『恋のかけはし』色摺 半紙本 三冊「艶川好信画」野暮天正銘序 好色山人(花笠文京)作 ⑲
(白倉注「序「吾嬬風流後編 恋の桟橋」本文題「戯場眺望後日」、国芳画『当世吾妻婦理』の後編である」)
『艶本極楽遊』 色摺 半紙本 三冊 女好庵主人(松亭金水)作 天保三年頃 ⑲ 『柳の嵐』(仮題)大錦 十二枚組物 淫蕩山人序 天保三年頃 ⑲
(白倉注「重信唯一の組物だが、唐人、異人のカップルが出てきたりと、意欲的な趣向の目立つ傑作」)
◯『春色梅児誉美』(柳川重信画・為永春水作)
◇人情本
(天保三年刊)
(為永春水自序) 〝この三四年の災厄も、やゝ解そむる薄氷、春水四澤にみつるといふ、時をゑがほや花の兄、文永堂の引 立に、柳川重信画(ルビねぎしのふで)の愛敬で、何卒あたれ大当(ルビおおあたり)〟
〈「亀戸」と云えば五渡亭国貞を指す、同様に根岸住の柳川重信もまた「ねぎしのふで」と呼ばれていた〉
◯『江戸現存名家一覧』〔人名録〕②309(天保初年刊) 〝東都画 池田英泉・鳥居清満・立斎広重・勝川春亭・葛飾北斉(ママ)・歌川国貞・歌川国芳・歌川国直・ 柳川重信・柳川梅麿・葵岡北渓・静斎英一〟 ◯「柳川重信に関する馬琴記事」(天保三年閏十一月廿八日の死亡記事を含む)
柳川重信 馬琴記事 天保三年
出典『馬琴日記』第三巻・『馬琴書翰集成』第二巻 ◯『見ぬ世の友』巻三 東都掃墓会 明治三十三年(1900)刊
(国立国会図書館デジタルコレクション)
(巻1-5 35/55コマ) 〝詞林 名家辞世 其三 兼子伴雨稿 柳川重信 天保三年閏十一月二十八日 下谷坂本 宗慶寺
投いれの水もとゝかず柳かな
〟 ◯『増訂武江年表』(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊) (「天保三年」)2p85 〝十一月二十八日、浮世絵師柳川重信卒す(四十六歳)。 筠庭云ふ、柳川重信は志賀理斎の子なり。師なくして画をよくせり。北斎の風なりしが、本所一ッ目 弁天の前なる髪結床の障子に、午の時参りする女を野ぶせりの乞食等が犯さんとする図を書きて、い と能く出来たり。北渓これを見て、画は社中の風なるが、かばかり書かんものを覚へずとて、其所に 問ひしとぞ。夫より相知りて、北渓これを引きて北斎が弟子とす。其の後北斎これを養子とせしが、 如何したりけん、義絶におよべり。夫より重信頻りに板下を書きしを、北斎これを板下に禁じて、互 いに意趣を含みけるを、柳亭種彦双方をなだめて事和らげり。柳川といへるは柳亭の字をとるなり。 この時より柳川と号したり。八犬伝も初めはこれが筆にてよし(無声云ふ、志賀理斎が子は重山とい ひ、後二代目重信となりしなり)〟 ◯『無可有郷』〔百花苑〕⑦402(詩瀑山人(鈴木桃野)著・天保期成立) 〝同じき(天保三年)十一月廿七日比か、画師柳川重信没す。葛飾北齋翁の婿なり。葛門にしてまた歌川に 入る。大の時に行る。年未だ四十よし(ママ)。惜むべし。此人常々自から沐浴して死なんといひしが、果 して死期をしりて、医にむかひ、此度の病気全快すべからずといひて、沐浴して二階へ上りしが、奄然 として逝すと、銀鶏畑君語る〟
〈畑銀鶏は狂歌師奇々羅金鶏の子。金鶏は寛政二年の狂歌絵本『吾妻遊』(歌麿画)、また寛政十二年刊の狂歌狂文集 『燭夜文庫』(中村芳中画)で知られる〉
☆ 刊年未詳
◯「絵入狂歌本年表」
(刊年未詳)
柳川重信画
