アルツハイマー・トスカニーニ。.... 佐久間學

(11/1/16-11/2/3)

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2月3日

MOUSSORGSKY
Pictures at an Exhibition
Valery Gergiev/
Wiener Philharmoniker
DECCA/UCGD-9013(single layer SACD)


昨年、日本のユニバーサルが、いったい何を思ったのか、一度は見限ったSACDを突然出したのには、驚かされました。しかも、専用プレーヤーでなければかからない単層のSACDですからね。宝塚ではありませんよ(それは「男装」)。ジャズやロックも含め、すでに80近くのアイテムがリリースされているのもうれしいことです。これが、一過性のものなのか、あるいは将来になにか期待を持っても構わないものなのかは、今の段階では分かりません。別にこんなマニアックなものではなくても、普通のハイブリッドで構わないのですから、ぜひSACDが日常的に出回るような社会になってほしいものです。
去年の年末には、こんな高価なものを買ってくれたお客さんに対するお礼の意味なのでしょうか、「4枚買ったら発売中のSACDの中からお好きなものを1枚差し上げます」みたいなキャンペーンを展開していましたね。それまでにちょうど4枚手元にあったので、早速応募して、これをもらうことにしていました。それからほぼ1ヶ月たって、やっと現物が届いたところです。
なぜ、これにしたかというと、まず、これはCDで持っていたから。せっかくもらうのなら、CDとの比較が出来るものの方がいいですからね。それと、今まで買ったのはすべてアナログ録音のものばかりでしたが、最初からデジタル録音のものも、きちんと聴いてみたい、という思いもあったからです。SACDの良さは、アナログ録音でこそ発揮されるということを身を持って味わっていたところなのですが、それがデジタル録音、もちろん、初期の16ビットのものではなく、これが録音された2000年当時のハイビット(おそらく)ではどれほどのものが達成できていたか、確かめてみたかったのですね。
それは、想像をはるかに超えるものでした。CDに続いてこのSACDを聴くと、まるで3Dのように音が立体的に聴こえてくるのですからね。もちろん、「立体的」というのは、かつてNHKAMしかなかった時代に、第1放送と第2放送をシンクロさせてラジオ2台で「ステレオ放送」を行っていた番組「立体音楽堂」の語感とは微妙に異なるものです。あちらは平面的な「立体」、そして、こちらは3次元の、本当の意味での「立体」ですね。
つまり、それぞれのパートが、ひときわ聴覚的なふくらみをもって聴こえてくる、という比喩なのですが、これはまさにアナログ録音からのSACDと全く同じ経験でした。たとえば、CDのレビューの際に指摘した「キエフの大門」の最後の部分での、唐突なバスドラムなどは、決して大音響の中に埋もれることなく、くっきりとした音像を形成してよりクリアな存在感で聴こえてきます。
さらに、今までCDを聴いてきて例外なく不満に思えていた、弱音器を付けたヴァイオリンによって演奏される時のテクスチャー(肌触り)が、このSACDでは見事に再現出来ているのですね。たとえば、「古城」の中間部や、カップリングの「はげ山の一夜」の最後の部分などで、それが体験できるはずです。おそらく、初期のデジタル録音では不可能だったものも、この頃にはきちんとアナログ並みに再現できるようになっていたのでしょうね。
そんな、繊細さとしなやかさを取り戻した音で聴き直してみると、ここでのゲルギエフとウィーン・フィルの演奏からは、ライブならではの生々しさを存分に味わえることになります。先ほどの「古城」などは、ファゴット奏者、サックス奏者、そして弦セクションは、それぞれに全くばらばらな方向を向いて演奏しているのが分かります。しかし、それがアンサンブルの乱れと感じられることはありません。こんな混沌とした「現場」を作り上げて、その上で不思議な高揚感を生み出すというあたりが、おそらくゲルギエフの放つオーラの正体だったのかな、というような思いに浸れるほどの、実は素晴らしい録音だったのですね。

SACD Artwork © Decca Music Group Limited

2月1日

SWAYNE
Choral Music
Sophie Bevan(Sop), Kate Symonds-Joy(MS)
Ben Alden(Ten), Jonathan Sells(Bas)
Raphael Wallfisch(Vc)
Graham Ross/
The Dimitri Ensemble
NAXOS/8.572595


