Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ くにてる うたがわ 歌川 国照 浮世絵師名一覧
〔未詳〕
 〈藤懸静也著『増訂浮世絵』によれば、明治九年・六十九才没の歌川国照とは別人の由である〉  ☆ 文政十一年(1876)    ◯『増補浮世絵類考』(斎藤月岑編・天保十五年序)
   「豊国筆塚碑」(初代豊国門人 文政十一年八月記の「歌川総社中碑」に名を連ねる)    ☆ 天保四年(1833)    ◯『無名翁随筆』〔燕石〕③305(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)
   「一陽斎豊国系譜」 〝(初代豊国門人)国照【俗称惣右衛門、錦絵二三種アリ】〟    ☆ 天保十五年(弘化元年・1844)    ◯『増補浮世絵類考』(斎藤月岑編・天保十五年序)
   「一陽斎豊国系譜」〝初代 豊国門弟 国照 俗称甚右衛門 錦画二三種〟    ☆ 慶応三年(1867)( 改印:卯月改)    ◯「おもちゃ絵年表」〔本HP・Top〕    国てる画「志ん板ふらんす曲馬つくし」「国てる画」版元未詳 慶応3年3月③F-303-265  ☆ 慶応四年(明治元年・1868)    ◯『新増補浮世絵類考』〔大成Ⅱ〕⑪190(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)
   「歌川豊春系譜」〝(歌川豊国門人)国照 俗称勘右衛門、錦絵アリ〟    ☆ 明治四年(1871)    ◯「見世物興行年表」「スリエ曲馬二」(ブログ)〈国立国会図書館デジタルコレクション参照〉    歌川国てる画(「てる」は「輝」か「照」か不明)    「志ん板ふらんす曲馬」署名「国てる画」糸庄板    〈この「国てる」が国照と同人か不明。参考のために収録した〉    ☆ 没後資料    ◯『読売新聞』(明治23年8月20日)   〝観音の額は福助の行列なり 浅草観音の堂にかけ列(つら)ねたる額は 何れも古名工の手になりて 殆    んど絶世のものと称せられしもの多く 就中(とりわけ)豊信国貞の大画 最も世に名高かりしが 或人    は之を評して 皆福助の行列なりと云ひ 却って国照の画ける力士の額を以て 真の画なりと賞めけれ    ば 聞く人皆其妄を難じて 之を狂人なりと嘲りぬ 然るに此頃 或る画学生ありて 私(ひそ)かに思    ふ所あり 態々(わざ/\)狂人に就て 福助の行列云々(しか/\)の所以を問ひたるは 決して其画を    批難したるに非ず 世人は知らずや 夫(か)の額面の画は 下より遙かに見る時は 如何にも立派の名    画なれ共(ども) 近づきて細かに之を視る時は 皆横巾広くして 頭のみ大く福助の行列と異る処なき    を 夫の国貞画ける一ッ家の婆の側に頬杖突ける観音の堂と顔とは 其間三寸余の距(へだたり)ありて    之に近づき視る時は 真に笑止の画き様なるが如く 皆割合に随ひて横巾広く仕上げあれば 誠に福助    の行列と云ふの外なきなり 之に反して国照の力士は専ら謹心を旨とし 土俵の砂の如(ごとく)は石灰    に砂を交ぜ 之を膠(どうさ)の上にふるひかけたる程なれば 画に於て更に一点の批難すべき所なきも    額面を画くの注意なかりしゆゑ 高所に掲げて毫も引立たず 折角なる土俵の砂も 鼠色の絵の具をな    すりたりとしか見えざるこそ気の毒なれ 国貞婆の額を画くに当りては 則ち否(しか)らず 彼注意周    到なるが故に 予め雨戸三枚を並べて 額面の雛形を作り 之れに下画して 二階の屋根へ掲げ 下よ    り見上げて 名画と見らるゝまでに直し始めて筆を下したりと云へば 福助の行列を画きて能く此名画    を示せるなり 誠に感服の至りなり 拙者が是等の名画をさして 福助の行列なりと云ひしは 全く近    間にて見たる時の事を云ひたるのみ云々(しか/\)と かくて画学生大に感服して其場を立ち去りたる    が 其后観音の額を掃除するに当りて 心ある画工請て 之を一覧せしに 果して或る人の言(こと)の    如く 皆福助の行列に彷彿たりしと云ふ〟    〈「豊信国貞」の国貞は初代だと思うが、豊信は不明。また浅草寺観音堂の額「福助の行列」および国照の力士像・国     貞の「一ッ家の婆」の図の不明〉  ◯『浮世絵師歌川列伝』(飯島虚心著・明治二十七年 新聞「小日本」に寄稿)   ◇「一世歌川豊国伝」p102 〝(豊国初代門人)国照(俗称甚左衛門、錦画あり)〟    ◯『浮世絵備考』(梅本塵山編 東陽堂 明治三十一年(1898)六月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(65/103コマ)   〝歌川国照【文政元~十二年 1818-1829】通称甚右衛門、初代豊国の門弟にて、錦絵を画けり〟  ◯『浮世画人伝』p84(関根黙庵著・明治三十二年(1899)刊)
   「歌川豊国系譜」〝国照(初代豊国門人)俗称甚右衛門〟