『狂歌名所図会/五畿内之部』一冊 柳川重信画 琴樹園二喜編 ① 『五百題狂歌集/二字題之部』 柳川重信画 芍薬亭長根等編 ① 『五百題狂歌集』一冊 柳川重信画 芍薬亭・楽聖庵撰 ① 『狂歌百千鳥』 二帖 柳川重信画? 芍薬亭長根編 ① 『狂歌貫珠集』 一冊 柳川重信画 琴樹園二喜編 ①(画像)
◯「艶本年表」
(刊年未詳)
柳川重信画
『重信欠題大錦画帖』一帖 柳川重信画 淫蕩山人序 ①(注:日本艶本目録(未定稿)による) 『五ツ雁』三冊 柳川重信画 ①(注:艶本目録による)
参考
◯『本之話』(三村竹清著・昭和五年(1930)十月刊) (出典『三村竹清集一』日本書誌学大系23-(2)・青裳堂・昭和57年刊) 〝和合神といふ書、挿絵は北斎と伝ふれど、実は
柳川重信
なるべし、北斎ならばもつと胴がつまつてゐま すと、先代の村幸主人いひし事あり 此版木一枚 某士大阪にて求めたりとて秘めもたりけるが、それ は其の書の末の方なりし、今は如何しけむと、或人かたれり〟
〈白倉敬彦著『絵入春画艶本目録』の書誌は〝『万福和合神』色摺 半紙本 三冊「和合堂主人」序 北斎画・作 文 政四年〟とする。村幸主人とは芝の古書店主・村田幸吉。古書店主の直感が是か非か、参考までに言えば、この艶本 は無署名〉
☆ 没後資料
☆ 天保四年(1833)
◯「絵本年表」
(天保四年刊)
柳川重信画
『草庵五百人一首』狂歌 柳川重信
風
ノ画 黒川春村撰 ⑮
〈〔目録DB〕は重信一世画とする〉
◯「百人一首年表」
(本HP・Top)(天保四年刊)
柳川重信画
『草庵五百人一首』狂歌 肖像 柳川重信画 黒川春村著・天保四年序 ①
〈浅草庵市人の門流五百人の狂歌集。巻三の目録に天保5年11月没の詠者あり。刊年はそれ以降〉
◯「合巻年表」
(天保四年刊)
柳川重信画
『男一ッ家』「柳川重信画」東里山人作 岩戸板 ① 十丁ウラ「口より十丁 柳川方にて手間どれ候ニ付 応需染筆いたし候 国直画」
〈国直が引き継いだのは、重信の体調が11月に異変をきたし、閏11月28日死亡したことによる〉
◯「読本年表」
(天保四年刊)
柳川重信画
『開巻驚奇俠客伝』二集 「有像 柳川重信画」 曲亭馬琴作 河内屋茂兵衛他板 ① 『南総里見八犬伝』八輯下「出像画工 柳川重信」曲亭馬琴作 丁字屋平兵衛他板 ① 『七国士伝』 初輯 「柳川重信画」教訓亭主人著 丁字屋平兵衛他板「天保四孟陽」①
〈教訓亭主人は為永春水〉
口絵「渓斎英泉画」他「国直筆」巻四・五「国直筆」
◯「人情本年表」
(天保四年刊)
柳川重信画
『春色梅暦』三・四編「柳川重信画」為永春水作 大嶋屋伝右衛門他板 ①
◯「絵入狂歌本年表」
(天保四年刊)
柳川重信一世画
『草庵五百人一首』三冊 柳川重信画 黒川春村編 ①
〈⑦は北馬画とする〉
◯『無名翁随筆』〔燕石〕(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立) ◇「葛飾為一」の項③312
「葛飾為一系譜」
〝辰斎(北斎)門人〟 〝辰斎ト云シ頃ノ門人 雷斗【柳川重信ト云、別記】〟 ◇「柳川重信」の項 ③314 〝柳川重信【文化、文政ヨリ、天保三年歿ス、年五十余】 俗称(空白)、本姓鈴木氏ノ男、江戸ノ人也、号雷斗、居始本所柳川町、後根岸大塚村、 北斎の門に入て画法を受て、北斎の娘を妻とし、聟となり、雷斗の名を続て、【始メ居ヲ本所柳川町ニ 在シユヘ、柳川ヲ以テ姓氏ノ如クセリ】板刻の密画に妙手ナリ、師の画法をよくせしが、一派の風意を 画り、彩色画は画風大に異り、浪花の玉山が筆法を慕ひ、亦、国貞の浮世絵を似せたり、草双紙も多く 