前作で素晴らしいマクミランを聴かせてくれたドミトリー・アンサンブルの、最新アルバムです。前作同様、プロデュースとレコーディングはあのジョン・ラッターが担当してるのらったー。前回は楽器がたくさん入っていたのであまり感じなかったのですが、今回の、ほとんどア・カペラの合唱という編成のものを聴いてみると、録音がものすごく良いことに気づきます。合唱の録音というのは本当に難しいものらしく、SACDなどで出ているものでも、満足できることはほとんどありません。常になにか歪みっぽい感じが付きまとっているのですよね。しかし、これは違います。いくら声部がかさなっても、音はあくまでクリア、どんなにフォルテシモで歌っても、ソリストがどんなに声を張り上げても、全く歪みが感じられないのですから、すごいものです。たとえ合唱の「音」を誰よりも知っているとしても、それだけではこれほどの録音は出来上がりません。ラッターという人、レコーディング・エンジニアとしても卓越したスキルを持っていたのですね。
ジャイルズ・スウェインというイギリスの作曲家は、1946年に生まれました。ケンブリッジ大学を卒業したのち、王立音楽院で学び、さらにはパリでオリヴィエ・メシアンにも1年ほど師事しています。その作風はかなりグローバル、自身も民族音楽の収集などのフィールド・ワークを行って、作品の中に反映させています。
最初に聴こえてくるのが、彼がセネガルで実際に録音した祈りの歌です。そして、そのような伝承曲に込められたエネルギー、具体的には特異なモードや複雑なポリリズムを合唱曲として昇華させたものが、それに続く「Magnificat I」です。聴き慣れたラテン語のテキストが、幾層にも重ねられたリズムの綾の中から浮き上がってくるのは、スリリングです。
続く「The silent land」という曲は、実質的には「レクイエム」です。その編成が、今度はあのトーマス・タリスのモテット「Spem in alium」を下敷きにした、40声部という巨大なものになっています。タリス同様、5声部のコーラスが8つ集まったという構成なのですが、タリスとは異なり、ここにはチェロの独奏が加わって、そのドラマティックな表現力で圧倒的に迫ります。20分以上かかる長い曲ですが、その様相は刻一刻変わり、飽きることはありません。オープニングあたりは、まるでペンデレツキの「ルカ受難曲」のような、激しいクラスターの応酬、この編成から産み出される多次元の独立した要素が、複雑に絡み合うさまは、まさにエキサイティング。そして、後半になってくると、チェロの息の長い旋律が心にしみてくるはずです。それは、あたかも師メシアンの「世の終わりのための四重奏曲」へのオマージュのように響きます。その頃には、合唱は美しい三和音で「Requiem・・・」と、いつ果てることもないフレーズを繰り返しているのです。
最後は演奏時間36分の大作「Stabat mater」です。これは非常に複雑、かつ重い作品となっています。元々はラテン語でキリストの遺体のそばに佇む聖母の哀しみを歌った聖歌なのですが、ここではラテン語だけではなくヘブライ語やアラブ語、そしてキリストが話した言葉とされるアラム語など、多くのテキストで歌われ、音楽もそれぞれの言語に由来するものになっています。そこには、単にキリスト教の聖歌と言うだけではない、現代に通用するメッセージが込められていることは明白です。ソリストが、そんな非西欧の秩序に基づく歌を朗々と歌う様はちょっと鬱陶しい気もしますが、最後のモテットで「Dona nobis pacem」という言葉がそれぞれの言葉で繰り返されるシーンは、確かに感動的です。2004年に作られたこの曲は、これが初録音となりますが、2011年にはライプツィヒで、新しくチェロが加わったバージョンが初演されるそうです。それは、さらに「感動的」な仕上がりになることでしょう。

CD Artwork © Naxos Rights International Ltd.