画り、【柳亭種彦初テノ作、重信初テノ画、京一番娘羽板、西村与八板、文政四五年ノ比ナリ】読本も 書けり、【柳亭始テノ作、奴ノ小まん「中本」、文字手摺「大本」山崎平八ト云書林板元、昔人形】 草双紙、読本ともに大に世に行れて、数十部を発市す、一家をなして、世に重信風を云ふ、浪花に至て 用られしが、僅にして帰郷す、常に人形細工上等製作に奇巧あり、また南嶺が草画の筆法を画り、天保 三年十一月歿す、門人重山、続て其業をなせり、 按るに、重山は師重信の聟となれり、馬琴作の侠客伝二篇五ノ巻の末二丁、重信病おもりし其時、重 山続て画しものなり、【初編は英泉画ナリ、八犬伝、重信、英泉両画ナリ】その他読本アリ、彩色摺 にて、藤ばかまと云画本あり、【麹町衆星閣角丸屋甚助板、小枝繁翁作ナリ】〟 ☆ 天保五年(1834)
◯「日本古典籍総合目録」
(天保五年刊)
◇人情本
柳川重信画
『合世鏡』初編 重信画・重山画 東里山人(鼻山人)作 ☆ 天保六年(1835)
◯「日本古典籍総合目録」
(天保六年刊)
◇人情本
柳川重信画
『合世鏡』二編 重信・重山画 東里山人(鼻山人)作 ☆ 天保八年(1837)
◯「日本古典籍総合目録」
(天保八年刊)
◇人情本
柳川重信画
『合世鏡』三編 重信画・重山画 東里山人(鼻山人)作 ◯『無可有郷』〔百花苑〕⑦382(詩瀑山人(鈴木桃野)著・天保期成立) (「浮世絵評」の項) 〝予が論ずる所は浮世絵なれば、右の論(画に王道覇道のありしこと)益なしといへども、筆意の説論ぜ ざるべからざるものあり。北斎似をかゝず、あたはざるにあらず。せざるなり。国貞山水花鳥をなさ ず、あたはざるにあらず、是またせざる也。これ王道ならざる故なり。此二人覇気の甚しきもの故、下 してやすきにつく事能はず、おもふまゝに、おのれが長をずる所は各古今一人なり。其餘名人多しとい へども、みな王覇をかねて而して漸なるゆゑに、何にても出来ると雖も、彼二人長ずるところの如くな らず。世北斎筆意よし国貞形似よしといふ。皆誤りなり。北斎の画ところ山水花鳥人物みな如此、筆者 (ママ)ならざるべからず。是を哥川家にて絵かゝばあしからん。国貞の画く俳優人物、その餘の器械また 如此。筆意ならざるべからず。是を北斎流にて画けばあしゝ、ゆゑに各相容れず、一流を立ること其宜 しきを得たり。然るに柳川重信、哥川国直の徒相混じて用ゆ。愈其至らざるを見る〟
〈鈴木桃野によれば、柳川重信も歌川国直も、北斎の方向と国貞の方向と追ったがために北斎・国貞に及ばないという のである〉
☆ 天保十四年(1843) ◯『筠庭雑考』〔大成Ⅱ〕⑧187(喜多村筠庭著・天保十四年序) (「浮世人形」記事) 〝此雛骨董集に図を出せる女人形に似たれども、面相ほりかたは勝れたり。還魂紙料に出たる若衆人形と 一双にて、つとの形などいとよく似たり。同時の物にて同じ細工師が作とみゆ。但し柳亭子が所蔵のも のは、古き頭ばかりを得て作りしなり。一とせ柳川重信が細工にて、両国橋広小路に、見せ物に、柱隠 しに種々の物を作れり。其時くづれたる古人形の頭をもとめて、二ツに破て押絵のやうに板をつけたり。 柳亭子が人形の頭は、此時得たり〟
〈『骨董集』は山東京伝の考証(文化十年序)。『還魂紙料』は柳亭子こと柳亭種彦の考証(文政九年刊)である〉
◯『嗚呼矣草』〔大成Ⅰ〕⑲274(大坂書林、河内屋茂兵衛出版目録・年代未詳) 〝柳川前重信画/絵手本水滸画伝/全二冊 此画は前の柳川先生の筆にして水滸伝一百八人の英雄を図にあらはし、おの/\その小伝を附して童蒙 の慰(なぐさみ)画を好める人の便ならしむ〟