1月30日

Picnic Album 2
コトリンゴ
AVEX/RZCM-46713

いつも車に乗る時には、民放FMを点けっぱなしにしています。NHKと違って、民放ではまずクラシックがかかることがないというのが、その最大の理由です。なにしろ、カーオーディオで聴くクラシックほど耐え難いものはありません。そもそも、車の中のような騒音だらけの中で、クラシックのピアニシモなどが聞こえるわけがありませんし、ヘタに熱中して聴いたりすると、運転がおろそかになってしまいますからね。いや、その前に眠気が襲ってきて、危険なことにもなりかねませんよ。
ですから、たとえ、もはやアーティストの宣伝媒体でしかなくなってしまっていたとしても、民放FMこそは聴き流すには充分の、まさにBGMとしての最高の役割を果たすものなのですよ。そして、本当にたまにですが、そこから貴重な情報を得ることも出来ますし。
この間も、そんなことがありました。ラジオから流れてきたのはとても懐かしい曲、どうやらペトゥラ・クラークが歌っていた往年のヒット曲「ダウンタウン」(「♪ダウンタウンへ繰り出そうおっ〜」という山下達郎の曲ではなく、Aメロのフレーズの最後に「downtown」というレスポンスが繰り返され、大サビでも頭で「downtown」が連呼されるというあの曲)のように聴こえます。ただ、メロディや歌詞は聴き覚えのあるあの曲なのですが、リズムがなんだかとてもヘン、どこがビートの頭だか分からないようになっていました。よくよく聴いてみると、どうやら「5拍子」のビートに乗っているようですね。それが分かってしまうと、その曲がとても新鮮に感じられるようになりました。オリジナルは普通の8ビート、基本的に「4拍子」なのですから、全く違う曲のよう、それでいて原曲の雰囲気はしっかり伝わってくるというとても素敵なアレンジには、驚くばかり。
曲が終わったときのMCで、これを歌っていたのが、あのコトリンゴだということが分かって、さらにびっくりです。てっきり外国人だと思ってしまったぐらい、英語の発音があまりにネイティヴっぽかったものですからね。「リリースされたばかり」と聞いて、さっそくアルバムをゲットです。つまり、彼女の場合、常にこんな風にラジオからのインパクトで新しいアルバムに出会える、というパターンが定着しています。
それは、このところおおはやりの「カバー・アルバム」でした。これが「2」ということで、当然前に「1」が出ていたわけですが、それは日本人アーティストのカバー、そしてこれは外国人アーティストのカバーということになります。ラインナップは全部で8曲、期待にたがわず、さまざまなアイディアのアレンジと、独特の脱力系のヴォーカルで、存分に楽しむことが出来ました。
その中で、ビョークの「Hyperballad」あたりは、もはや「すごい!」としか言いようのないものでした。ビョークの歌の中にある「民族性」を一旦剥奪したうえで、さらなるアヴァン・ギャルドとしての属性を持たせるという作業、これは、オリジナルの持つ世界観を完全に覆すような、ある意味オリジナルを超えたアレンジと、演奏です。よーく味わってみたいもの。
そんな意味では、シックスペンス・ノン・ザ・リッチャーの「Kiss Me」などは、一見オリジナルに限りなく近い肌触りを維持していると思わせて、実はこの作品が持つさらなる可能性を広げて見せたという、油断のならない仕上がりです。間奏のピアノのかっこいいこと。ストーンズの「She's Like A Rainbow」だって、イントロをアコーディオンで演奏するというだけのことで、見事に独自の世界を作ってしまっています。やはり、コトリンゴの持つセンスは、並みのレベルではありません。
これは、アルバムとは言っても30分ちょっとしかない、「ミニアルバム」の範疇に入るものなのでしょう。しかし、その充実感は、収録曲だけ多い冗長な「アルバム」をはるかに超えるものでした。

CD Artwork ©c Avex Marketing Inc.

1月28日

BRUCKNER
Symphonies Nos. 6 & 8 in Full Score
Dover
ISBN978-0-486-47231-7


ブルックナーの交響曲第8番の楽譜には、4種類のバージョンが存在しています。まずは最初に作った「第1稿」(1887年、出版されたのは1972年)。そして、ブルックナーお約束の改訂の結果、「第1稿」の3年後、1890年に出来上がったものが「第2稿」ですが、1892年に出版された時には弟子のヨーゼフ・シャルクによって少し手が入れられていました。これが「第2稿シャルク版」です。もちろん、今ではこのような改竄された楽譜を使う指揮者はおらず、戦前の「ハース版」(1939年)や、戦後の「ノヴァーク版」(1955年)が一般的に用いられています。この2つのバージョンは、ともに「原典版」としてきちんと校訂されたものなのですが、校訂者の趣味によって、その中身はかなり異なっています。特に、第3楽章と第4楽章は小節数まで違っています。これは、ハースが、ブルックナーが「第2稿」を作る際にカットした部分を、みずからの裁量で復活させているためです。ノヴァークは、あくまで作曲家の意志を尊重した、と。
ところで、この曲のポケット・スコアは、「ノヴァーク版」は日本の出版社からリプリント版が出ていますから、普通に購入することが出来るのですが、「ハース版」はオリジナルのものはとっくの昔に絶版になっていますから、唯一市場にある「海賊版」を購入するしか道がないのですね。それは、すり減った版下を用いた粗悪極まりない印刷のものが5000円以上もするというべらぼうな商品だというのに。
そんな時に、Doverという出版社から、新しくこの8番の楽譜が出版されました。それは去年の10月のこと、まさに「新譜」ですね。これは8番だけではなく6番とカップリング、それでいて価格は2000円ちょっとという、リーズナブルな商品です。実は、この出版社からブルックナーの交響曲が出たのはこれが2冊目、以前は4番と7番の組み合わせでした。そして、何より嬉しかったのは、その元となった楽譜が「ハース版」だったことです。もうパブリック・ドメインとなっている楽譜を安く販売する、というのがこの会社のポリシーですので、こんな、今まで手に入りにくかったものが逆に簡単に、しかも安く買えることになったのですね。
ですから、今回出た6番と8番も、当然「ハース版」だと思うじゃないですか。いや、現にDover自体も、「ハース版で出ます」という内容で予約を取っていた、というのですね。Doverのサイトでは、なぜか6番だけですが、印刷見本がありましたが、それも非常にきれいな版下が使われているようでした。
ですから、なにもためらうことなく、この新しい楽譜をAmazonで購入しました。しかし、届いたものを見てびっくりです。6番こそ見本通りのきれいな印刷でしたが、8番の方はなんともひどい、例えばFAXで送ったものを何度もコピーを繰り返したようなものだったのです。五線は波打ってますし、音符や活字はすり減っていますよ。
こんなガタガタの印刷の楽譜、なんだか前にも見たことがあったような気がしました。それは、あのIMSLPという、楽譜が自由にダウンロードできるサイトで提供される楽譜です。このサイトにはこのブルックナーの8番のスコアもありました。それが、なんとこのDoverの楽譜そのままだったのですよ。かすれ具合やゆがみ具合が、どこを取ってみても一致しているのです。このサイトの説明によると、これは1892年の楽譜、つまり「シャルク版」に由来するものなのだそうですが、もちろんその特徴(第4楽章が4小節分カット)も全く一致しています。
アメリカイギリスAmazonに寄せられたコメントを読んでみると、てっきり「ハース版」だと思ってこれを買ってしまった人が怒り狂っていました。「こんなものは、買うな!」と。ほんと、これはほとんど詐欺ですよね。せめてサンプルに8番の見本でもあればよかったのでしょうがね(だから謀反がおこるんです)。