〈「国書基本DB」に『絵本水滸伝』二巻二冊・柳川重信画とあるのがこれか。ただ刊年を載せていない〉
☆ 天保年間(1830-1844) ◯「江戸自慢 文人五大力」(番付 天保期)
(東京都立図書館デジタルアーカイブ 番付)
〝風流時勢粧 倭画 香蝶楼国貞 歌川国直 歌川国芳 柳川重信 渓斎英泉〟
〈「時勢粧」とは現代流行の風俗という意味、それを画く「倭画」とはすなわち「浮世絵」のこと。国貞を筆頭とするこれら の面々が当時の浮世絵界を代表する大立者であった。ただ不審なのは北斎の不在。北馬のように画家として別に登場 するわけでもなく、この番付には北斎の痕跡がないのである〉
☆ 弘化元年(天保十五年・1844) ◯『増補浮世絵類考』
(ケンブリッジ本)
(斎藤月岑編・天保十五年序)
(( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち)
〝柳川重信 文化文政より天保三辰年(空白)月歿、五十余 俗称(空白) 本姓 鈴木氏の男 江戸の人なり 号 雷斗 居 始本所柳川町、後根岸大塚村 北斎の門に入て画を学び、北斎の娘を娵て聟となり、雷斗の名を継ぐ(始柳川町に在し故、柳川を以て 姓の如くせり)板刻の密画をよく書り。〈江戸の南嶺が草筆〉浪花の玉山を慕ひ、又国貞の風をも似せ たり。草双紙を多く画き(柳亭種彦始ての作、重信初ての画、京一番娘羽子板、文政四五年也)読本を も書り(柳亭始の作中本、奴の小まん、文字手摺昔人形、山崎平八と書林板元なり)浪花に至りて用ら れしが僅にして帰郷す。常に人形細工等の製作に奇巧あり。天保三年十一月歿す、門人重山、続て画り。 按るに、重山は師重信の聟となれり〈種彦作の綟手摺昔木偶五冊を画き、馬琴作の侠客伝二篇五巻末 二丁、重信病おもく、重山続て画しものなり(初編は英泉画なり、八犬伝、重信、英泉両筆也)其他、 重山の筆、読本あり。彩色摺にて藤袴といふ画本あり(麹町衆星閣角丸や甚助板、小枝繁翁作) 〈月岑云 柳川重信は志賀理斎、称理介の男なり、根岸に住せりと〉〟
〈国文学研究資料館の「日本古典籍総合目録」は『京一番娘羽子板』を文化九年刊とする。また志賀理斎は二代目重信 (初名重山)の父。月岑は初代と二代を区別していない。柳川重信二代参照〉
☆ 嘉永三年(1850) ◯『古画備考』三十一「浮世絵師伝」中p1411(朝岡興禎編・嘉永三年四月十七日起筆) 〝
柳川重信
天保三年十一月死、五十餘歳、武江年表〟 ◯『新増補浮世絵類考』〔大成Ⅱ〕⑪219(竜田舎秋錦編・慶応四年成立) 〝本姓鈴木氏、父を志賀理斎(称理介)といふ。江戸の産也。始め本所柳川町に住す〔割註 故に柳川を 姓の如くにせり〕。後根岸大塚村へ移る。北斎の門に入て画を学び、北斎の娘を娶て聟となり。雷斗の 名を続て板刻の密画を能せり。江戸の南嶺、浪花の玉山等を慕ひ、又国貞の風をも似せたり。草双紙を 多く画く。〔割註 柳亭種彦始ての作、重信始ての画は京一番娘羽子板と云草双紙也。文化四年板〕浪 花に至りて用られしが、僅にして帰郷す。常に人形細工等の制作に奇功あり。天保三年十一月歿す。 