Score Artwork © Dover Publications Inc.

1月26日

MOZART
Requiem
Leontyn Price(Sop), Hilde Rössel-Majdan(Alt)
Fritz Wunderlich(Ten), Walter Berry, Eberhard Waechter(Bas)
Herbert von Karajan/
Wiener Singferein
Wiener Philharmoniker
ARCHIPEL/ARPCD 0511


カラヤンが演奏したモーツァルトの「レクイエム」は、DGから公式にリリースされたものが3種類あります。ベルリン・フィルと1961年と1975年、ウィーン・フィルと1986年にそれぞれ録音されたものです。今回のアイテムは、そのいずれでもない、1960年のザルツブルク音楽祭でのウィーン・フィルとの録音です。猿も酔っぱらうんですね(それは「サルツブレル」)。おそらくこれは放送用かなにかの、得体の知れない音源なのでしょうから、かなりひどい録音、もちろんモノラルです。今までに何度も「海賊盤」専門のレーベルから出ていましたが、ごく最近、「新譜」として、聞いたこともないレーベルから発売されました。ただし、ここではカップリングとして、ここでソロを歌っているジャケ写のプライスが、同じ年のザルツブルク音楽祭で歌ったドンナ・アンナのアリアが収録されています。いや、それは中身を見て初めて分かったことで、外側を見ただけでは「レクイエム」しか書かれておらず、しかも演奏時間が70分以上だというので、ちょっとびっくりしてしまいましたよ。あのベームでさえ64分ぐらいだったのに、カラヤンがそれより遅いテンポだったなんて。本当は、「おまけ」を含んだ時間だったんですね。
この年のザルツブルク音楽祭は、今ではこの音楽祭の象徴ともなっている祝祭大劇場が完成したという特別なものでした。そのこけら落としとして上演されたシュヴァルツコプフ主演の「ばらの騎士」は、映像として残っています。その合間に行われたコンサートで演奏されたのが、この「レクイエム」でした。コンサートの後半には、ブルックナーの「テ・デウム」が演奏されています。ちなみに、「ドン・ジョヴァンニ」は、別の小さな劇場で上演されました。
「おまけ」以外にも、このCDには今までとは異なる部分があります。今までリリースされたものには、バスのソリストが「ワルター・ベリー」となっていたのですが、ここではベリーとともに「エーベルハルト・ヴェヒター」の名前が印刷されています。しかも、ブックレットにはそのヴェヒターの写真が掲載されているのですよ。この曲でバス歌手は一人しか必要ありませんから、ベリーとヴェヒターが交代で歌っているのでしょうか。しかし、どう聴いてみてもバスは同じ人のようにしか思えませんし、そもそも素人のおさらい会ではないのですから、途中で人が代わることなどはあり得ません。他の録音でこの二人の声を聴いてみると、どうやらここで歌っているのはヴェヒターのような気がするのですが、どうでしょう。ベリーはもう少し軽めの響きなのでは、とは思えませんか?つまり、今までずっと表記されていたソリストは、実は間違ったものだったのでは、とかね。いくら海賊盤でも、歌ってもいない人の写真を載せたりはしないでしょうし。
それはともかく、ひどい音からでも、演奏自体はしっかり伝わってきます。カラヤンの資質である、流れるような音楽は、ここからも聴き取ることができます。「Kyrie」の二重フーガなどは、あまりにも流麗すぎてちょっと物足りないような気になってしまいます。「Rex tremendae」の付点音符のフレーズも、あまりに滑らかすぎて切迫感が感じられません。面白いのは、「Tuba mirum」のトロンボーンのオブリガートを、2人一緒に吹かせていることです。とても難しいソロなので、奏者、聴衆ともに緊張を強いられるところですが、こんな配慮でいとも安全で穏やかな演奏が生まれました。
ただ、そんなカラヤンの思いを受け取るには、この合唱のスキルはあまりにもお粗末でした。例えばその「Rex tremendae」の後半の「Salva me」というとてもソフトな表現が要求されているところでも、ガサガサの音色と怪しげな音程で、全く指揮者に応えられていないのですからね。
でも、その分、ソリストたちは存分に堪能させてもらいました。なんたって、テノールがヴンダーリッヒですからね。

CD Artwork © Archipel Ltd.

1月24日

KOZLOVSKY
Requiem Mass
Soloists
Vladimir Yesipov/
State Moscow Choir, Moscow Choir of Teachers
USSR Ministry of Culture Symphony Orchestra
MELODIYA/MEL CD 10 01744


ロシアの作曲家とされているオシプ・コズロフスキーという人は、正確にはロシアではなくポーランドで、モーツァルトが生まれた1年後、1757年に生を受けました。ワルシャワで音楽教育を受けた後、兵士として露土戦争に参加するのですが、そこであのポチョムキンに才能を認められ、晴れてサンクトペテルブルクでエカテリーナ二世の宮廷音楽家となります。彼の作品は、存命時から大きな評価を受け、広く演奏されたり出版されたりしたそうです。なにしろ、彼が作った「Let the Thunder of Victory Sound」という勇壮なポロネーズは、非公式ですがロシアで最初の「国歌」として、1791年から1833年の間に用いられたというのですからね。
この「レクイエム」は、1795年の「第3次ポーランド分割」によって消滅した「ポーランド」の最後の国王であり、晩年はサンクトペテルブルクに幽閉されていたスタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキの葬儀のために1798年に作られました。国王が亡くなったのが2月12日ですが、この曲がサンクトペテルブルクのカトリックの教会で演奏されたのが2月25日といいますから、かなり早い仕事ぶりだったのですね。あるいは、この日のためにひそかに作っておいたのでしょうか。
曲は、当時の「西欧」の様式をそのまま取り入れた、洗練されたフォルムを持ったものでした。ただ、通常の典礼文による音楽の後には、おそらく実際に棺を運ぶ時に用いられたのでしょう、「葬送行進曲」が置かれており、そのあとには「Salva Regina」が演奏されています。
しかし、全く根拠のないことなのですが、もしかしたら作曲者はその7年前に遠くウィーンで作られた曲を聴いていたのではないかと思わせられるほど、この作品と、あのモーツァルトの作品との間には多くの類似点を見出すことができます。まあ、それは単に、モーツァルトにしてもこのコズロフスキーにしても、この時代の様式を大きく踏み出してはいない、ということのあらわれなのかも知れませんが、前半の部分などはことごとく「似てる」と感じられるのには、ちょっと気になってしまいます。
まず、最初の「Requiem」の、拍子の頭のバスに続いてヴァイオリンが裏拍を入れる、というアイディアに、ちょっとドキッとさせられます。まあ、あまりにモーツァルトに親近感があるために、なんでも「似てる」と感じられるだけなのかも知れませんが。続く「Dies irae」の切迫した楽想も、「似てない」と言いきることは困難です。ここでは銅鑼まで入ってさらに大げさに盛り上げますから、それなりの「個性」はあるのでしょうが。しかし、次の「Tuba mirum」では、思わずのけぞってしまいました。金管のアンサンブルで演奏されるイントロの最初の4つの音が、モーツァルトでのトロンボーンのイントロと全く同じだったのですよ。正確には3つ目の音は1オクターブ下になっていますが、キーも変ホ長調で、モーツァルトの変ロ長調とは無関係ではありません。でも、言ってみれば、このテーマはラッパによる分散和音のファンファーレですから、「偶然」似ることはそんなに珍しいことではないのかも知れませんがね。
そんな具合に心地よく進んでいくこの「レクイエム」、たとえばメゾ・ソプラノのソロで歌われる「Benedictus」などは、本当に心を洗われるような美しい音楽です。そこからは、「西欧」は見えても「ロシア」の姿は決して浮かんではこないはずです。
これはもちろん新録音ではなく、1988年の「ソ連」時代に録音されたものが新しくCDになったものです。それんにしても、こんなキャッチーで、ある意味センスの良い曲を、この頃の演奏家は、なんとどん臭く演奏していることでしょう。「西欧」の曲を、無理やり「ロシア」風に捻じ曲げた恣意さえ感じられる、これはそんな時代の音楽のありようを、記録に残したものだったのかもしれません。

CD Artwork © Melodiya

1月22日

HOSOKAWA
Flute Music
Kolbeinn Bjarnason(Fl)
Snorri Sigfus Birgisson/
Caput Ensemble
NAXOS/8.572479