綟手摺昔人形 種彦作 濡燕柄傘雨談 雪麿作 七国士伝 為永春水、松亭金水作 里見八犬伝 馬琴作 英泉補筆〟 ☆ 明治二十二年(1889) ◯『近古浮世絵師小伝便覧』(谷口正太郎著・明治二十二年刊) 〝文化 柳川重信 の頃、多く読本の板下等を画 は北斎の女也と、二代重信有り〟 ☆ 明治二十五年(1892) ◯『日本美術画家人名詳伝』下p332(樋口文山編・赤志忠雅堂・明治二十五年刊) 〝柳川雷斗 名ハ重信、本姓鈴木氏、初メ本所柳川町ニ居ル故ニ柳川ヲ以て別氏トス、後根岸大塚村ニ移ル、画ヲ葛 飾北斎ノ門ニ学ビ、其ノ女ヲ以テ妻トナシ、雷斗ノ名ヲ続グ、板刻ノ密画ハ大ニ師風ト異ナリ、浪花ノ 玉山ガ筆意ヲ慕ヒ、亦タ国貞ノ浮世絵ニ傚フ、多ク草双紙ヲ画キ、読本ヲモ出セリ、草双紙読本共ニ大 ニ世ニ行ハルゝ、世ニ之レヲ重信風ト曰フ、嘗ニ浪花ニ遊ビテ大ニ用ヒラルゝ、居ルコト幾クナラズシ テ還ル、亦南嵓ガ草書ノ筆法ヲ画ケリ、馬琴作ノ里見八犬伝ノ画ハ雷斗ト英泉ノ筆ナリ、傍ラ人形細工 等ノ製作ニ奇巧ナリ、天保三年十一月歿ス、年五十余、門人重山続キテ其ノ画風ヲ能クセリ(燕石十種)〟 ☆ 明治二十六年(1893) ◯『古代浮世絵買入必携』p14(酒井松之助編・明治二十六年刊) 〝柳川重信 本名〔空欄〕 号〔空欄〕 師匠の名 葛飾北斎 年代 凡六七十年前 女絵髪の結ひ方
第十二図・第十三図
(国立国会図書館 近代デジタルライブラリー)
絵の種類 並判、小判、摺物、絵本、肉筆 備考〔空欄〕〟 ◯『葛飾北斎伝』(飯島半十郞(虚心)著・蓬枢閣・明治二十六年刊)
※( )は底本のルビ。〈 〉は本HPの注記
◇北斎の長女(柳川重信の妻)記事 p307 〝〈北斎〉長女名は詳ならず。一説に、阿美与、門人柳川重信、鈴木重兵衛に嫁せしが、睦まじからずし て、家に帰りて死す。喜多村節信の筆記に、北斎一旦重信を養子とせしが、何の故にや、後に義絶せり。 夫れより、重信独立して、頻(シキリ)に板下を画きしが、北斎これを拒みたり。柳亭種彦其の間に入り て、双方をなだめたりとあり。これに拠れぱ、重信に長女をあはせて、聟とせしものゝごとし。この女、 一男を生む。其の名詳ならざれども、即翁の孫にして、前に載せたる翁が手簡中に、孫放蕩云々は、即 この孫なり〟
〈喜多村節信は正しくは信節、筠庭。江戸町年寄・喜多村彦右衛門の弟。考証学者。この筆記とは、岩波文庫本『葛飾 北斎伝』の校注者・鈴木重三氏によると『武江年表補正略』の由。前出『増訂武江年表』の天保三年の項に同様の記 事あり、参照のこと〉
◇重信伝記 p315 〝柳川重信 重信は、鈴木氏、俗称重兵衛、江戸の人初め本所柳川町に住す。人呼びて柳川町の重信とひ、 後には、町字を省きて、柳川重信といふ。よりて柳川は、終に氏のごとくなりたるなり。後に根岸の大 塚に移る。夙(ツト)に北斎の門に入り、画法を学び、師の骨髄を得たり。師の娘を妻とし、雷斗の名を 譲らる。後更浪花の玉山、江戸の南嶺を慕ひて画く。又歌川の風を善くし、最(モツトモ)板刻の密画に長 じ、読本を画く多し。(以下、読本四作の書名あり、略)又草双紙を画く多し。(以下、重信初筆の文 化九年刊『京一番娘羽子板』をはじめとする合巻二十作品の書名あり、略)嘗浪花に到り、画きて大に 行はれしが、幾許ならずして、江戸に帰る。絵画の余暇に、人形細工を工夫し、新奇なる製作をなせし とぞ。天保三年十一月死、五十余歳。子なし。門人重山【博覧家志賀理斎の男、俗称谷城季三太】養子 となりて、家を継ぐ。重信の病むや、馬琴作の『俠客伝』二編、五巻の二丁を画きて、死したれば、重 山あとを継ぎ、画きたり。