例の「日本作曲家選輯」というシリーズの中の1枚です。先々週ご紹介した「3年ぶりにリリース」などと大げさに煽っていたアイテムとは対照的に、いともさりげなく通販の新譜にあったので、ちょっと不思議な気はしたのですが買ってみました。そうしたら、ブックレットがえらく貧弱で、英語のテキストしかありません。品番の最後に付く、日本制作の意味を持つ「J」の文字もありませんでしたし。どうやらこのシリーズ、すべてが日本で企画されたものというわけではないようですね。そういえば、武満徹の作品集の中にも、そんな感じのものがありましたね。
武満同様、世界的に評価されている作曲家だからこそ、細川俊夫の作品集も、そんなインターナショナルな扱いを受けられるのでしょう。ここでは、なんとアイスランドのフルーティストとアンサンブルによって、彼のフルートのための作品が満喫できます。フルートのビャルナソンという人は、1958年生まれの中堅、しかし、その経歴の中で「ニューヨークや東京で尺八を学ぶ」という部分に注目させられます。
ベルリンでユン・イサンに師事した細川俊夫の作風は、あくまで真摯に音に向き合うという、ちょっと近づきがたい厳しい面を持ったものです。それは、決して心地よいメロディやハーモニーを提供しようとはしない、ある意味意志の強さが感じられるものです。そんな音楽をフルートに託した作品、ここではフルート1本のものから、しだいに編成が大きくなっていくという構成をとって、さまざまな様相の体験を迫ります。
1曲目の「垂直の歌」と2曲目の「線」は、フルートソロで演奏されます。いずれも、ノーマルな奏法よりも特殊奏法の方が高い割合を示すという、いわば「アブノーマル」な響きに支配された作品です。しかし、そんな、たとえば息音だけを強調したり、同時に別の音程を出したりという奏法は、日本人にとってはそれほど違和感のあるものではありません。そう、それは、尺八などでは普通の表現として扱われているものなのですね。ですから、ここで演奏者の「尺八を学んだ」という経歴が役に立ってきます。おそらく、作曲者が思い描いたイメージとかなり近いところで、この演奏は成立していたのではないでしょうか。さらに、「線」というのは、日本の書道をイメージしたものなのだそうですが、そんな「トメ」や「ハネ」の感じも、より分かりやすい形で表現されているように感じられます。
次の「リート」は、ピアノとのデュオになります。アルバムの中では最も新しい2007年の作品ですが、ここでは、ピアノがもっぱら「アブノーマル」な役目を引き受けている中を、かなりリリカルなフルートが動き回る、といった趣でしょうか。
そして、さらに楽器が増えて、「断章II」という作品では、弦楽四重奏が相手です。ライナーの表記ではこの曲は普通のフルートを吹いているようになっていますが、掲載されている細川さん自身のコメント(英文)によれば、使用楽器はアルト・フルートとなっていますね。もちろん、聴こえてきたのもアルト・フルートの渋い音色でした。
そして、最後を締めくくるのが、「旅V」という、18人のアンサンブルをバックにした作品です。アンサンブルの中にもフルートが入っているため、同じ楽器同士の掛け合いのような場面も見られます。これも、ライナーの表記にはないのですが、ここでの目玉は普通のフルート、ピッコロ、そしてバス・フルートという3種の楽器を持ち替えて演奏していることです。特に、バス・フルートが登場する部分では、まさに「尺八」のようなハスキーな音色で迫ってきます。
おまけとして、「黒田節」がアルト・フルートで演奏されます。それは、なじみ深いメロディとは裏腹に、今までの曲想を裏切らない、厳しさと切なさが伴った編曲でした。

CD Artwork © Naxos Rights International Ltd.

1月20日

An Evening with Leopold Stokowski
Richard Egarr/
Brussels Philharmonic-The Orchestra of Flanders
GLOSSA/GCDSA 922209(hybrid SACD)


アンドルー・マンゼとの共演などで多くの録音を行ってきた鍵盤楽器奏者のリチャード・エガーですが、いつの間にか指揮者としての活動も忙しくなっていましたね。それも、音楽監督を務めるアカデミー・オブ・エインシェント・ミュージックのようなピリオド系のアンサンブルだけではなく、なんと、フルサイズのシンフォニー・オーケストラまで振っているのですから、素晴らしいですね。
今回のアルバムは、彼がベルギーのモダン・オケ、「フランドルのオーケストラ−ブリュッセル・フィル」と共演したものです。このオーケストラ、おそらく以前は「BRTフィル」というサンドウィッチのような名称(それは「BLT」)で、NAXOSなどに多くの録音を残していた団体と同じものなのでしょうが、何らかの変遷があって現在の名前になったようですね(本当のところは、実はよくわかりません)。
そんなオーケストラと作ったSACDは、タイトルにあるように、「レオポルド・ストコフスキとの夕べ」という、彼の今までのフィールドとは完璧にかけ離れた名前の音楽家がテーマになっているのですから、いったいなんだろうな、と思ってしまいませんか?ま、ストコフスキといえば、バッハの曲をオーケストラに編曲したりしていますから、関係なくもないのでしょうが、その仕事は昨今の「ピリオド」の成果とは全く無縁の、なんとも厚化粧の音楽を創り出したことなのですからね。ここで最初に聴くことが出来るのが、そんな代表曲、有名な「トッカータとフーガ」です。およそ、オリジナルのバッハの精神とはほど遠い、演奏効果だけを前面に押し出した編曲なのですが、実はエガーはそんなストコフスキの大ファンだ、というのですから、ちょっと意外ですね。
実は、聴いたことがある編曲はそれだけ、そのあとには、チェスティという、全く知らないイタリア・オペラの作曲家の作ったアリアを編曲したものが続きます。いとも甘〜く歌い上げるというコンセプトなのでしょうが、そのためにやたらとポルタメントがかけられているのは、おそらく楽譜にそのような指定があるからなのでしょうね。
そして、今度はなんとエガー自身の編曲が登場です。どこまで才能にあふれているのでしょう。それがヘンデルの「水上の音楽」というのですから、いともマトモ、さすがに節度をわきまえた、しっかりしたアレンジです。しかし、ストコフスキがパレストリーナのモテットを編曲したもの(こんなものまで作っていたのですね)に続いて、もう1曲、エガーの編曲で、なんとオケゲムのモテットが、まるでさっきのパレストリーナのようなおどろおどろしいサウンドで聞こえてきた時、彼がいかにストコフスキに心酔していたかを知ることになるのです。それは、まるでストコフスキが乗り移ったようなアレンジでした。
最後に収録されているのが、チャイコフスキーの「スラブ行進曲」です。いかにストコフスキの十八番だったとはいえ、別に編曲が施されているわけでもないのに、なぜ?という疑問は、演奏を聴き終わる頃には氷解しているはずです。これは、ストコフスキが演奏したものの「完コピ」だったのですよ。手元に偶然、1972年に録音された、ストコフスキ自身の演奏がありました(シェエラザードのカップリング)ので聴き比べてみたら、同じようにパート間の掛け合いを煽ったり、クライマックスで大げさに見栄を切ったりと、表現のツボが全く同じなのですね。なんと、演奏時間までぴったり同じですし。
恐れ入りました。これは、エガーがストコフスキの音楽をどれだけ深いところで理解しているか、ということを、アルバム1枚を使い切って世の中に知らしめた、という代物だったのですね。
これで、いかにもSACDらしいナチュラルな音を追求した録音ではなく、それこそストコフスキ晩年の「フェイズ4」のようなケバい音だったら、彼の「なり切り」はさらに完璧なものになっていたことでしょう。

SACD Artwork © MusiContact GmbH

1月18日

Animentine-plus
Clémentine
SONY/SICP-2965(dom.)


最近、テレビのCMで「天才バカボン」のテーマがよく聞こえてきますね。三浦友和と榮倉奈々が親子という設定、それぞれほっぺたに「バカボンのうずまき」をつけて、まったりしているという、ノンアルコール飲料のCM、そのバックで、いかにもアンニュイなボサ・ノヴァ風の「バカボン」が流れています。フランス語風に「ボン・ボン・バカボン」と歌っていますから、知らないで聴いたらフランス語の「bon」だと思うかも知れませんね。「ボン・ジュール」の「ボン」だと。「バカボン」にしても、昔越路吹雪が歌っていませんでした?「おいらバカボン」って。確か、「幸福を売る男」というシャンソンを日本語に訳して歌っていたものでしたよね。
いや、越路吹雪の方は、元の歌詞の「Je suis le vagabond」をそのまま「おいらヴァガボンド」と歌っていただけなのですがね。つまり、井上雄彦の「バガボンド」と同じ事、「さすらいもの」みたいな意味なのですよ。今でこそ、この言葉は有名になっていますが、越路吹雪の時代にはまだこのマンガはありませんでしたから、これは絶対「バカボン」にしか聞こえませんでした。
CMで「バカボン」を歌っていたのは、フランスのシンガー、クレモンティーヌでした。トーストにはこれですね(それは「レモンティー」)。実は、このCMとのタイアップなのでしょうか、去年の7月に、日本のアニメの主題歌をカバーした(もちろん、日本の企画でしょう)「アニメンティーヌ」というアルバムが出ていました。サブタイトルに「Bossa du Animé」とあるように、すべて彼女のハスキーな歌声を存分に生かしたボサ・ノヴァにアレンジされたものが収録されていました。これが、結構すごいセールスを記録したようなのですね。そこで、今年の3月には「2」もリリースされることが決まっているそうです。
これは、「plus」とあるように、「1」にボーナス・トラックを追加した期間限定、ということは、「2」までのつなぎのようなアイテムです(「プリュ」と読みたいところですが、メーカーでは「プラス」というありきたりの日本語表記)。ボーナス・トラックの目玉があの「ゲゲゲの鬼太郎」ですから、まだ「旬」のうちに売れるものは売ってしまおうという魂胆なのでしょう。これは「2」にはしっかり入るそうですから、本当はそれまで待っていた方が良いのでしょうがね。
この「鬼太郎」、なんたって、「紅白」でオリジナル・バージョンが披露されるというものすごい「ヒット」になってしまった曲ですね。これを作ったいずみたくは、まさか40年後にこんな晴れがましい扱いを受けるとは、夢にも思っていなかったことでしょうね。減和音と半音階を組み合わせただけの、いかにもおどろおどろしい感じを前面に打ち出した曲、彼にしてみれば、単なる「量産品」のひとつに過ぎなかったのでしょうから。
そんな歌に、フランス語の歌詞が付けられてボサ・ノヴァになったものは、紛れもないフレンチ・ポップスに仕上がっていました。鬼太郎くんは、もはやちゃんちゃんこに下駄ではなく、タキシードにエナメルの靴で登場してくれましたよ。
その他にここで聴けるのは「うる星やつら」、「サザエさん」、「ちびまる子ちゃん」、「ドラえもん」など、世代を超えてテーマ曲とアニメのイメージが結び付いているものばかりです。しかし、それらは「鬼太郎」同様、ヘタをしたら元の曲が思い出せないほどに、見事なまでの変貌を遂げていました。これほどまでに作品としての存在感のない曲だったとは。したがって、当然のことながらここからはアニメを連想させられるような属性は、きれいさっぱり剥奪されています。そういえば、最近の新しい「アニソン」も、アニメを見ていないことにはなんということのないもののように感じられます。