重山の画、彩色摺にて、小枝繁作の「藤袴」といへる絵本あり〟 ◯『浮世絵師便覧』p234(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年刊) 〝重信(シゲノブ) 柳川、◯鈴木氏、北斎門人、後に北斎が娘を娶り、雷斗の名を譲らる、◯文化〟 ☆ 明治二十七年(1894) ◯『名人忌辰録』下巻p6(関根只誠著・明治二十七年刊) 〝柳川重信 雷斗 俗称鈴木重兵衛。実父は志賀理斎。北斎門人となりし。天保三辰年閏十一月廿八日歿す、歳四十六。下 谷坂本宗慶寺に葬る〟 ☆ 明治三十一年(1898) ◯『浮世絵備考』(梅山塵山編・東陽堂・明治三十一年刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
(57/103コマ)
〝柳川重信【文化元~十四年 1804-1817】 本姓は鈴木氏、江戸の産なり、為一の門に入りて画を画ぶ、後その女を娶りて、聟となり、雷斗の号を 譲らる、初め本所柳川町に住みしより、柳川を以て姓の如くせりとぞ、後に根岸大塚村に移りて、板刻 の密画を多く描き、また江戸の南嶺、浪花の玉山等が画風を慕ひ、国貞の筆意をも似せて、草双紙の挿 絵を画けり、此の人常に木偶を製作して巧みなりしと云ふ、天保三年辰十一月没す、享年五十余歳 (板本リスト四作 書名省略)〟 『増補浮世絵類考』に重信を以て、志賀理斎の男とするは非なり、理斎の男は二世重信にて、初号を重 山と云ひし人なり〟 ☆ 明治三十二年(1899) ◯『新撰日本書画人名辞書』下 画家門(青蓋居士編 松栄堂 明治三十二年三月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
(152/218コマ)
〝柳川重信 本姓は鈴木氏 本所柳川町に住するが故に 柳川を以て別氏となす 雷斗と号す 後根岸大塚村に移る 画を好み葛飾北斎に師事す 北斎其の才を愛し 女を以て之れを妻(めあ)はす 此の人刻苦研磋して 其の技に達し 悉く師の画風を得たり 後自ら工夫して一新格を出し 稍其の風を変ず 殊に彩色画に 至りては 全く師の画風と異なれり 又浪華の玉山が筆意を喜び 且つ国貞の浮世絵に倣ふて 之れを 描く 当時重信風と称して頗る愛翫し 大に世に行はる 後又南嵒が草画の筆法を描けり 傍ら人形制 作に名あり 天保三年十一月没す 年五十余(燕石十種)〟 ◯『浮世画人伝』(関根黙庵著・明治三十二年五月刊) ◇「葛飾北斎系譜」p121 〝北斎長女、門人柳川重信ノ妻トナリシガ、重信ガ画ノ拙ナルヲ疎ミ家ニ帰テ夭死ス〟 〝重信 北斎門人 柳川氏、二世雷斗〟
「葛飾北斎系譜」
◇「柳川重信」の項 p122 〝柳川重信(ルビやながわ) 重信は俗称を鈴木重兵衛と呼びて、志賀理斎(通称理助)の子なり、師なくして北斎風の画を能くせり。 或年、本所一ッ目弁天の前なる、髪結床の障子に牛の時参りする女を、のぶせりの乞食が、犯さんとす る図を画けるを、魚屋北渓之れを見て、画は社中の風なるが、かばかりに画んものを覚えず、何人が画 きしにかと、其家にて問ひしに、重信の筆になりしとの事に、夫より重信に会ひて、遂に我師北斎の門 弟とせしが、如何しけん北斎と確執を生じければ、北渓師の北斎をなだめ、頻りに仲裁を試みたれど、 北斎いかり強く、断然義絶に及びぬ、重信今は是非なく板下を画て筆硯を潤せしが、北斎是をも板元に 通じて禁じたれば、ます/\不和となりしにより、初代柳亭種彦種々とりなし双方を解いて、爰に和す る事となり、後北斎の長女を娶り雷斗の号を譲られき。重信の姓を柳川と称するは、その住居本所柳川 町なればなりと、又一説に種彦の仲裁により和解に及びたれば、柳亭の一字を冠りて、此時より柳川と 呼ぶとも云へり。重信初めて草双紙を描きしは、文化四年の板にて、柳亭種彦が草双紙の初作なりと聞 へし『京一番娘羽子板』なりとか。晩年に至り、鈴木南嶺及び浪花の法橋玉山を慕ひ、又国貞の風に法 (*ノットリ)り、稗史の密画に巧なりき。又木偶の彫刻を好みて精工なりしと聞く。天保三年閏十一月廿八 日歿す、歳四十六、下谷坂本宗慶寺に葬りぬ〟
〈志賀理斎の子は重信の弟子重山(二代目重信)〉
☆ 明治三十五年(1902) ◯「集古会」第三十九回 明治三十五年九月
(『集古会記事』明治35年11月刊)
〝清水晴風(出品者)大田蜀山肖像 柳川重信筆 一幅〟 ☆ 明治三十八年(1905) ◯「集古会」第五十五回 明治三十八年十一月
(『集古会誌』丙午巻之一 明治39年1月)
〝村田幸吉(出品者)芍薬亭撰『狂歌百千鳥』一枚 柳川重信筆にして文政頃の市中の女風俗挿絵あり〟 ☆ 明治四十四年(1911) ◯『浮世絵画集』第一~三輯(田中増蔵編 聚精堂 明治44年~大正2年(1913)刊) 「徳川時代婦人風俗及服飾器具展覧会」目録〔4月3日~4月30日 東京帝室博物館〕
(国立国会図書館デジタルコレクション)
◇『浮世絵画集』第二輯(明治四十五年(1912)五月刊) (絵師) (画題) (制作年代) (所蔵者) 〝柳川 「秋の夜」 文化文政頃 高嶺俊夫 柳川重信 「大原女」 文化文政頃 東京帝室博物館〟 ☆ 大正年間(1912~1925)
◯「百人一首年表」
(本HP・Top)(大正五年(1916)刊)
柳川重信画
『習字兼用 小倉百人一首』肖像
〔跡見2065〕
見返し「柳川重信画」晩翠堂主人書 東京書肆 籃外堂 大正五年刊
〈原本未確認〉
◯「集古会」第百二十九回 大正九年(1920)九月
(『集古』庚申第五号 大正9年10月刊)
〝赤松磐田(出品者)柳川重信図 蜀山人肖像 一幅 くち/\にねぼけ/\といふ人のねほけぬ顔をわらふねほけ子 飯盛〟 ◯「集古会」第百三十三回 大正十年(1921)五月
(『集古』辛酉第四号 大正10年8月刊)
〝矢島隆教(出品者)重信画 願掛注文帳 一冊 南北作 文化十四年刊〟 ☆ 昭和以降(1926~) ◯『狂歌人名辞書』p98(狩野快庵編・昭和三年(1828)刊) 〝柳川重信(初代)、通称鈴木重兵衛、東都本所柳川町に住せしを以て終に柳川を氏名とす、初め北斎に 浮世絵を学び、北斎の娘を娶りて雷斗と号せり、後ち東都の南嶺、浪花の玉山等の画風を慕ひて一派を 為す、狂歌集に此人の挿画あるもの数部あり、天保三年閏十一月廿八日歿す、年四十六、下谷宗慶寺に 葬る〟 ◯『浮世絵師伝』p82(井上和雄著・昭和六年(1931)刊) 〝重信 【生】天明七年(1787) 【歿】天保三年(1832)閏十一月廿八日-四十六 【画系】北斎門人 【作画期】文化~天保 柳川を称す、鈴木氏、俗称重兵衛、曾て北斎の養子となり、其が長女(名は美與)と結婚して一子(男) を儲けしが、故ありて離縁となり実家に帰りし由、雷斗の号は初め師北斎より与へられしものなりと云 ふ、彼れ本所柳川町に居住せしかば、人これを柳川重信と呼べり、よつて画姓とす、別に琴斎・鈴斎・ 雨蕉斎等の号あり。彼が画く所、美人画及び読本草双紙の挿絵などありしが、文政五年大阪に行き、彼 地にて役者絵を画きし事あり、其の間、彼が門人となりて教へを受けし者(重春・信貞・国直及び其他) もあり、当時大阪の斯界に相当の影響を与へしものゝ如し、されど滞在久しからずして帰東せしとぞ。 