CD Artwork © Sony Music Japan International Inc.

1月16日

VERDI
Requiem
Herva Nelli(Sop), Fedra Barbieri(MS)
Guseppe di Stefano(Ten), Cesare Siepi(Bas)
Arturo Toscanini/
Robert Shaw Chorale
NBC Symphony Orchestra
OPUS KURA/OPK 7040


ネットでオーパス蔵のバーゲンをやっていたので、聴いてみることにしました。この前のベームのモーツァルトがそうであったように、なんと言ってもヴェルディのレクイエムを語る上では欠かすことの出来ないトスカニーニの「名盤」ですくらね。彼のこの曲の録音の中でもベストとされる、1951年、カーネギー・ホールでのNBC交響楽団との演奏です。
レコード盤からの板起こしで定評のあるこのレーベルですが、ここで元になったのは通常のRCA盤ではなく、イギリスのHMVEMI)盤でした。この2つのレーベルは、同じ「ニッパー」のマークを使っていた事でも分かるように、元々は同じ会社で、当時でも原盤を供給し合えるような提携関係にあったのでしょうね。しかし、同じマスターテープでも「アメリカ盤」と「ヨーロッパ盤」とでは、かなり音が違っていたそうなのです。「蔵」では、より「音楽的」だということで、このHMV盤を使用したということです。そういうマニアの世界は、いつの時代にもあるものなのですね。
トスカニーニに関しては、特にマニアというわけではないので、彼の録音の全貌に関して語れるはずもありません。ただ、NBC響との録音に関しては、RCAによるセッション録音と、本来のこのオーケストラの設立目的であるNBCのラジオ番組のための録音があるそうなのです。このヴェルディは放送音源の方、したがって、マイクのセッティングなどはNBCのスタッフによるものなのですが、本番でのテイクとゲネプロのテイクを使って、後にRCAが編集したものが、このレコードのマスターとなっているそうです。今の「ライブ録音」のようなことを、当時でも行っていたのですね。
その録音は、前にXRCDで聴いたRCAの録音とは、やはり全く比べものにならないものでした。ただ、クオリティは低いものの、決して鑑賞に支障があるほどではなく、「こんなものだ」と割り切ってしまえば、そこからは充分にトスカニーニの音楽を感じ取ることが出来るものです。板起こしにしては、スクラッチ・ノイズなどは殆ど聞こえないのにも、ちょっと驚かされます。テープをつなげたところがはっきり分かってしまう雑な編集は、ご愛嬌。
この演奏では、ソリストたちが当時最も脂の乗り切った時期のものですので、それを聴くだけでも素晴らしい体験を味わえます。そのお披露目のような形で4人がそれぞれ現れる「Kyrie」では、その存在感が、こんな貧弱な録音を通してもはっきり伝わってきます。ディ・ステファノの凛とした押し出し、シエピの包容力、バルビエリの深さ、そしてネッリの華麗さと、どれをとっても最近の小粒になってしまった歌手からは味わえないものです。そして、ちょっと意外だったのですが、彼らが朗々と「自己紹介」をしているときに、トスカニーニはきっちりと彼らに合わせてオーケストラに「溜め」を作っているのですね。ベートーヴェンあたりでは、何でもかんでもインテンポで押し切る、という印象が強かっただけに、これは全くの予想外の出来事でした。もちろん、それだけ歌手の息遣いを反映させたヴェルディには、思わず引き込まれてしまうほどのとっておきの魅力が感じられてしまいます。トスカニーニって、こんなにチャーミングだったんですね。そして、その対極にあるのが「Dies irae」で見せているような全く妥協を許さない厳しさなのでしょう。この芸の幅、ベームなどとはそもそも格がちがっていたのですね。
木管楽器がかなり生々しく聴こえてくる独特のバランスによって、フルートがとてもしっかりしているのが分かります。調べてみると、この方はアーサー・ローラという人のようですね。NBC響の初代首席で、この録音当時はニューヨーク・フィルの首席だったジョン・ウンマーの音(バーンスタインの録音などで聴くことが出来ます)よりももっと芯のある、力のこもったフルートでした。

CD Artwork © Opus Kura

おとといのおやぢに会える、か。


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