墓所下谷坂本、宗慶寺。彼が享年は、一説に五十余歳を伝へたり〟 ◯『浮世絵年表』(漆山天童著・昭和九年(1934)刊) ◇「文化八年 辛未」(1811)p181 〝此年、柳川重信の画としての処女作『京一番娘羽子板子』成る。(出版は翌文化九年なり)按ずるに 『無名翁随筆』『増補浮世絵類考』等に、柳亭種彦初めての作、重信初めての画、京一番娘羽子板、西 村与八板、文化四五年の比なりとあるが、本書を実見するに序文に文化辛未(文化八年)秋稿成、壬申 (文化九年)孟春発販柳亭種彦誌と署せり〟 ◇「文化一一年 甲戌」(1814)p185 〝此年、柳川重信の挿画に成る曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』第一輯出版〟 ◇「文政一〇年 丁亥」(1827)p203 〝正月、柳川重信の画ける『狂歌人物誌』出版〟 ◇「天保元年(十二月十日改元)庚寅」(1830)p208 〝正月、柳川重信の画ける『狂歌百千鳥』出版〟 ◇「天保三年 壬辰」(1832) 〝閏十一月二十八日、柳川重信歿。行年四十六歳。或はいふ五十余歳と。(重信は北斎の門人にして、そ の女婿となり雷斗の号を譲らる。俗称鈴木重兵衛といひ、本所柳川町に住せしより柳川の姓とせり。馬 琴の里見八犬伝の挿画は重信・英泉・貞秀等の画くところなり) 正月、柳川重信の画ける『狂歌花街百首』出版。 七月、柳川重信の画ける『狂歌劇場百首』出版〟 ◇「天保七年 丙申」(1836)p215 〝四月、国貞・国直・北馬・国芳・柳川重信・北渓・武清等の挿画に成る『とふの菅薦』出版〟 ◯「集古会」第二百十回 昭和十二年三月
(『集古』丁丑第三号 昭和12年5月刊)
〝中沢澄男(出品者)柳川重信画 花紅葉一対若衆 合巻 一冊 柳亭種彦作 文化十三年板〟 △『増訂浮世絵』p238(藤懸静也著・雄山閣・昭和二十一年(1946)刊) 〝柳川重信 俗称は鈴木重兵衛、江戸の生で、本所柳川町に居住してゐたので、人呼んで、柳川重信といふた。よつ てそれを画名とした。夙に北斎の門に学び、師法に熟し、師の長女美與と結婚して、北斎の養子となり、 雷斗の号を譲られたが、故ありて離縁となり、実家にかへつたといふ。 文政五年大坂へ行き、彼地で役者絵を画き、好評を博した。因つて来つてその門に学ぶもの多く、その 名あるものは重春、信貞、国直等である。大坂にその影響を与へたことは、注目すべきことである。 重信は北斎の門下でも、重信その人の特色があり、特殊な風格をもつてゐた。然し佶屈な点の多かつた ことは惜しい。錦絵、読本の挿話の作が少くない。天保三年閏十一月廿八日四十六歳で没した。一説に 五十余歳と伝へられる〟
「柳川重信-大坂弟子」
◯「日本古典籍総合目録」
(国文学研究資料館)
〔柳川重信画版本〕
作品数:65点
(「作品数」は必ずしも「分類」や「成立年」の点数合計と一致するとは限りません)
画号他:重信・柳川・柳川重信 分 類:合巻33・狂歌16・読本8・人情本2・滑稽本2・艶本1・咄本1・絵本1・教訓1 成立年:文化2・9~14年 (29点) 文政1~8・10~13年(23点)(文政年間合計26点) 天保1・3~4年 (10点)
〈文化二年の作品として、「日本古典籍総合目録」は、芍薬亭等編の『狂歌五手船』をあげるが、渓斎英泉の『無名翁 随筆』以来、重信の初筆は文化九年刊の合巻『京一番娘羽子板』(柳亭種彦作)とされているのだが〉